いっしょに生きよう - 死にたいあなたへ 遺言になるkも知れないけれど。|雑談・ラウンジ - 悩み相談掲示板
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遺言になるkも知れないけれど。

日時: 2021/04/12 10:03 ( eonet)
名前: yamaneko

4月9日は父の56回目の命日だった。

死亡年齢は63歳。現役公務員だった。

なんの前触れもないまま 職場で倒れてわずか5分で息絶えたという。

死因は「心臓発作」とした。母は「解剖」を望まなかったから 仕方がない。

解剖しても父は生き返らないから 母の判断は良かった。

私はまだ学生だった。というより長い受験勉強から解放されたばかりの 中途半端な大学生だった。

自由を満喫するということではないが 生まれて初めて「友人」をもち、初めて「喫茶店」で会話する楽しさを知り、凍り付いた心がすこしばかり雪解けしていた浅い春のことだった。

いろいろ思い出すときりがないけれど 葬儀の時の光景が 忘れられない。

出棺の時 風が吹いた。門の入り口に「池」があり そばには「ゆすらうめ」と「ゆきやなぎ」の花が咲いていた。

父母の手つくりの庭だった。棺がそこを通るとき ゆすらうめとゆきやなぎの花が 風に吹かれて舞い上がった。

ハッとする間もなく 花々は父の棺に舞い落ちたのだ。

誰もそれを気にする風でもなかったけれど 私は「父の別れ」を感じた。

花々が父を見送ってくれたのだと。

56年にもなるけれど それを語る相手もいない。母とはついに話し合わずに済んでしまった。

言葉にすれば 私は自分がどうなるかわからないと想像した。

75年も生きたけれど、今もなおあの日の悲しみは消えない。

遠くない未来に 私も父母のそばに行くだろう。

その時はきっと!笑顔で会えると思う。

イエローページ

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Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.1 )
日時: 2021/04/12 10:06 (eonet)
名前: yamaneko

いきなり コメントになってしまった。

今日は書くことがないけれど 使えないスレッドになっていたから 新規に作り直したが やはり無理なのかなあ?

初めから仕損じてしまった。

でも今回も「来訪」は遠慮願いたい。

「spmode」の「匿名」さんには特によろしくお願いしたいです。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.2 )
日時: 2021/04/12 19:20 (eonet)
名前: yamaneko

「ドイツスズラン」の新芽が出て 蕾が付いた。そして「ライラック」にもたくさんのつぼみが。

まだ10歳のころ 我が家には「すずらん」も「ライラック」も咲いていた。

父が 北海道から買ってきたものだった。

母は「ライラックはシャンゼリゼ通りのなみきなんやて!行ってみたいなあ?」ときれいな声で私に話しかけた。

でも!私はそのころ シャンゼリゼ通りがどこにあるのか知らなかった。

だから 返事をしなかった。もしもあの時「私が大きくなったら連れていく」といえば 母はどれほど喜んだであろうか?

でも「アイヌ部落」が北海道にあることは学習していたから 連れて行こうと思った。でも 言わなかった。

母は気分の変化が激しかった。だから 私はできるだけ 余計なことを言わないようにしていた。

でも!本当は心があふれるほど 母が好きだった。今も母を恋しく思う。そして 涙涙目になる。風景は涙にゆすれる。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.3 )
日時: 2021/04/12 21:19 (eonet)
名前: yamaneko

母は私の進学には 力を入れた。とは言え戦後間もないころのこと。まだまだ 高校進学は狭き門だった。

ある日 元中学だった高校と 元女学高だった高校の名を言って「これ以外は高校ではない!」と言い切った。

「ほかはバカのいくところだ!」とすさまじい剣幕だった。

その記憶は私の中でくすぶり続けた。

幸い「どちらにでも行ってください」と担任に評価され「お行儀が良くて本当に良いお嬢さんですね?」と褒められたそうだ。

クラスメイトも「あなたは担任にかわいがられていた」という。

しかし!私は怖かった。成績は良かったが 学習力はまるでなかった。

それは 自分にしかわからないことだから。試験には受かるだろうが はたしてそれが何になるのか?

そういう悩みを打ち明ける時代ではなかった。高校に行けることだけが幸せな時代だった。

最近になってふと思い当たったことがある。もしかすると母は この二校以外にしか入れないのなら 高校にはいかせないぞ!と、言いたかったのではないだろうか?

最近になるまで わからなかったけれどもしかすると母の決意はそこにあったかもしれない。

それでもよかった。私は「理解する」ことを望んでいたのだから。

いや!もしかすると私は高校になぞ行きたいとは考えていなかったのではないだろうか?

