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小豆はほどほどについて考えてみた ( No.72 ) |
- 日時: 2012/05/24 17:27
- 名前: 小豆
- あ、今日で中間終わりました。
ライブ行っても余裕で90後半取れるテストでした。 いや、これは僕のポテンシャルの高さゆえか?そうなのか?((°o°C=(_ _; とりあえずあいつにこの事実を見せつけてやりたい。
―――― まだ、トイック残っているし、今回はささーっと。 このスレはそもそもひたすら意識的な、哲学的に言えば理性的なものの見方を追求することを目的にしたスレなんですけど、 こうやって理詰めで考えているとどうしても机上の論理になってしまったり、ヒトラーの思想に行き着いてしまうことが多々あるのです。 なんか自分の中から余裕や優しさが失われていくように感じる。 だからほどほどにしないといけないな、とは思っていたんですけど、 その「ほどほどに」ってどれくらいよ? って思って(笑) 今日は「ほどほどに」について懲りもせず理性的に考えていこうと思います。
「中庸」というアリストテレスあたり(曖昧)の人が唱えた思想があります。 無謀と臆病のちょうど間に勇気が位置するように、 どちらかに偏りすぎず、その中間を生きることが理想の生き方であるという考え方です。 僕もその通りだとは思うのですが、どこらへんからが中間? という問いにぶつかってしまいます。
そもそもその中間の両端は本当にふたつの言葉しかないか? 例えば現実主義と現実逃避。この間に勇気があるとも言えないでしょうか? あるいはそこに慎重、という概念を持ち込んだときこの図式はどうなるでしょう?勇気と慎重はどちらが優先されるでしょう? 現実のケースにあてはめてみるとどうもケースバイケースのようです。 このように世界はアリストテレスの思うほど平面的ではなく、立体的、あるいは時間を飛び越えて四次元的でさえあるようです。 では、なおさらどうやって中間地点を、正確にはより良いものを見出だしていくか、ということになるのですが、僕は多くのものに触れていくことだと思います。 多くのものに触れ、その位置関係を把握していくことで、その中央にあるものを見出だしていく。時々、もう一度触れて計算確認しながら。きっと計算間違いがあるはずだから。 実はこのスレもこの価値観の実践なんです。 テキパキした理性的なものと ボンヤリした感情的なものとを触れることで その間にあるものを見出だしたいと思っていて。 そしてそのふたつのものが僕の中でぶつかりあって、 まったく新しい何かを生んでくれることを密かに期待しているのです。 僕が言ったみたいな相反するものがぶつかってまったく別のものが生まれることを哲学では止揚って言うみたいです。
ってことで次のスレは豆鉄砲広場史上、最もテキトーな感じのスレになると思われます。 ボンヤリと全体を見つめる、そんなことを念頭に。 ミスチルのHOMEがちょうどそんなアルバムなんだな。
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