いっしょに生きよう - 死にたいあなたへ 雑談・ラウンジ|悩み相談掲示板
※2015年9月よりサーバーログ・IPを収集保存しております。連続荒らし書き込みなどの掲示板運営の妨げになるケースは、サイバーポリスや弁護士への連絡を行います。(by管理人)


Re: 豆鉄砲広場ッッΣ!!その向こうへいこう ( No.67 )
日時: 2013/01/15 11:01
名前: 小豆

私とは誰か?
*一日一定量更新予定
自分とはどんな人物で、
何を考え何を目標としているか。
そんなことを考えていきたいと思う。
そしてそれは自己完結で自己満足な「自分探し」ではなくて、
「こう思っているからこういう世界に飛び込んでに繋がる「世界探し」でありたいと思っている。

@マイノリティ性
クラスメイトに言わせれば「教室から10cm浮いた生徒」。
ここは個性的な人が多いからなんとかなっているけど、
実際、僕はかなり変わっているみたいだし、
僕自身、人から外れたところで人生をしていきたいと思っている。

何が僕をマイノリティたらしめたのか。
それは幼少期の頃に遡る。
ふと幼心に
何でみんな同じように生き、同じように死んでいくことに耐えられるのだろう?
と思ったことがあった。
みんなたった一度きりの人生がどっかの誰かと丸っきり一緒で良いのかな?
かけがえのない存在じゃなくて良いのかな?
って。
よくよく考えるとこの時期から僕は生きる意味について意識していた。
そしてできるだけ人と違うことをしようとするようになった。
そんな僕を褒めてくれる恵まれた環境で育った。
図工の授業では決して絵心はなかったが、
とにかく人と違ったものばかり作り、
それが偶然認められ市の賞をもらったこともある。
その後も何個かラッキーパンチが当たって、
自尊心を折られることなく変人をしてきた(笑)

この僕のマイノリティ性については各所で触れていこうと思うし、触れるまでもなくにじみ出てきそうだ。
チャレンジャー体質はその最たるもので、
後日それについて書きたいと思う。
それはそれとしてここでは学校での僕のマイノリティ性について話したい。
僕は基本成績は優良で(←)、普段は本ばかり読んでいるものだから、
クラスメイトからの第一印象は優等生とか話しかけづらいとかだと思う。
だけど、そのイメージはわりと崩れつつあると思う。
一度話した相手には「とうにゅるるーん」とか「あずきーっく」とか言っちゃう普段の僕が出てしまう。(ん?現実の僕じゃなくて掲示板の僕が普段の僕?)
で、当然の帰結として「ん?お前ってそんなキャラだっけ?」となるわけである。
僕は自覚がないもんだから「(´・ω・`)ソウダケド?」と答えるから余計話がややこしくなる。
ただでさえ変人なのに優等生なイメージとのギャップが僕をクラスから浮いた存在にしているようである。

Aチャレンジャー体質
何かと色々なものに挑戦したがる体質である。
それが顕著に現れるのが食だ。
とにかく新しい味に興味がある。
面白いものを食べてみたい。
修学旅行の中国では誰もが避ける中、
蛇やサソリ、さなぎ、タツノオトシゴなどの揚げ物を食べた。
しぶしぶではあるが僕の無鉄砲ぶりに乗っかってくれるいつものメンバーで行動していたので、
彼らも一緒に食べて盛り上がったけど、
あれはさすがに無理させちゃったなー。
ああいう一緒に馬鹿ができる友達が大学に行ってもできるかどうか不安だー。
ちなみに当時の満場一致の結論としては
「ヘビは少なくともファミチキよりは美味い!(訳、意外と美味い!)」

だいぶ話が逸れたが、皆さんの目の見えるところでも僕はチャレンジャー体質を見せているはずだ。
もっともそれがチャレンジャーと表現すべきかドMと表現すべきは微妙なところだけど。
そう!あの夏休みの400時間宣言である。
あれこそドМの極み……じゃなくてチャレンジャー精神の塊!
ああいうちょっとだけ自分の許容範囲を超えることを自分に課すのがすごい好きなのだ。
食べ物だって僕がさそりを食う趣味があるとか、
昔カブトムシを主食にしていたとかそんなわけではない。
一目見てうげーって思ったよ。
でもそれ以上にそこに広がっている自分の知らない世界に手を伸ばしてみたかった。