高齢になる父母の姿を観て 私は早く父母を楽にさせたいと思っていたと思うのだ。

母の望み通りに私は難関高校に進学した。そして運命は大きく傾いていく。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.4 )
日時: 2021/04/13 08:01 (eonet)
名前: yamaneko

春雨がしとしとと舞い落ちる朝。曇り空。鳥も鳴かず。

ネットでもワイドショーでも「小室圭」さんの動向がわだいである。

おかしいことをなさる。

「金銭問題」をする否定する文書がまず公開された。「お金を借りたわけではない」「しかるに返す必要はない」ということだけの内容を28枚の論文に仕立てた。

これはたたかれまくった。

それから数日。「解決金」を相手に「支払う」?ということなのだそうな?

これはまた180度の展開?誰かが世論を観て火消しに回った?

相手はすでに「お金はいらない」と公表している。そして「幸せになってください」と。

まあ この言葉が誠なら初めから「金を返してほしい」などと卑しい根性は出さなければよかったと思うけれど、押しても引いても騒ぎ立てても「金は戻らぬ」と理解し、「もういらない」と結論されたのだろう。秋篠宮家なら400万。すぐにでも出せただろうが小室さんの留学の行方を見届ける目的だったろうか?

今回は「緊急」と判断されたようだ。

それで?「納采の儀」を行えるか?といえばそれは難しいだろう。

国民は「祝福できない」と思う。

つまり、真子様は皇籍を離脱して 小室さんと駆け落ちするのが一番の方策か?と思える。

そうなれば国民は納得できる。「裏金」が支給されても それは「黙認」。

政治家の「裏金」に比べれば 清いものだ。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.5 )
日時: 2021/04/13 15:34 (eonet)
名前: yamaneko

雨模様でもあり、バイトの疲れもあって午前中は よく眠った。

畑仕事が気になるが、急いでも仕方がない。思い出話でも。

高校入学式は今までと違って盛大だった。まず規模が大きい。生徒もすでに成人のような体格だし、そこに保護者も混じるから広い校庭も混雑するほどだった。

学生はクラスに行き、保護者は「講堂」に参集した。

旧制中学の風格を備えた「講堂」には「質実剛健」という「東郷平八郎」直筆の「書」が掲げられてあった。

これは「東大」と同じものである。軍国主義の名残かもしれないが今も残っていると思う。

ちなみに 後日私はこの「講堂」で「薙刀」を履修することになる。

戦時中の「武鑓訓練」に等しいこの学科は少なくとも「時代劇フアン」の私を喜ばせたのは間違いない。

「薙刀を習った」といえば 誰にでも高校名がわかるほど有名というか?古臭いというか?思い出深い。

そのころの母は56歳であった。もともと「近視」の母は戦後の苦労で視力が低下していたから この入学式は大きな不安だったに違いない。

気になりながらも 私自身がこの巨大な学校でどこまで頑張れるのか?不安に思うほどだったし、長年の受験勉強で私自身も近視になっていたから 周りの様子がよくわからなかった。

どうにか クラス案内も終わって母と合流し、帰宅するバスの中で思わず眠りかけたことを覚えている。

女子の制服は「ブレザーと襞スカート」だったので着心地は悪かった。

それでも その日の私は「よし!次は00大学を目指すのだ!」という気力がわいてきたものだった。

母がほかの保護者より 老けて見えるのが気になる年頃になっていた。

いつもいつも 母に寄り添って生きてきた私の中で 小さな違和感が芽生え始めていたような気がする。

1961年だった。入学式後うちに「テレビ」が届いた。それも母の方針だった。高校に入るまではテレビはお預けだったのだった。

でも 一番楽しんだのは「母」だったと思うが。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.6 )
日時: 2021/04/13 21:03 (eonet)
名前: yamaneko

高校通学には「バス通学」と「電車通学」があった。

「バス通学」をすると 校門前に停車してくれる。

校門がちょうど終点だった。その先は「待兼山」という山だった。

「待兼山」の由来はあるのだろうが「ワニの化石」が出土したことが当時としては大きな話題だった。

大昔は海だった。ということだが海に「ワニ」が住んでいるとは聞いたことがない。

「アマゾン」でもない限り「ワニ」はいないだろうに。しかし!半世紀前ってこういう話題が信じられる時代だった。

なんと!のんびりしていたというか?無知だったというか?国立大を目指す学生でさえ 信じていたらしい。

そういうことで 私は「バス」も「電車」も嫌いだった。

できることなら「徒歩通学」を望んだけれど 重たい鞄を下げて もじゃもじゃしたスカートでは歩けやしない。

仕方なく バスや電車を交互に使い分けて通学した。帰宅時はバスに乗ることが多かった。

学習のスピードは猛烈に早かった。教師のしゃべりかたも早口言葉のようだった。

それに 猛烈に黒板を使う。まるで何が何だかわからない状態でスタートした。

あっという間に中間試験。中学ではトップクラスだったけれど 中間試験の結果は真ん中になっていた。

がっかりした。こんなに忙しくてそしてこんなに成績が良くないって?これからどれだけ勉強すればよいのだろうか?

