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重たい話なんですが

日時: 2013/08/31 05:18 ( so-net)
名前: あめ

私はごく普通の子だ。
規律のある家庭で育った公務員父親と、偽善者で熱心な宗教信者の両親の元に生まれたヒステリックな母の間に私は長女として生まれた。
物心ついた頃から、私の母親役は実の母親ではなく母方の祖母がしてくれていた。
父親は地方に行っていることが多く、3歳4歳の頃の記憶で父が出てくることは希である。
3歳のときに弟が生まれた。
そのこともあり、母親との縁は薄かった。母親の愛情は当時3歳だった私から生まれたばかりの弟に全て持って行かれたのだ。理不尽だが、そりゃ仕方ない。
弟はできたが、いかんせん仲良くはできなかった。
母親を取られた気分でいたからだ。その時から私の母親は祖母になった。
4歳の時に家族揃って海外に移住した。
父が国家公務員として海外への転勤が決まったからだ。
父親も短気な人だった、打算的で計算高い人だ。
でも確かに私への感情は感じることができた、少なくとも母とは違い私を愛してくれているのだと幼いながらに感じていた。私はそんな父が大好きだ。
イギリスへ移住してほぼ一年間私は家で過ごした、5歳からではないとそこらの学校へは通うことができないから。母と弟と私と、三人でいることが多かった。
いい思い出よりも悪い思い出のほうが記憶に残るというのは本当の話で、当時5〜7歳の私の記憶は、いい思い出より嫌な思い出の方が多い。
イギリスでは学校での送り迎えは両親がするもので、帰りに関しては迎えが来なければ帰るのも不可能。犯罪が多いヨーロッパではよくある話だが。
私はほぼ1年間一人で登校していた、母親が起きないためである。
朝食もほぼ作られず、お昼も手抜きのことが多かった。
それに比べて弟とは仲良く幼稚園に通って、うちに帰っても弟と戯れていることが多かった。私は反抗期と母親への疑心暗鬼から、弟をからかったり、少し悪さをすることが多くなった。そのあと母親にこっぴどくしかられ、泣きじゃくる私をベランダに追い出して放置するのは、日常茶飯事であった。
母親の口癖は「私も小さい頃にこれよりもひどい目にあわされた」だった。
それが嘘か本当かは私も祖父母に聞いたことがないのでわからないが、一度「なんで弟には同じことをしないの?」と聞いたところ「あなたはお姉ちゃんでしょ?それに弟はまだ小さいでしょ?」っと言われた。
「じゃあ弟が私と同じ年になって同じことをしたら、同じように怒るの?」かと聞いた。
母親は「そうだよ。」と答えた。真っ赤な嘘である。変なことほど覚えているもので、私はこの時の記憶を鮮明に思い出せる。どこの部屋でどんな状況で、母親の表情や正座させられてしびれた足、母親の足の上で仮面をいじって遊ぶ弟。全て鮮明に思い出せる。
その時私は姉であるということに対して酷い劣等感を感じ、同時に歓喜していた。
弟もあと3年すれば同じように怒られるようになるんだな。「やった」っと思っているクズで醜悪な自分がそこにいた。
母親が買い物に出ている間、父が私と弟の面倒を見ている時に私が歯を折ったことがった。
ヨーロッパならではの高い椅子に小さい私はとても憧れ、いつもは危険だから母親に座らせてもらえないその椅子に父にせがんで座らせてもらったのだ。
その椅子に座りながら私はその頃ハマっていたビーズでアクセサリーを作って遊んでいたのだが、不意にトイレに行きたくなった。
生憎父親は外で喫煙中で、私は大丈夫だろうと椅子から飛び降りた。結果、飛び降りる前に椅子が倒れて前歯を折った。確か当時5歳だろうか。
私の泣き喚く声に父親は飛んで戻ってきた、私は顔面を強く打ち付けていたので歯もさることながら鼻血もだしていた。
唇の上は内出血をしていたと思う。
とりあえず泣きながらトイレと言う私に父は止血しながらトイレに運んでいってくれたのを覚えている。
父親にはもちろん叱られたが、トイレに行きたかったと言えば無言になった。
母親が帰ってくると、父と口論になっていた。もちろん私もこっぴどく叱られた。
娘の前歯が折れた、父親の監督不行届のせいだ。そう口論をしていた。
歯の止血をするためにティッシュを咥えた私を心配するのではなく、所持品を壊されたような怒り方だったのをおぼている。
他にもこんなことがあった。
お菓子を取ろうとキッチンの食器棚の上に置かれているクッキーを取ろうと扉を引っ張ったところ足をすべらせて取っ手を引っ張ってしまった。どういうわけか、食器棚の中身が全て私にふりそそいだのを覚えている。
弟も同じキッチン内にいたのだが、遠くにいたため無傷だった。
友達と電話中だった母親は飛んできて、弟のほうへ走っていったのを覚えている。
私も奇跡的に無傷だったが、寂しかった気がする。
申し訳なさや、怒られるという気持ちよりも、落胆、心にぽっかりと穴があいた。そんな気分だった。