こういう一見変わった僕のスタイルは意外と僕の根本的な価値観に関わっているんじゃないかと思う。
まず僕の生活は平和だ。
だけど平和すぎる。
最近あった大きな事件と言えば僕にとっては三年前の家出かなー。
それから色々あった。
すんごい楽しいことはいっぱいいっぱいあったし、
悲しいこと辛いことも人並み以下だけどちゃんとあった。
でも、なんだかあの日のおまけのような気がしちゃって。
刺激が足りない!
刺激が欲しい!
そう思っている自分もいるんだなー。
だから体がちょっと危険なところに向かう。
それと自分がマイノリティでありたいという気持ちが絡み合って気づいたらとんでもない方向に行ってしまうこともある。
僕が起こす暴走の大半はそういう原因から起きている。
と言ってもいつも僕が暴走する前に
運よく誰かがそれを気づかせてくれるから、
暴走しないですんでるんだけどね。
今年も新年早々暴走しかけて
ある人のメールのおかげで
それに気づくことができた。
ほんとに僕は助けられてばっかりだ。

B善悪の捉え方
昔、この掲示板では「世の事象の善悪を測る基準は何か?」と言った趣旨の質問がいくつかあった(今はどうか知らないけど)。
そのときにDさんとかゆがもさんが答えていたのは
この世を測る基準は善悪ではなく快不快である
ということ。
この論理は神不在の現代においてはなかなか翻しようのない論理であるように思う。
だからこの論に沿いながらも僕の考える善悪観を書いていきたい。
あるいは善悪観という表現は正しくないかもしれない。
僕の物事に対する判断基準、行動基準、その中心を成す思考である。

僕にはここの全般カテゴリで年齢を隠し、
アドバイスをしていた時期がある。
HNはそのままなので探せば見つかると思う。
あの頃は目に入る人目に入る人が辛そうで全員を助けたいと本気で思っていた。
それから時間が経って、
すっかり雑談ラウンジの人間になっていたある日事件が起きた。
名前こそ忘れたけど豆鉄砲広場に荒らしが現れた。
僕たちが雑談しているところを
「そんなおままごとみたいなことをして何が楽しいの?」
みたいなことを言っていたと思う。
それからしばらくその荒らしと話して
どうやら自分が辛くて、
楽しそうに話している僕たちが羨ましかったらしいということがわかった。
で、僕は別スレを立ててその人の悩みをゆっくり聞くことにしたんだよね。
だけどそれがいけなかったんだよね。
みんなを傷つけたような人に、
みんなの意見も聞かずに優しくして、
逆にみんなを傷つけてしまった。
これじゃ本末転倒だよね。
それから僕は僕にとっての「みんな」をちゃんと決めておかないといけないと思った。
誰もかれもみんな助けるわけにはいかない。
誰かを犠牲にしてでも守りたいと思える人は誰か。
そう考えたとき豆鉄砲広場に来てくれる人が「みんな」だなって思った(現実にも少しだけ守りたいと思える人はいるけどね)。

僕の行動基準もやっぱり快不快である。
何が正義とか何が悪とかそんなの野暮だと思う。
とはいえ快不快の二元論で語れるほど世界は単純ではない。
誰かの快を守れば誰かが不快になる。
そういう世界である。
僕はできるだけ「みんな」の快を守りたい。
残りは不快でも構わない。
たとえばどこかで喧嘩になったとして、
相手が正しくても僕は「みんな」の味方になると思う。
自分の意見をほのめかしながらも、
それがその人の意見と対立することになっても
やっぱり味方でいると思う。
そうしようと決めている。
もう誰か一人を孤独に傷つかせたくない。
だから「みんな」の中で喧嘩が起きたなら僕は味方がいないほうにつくと思う。
これも決めていることだ。

誰かが幸せに生きるということは
別の誰かを不幸せにする可能性を秘めている。
だけど、それでもやっぱり守らなきゃいけない幸せがあるから、それを守る。
僕と「みんな」の小さな小さな幸せを。
これが僕の生き方の大きな指針である。



雑談・ラウンジ|悩み相談掲示板