私の記憶では中間試験後に急速に気力が低下したように思う。

中学時代も 体を鍛えていない。周りの人たちは「テニス」や「マラソン」に夢中だった。

学習能力が高い人は こんなこともできるんだなあとまぶしく感じたものだった。

それでも「生徒会委員」が指名される。この高校では担任が任命する仕組みだった。

私は「文化委員」に指名されて3年間も継続することになった。

「委員会」が毎月開かれるが、何を話しているのか?まったくわからなかった。

あるホーム・ルームの日。担任が「文化とは何ですか?」と私を指名した。私は「わかりません」と答えた。

クラスの男性たちが爆笑した。しかし!それが真実だった。

「インテリジェンスの違い」が大きかった。すでに「国費留学」を経験して帰国女子がいるほどの世界で 私は孤軍奮闘する羽目になったというわけだった。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.7 )
日時: 2021/04/14 05:33 (eonet)
名前: yamaneko

朔日の雨は 疲労回復に役立った。今朝は「木の芽摘み」ができるだろう。

高校でのあわただしい暮らしが ひと月過ぎただろうか?庭の花々がかぐわしく香り始めた連休ごろ。

母の様子がおかしくなってきた。「道で声を掛けられる」という。

「お宅の娘さん よくでき張るそうですね?」と言われることと、その人がだれかわからないことが不安だという。

母は目が悪いから 相手の顔が見えないことを言ってるのだろうと思ったが、どう答えてよいのかわからなかった。

「ありがとうございます。ところでどちら様ですか?」とお返事するのが普通だろうが。

毎日のように そういうことを言い始めたのは もともと目が悪いことからくる不自由さが原因でコンプレックスが付きまとっていたし お付き合いには支障があったところに ある意味有名人の母になって 戸惑いがあったのだろう。

そして悲劇につながった。

ある夜 私は父母の前に座らされた。そして いとも簡単に「あなたは 私たちの本当の子供ではない」と告げられたのだ。

頭を殴られる感じがした。

しかし なんとなくそういう気配を感じてはいたので「やはりそうか!」という思いもあった。

衝撃は別のところに潜んでいたのだ。

叔母と10歳年上のいとこが宿泊していた。そして「本当のお母さんとお兄さんはこの人たちだ」と教えられたときに私のからだ中が、怒りで燃え上がるような気がした。

そうか!みんなして 私にうそをついていたのか?何が「正直に生きろ」だ!

親戚中に騙され続けていたという現実は私を絶望的に打ちのめした。

そのまま どこかに消えてしまいたかった。もうこの家の中に、うその中で生きていく力はないように思えた。

しかし!母を残してはいけない。父も。

眠れぬ夜を何とか過ごして、何事もなかったように朝を迎えた。

しかし!私は 目の変化に気が付いた。

見えるものはみな「無色」なのだ。おかしいと思うがもう父母に相談できる立場ではなかった。

鞄を下げて歩きながら 白黒の風景を観ながら 通り過ぎる旧友の姿を追いながら 私一人が「色のない世界」で一人生きていることが悲しくて涙を流しながら歩いた。

父母も とりわけ母は 私と同じように大きな不安と悲しみを感じていたのだと思うが、お互いに距離を保ちながら暮らすほかはなかった。

苦しい日々が始まった。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.8 )
日時: 2021/04/14 18:26 (eonet)
名前: yamaneko

私の記憶の中 母の笑顔は少ない。高校入学時も大学の時も母の表情は こわばっていた。

「もらわれ子」というのは 戦後は多かった。戦争で親を亡くした人は多いのだから。

私の場合は母の兄夫婦の子供をもらうわけだから 初めから「もらった子」でよかった。

「おばちゃん」だけど「お母さん」という切り替えのほうが自然だったと思う。

私の性格であれば 母を見捨てることはなかった。

あの日 母も目が見えなくなるほどの精神的なダメージを受けたのだろうか?

それとも 長年のうそを暴いたという爽快な気分になったのだろうか?

