Re: 友人を助けてあげたいです ( No.1 ) |
- 日時: 2017/01/05 22:43 (enabler)
- 名前: 真琴
- 個人的に自分のできる範囲で付き合ってあげるだけがいいと思います。
彼女が何を信仰しようとそこにはあえて触れない方がいいです。 心配をされてるのでしょうが信仰にまでは触れない方がいいですね。 もし彼女が神の愛に応えられないと悩んでもそのままそっとしておくべきです。 それは神が彼女に葛藤を与えてるんだと思ってそっと見守るべきです。
他に出来る事は何もないという事を理解してください。
その人の人生はその人が作り上げるものだから何もせず、見守るだけしかありませんから。
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Re: 友人を助けてあげたいです ( No.2 ) |
- 日時: 2017/01/05 22:48 (home)
- 名前: 華菜
- その教会も怪しいものですね。神様が望むようにって、自分は自分ですよ。 彼女が信じるものを否定したくないですが、教会名を教えていただけますか?
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No.0に対する返信 ( No.3 ) |
- 日時: 2017/01/05 23:18 (dip0)
- 名前: きき
- 友人が教会に行かれているのですね、
洗礼を受けられているかどうかは ご存知ですか? 今は、求道者なのでしょうか。
私もクリスチャンですが(自由福音系です)、 教会や宗派によって、宗派が同じでも牧師さんに よって)雰囲気もだいぶ違いますからね。。
献金が完全に自由献金の場合と、 教会員(その教会で洗礼を受けた人)は 月ごとの献金のようなものがある場合もあります。 (私のところは、完全に自由献金ですが)
もちろん、経済的に不安定である場合などに 無理やり献金を求められるというのは、 通常はないでしょう。 よく思わない人がいるような教会であれば問題ですね。 もし気になるなら、牧師さんや牧師夫人などに相談してみるといいと思いますよ。
敬虔なクリスチャンですか。。 大切なのは、神様を愛することと、自分と同様に 隣人を愛すること。。ですからね。 〜しなければいけない。。ではなくて、 愛を受けたからこそ、そのお返しとして 愛を循環させていくことですよね。^^
献金というのは、強制ではないですし 信仰の大きさを表すものではないですよ^^
自分の思うままに生きている人を妬むというのが 具体的にどういうことを羨ましいと 思うのかは。。わかりませんが。 まずは、友人として、何を羨ましいと思ってるの?と 聞いてみるのもいいでしょう。
自由の意味を、好き勝手、思いのまま(欲のまま) と思っているのですかね。。
自由というのは、<自由な意思選択>のことと言えます。 神様は、人間に、自由意志を与えてくださっています。 自由をどのように用いるかは、私たちに任されています。
好き勝手(欲のまま)な選択をすれば、 それなりの結果を刈り取ります。 神様と、自分と隣人を愛するからこそ、 あえて、自分の一次的な欲に従った 行動をしないという、自由(選択)もあります。
この聖書の句は、お友達は知っているでしょうかね 申命記 30章19節。 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
欲に従った選択、自由な選択ではなくて 利己愛に従えば、よくない結果や死を招きます。 でも、自由意志で、愛に従って選択すれば、 命を刈り取るということです。
例えば、結婚している人が、一時の<欲>にかられて 不倫などしたら、相応の結果を刈り取りますよね。 信頼をなくしますし、離婚、慰謝料なども発生します。 不倫をしないという選択を選ぶのは、 不自由な選択と考えるのか、<愛>を動機とした賢明な 選択なのか? ということです。
不倫をしてはいけないという法律があるから 不倫をしないのではなくて、配偶者を愛するから、尊重するから 裏切りたくないから、不倫をしないし、自分の欲求を制御するのが 本来、望まれるものですよね。 でも、愛が足らない人、自制心がない人や、欲が深い人もいるので、 そういう人がむやみに罪を犯さないために、法律や罰則があると 言えます。
