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小豆は純粋について考えてみた ( No.16 ) |
- 日時: 2012/04/30 17:57
- 名前: 小豆
- よく耳にする「あのころは良かった、純粋だった」という言葉。
こういう言葉を「若い」僕に対して、 懐かしむように、というよりは、 「今なんて最悪だよ」 って顔で話すおじさんおばさんがほんとに嫌いでして……。 大して何もしてないのに現状を憂い、 過去の栄光の中に生きる……。 なんだか哀れだなぁ……と。 頼むから僕をその現実逃避に引き込まないでくれよ、と(笑) それで今回は じゃあその「純粋」ってなんなのよ? ってことを考えて行こうかな。
<font color=#52b621>純粋 @他のものがまじっていないこと A私利や打算がないこと by明鏡国語辞典
今回考察していきたいのはもちろんAのほう。 なるほど、人は大人になるにつれ知識量も増え、 その分、私利私欲に走ったり、打算的になったりするかもしれません。 ではその私利や打算がないとなぜ「良い」のでしょう? ベタな模範解答をつくるなら 「毎日が彩りに溢れていて、目に入るものすべてが魅力的だったから」 とか言ったところでしょうか。 昔は感動した映画も今はどうしても斜めに構えて見てしまう、 なんて話はよく耳にします。 きっと僕にもそういう時が来るのでしょう。
では、なぜそのような人生の潤いには不要なものを大人は手にしてしまったか。 それはちょこっと前述したように「世界のことを知ってしまった」からじゃないでしょうか。 昔見た映画に感動しないのは世にある映画のだいたいのパターンを知ってしまったから。 昔は綺麗に見えた景色がなにも心に迫ってくるものがないのはもう何度も似たような景色を見てしまったから。
そう考えると逆に純粋とは無知を条件に生まれる状態だとは言えないでしょうか。 今まで見たこともないような映画に出会ったから感動に言葉を失い、 今まで出会ったことのないような景色だから驚きに涙さえ流す。
それなら「知ってしまった」大人はもう純粋だったあの頃の記憶を回顧して過ごすしかないのでしょうか。 僕の考えではNOです。 大人は「知ってしまった」とはいえ、世界のすべてを知ってしまったわけではありません。 むしろ半分も知っていないでしょう。 ただ、知る機会がなくなり、知る気もなくなってしまっただけなのです。
前述のような「あの頃だから綺麗に見えたもの」。 それもあるかもしれません。 だけど、こんな言葉もよく聞きませんか。 「人生経験を積んだ今だからこそ味わい深い」。 このとき上の言葉を言った人は純粋だったんじゃないかな。 「知ってしまった」から見える世界もあります。 そしてその世界は「知ってしまった」大人も「知らない」世界です。 そこには驚きがあって、彩りがあって。 その世界において無知なその人はきっと純粋です。
知ろうとし続ければ人はいつまでも純粋でいられます。 無理に何か新しいことを始める必要はありません。 きっと自分のすぐ近くにも、あるいは自分のなかにも、 新しい発見はあるはずですから。 大人は守りに入る必要があるから新しい発見などない? いやいや、守りに入って初めてわかることもあるでしょう。 純粋でいるために必要なことは、 小さな発見も見逃さないように少しだけ背筋を伸ばして、 ちょっとだけ先入観を隅っこに寄せておくだけです。
よし、こんなもんでええんでねえかな。 大人になんないとわかんないこともあるから、なんとも言えないけど、「若い」僕はそう思いますよ。 さて、僕もそろそろ純粋な心で夢を描かないと。 =受験勉強(笑)
それよかどこかで純粋を純水と変換し間違えてないか心配だ(笑)
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