私は 何を言われてもその後、自分の生い立ちについて母と話をすることはなかった。

母は 自分の思い通りにならないときには「00に返す!」と息巻いていたけれど。

それは 私にとっては「母のご乱心」に過ぎなかった。私は 母の子供である。

どこで 誰から生まれようが、私の母は一人だけだ。




   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.9 )
日時: 2021/04/15 19:59 (eonet)
名前: yamaneko

今朝は ひどい「めまい」がして下を向くと倒れそうな気がした。

昨日リハビリに行ったことが原因か?と不安に思いながらもバイトは休めないし休むのは嫌だった。

車のハンドルを握って感触を確認する。どうやら運転はできそうだ。

いつもよりも遅い時間に「ビタミン・ゼリー」や「アミノ酸」などを飲んで 気合を入れる。

それでも 目は回るのでゆっくり走り 仕事も すっくりとする。

「目が回る」というと転勤してきたらしいおじさんが 親切に「脳神経外科」を教えてくださった。すぐぬ忘れてしまったけれど 親切がうれしかった。

母も「目が回る」ということが多かった。「近視」の場合は疲れると視力に影響するから 母も今朝の私のように不愉快な朝が多かったのかもしれない。

私は キ0スト教会の保育園に通っていた。田舎にできた初めての「就学全教育」の場である。一期生だった。

3月に 卒業式があって変える道が吹き曝しでとても「耳」が冷たかった。

ほかの子供たちは「ふろしき」をかぶせてもらっていたが、母はそうしなかった。

娘に「ふろしき」をかぶせるなどということは母の美意識に反する。

涙が出るほど冷たい風の中を 母も私も無言で歩いた。

今になって思うことだが、母は自分の年齢がほかの母親の親のようであるという現実に苦悩していたのではないだろうか?

そして 道を歩く時にも目が悪い自分がつまずいたりして 笑いものにならぬように気を張っていたのではないだろうか?

私はまだ6歳。母はもう47歳だった。

それまでの幸福な私は遠ざかり 厳しい現実に踏み込んでいく。卒業式はその儀式だった。

母も あの日、これから先を思い悩んでいたのだろう。そんな気がする。

「汝らは 世の光なり」というメッセージ・カードがアルバムの一ページに貼られている。

几帳面な母はこのアルバムを大切にきちんと保存してくれた。

「紫のビロード製」。戦後の貴重品だ。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.10 )
日時: 2021/04/17 10:46 (eonet)
名前: yamaneko

眩暈は嘘のように解消した。それは「もしかすると 鎮痛剤の副作用か?」と思い付き服薬を減らしたからだと思う。

痛みを耐えるか?眩暈を耐えるか?複雑な気がしたけれど「減薬」して 何とか解決している。

昨日はおじさん二人と三人でバイトしたので 特に楽しかった。

一人は大手機械メーカー、もう一人は信用金庫出身である。

私は 学生生活も社会人生活でも 心地よい人間関係とは縁がなかった。

過大評価されて自滅することもあれば 全く評価されないこともあった。

だが このバイト先の男性たちは 何とも言えず軽妙な味があって 不愉快になることがない。

それは みなが高齢者であることが大きな要素だと思うけれど、同じような年齢の子供がすべて「未婚」だということが作用している気がする。

大学院まで卒業しながら「就職浪人」になり やがて「派遣社員」になり半ば引きこもり。

我が家だけでなく どの家庭も子孫ができないという共通の事情があって 暗黙の連帯感を抱かせている気がする。

何より 私が「警戒感」を持たずに働いていることが今までにないことだ。

老後の趣味にしては なかなか味が良いものだ。

こうして この年齢で働けることがどれだけ幸せなことか?改めて丈夫な体に育ててくれた両親、特に母には感謝している。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.11 )
日時: 2021/04/17 16:24 (eonet)
名前: yamaneko