神様の、教え、律法というのも、<神様を愛し、自分と隣人を 愛するということ>が基本で、だからこそ、自分の利得や欲を 最優先にしないという、自主的な選択ができることを、 望まれている。。。ということです。^^ 愛がある人には、罰則(律法)は必要はないのです。
何をしたら、神様に背くと思っているのでしょうかね。 信仰というのは、神様への信頼ですし、 親子関係ですから。家族が相互依存関係であるように、 健全な方の依存です。 悪い依存(盲目な依存)ではなくて、信頼関係のある結びつき なんですよね。
でも心が不安定な場合は、少し依存のような感じになってしまうことも あるのかもしれませんね。 家族からの愛を感じずに育ったのですか。。 教会も本当に色々ですので、難しいですね。
もし。。よかったら、ここで相談してみてはいかがですか。 (教会名は言わなくていいですが、 宗派だけ教えてもらえればいいです。 聖霊派、ペンテコステ派。(カリスマ系)ですかね。 その派は、中には良い教会や牧師さんもいますが、 問題があるところもあるので。。見極めが難しいと 言われてます。) 私も一応クリスチャンですので。^^ お役に立てるのであれば、お話を聞きます。
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Re: 友人を助けてあげたいです ( No.4 ) |
- 日時: 2017/01/06 00:50 (sannet)
- 名前: まりこ
- 調べてみました。
念のため施設名は伏せます。 日本福音教会という団体の教会のようです。 プロテスタント、福音派、バプテスト、浸礼派、いろいろ出てきてよく分かりませんでしたが。
彼女は家庭環境が悪かったのに、「家族を憎みたくない。愛したい」と言う人です。 欲望のままに生きたいと思っている人間が言う言葉でしょうか。 ただでさえ恐怖症で自分を否定して卑下して生きているのに、その上から法律に触れなくても人間は生まれながらにして罪人と言われたら悪化するのも無理はないなと思いました。
神様に献金しないのは神様の物を盗んでいることと同じ、という聖書の言葉にも強く影響を受けていると思われます。 彼女の行っている教会は聖書の一字一句が真実で、絶対的な権威がある神の言葉と信じる宗派のようですが、正直言って人によっては危ない思想に陥ってしまいそうだなと思いました。
個人的な意見なので少し否定的になってしまっていたら、すみません。
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No.4に対する返信 ( No.5 ) |
- 日時: 2017/01/06 02:31 (dip0)
- 名前: きき
- 日本福音教会という団体ですか。
JECですか? 教会も牧師さんによってまた違うので なんとも言えませんが。
彼女が(この世的な意味での)欲のまま生きていると 言って責めているのではないですよ^^
欲というのは、誰にでもありますよね。 私にも当然あります。 クリスチャンは、罪を赦されていますが 何も、欲(肉の思い)がない聖人ではありません。 罪からは解放されてはいるのですが、 この世にいる限り、100%欲を持たないで いることは難しいものです。
罪人(罪人)と言うのを、一般の人は 勘違いをしている部分があると思いますよ^^ 彼女は、聖書を学んでいるということなので、 勘違いをしてなければいいのですが。。
罪や欲というと、何か悪いことを企むように 思うかもしれませんが。 罪とは、<的外れ>という意味があります。 アダムとエバが、<善悪の知識>の実を食べて 人は罪を犯し、原罪を受け継いで、人は罪人になった。。 これは聞いたことがあるでしょうか。
例えば、善悪の判断、物事の判断において、 人間が100%正しい判断ができるとは言えませんよね。 ある程度は、正しくとも、時には的外れになる ことがあります。
人の判断(自己判断)というのは、過度に厳しくなったり、甘くなったり的外れになることがありますよね。
家族を憎みたくない。 できれば愛したい。(赦したい)
憎みたくないけれども、何か虐待されたり ひどいことをされたら、悲しいですし 憎しみが起こるのは、当然だと思いますよね。 感情を否定するのではありません。 ただ、<怒っても、罪を犯してはいけない>と 言っているんですね。