大げさに書いているように思われるかもしれないが、父親にも「母さんは弟を甘やかしすぎだな」と言っていた。
イギリスに移住した頃から、私への虐待の兆候はあったそうだ。
4人で暮らすようになってからは、私と父、母と弟が同じ部屋で寝ていたのだが、父親が長期で海外出張をする時だって「一緒に寝たい」といっても「おまえの寝るスペースはない」と自分の部屋に行かされた。
母親はウォーターベッドで寝ており、この後も数年同じベッドで寝るのだが、私はそのベッドで寝たことは数え切れるほどしかなかった。
それが小学生の時に、私が不登校になった時だった。
といっても、学校でいじめがあったのも確かだったが家族との調和がとれなかったことが大きい。
その時に、母親が一緒に寝ようと提案。
同じ寝床で話したことは「早く問題を解決して保健室でもいいから投稿しなさい。弟がお姉ちゃんは休めてずるい、俺も休みたいと。このままじゃあ弟まで不登校になっちゃう」というものだった。
なんだ、結局弟か。そう思ったのをよく覚えている。
栄養失調気味だった私の腹はパンパンに張っていた。今でもこの形の名残が腹にあったり、皮がとてもついているのが見苦しい。
そんな私達親子の関係ですから、なぜか私は怪我をするたびにそれを隠した。
豆電球に誤って触ってしまい、火傷をしたとき。
結局母親には話さず、対処を知らない私はそのままヒリヒリとする指を放置していた。結局しばらくして硬くなった皮膚がかさぶたのように剥がれたのを覚えている。
次は爪をはさんで剥がしてしまった時だ。クローゼットの間に指をはさんでそのまま爪が剥がれてしまった。
もちろんとてつもなく痛かった、声を殺して泣き、アメリカに出張中だった父の帰りを待った。
3日たって、帰ってきた父親におそるおそる打ち明けたところ。
「なんで母さんに言わなかったんだ?」と優しく聞かれた。
「だって、お母さんに言ったら怒られるから」と答えると、父は「一緒に絆創膏とりに行こうかと」消毒をして絆創膏を貼ってくれた。
その頃から、父と母の関係も冷めていた気がする。
父は海外出張に行くと、必ずお土産を買ってきてくれるのだが、私にはいつも一番いいものを買ってきてくれた。
一人前のレディーの待遇だった。テディーベアからはじまり、小物入れのブローチに終わる。子供向けのブローチではなく、今17歳になった私にも立派なブローチだ。
母親との縁が薄れていくなかで、父親とはうまくやっていた。
日本に帰国してすぐに私は言葉の壁にぶち当たった。ひらがなやカタカナは書けない。日本語をきとんと読み書きできなかったのだ。
そこで私は塾でその勉強をしながら地元の小学校に通った。小さな村の小学校。
海外からの転校生は初めてだったそうで、私は不思議な存在だったらしい。
イングランドから来たといえば「インド人」と上級生にいじめられた。
なんでこの人達はイングランドとインドの違いがわからないのだろうか?とかし思わなかった。
母親からの虐待は日に日に悪化し、食べ物を与えられない私が母親の財布からお金を抜き取ったときは、縄で縛られて官舎の共同駐車場のフェンスに縛り付けられた。その後、父親に助けられた。
母親は私を「犯罪者犯罪者!」と蔑み、下の関係には戻れなかった。
父親は私に「お金が必要だったんだね。そしたら今度からお父さんに言うんだよ?ちゃんとお前が必要だと言ってくれたら、お父さんはその分のお金は用意しよう。だから人の財布から勝手にとっちゃダメだ。それじゃあ泥棒と一緒になっちゃうから。」と叱って諭してくれた。
父親への依存が深まっていった。
私には部屋が与えられていたのだが、この部屋は外から鍵がかけられるようになっていた。
私がなにかすると母親はそこに私を閉じ込めて、トイレに行かせろと泣き叫ぶまで外にだしてはくれず。トイレに行くときもトイレの前で見張りをしていた。いま、過去を思い出しながらゾッとした。まるで私は犯罪者のようだ。
その「なにかしでかす」にしたって、私は普通の子供と同じことをしただけだ。
宿題を忘れた、だとか。部屋が汚いだとか。そんなものだ。
残りは大抵、口論になったときに母親が私をその部屋に入れて鍵をした。
母親は私を犯罪者として見ていたのだから、仕方がないが。
私達家族が住んでいた部屋は二階で、落ちても死ぬ高さではなかったが、窓には格子がついていた。転落防止のためだ。
部屋に閉じ込められたときに、一度だけ格子を跨いで隣の父の部屋に言ったことがある。
そのままこっそり部屋に入り、友達と遊んだ。
今考えればとても危ない行為だが、私にとって部屋に閉じ込められるのは恐怖にも近いものがあったからだ。軽いノイローゼなのかもしれない。
私が大きくなってから、母親を私の部屋に閉じ込めたことがあった。
やり返したかったのだ。きっとこの時から私のなかで親子の縁は切れて、憎い対象でしかなくなったのだと思う。