大雨が降り、町長選挙のアナウンスが雨の中で最後のお願いをして回っている。

そうだった!今日は「期日前投票」に行く予定だった。でも だらだら過ごしている。

朔日 予約されていた「二キロの木の芽」をバイトが終わってから摘んだ。

摘んでも、摘んでも二キロが遠い。昨年の記録を観ると昨年は26日に収穫しているから10日も早かった。

まだ成長途中だったらしい。

途中でやめるわけにいかないから「実さんしょう」の新芽もほとんど摘んでようやく仕事が終わった。

嵐のような出来事だが 昨年はけお属して働けなかったから それなりに体力がついてきたらしい。

来年は「一キロだけにしてください」とか「日にちを分けてください」とかの対処が必要か?と思う。

「山椒」には「とげ」がある。実家には「実さんしょう」の木があって 目の悪い母が手探りで収穫し「蕨の佃煮」を焚き上げた。

半世紀前の「こんぶ」はなかなか「高価」だったから 母の「佃煮」は好評だった。

帰宅すると 食事が進んだ。母の料理は本当においしかった。炊飯器で「ピラフ」も作った。

「ピラフ」は都会で食べつけているから感動はしなかったけれど、今振り返ると母は頑張って生きていたのだと思う。

父の思い出を断ち切って 田舎にこもり不自由で気を遣う暮らしに耐えて ようやく自分の家を建てたが それは時代遅れの不自由な家だった。

母は 毎月バスに乗りかえて 墓参りをした。すぐ近くに 私がいるのに親子断絶状態で家を処分したから 母からは私を頼ることはできなかっただろう。

芽は不自由になるばかり。思い出のある土地がそこにあるのに もう自分のものではない。

母の老後は豊かで明るいものだったはずなのだが。

しかし!私は今 その「老後」を生きている。恵まれた生活だったけれど 今の私は何のとりえもない。

お金もない。子供が幸せに生きているでもない。孫もいない。

ただ 母と違うのはまだ夫がいること。

幸せだとは思えないが 孤独に生きているわけでもない。そして 何より健康であることが 母の老後とは違う幸せだと思う。

父が せめてあと10年生きてくれたら母の老後は 確実に幸せだったはずだが。

それも「夢」に過ぎないかもしれない。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.12 )
日時: 2021/04/17 19:22 (eonet)
名前: yamaneko

雨がやんだが 明日の「木の芽」を収穫する気になれなかった。

今日は たくさんの収入だったので 少しは休養すべきか?とも思った。

毎日これだけの収入があれば 面白いだろうが、これはバイトとは比較にならないしんどさだ。

それに バイトでは男性にイラつくことはないけれど 収穫する相手が夫だと不愉快の極みだ。

昨日も何度も気分が悪かった。夫は少し認知症気味かもしれないが。

いつもはほとんど山にはいかないけれど昨日は「すぐに 山に行こう」という。

「役に立たないから 来なくてよろしい」といったけれども よろよろとのぼる。

そして ふらふらと歩き回った挙句「木の葉」を摘み始める。

「木の芽」は先端部分で、毎年出荷しているのに なぜか?理解しない。

「そんな葉っぱで二キロを集められるの?」と聞いても考えは変わらない。

そして 私が一キロ半収穫時点で道駅担当者に電話する。「家内と二人で一キロ半収穫できましたので」とのこと。

手柄を独り占めっていうことでもないけれど 自分は何をした?って言いたい不快感。じっと耐えて 消化した。

わたしが 保育園を卒業する前は 母も私も 毎月デパートまで出かけていた。

母はが洋裁が得意で 毎月私に母てづくりの洋服を着せて デパートの洋服売り場に出かける。

そして 必ず「まあ!素敵なお洋服ですね?」と声を掛けられる。

確かに 母のデザインはモダンだった。でも 私が着ていたのでは「かわいい!」という感じではない。

誉め言葉に工夫が必要だったと思う。それにしても毎月 洋服を店に来るおばさん!と、噂をされていたのだろうと思うとはずかしい。

そのころの母は パーマネントにオーダースーツを着て 革靴、革バックのいでたちで こんな田舎ではモダン・ガールだった。

私の記憶ではそのころが一番幸せな時期だった。父母とともに映画を見に行って電車に忘れられたのも 幸せな記憶の一つだった。

その秋に 父は「転勤」した。隣村の出張所長になった。

11キロ離れているだけなのだが、保育園には今までとは違うバス路線になり、村中から見守られていた今までとは違ってしまった。

保育園での記憶は「お昼寝がきらい」だったり「お弁当忘れ事件」があったり「泣く子を預かる」担当だったりした。

先生方からは かわいがられていたけれど家庭でも愛されていたから 特に問題なく過ごしたし、絵本が読めたので保育園の絵本は楽しめた。

でも 何より楽しかったのは山の中を探検することだった。特に大きな木の根元にある「穴」に入ってみたりするとわくわくした。事故が起きなくて本当に良かったと思う。

ただ!クリスマスの劇をするときに「はずかしい」という気持ちを初めて意識したように思う。

その時は 主役の「マリア様」だったがその後「主役」をすることは一度もなかった。

高校三年の体育祭で、私は文化委員だったから「校旗」を6人で広げて持ち先頭を歩いたことが 本当に光栄なことながら 恥ずかしいと思った記憶だった。

振り返れば 楽しかったことはあったのだけれど それを楽しめない私がいたと思う。

どうしてだったのだろうか?と 思うけれど 今はもっと恥ずかしいと思いながら生きているから。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.13 )
日時: 2021/04/20 17:25 (eonet)
名前: yamaneko

