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Re: 【厨二】ゼロから世界を創造するスレッド【哲学】 ( No.5 ) |
- 日時: 2013/12/11 08:16
- 名前: 小豆
- 【世界は0ですらない】
前回でやっと世界が0であるというスタートラインに立つことができた。前回のような一人一人の物の捉え方を真の姿とする考え方は、実ははるか古代の哲学者プロタゴラスの人間尺度説に由来する。彼は紀元前490年ごろの生まれだから、今から2500年前に既にこの考え方が提唱されていたと言うことだ。驚くべきことだ。
それからしばらくの時を経て、近代哲学の祖と言われるデカルトという人が登場してこんなことを言う。
「我思う、ゆえに我あり」
この思想には若干の説明が必要だ。デカルトは世の中で確かな物を探そうとしていた。そのために、彼は少しでも疑えるものは確かではないと考えた。しかし、そうやって疑っていくと何も確かなものはないことに気づく。世界も人も自然も物も自分もどれも疑えてしまえ、結局何もかも確かではない。しかし、デカルトは考えた。
「……だが、待てよ!こうやって疑っている自分は確かにいるぞ!私は世界を疑う。それゆえに私はいるんだ!」
この逆転の発想がデカルトの哲学の第一歩であり、最も偉大な功績だと言えよう。ところで彼がこう言っている時の「私」とは誰だろう。それは体を持ったこの私ではない。疑っている私の心こそが「私」なのだ。この私が世界や私の存在を疑う。その疑う私は存在すると言っているのだ。つまりそれは疑うという私の思考の存在とも言える。
いや、しかしここで立ち止まってみよう。私の思考は存在するとデカルトは考えた。ん?考えた?思考とは考えることだ。そう考えると何やら話が怪しくなってくる。一度整理してみよう。
@私は考えた だから私は存在する
これがデカルトの思想だ。つまり
A私は考えた だから私は存在する と私は考えた
ということになる。一見問題なさそうだが、これは考えることの存在の根拠を「我思うゆえに我あり」という考えで証明している。つまり、考えることを考えることで証明しているのだ。この方法では100歩譲って前者の「考える」が存在したとしても、後者の「考える」は存在するかどうかわからない。だから、もう一度「考える」の存在を証明しないといけない。「我思うゆえに我あり」だ。そう考える。あ、また考えてしまった。証明しないと!つまりこういうことになる。
B私は考えた だから私は存在する と私は考えた だから私は存在する と私は考えた だから私は存在する と……(以下無限ループ)
厳密には最初の私を証明するためには、二番目の私(考える)が正しいものとして存在する必要がある。しかし、二番目の私が存在するためには……(以下略) ここに存在論(物事の存在を確かめようとする議論)の限界がある。僕たちは自分の頭で考えて判断する以外に自分の考えが存在することを証明することは証明できないのだ。
さて、それなら私自身ではなく物の存在の場合ならどうだろう。「私」がカーテンを見ている場面を想像してみよう。このカーテンは存在すると私は考えている。しかしその考えは正しいだろうか。私は正しいと考える。しかしその考えも正しいと言えるだろうか……。これを簡潔にすると以下のようになる。
カーテンは存在すると私は考える。という考えは正しいと私は考える。という考えは正しいと私は考える。という……(以下無限ループ)
つまり、自分に限らず何かの存在を証明するには無限に思考の正しさ(存在)を証明しなければならないということであり、人間が自分の思考から離れられない限り、何一つ存在が確かだとは言えないということだ。
しかし、ここでもうひとつ例を出そう。
私は神が存在しないと考える。という考えは正しいと私は考える。という考えは正しいと私は考える。という……(以下無限ループ)
この場合は存在ではなく、非存在を証明しようとしているが存在の場合と同じように無限ループに陥っている。つまり、何一つ確かに存在しないとも言えないのだ。
以上の考え方をまとめるとこうだ。世界中のあらゆるものは存在しているとも存在していないとも、どういう形や固さかも言えない。つまり私たちにとっては0ですらなく、なんでもないのだ。日本語には0を表す言葉として「無」が存在するが、このなんでもない状態は「無」ではなく、「空(くう)」という言葉が当てられている。 空としての世界。 ここを真のスタート地点として新しい世界を創造していきたい。
次回は【空の中にあるもの】。
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