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つづきになりますが ( No.1 )
日時: 2013/08/31 05:20 (so-net)
名前: あめ

小学校高学年で不登校になった。
理由は日本人女性特有のグルーぷ行動や僻み、妬み。
そういうものが外国にいた私には理解できなかった。
悪口はいっちゃダメなもので、裏でひそひそするくらいならきちんと対等な場を設けて話し合うか、面と向かって口論するのが外国のセオリー。
ねちっこい言い合いなんて、いつどこで自分が陰口を叩かれているのか、だとか。相手に匂わせるようにちらつかせる、名前をださない悪口なんかに心が折れてしまった。
なんというか、怖いだとか、悲しいだとかではなく、単純に理解できずに困惑していた。
そういうこともあって学校に行かなくなった。
その相談を母にしたが聞きあってもらえず、父に相談したところ「いいよ、明日学校に行かなくて」と言ってもらった。
母親は毎日のように「早く学校に行かなくちゃ」と私を焦らせたが、父親は学校の話は一切せず、よく休みの日をとりゲームセンターやスケート、ショッピングなどと私を気分転換に連れ回してくれた。
その頃から仲良くなったのが父の姉である伯母だ。
伯母さん夫婦には子供がいなかったため、とても可愛がられた。
父は家を空けるときに私が母にいじめられないようにと伯母さんの家に居場所を作ってくれた。
伯母さん夫婦は子供好きで、とてもよくしてくれて、二部屋しかない寝室の一つを私の部屋にしてくれていた。
そんな優しい人たちと過ごしてるうちに、いつのまにか数ヶ月が過ぎていた。
私の誕生日に仲良くしてくれた友達がみんな遊びに来てくれて、私はまた学校へ戻った。
やっぱりぎくしゃくするところもあったけど、学校は暖かかった。
6年生になったときに、また虐められることがあった。
原因は理不尽なものだったが、味方の方が多かったので心にとめることもなく。最終的には担任に話し合いの場を設けてもらい和解した。
いまではそのいじめっ子ととても仲がいい。
不登校の頃から、父親に私立中学校への進学を進められる。
依存気味だった私は、魅了的だったその学校と父からの期待で、その学校を受験することにした。
母親は反対だった。キリスト教の学校だったのだが、母親の属する宗教とは違ったのが原因だ。
結局送り迎えなしでは通えないその学校へは、寮からの通学となった。
その寮は中学生・高校生・大学生が住む女子寮だった。
中学生は私含め3人しかおらず、他ふたりは3年生だった。
皆優しくしてくれたが、最上級生の3年生の先輩がとても怖い人で、すぐに怯える毎日に変わった。
やはり過激な環境だったらしく、私に優しくしてくれた大好きな先輩の一人は、その先輩に目をつけられて、一体一の話し合いという名目上で呼び出されて、過呼吸を起こして入院。
その後記憶障害にまで発展して、いまだに寮での生活だけは思い出せないそうだ。
私もすぐにその先輩に目をつけられて、ほかの先輩にも冷たくされた。
2年生になる直前に、父の祖父が倒れて同居せざるおえない状況になった。
2年生からは学校へ通える場所にと父が家を買った。
そのため寮には実質一年もいないのだが、2年生からはその家から通うことになる。
既に母親と父親の離婚調停ははじまっていて、その家には私と父方の両親。たまに父親が帰ってきていた。
そんな生活をしていて、2年生の夏に離婚が成立。
母親と弟はすぐに母の実家へと帰っていった。
何度も虐待のことで助けて欲しいと頼んでいた祖母は「ごめんね、お母さんがそんなにあなたのことを虐げていたとは思わなかったの、ごめんね」と電話口で泣きながら謝られたのを覚えている。
自分でも驚くぐらいに、祖母に対して呆れていたのを覚えている。
不安定な生活が続く中で、震災が起きた。
父親は職業柄、すぐに家を空けて福島にとんでいった。
私も福島には大事な、大切な知り合いがいたので、テレビ越しではあるが、とても心配していた。汚染だ汚染だ騒ぐレポーターに腹が立った。
そのため、祖父と祖母との三人での生活が続いた。
祖父はアルツハイマーと半身麻痺と軽度の言語障害、祖母はこのあとすぐに入院し生死を彷徨うが、下半身麻痺だけを残して回復。
この頃から私にまた反抗期がやってくる。