新緑の鮮やかな 山道を運転しながら65年前を思い出していた。

1956年1月15日。私は10歳の「誕生日祝い膳」を前に座った。

母の手つくり会席膳だった。「タイ」を焼く母の姿が印象的だった。

当時は まだ「炭火」で焼く。いぇまのかかった「祝い膳」だった。

そこに20歳になる「お兄ちゃん」が居て叔父夫婦が客として座していた。

この風景は後々の謎ときにつながるのだが、楽しいわけでもなく、窮屈な記憶だけが残っている。

そしてまだ10歳の私は「こんな料理は欲しくないなあ。スパゲッテイだったら 楽しいだろうなあ」と心の中でつぶやいた。

大人びた暮らしの中で 私は「デパート」に行っても「お子様ランチ」を食べさせてはもらえなかった。

一度「お子様ランチ」を希望したけれども 母に「否定された」。

当時の子供の夢は「日の丸の旗」が立っている「お子様ランチ」だった。あの「旗」を抜いて スプーン「スパゲッテイ」や「ピラフ」や「サラダ」を食べたかった。

頭の中で食べたいもの。目の前にあるのは大人びた暗い色をしたお料理。

母の苦労は私の心には届かなかった。

あの時の母の思いを理解したのは 母の死後のこと。

もらわれたのは「お兄ちゃんと私」。そして「お兄ちゃん」は戦争孤児だった。

その日は 何も知らずに「鯛」をいただいたけれど、その2年後には「お兄ちゃん」のことを聞かされた。

そして5年後には「私自身」の事実を知らされた。

成長するごとに まるで意地悪をするかのように 私のというか?我が家の秘密が明らかになっていくのだった。

苦い思いがすると同時に それでも「スパゲッテイ」を思い浮かべる私自身が 子供らしくてかわいいのでは?と思うのだ。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.14 )
日時: 2021/04/20 18:56 (eonet)
名前: yamaneko