怒りや憎しみの感情が起こるのは、仕方ありません。 でもその感情をずっと抱えていると、 悪い結果が出てきます。
親に対して、外に怒りを向けられないと、自分に向けてしまうのです。 親を憎むことを避けようとしつつ、憎しみや悲しみを捨てきれない、自分を責めていると言えないでしょうか? 怒りや憎しみや、責め(裁く)の方向を変えるだけで、 勝手に自分の判断で裁いてはいけないのに、裁くという 過ち(的外れの対応)を犯してしまうのです。
優しくて、思いやりがある人でも 誤った判断や対応はしますよね? そのことも、罪(的外れ)というのです。
自己卑下や自己否定、自罰というのは、<謙虚さ>ではないですよね。 これはなんとなくわかりますか? 自己卑下に陥っている人を責めているのではなくて、 自分を愛さないというのは、非常に悲しいことであって 友達であるあなたが悲しむように、神様も非常に悲しむものです。
自分を愛するように隣人を愛しなさい。。であって 隣人を愛し、なんでもゆるして、代わりに自分を責めて苦しめなさいではありません。
だからこそ、悲しみや苦しみ、憎しみを祈りによって、神様のところに持って行き、重荷を軽くしたほうがいいのです。 (もちろん、一般のカウンセリングにも 補足的に行っても全く構いません^^) 私も苦しいときは、祈ったり聖書も読みますし ときには、信頼できる人に相談もします。
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No.4に対する返信 ( No.6 ) |
- 日時: 2017/01/06 06:25 (dip0)
- 名前: きき
- 長くなったので分けて書きますね。
罪、罪人ということを気にしているように感じましたか? それともあなたが罪人と聞いて、 彼女がショックを感じていると思っているのでしょうか。
罪(受け継いだ罪である原罪と、自分自身の罪) があるものの、その罪も、神様の憐れみと愛によって 赦されているというのが、<福音>良い知らせです。
イエス様の十字架によって、罪があがなわれて 罪の結果である、死、そして神様との断絶の状態 だったのが、道ができて、天国に行けるという 希望がある。。というのが福音です。^^ (今の肉体の死はありますが、霊的には生きていて 新しい完全な体を身につけて生きるということです。)
罪のことだけに目を留めると、 裁かれているのか、責められているのかと 思うでしょうが、そうではないです。
人は、いつか死ぬことは誰もが知ってますよね。 病気になる人もいます。 別に、法に触れる犯罪を犯してなくても 死にますし、病気にもなります。 特別不摂生もしてなくても、病気になる人も います。
同じように、人が罪と自覚してなくても 神様の目から罪と言えることをしていますし。 (人を悪意がなくても、傷つけてしまうことも ありますよね。人は自分の過ちの何パーセントを 自覚できているのか。。謎です)
しかし、死にいたる病から救ってくれる医者がいます。 手術の成功率は、100%ですといわれたら 絶望は希望と喜びに変わりますよね。
でも。。人によっては、その言葉を信じられず (まだ自分の身には起こってないので 見てないものは信じられない、人は死ぬじゃないかと 目に見えることだけしか信じられない人もいます。) 死ぬのは避けられないもの、病気が治ってもな。。と 思ったり、その医者、本当に大丈夫なのかな。。と 不信感を抱いたり、不安になることもあるでしょう。 別に死んでもいいという人もいるかもしれません。
お友達も、5年間教会に通っていることですが <不安>があるのではないかと思います。 家族から受けられなかった愛を受けたいけど、神様が自分を愛していると言われても。。 神様を信じてはいるけど、自分が信じられないのかも しれません。 親から愛されたと感じてないから、 親を心から、愛せない部分があるから、神様も 私を愛してくれないかもしれない。。という 不安もあるかもしれませんね。
どうしても人は、自分の知識や経験や 考えに頼りすぎてしまうことがあります。 視野が狭くなっていたり、自己卑下していると 信頼(信仰)を持つことや、希望を持つのが 難しいことがあるでしょうね。
時間がもう少し必要かもしれませんね。 周りは助けたくても、本人しか進めない 一歩というものがあります。