3年生になって、クラスが変わり、友達も出来たが、どうにも仲良くできなくなってしまう。小学生の時と同じ理由だ。
気づけば学校でも家でも居場所がなくなったと思い込み部屋からでなくなった。食事もみんなが寝静まったあとに。
トイレも人がいない時を伺って。
父親も呆れていたようだ。
私は淡い希望を抱くようになる、若気の至りだが。
声優になりたいと東京に高校生から行くと言い出す。
声優には幼稚園児のころからなりたかったのだが、引きこもるうちにその夢に熱がついた。世間知らずなバカだけど、それを父に伝えると、父は真剣に考えてくれているようだった。
だった、とは。
それが叶わなくなった(一緒に上京すると話していた子がいけなくなり)時に、心から喜んでいたからだ。
たまたま父が携帯を忘れた時に、メールの着信をが気になり(夜)、メールを開いてしまった。
絵文字をたくさんつかった女性からのメールだった。
その人は父の恋人のようだった。
その人へ愛情が向けられはじめた(私が中学二年生の)頃から、私達親子の関係はギクシャクしていたのも思いだして。
全てのやりとりを盗み見してしまった。
私の前ではにこにこと応援していたことや、優しくしてしまっていたこと。
メールでは私のことを「ヒステリックで自分の思い込みに他人を巻き込むところが母親にそっくりで困る。」などと書いていて、母親と私を照らし合わせていたことがとても悲しくなり、泣きながらそのやりとりを読みました。
反抗期だったり、思春期だったり、いろいろなことでぐるぐるになっていた私には大打撃で、その女性には娘がいること。
私とはでかけてくれないのに、その女性には映画に行こうと誘っていたこと。
私がプレゼントしたハンカチと手作りのお菓子はラッピングの袋から出されぬまま何ヶ月もしまわれているのに、その恋人と娘からのプレゼントの枕とマフラーは毎日使っていること。
嫉妬、というよりは焦燥感。
自分には父親しかいないのに、私以外に愛する人を作って、娘までできると考えたときに、何かが壊れました。
私は毎日祖父や祖母の介護まがいなことをしているのに(決して嫌なわけではないが)、その女の人は小奇麗に香水をつけて父の運転する車の助手席に座る。それがまた悔しくて、家出を決意しました。
女の人からは一度コスメやカバンなどのおさがりをもらったことがあったのですが父は私にそれを渡すときに「これ、職場の同僚の娘さんが使わないからってくれたよ」と私に渡しました。
でもメールには「娘さんに渡してくれましたか?私の娘のおふるだから…気に入ってもらえないかもしれませんが。」と書いてありました。
それに対して父は「まだ心の準備が…」と書いていたので、本当に恋人だったのだと思います。
この恋人ですが、旦那様とは離婚協議中の方で、私はそれすらも頭にきました。
この女性は香水のきつい人物らしく、おふるのものは全て臭いがきつく、部屋に置いておけないほどでした(うちは柔軟剤も使わない無臭主義の家)。
でも、私の父はいまでも私が少し洗濯物に柔軟剤をいれるだけで「くさい」というくらいに臭いに関してうるさいのに、こんなの理不尽だ。
そう思ったらもう荷造りを初めていました。
3日で荷物をまとめて、4日目に飛行機で母の実家に行きました。
母との仲は多少ましになっており、なにより祖母に会いたくて、家をでました。
そのため、高校一年生の一年間は父と離れて暮らしました。
よくよく考えれば、私がまるで父の妻のようで、私の感覚がずれているのかもしれませんが、女として父という男を愛しているのだとしても。
家族として愛し、執着していることは確かでした。
半年の空白のあと、父とまた連絡をとりはじめました。
「かえっておいで」と言ってくれました。
お互いその恋人のことは一切触れませんでしたが、その言葉だけで十分でした。
母と弟、祖父と祖母と暮らす時間は穏やかではありましたが。
なにぶん宗教への強要と、垣間見える祖母の裏の顔を見たときに、なんとなく不信感が生まれ気づけばそれは大きな不信感に変わり、居場所がないことをさとされました。
父のところに逃げるように帰ってきた私に、父はまったく怒りませんでした。
やはり最初はギクシャクしてしまい、上手に会話ができませんでしたが。
今では前以上に仲の良い関係が築けてると思います。