10歳の記憶は複雑なものだ。

幼児期の我が家には「お兄ちゃん」がいた。しかし10歳も年上なので ともに遊んだ記憶はない。

しかし 毎朝、毎晩食事をする。4人がきちんと正座して食事するとき「お兄ちゃん」は隣にいた。

小学校に入学するころお兄ちゃんは高校生のはずなのだが。記憶にない。そして 確かめる機会もなく多分お兄ちゃんは亡くなっているだろう。

小学一年の秋に 父母と私は都会に引っ越した。父が公務員をやめたからだ。

退職金をすべて投入して 母は田んぼ一枚を買い取り そこに家を建てた。

ある作家の山荘をモデルに建てたもので、今でいう「ログ・ハウス」だった。

一年間は借家をして その間に父母は大工さんの手伝いをした。

費用を節約するためだったと思う。日焼けして 黒い顔になった母にはモダンな面影は消えていた。

しかし 二人とも充実していたようだ。

二回転校した私は 暮らしの変化に振り回されて 学力が低下した。

2年生はともかく3年になると「男性教師」に恐怖を感じる。

教師はわたしの「人見知りが強い」「授業が分かっているのかどうかわからない」などと 母に告げている。

そいて3年4年5年の3年間は父が自宅療養に入った。「肺結核」だった。

母は 果物、野菜、牛乳などで「ジュース」を作り 父の健康管理をした。

わずか10歳になるかならないかの私もこの父の薬を受け取りに行ったり、買い物にも付き合った。

小さな体で 大きな自転車を押して遠くの市場に買い出しに行く母を助けた。

母が苦労している姿は とてもかわいそうだった。

父は「晩酌」を欠かさなかった。母は父が飲みすぎないように 神経を張り詰めていた。

そこで毎日「一合だけ」のお酒を買いに私は生かされた。これは とても苦しい記憶だった。

酒屋は近くだったが 子供でも毎日一合だけを買うのは おかしいことだったし
お金がないという風でもない。

まるで童話に出てくる「いじめられ子」のような気分だった。

もしかすると 母は私をいじめていたのかもしれない。不幸な人生を不幸にしたのは「あなた」だと。

母は目が悪いし、おばあさんでもあるから 私が助けてあげなくてはいけないという気持ちだけで乗り越えていた。

もしも「お兄ちゃん」が力になっていてくれたら力強いのだが その時は「お兄ちゃん」も母の悩みの種になっていた。

高校をやめたのかどうか?「お兄ちゃん」は田舎に残されて 住み込みで「家具見習い」の修行に出されていたらしい。

2年か?3年して「肺浸潤」のために修行をやめて 新しい家に戻ってきた。

ようやく私も「お兄ちゃん」と、会話するようになった。しかし!「お兄ちゃん」の居場所はなかった。

食事をした記憶がない。誕生日の「会席膳」の時だけしか。

どうしてなのか?「ガラス製造」の工場に「お兄ちゃん」は就職した。

その時は住み込みだった気がする。母と二人で様子を見に行ったが、お兄ちゃんは元気がなく すぐにやめて家に帰ってきた。

何度もそうして 出たり入ったりを繰り返した。母が「お兄ちゃん」には何も言わなかった。それはそうだと思う。

家族なのに 忘れ物をするように「お兄ちゃん」を置いてきぼりにしたのだから。

そうしなければならない事情だったにしても 「お兄ちゃん」は寂しかったに違いない。

本当に「戦後」は苦しい時代だった。

こうしたもやもやの中で 私はどうしたら学校で楽しく過ごせるか?を考えた。

そして 猛烈な「ソフト・ボール」と「ドッジ・ボール」熱中生活がはじまり二年も継続した。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.15 )
日時: 2021/04/21 15:05 (eonet)
名前: yamaneko

私の母は「孟母三遷の教え」を実こうした女性である。

母の思い描く家庭は富裕層であった。

戦後の社会は国民が平等に生きる可能性があると悟って 小学校から大学までが整っている都市に土地を買い求めた。

しかも 小学校と中学校まで5分と離れていない場所である。

ドッジボールとソフトボールに熱中できたのはまさしくこの地の利を得た行動だった。

誰よりも早く登校して「陣取り」をする。ドッジ・ボールに座って クラスメイトが増えるのを待った。

二人になれば ボール投げをして楽しんだ。兄弟と遊ぶ機会はなかったがこの時期は登校を楽しんだ。この学年「皆勤賞」で、通知表を母が保存していた。

だが 今でもソフト・ボールの時の緊張感を忘れられない。

私はおそらく「ルール」を理解できなかったのだと思う。

打てば走る。タッチでアウト。くらいのことはわかっていただろうが。

それでも こうした行動はクラスの中では目立ち始めて 裕福な家庭のおぼっちゃんたちが「教えてあげる」などと言い始める。

数回は教えてくれたけれど そんなもの楽しくもない。すぐに飽きてしまった。

私はこの小学時代にいわゆる教師からのいじめを受けていたように感じる。

そもそも 戦後10年時代の教師は軍国主義教育の中で育っている。

内容のない教育の中で 相手をしかりつけることだけは身についている。

教育は 子供が理解できるように教えることが本来の仕事だ。

だが 教える力の不十分さを 家庭の責任にすり替えていたのではないだろうか?

その証拠に 地元の有力者の子供はかわいがられていた。

ソフトを教えると言い出した男子の家庭は裕福で教育委員などを務めていた。

我が家は 年の離れた娘を育てる家庭であった。家を建てて 暮らしも困難だった。

私の洋服は しばらくはいとこの「おさがり」だったと思う。それでも つぎはぎの母の下着を観た時には 本当に母がかわいそうだった。

暮らしの困難さは確かだった。「お小遣い」についての学習があったとき「子供は毎月50円」と言われた。

帰宅して母にそう伝えるといきなり「うちには そんなお金はない!」と怒鳴られた。

おそらく お金を借りに来た人がいたのだろう。それは 実の父だったり従妹だったり。

母の激しい感情は 常に私に向けられた。その人生を選んだのは 母のはずだが。

そのころの私は事情は知らず、ただ 母の苦労がかわいそうで 怒りが私に向けられることが悲しかった。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.16 )
日時: 2021/04/21 18:06 (eonet)
名前: yamaneko