神様も、無理やり救うということはありません。 (無力なのではなくて)人間に<自由意志>を与えられたのも神です。 無理やり本人の意思を無視して救うことはできません。 だからこそ、愛したり、信じることもできれば、 その反対も可能です。 もどかしい部分もありますが。。。気長に待つ必要が ありますね。
献金をしないと神様のものを盗んでいると いう牧師が。。たまに福音派でもいるようですね。 おそらくマラキ書からの引用ですね。 什一献金を勧めているのでしょうかね。
ただこれも、どう<捉えるか>なんですよね^^ 同じ言葉を聞いても、そうか。。なるほどと 思いつつ、状況を考えた上で柔軟に受け取る場合もあります。
私や他の(知人の)クリスチャンは、牧師が言ったことについて ただ鵜呑みにするのではなくて、聖書を読み、祈り黙想(熟考)します。 そうすれば、神様が望んでおられること、 自分に当てはまること、がわかることがあります。
でもある人は真面目(柔軟さなし)に受け取ってしまうこともあります。 日本のクリスチャンは、真面目で、受け身な人が多いんですよね。 (家庭教育、学校教育や、習慣などの影響もありますが。) 自分に当てはめること、神様の思いは何かを考えないでいると。。 <苦しいちゃん>になってしまいます。
何も経済的に余裕のない人に、罪悪感を与えるために 言っているわけではないこともあります。 自由献金であっても、経済的に余裕がない人がいることを 考えた上で<義務>ではなくても、少し多めに出す人もいるでしょう。
自由献金の教会で。。 例えば、実家住まいで、家賃を払わなくて良くて、病院代も かからなくて、子育てや仕送りの為の出費も何にもなくて、 収入が手取り20〜30万あって<自由に全て使える人>が、 500〜1000円だけしか、出さないかもしれません。 (趣味やファッションには、月10万使うかもしれません)
バイト代が、5〜10万で、いろいろ病院代などがあっても、 贅沢などせずに、(心から)500〜1000円出す人もいるでしょう。
献金の話をされて、熟考すべきは、先の人の方ですが。 なぜか後の人の方が、悩んでしまう。ということが起こることも ありますよね。
罪は<的外れ>と言いましたね。善悪の知識の実によって、 (まだ神様の愛と赦しを、心から受け入れてない時 まだ、思いが新しくなってない時。。 古い自分のままで いる時。。自分の考えやこの世の基準のみで考える時。) 人は自分の解釈で、的外れに物事を判断(解釈)してしまうことが あります。 (責められてないのに)過度に罪悪感を感じることもあります。
彼女が気にしているのを、気がついてフォローを入れられば いいですが。 牧師も教会の人も、時には家族でも、言わなければ理解できないことが ありますよね。 神様はもちろん、彼女の心の内をご存知ですが。。 彼女自身が、そのことを打ち明けたり、心を閉ざさずに 変に気負いをして避けたりせずに、祈る(対話する)ことが大切です。
まずは神様を信頼すること。。そして必要に応じて、牧師さんや、 信頼できると思える教会の人に相談することが大切です。 彼女の心が今は。耕されている(葛藤している)のかもしれません。
あなたは、彼女と長年の付き合いで相談もされるので (心の内を明かしてくれるので)多少理解できるのでしょうが。 あなた以外の人に対しても、少しずつ心を開いて気持ちを 伝えたり、悩んでいることや疑問を伝えないといけませんよね。 あなたが、彼女の代わりに、全てやってあげることはできませんからね。
第二コリント 9章7節 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
心に決めた額、できる範囲でいいと思います。 クリスチャンは、神様の子どもとされます。 子どもであれば、例えば家でお手伝いをしたり、 勉強や趣味に打ち込んで、喜びや生き生きとしている 姿を見せることができます。 大人になれば、バイト代や、給料を少し家に 気持ちばかり入れたり、ちょっとしたプレゼントが できるでしょう。(義務ではなくて、そうしたいと 思ってするということです)
病気などで働けなくても、体の不自由があって お手伝いもあまりできなくても、愛ある親や家族は、精神的に ある程度余裕のある場合は、家族を愛し受け入れようとしますよね。 神様も、さらに愛が深い方ですのでらその人が 生きがいや尊厳を保って、精一杯生きることを望んでいます。