が、私が成人するとともに叔母の家に養子にはいることになりました。
伯母夫婦の家は古くから続く会社の社長夫婦で、跡取りがいないことから私が養子にはいることに。
父親はそれをすぐに承諾してくれたそうです。


こんな私のいままでの人生、いろいろ飛ばしたところはありますが
他者から見ても幸せなのでしょうか?
私はいま、幸せなら幸せだと思うのです。
友達との価値観の違いに戸惑っています。
   メンテ
Re: 重たい話なんですが ( No.2 )
日時: 2013/08/31 14:38 (ocn)
名前: 悠久の風

あなた自身の幸不幸の判断は、あなた自身が決めることだと思いますよ!
仮に、
私から見た幸不幸の判断をするのであれば、世の中の多くの人が皆不幸せだと言えます‥

何故なら、
人は誰もが仏様の様になれる心を持っており、善悪は区別するものではなく、人は悪を観て善の道に入ることができることを、知らずにいるからです‥


≪ 親の存在に苦しむ人へのメッセージ ≫

人は何の縁あってこの世に生を享け、何の縁あって両親のもとに生まれて来るのでしょうか?

 人は誰も、自分を生んでくれた両親がいてこの世に生を享けます。たとえ親に捨てられた人であっても、自分を生んでくれたことには変わりありません。素直に親に感謝を持てる人もいれば、昔の私のように親の恩を知らずに感謝を持てない人もいます‥

 人は誰も、自分を生んでくれた親の存在を無視して生きていくことはできません。中には親を憎んだり恨んだり責めたりする人もいます。親の恩に気付いた人は、もちろん親を大切にしていると思いますが、親の恩に気付いていない人は、当然ながら親を大切に出来ずにいると思います‥


まだ私が学生だった頃、親の恩も分からずに‥、「産んでくれと頼んでいない!」「親が子供を育てるのは義務だ!」と言い、社会に出れば、「いつまでも子供じゃない!」「親に頼らなくても生きていける!」と言い、親に対して心から感謝の気持ちを持つことが出来ませんでした‥。
 今、改めて私が感じていることは、「親孝行なくしては、人は前に進めない」と言う思いです。
 「子供は親の背中を見て育つ」と言いますが、両親や両親の親である祖父母やそのまた親のご先祖様に日々感謝を持って恩に報いる事が出来ていれば、その姿を見て育った我が子が大人になった時、同じ様に自分に接してくれるのかも知れませんね!(^^)


この世に自分のものなど何一つなく、我が身でさえ両親から分け与えて戴いた尊い命であり、また大地から生まれ出たものを食して生命をつないでいるのであって、「すべてが与えて戴いたものである」ことに、気付き感謝することが出来るといいですね‥

 私たち人間は、「天地大自然によって生かされている」ことを忘れてはならないのです‥


 何かと不安や悩みが付きまとう世の中ですが、辛い時こそ家族の助け合いが必要になるはずです。受けたる大恩に、恩返ししなくてはなりませんね(*^^*)

「父母の恩、重きこと天の極まりなきが如し(「父母恩重経」より)」
   メンテ
No.1に対する返信 ( No.3 )
日時: 2013/09/01 07:33 (plala)
名前: かゆがも

> こんな私のいままでの人生、いろいろ飛ばしたところはありますが
> 他者から見ても幸せなのでしょうか?
なかなか波乱万丈の人生だと思います。
幸せなことも不幸なこともあったでしょう。

> 私はいま、幸せなら幸せだと思うのです。
その通りだと思います。最終的に幸せになった者勝ちです。

> 友達との価値観の違いに戸惑っています。
人の価値観は様々ですからね。
参考に留めておけばよいでしょう。

   メンテ

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