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Re: 【厨二】ゼロから世界を創造するスレッド【哲学】 ( No.1 ) |
- 日時: 2013/12/10 15:50
- 名前: 小豆
- 【世界は0である】
新しい世界をつくるために、まずは既存の世界を破壊しなければならない。古い家屋が建っている土地には家屋を破壊しない限り、新しい建物を建てられない。世界も同様である。
しかし、世界は僕が破壊するまでもなく、もう既に0だ。「いや、この世界には人や生き物がいるし、自然や建造物があるじゃないか!0ではないだろう!」という人がいるかもしれない。残念ながら、この人は古いハリボテの(本当は0の)世界の住人だ。彼は人や生き物がいる、自然や建造物がある、と言うがどうしてそう言い切れるのだろうか。それは自分がそれを見て感じることができるからだ。だが彼にとって見て感じることができたなら、他の人も同じように見て感じることができるのか。彼は自然があると言う。それならば、今、風が吹いたとしよう。彼は冷たい風だと感じた。もう冬になったなぁと季節の移ろいを感じたかもしれない。しかし、彼には冷たいと感じられても、僕にはたいして冷たくないと感じるかもしれない。この時、この風は二人にとって同じ風だと言えるのか。
「冷たい、冷たくない」という感覚以外でも話は同じである。カントという哲学者がこんなことを言った。「人はみな赤いサングラスをつけていて、全てが赤みがかって見えているかもしれない」。僕たちが見ている色は本当の色ではないかもしれないということだ。あるいは、あなたが青と思って見た色は僕には紫に見えるかもしれない。その時、この色は同じひとつの色と言えるのか。
彼はこう反論する。「いや、それはそれぞれの感じ方であって、風そのものの本質は変わらない」。これは怪しい話になってきた。なんせ、この世界には僕たちが見聞き、感じるより前に「物そのものの本質」があると言うのだ。「そのものの本質」という言葉は「真の姿」などとも言い換えられよう。つまり
「お前たちが見ているこの机は偽りの姿で、机の真の姿ではないんだ」
と言っているようなものだ。僕はこれを宗教じみていると感じてしまう。どこかに本当のものがあるなんて考え方は胡散臭い。これが古い世界の住人が信仰して止まない「科学教」、「社会教」だ。科学的にそうだから私たちには直接見聞きできないけど、物の真の姿は存在するんだ。社会的に認められているからこれは正しいんだ。
本当にそうなのか? 科学は正しいのか? 社会は絶対か?
例えば、電子顕微鏡で細胞を調べてみようか。「ほら、僕たちに見えないだけで、細胞はこんな構造を持っているんだ」と彼は言うだろう。だが、その見えている構造は正しいのか?電子顕微鏡は観察物を拡大するために電子を観察物にぶつける。この時既にそれは観察物そのものではなく、電子がぶつかった観察物になっている。これでは真の姿ではない。
例えば、社会では多くの人に承認を得ることで意見に客観性が認められる。一人一人の感じ方には偏りがあるから、多くの人と意見を交わすことでその偏りをならすのだ。政治家でもない一般人が意見の正当性を保証するためには100人の承認が得られれば十分な気がする。では、戦争は素晴らしいことだ!という意見の正当性を、戦争推進論者100人に承認してもらおう。これで正しい意見だ!…そんなはずがない。一人一人が偏っているなら、集団になっても偏りがなくなるはずなどない。もしかしたら、集団がみんなで間違った方向に進んでしまうかもしれない。この時、客観性は正しさではなく、ただの悪への推進力だ。
この辺りでわかってこないだろうか。人がそれぞれの感じ方をしているように、科学も社会もどんなに客観的であろうとしても、それぞれの見方があり、偏りがある。これは物の真の姿が見えないというよりは、物とはある特定の見方で偏りが加えられたものだとも言えるのではないか。例えば、目の前に落ちている石があるとする。この石には物自体としての性質があるのではなく、僕によって見られた石、科学的に見た石、社会的に見た石、というそれぞれの真の姿を持っているだけなのだ。少なくとも、仮に物自体というものがあったとして、僕たちには知りえない。
以上からこう言うことができる。僕たちが生きるこの世界も世界自体があるわけではなく、僕たち一人一人の視点から見た世界があるだけだ。この意味で、世界とは私から見た、私が考える世界、つまり思想なのだ。そして、いわゆる世界、つまり世界自体は僕たちには知ることができず、その意味で世界(自体)は僕たちにとって0でしかない。
次回【世界は0ですらない】に続く……
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