神様という、とてつもない寛大な親がしてくれたことの、 十分の一も、100〜1000分の一もお返しは できなくても親は、子どもが幸せで良い信頼関係があれば 嬉しいものです。。 そのことを、受け入れられたらと思います。
賛美すること、感謝を言い表すこと、 聖書を読みその教えを愛すること、祈ること、 罪を言い表したり、悔い改めることも、 神様との率直なコミュニケーションであり 信頼をしているからこそ出来る。。捧げ物です。 神様はただ拝む対象ではなくて、父であり、 イエス様は、友でもあり、師でもある方です。
クリスチャンは、父なる神、イエス様(子なる神、救い主)聖霊様(信じた人の内にすんでくださる神、助け主)を信じています。
父なる神について。。完全で、公正で愛ある 神なのですが。自分の不完全な父親や母親のイメージと 重ねてしまうことがあるといいます。 (自分の、今までの経験や、世の常識、主観だけで考えたり捉えて しまうことがあるということです) 条件付きの愛情しか知らないと、神様の 無償の大きな愛を受け入れるのに時間がかかることもあります。 自分の中の、偏見(聖書で言えば、古い人の考え、過去の経験からの考え)から解放されるに、時間がかかると思います。 信じる(信頼する)というのは、シンプルなようで 非常に難しいものですからね。
聖書の言葉は、神様の霊感によって書かれていると 信じているのが。。福音派やその他、聖書を 重要視している教会ですね。
人によって、もしくは牧師(指導者)によっては 間違って用いられるとカルトにもなることも ありますね。 どうしてもそういう人がメディアなどで取り上げられると、 信仰に対して、悪いイメージがつきますよね。 しかし、適切に用いられれば、益となります。
多くの方は聖書の知識も、教会のことも よく知らないですから、一部の情報だけだと、 不安になるかもしれませんね。
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No.6に対する返信 ( No.7 ) |
- 日時: 2017/01/07 17:54 (sannet)
- 名前: まりこ
- 詳しい解説ありがとうございます。
私の調べた情報が正しければ、そのJECというところで間違いないと思います。 カルトではないことを願いたいですが心配です。
そうですね、ききさんがおっしゃるように、自分の信じているものは本当に正しいのか、という気持ちがあるみたいです。 府に落ちない点や疑問を抱いているけども、最近は教会の牧師先生といわれる方々と話をすればするほど、訝しく思うようになって苦しいと言っていました。
彼女は聖書のことに限らず、疑問や気になることがあると自分が納得するまで徹底的に調べる性格です。 あれだけ分厚い本ですから、一字一句すべてが一切偽りのない神の言葉といわれても、矛盾を感じたり疑わしくなるのは自然なことだと思います。 盲目的に信者になってしまうことの方が恐ろしいですから、その点は少し安心しました。
苦しいことを無理やり続けなさいなんてことは聖書にも書かれてないと思うので、もっと自分が楽しいと思うことに目を向けて色々なことに挑戦していけるようサポートしていきたいと思います。
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No.7に対する返信 ( No.8 ) |
- 日時: 2017/01/07 19:23 (dip0)
- 名前: きき
- 教会ごとに、牧師によって、微妙に違うことが
あるので。。私もそこが良いかどうかは (教会の礼拝に行ってみないと)わかりません。
特に大きな問題がなくても、カルトではなくても 少し、律法主義的だったり(例えば 礼拝厳守)するところもあります。 未信者である家族がいる人もいますし、 数ヶ月に何回くらいは、旅行に行ったり親戚付き合い などもありますからね^^ そこは、柔軟な教会の方がいいと思います。
自分の通う教会の礼拝だけでなくて、 他の(信頼出来る)教会や牧師の説教や 聖書解釈などを読むのもお勧めします。
私のお勧めを幾つか紹介しますね^^ 中川健一牧師(福音系です)の <聖書入門.com> 3分でわかる聖書なども面白いですしわかりやすいです。 求道者から、すでに洗礼を受けたクリスチャンでも 興味を持つ質問や答え(参考となる答え)があります。
<牧師の書斎> 少し難しいかもしれませんが。 聖書研究が好きな方にはお勧めです。 ヘブル語。ギリシャ語など原語を元に、聖書解釈をしています。
<ロゴスミニストリー> 聖書の学び(全集) 簡潔に詳しく解説されていてお勧めです。
<GotQuestions.org> いろいろな質問に詳しく答えていてお勧めです。
それぞれ、同じような解釈もあれば 微妙に違う部分もあります。
苦しいことを無理にしない。。というよりは、 なんで苦しいのか? そこを考えたほうがいいですよね。 例えば、人間不信(対人恐怖)で苦しんでいるのですよね。 これは、ずっと避けては生きてはいけば、 彼女自身が、苦しむでしょう。
人生には、避けたり逃げられる問題もあります、でも 避けても、逃げても、自分が向かい合うべき問題というのは 必ずまた戻ってきて、その問題に 向かい合わなくてはいけなくなるものです。
<真理は人を自由にする。>と聖書にあります。 人や、先入観や、今までの経験(限られた経験) から、こうあるべきと思ったり、 過去はこうだったから、今後もこうなのだという 不信やマイナスの思考に陥ることがあります。 自分の認知、(限定的な)常識、先入観が、苦しさを助長していることもあります。
コリント第二 6章12 あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。
自分を愛してくれなかった親について、 愛する、ゆるすというのは、自分が何か立派になって 仲良しになったり、和解をするということでは ありません。 親が毒親だったり、反省したり、折り合いが 不可能な場合。。死ぬまで和解ができないことも ありますからね。(場合によっては死ぬ間際に 和解できることもありますが。)
自分の悲しみを、軽く見るのでもなく、 親の過ちを<許容>するのではなくて、 確かに、親のこう言う言動は、よくなかった 悲しかったなという<事実>を受け入れつつも<裁かない>ということです。
裁きは、神様がすることですから、そこは お任せするということです。 (勝手に手術をしないように、自分の権限や能力で 正しくできることできないことをわきまえるという ことが、神様を信じ、その権威を受け入れ、 謙虚になり従順であるということです。 盲従や、何も考えないのではなくて、当然のこととして納得して受け入れるということです。^^)
親も罪を受け継いでいて、愛において不完全な 弱い人間であるという事実を受け入れて、 愛し、赦す(情状酌量する)ということです。 自分も罪を犯してしまっても、神様に愛され赦されているし、悔い改めのチャンスがあるのですから^^。 同様に、相手にも。悔い改めることが今後あるのであれば(死ぬまでに絶対にないとは断定できません)。。赦されるという<チャンス、可能性>はあるわけです。
自分も愛せない、ゆるせないと(愛と許しを受け取ろうとしないと)、結局相手を心から(単に道徳的に)ゆるそうとしても、愛そうとしても難しくなります。 裁くことや、憎むことで自分の体と 心(魂)と霊を蝕むことはやめた方がいいものです。
箴言 4章2節 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
自分の心を守るという自分の責任を 果たし、自分をまず愛するためにも、憎しみ、ゆるせない (自分が裁くという権限があると思い込み)気持ちを を、手放すことが必要だということです。
真理は人を自由にする。 愛すること、許すことは。。多くの人が 思うような<苦行>ではないです。
自分の責任とは何か、自分にある権利(権威)と 自分にない権威(神に属する権威)の区別を つけることが大切です。
苦しい、と思ってしまうのは、何か 的外れの思い込みや、こだわりがあるのではないか? と、疑問に思うことや点検が必要です。 自分の思いを照らして、適切な道(愛、希望、信頼 への道)へ導いてくれるのが、聖書の言葉です。
詩篇 119編130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
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