「お兄ちゃん」のことは 実は今も真相を知らない。

出たり入ったりする暮らしの中で お兄ちゃんはよく「中国の歌」を口ずさんでいた。

そして「子供のころの記憶は懐かしいものなんだ」と 私に話した。

ログ・ハウスには屋根裏部屋があって そこでお兄ちゃんは歌っていた。

私が疑問を感じ始めたのは そのころからだと思う。

それから お兄ちゃんは「熊本」に旅をした。それは「父の法要」ということだった。

でも その時も両親からは何も聞いていなかった。ひそひそ話をかぎつけた。

そののち「熊本」から「お兄ちゃんの妹」が上阪し、我が家の居候になった。

私は何も理由が知らされないまま 変化する環境が大きなストレスになっていった。

ちょうど 5年6年の意地悪な担任の時で ストレスが原因で授業中にお漏らしをするほどだった。

休憩中は元気だが教室に入るのはとても怖かった。うつうつとした毎日が続き、卒業した。

卒業式で「蛍の光」が流れた時 この苦しみからやっと解放されると思うと 涙が流れて仕方がなかった。

「蛍の光」を求めて 苦しい毎日を耐えてきたと感じた。

しかし!現実には何も解決していない。心の暗闇を抱えて 中学に進学した。

家の様子を考えると「バレー・ボール」などの球技をするのはむつかしいと感じた。

体を鍛える時期なので 本当は「中学ではバレーをしたい」と考えていたけれど。

私は「共産党」の若い担任教師のクラスになった。世界史が専門だった。おそらくまだ大学を出たばかりではなかっただろうか?
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.17 )
日時: 2021/04/21 19:31 (eonet)
名前: yamaneko

中学に進学する記念に母が「デスク」「回転いす」「本箱」「蛍光灯・スタンド」などを取りそろえて買ってくれた。

立派なデスクに立派でおしゃれな本箱はうれしいプレゼントだった。

父が現役のころの「所長デスクと回転いす」を連想させるものだった。

「これから10年これで頑張りなさい」と言われて 責任を感じた。

親戚などは「万年筆」や「腕時計」などが送られてきた。

「中学」は義務教育なのにおかしなことだったが 戦前との教育制度が違うので祝福されたのか?もらわれた私の成長を心から祝福してくれたのか?わからない。

父がもしも死ななかったら これららは今も健在だったと思う。本箱はひとり暮らしの時も今も 私とともに年月を重ねた。

中学生活は 希望に向かって 順調にすすぬはずだが、担任の言葉と行動が私のすべてを破壊してしまった。

よくよく「教師」には恵まれない存在のようだった。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.18 )
日時: 2021/04/24 11:35 (eonet)
名前: yamaneko

中学生になるまでの6年間は さんざんな状態が続いた。

父は「公務員は嫌だ!」と言い切って退職したらしいが「民間会社」への「天下り」はなお悪かったようで 短期間に退職してまた「外郭団体」に舞い戻っていた。

「肺結核」になったときはおそらく「復職」していたと思うが「療養休暇」の場合は給料は少ない。

それなのに「お兄ちゃん」はまともな就職ができない。

私はまだ小学生。そういう環境の中でも「居候」や「借金」をねだる人は増えていた。

母のやりくりは苦労が絶えず、私は「牛乳配達」か?「新聞配達」をして家計を助けたいと思うほどだった。

「うちにはそんなお金はない!」と怒鳴られた経験から 私は母に何かを提案するkとは出来なくなっていた。

子供ができることは 家事の手伝いと健康に過ごすことと 迷惑になることをしないというようなことだった。

だが 母の苦労は私の体と精神状態には大きく影響した。

「めばちこ」という吹き出物が絶え間なく出るようになった。成長に必要な「タンパク質」が不足していたからのようだった。

母の健康管理は 素晴らしいものだったと思うが それでも収入に見合う食事では私の成長はさえぎられるようだった。

大好きな母から怒鳴られる経験は 私の精神には影響し、ますます 人見知りが強くなり 気を使いながら暮らすようになった。

友人と散歩をすることはあってもお金を持てないから友人の買い物に付き合うだけだった。

あれは本当につまらないことだった。5円というお金が欲しかった。思い余って ははの「財布」を狙ってけれど 母は「家計簿」をつけているから一円たりとも抜き出せないことはわかっていた。

「秘密」をかぎ分けた私は 思い「石」を抱えているように感じた。

それでも 父の休職中に 庭はヨーロッパの庭のように バラが咲きライラックが咲きスズランの香りが漂う 素敵なガーデンに変化していった。

当時はまだこう下を庭を持つ家は少なかったから 連休ころは門を開けて人を招いた。

電化製品も増えて 6年生になるころの朝食は「トースト&ジュース」となり もうすぐアメリカのような夢の暮らしができると母が喜んだ。

豊かになる希望は わたしも共有するところだったが 相変わらず秘密のなぞは解けなかった。

夏の朝「いちじく」を収穫して 夕方には「ブドウ」を摘み取る。

庭の中にいる限り 私は「幸せ」だった。だが この幸せは大人の幸せで、子供の幸せは違うものだった。

もしも 小学製の間に 私やお兄ちゃんのことが母の口から知らされていたなら 私の人生は変わっていただろう。

よく変わったかどうか?それは疑問だが。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.19 )
日時: 2021/04/24 12:17 (eonet)
名前: yamaneko

不機嫌な表情を多く見ていた時期でも まるで踊るようなうれしさを見せることがあった。

母の故郷から「母の姪親子」が上阪する夏休みだった。

国鉄大阪駅まで迎えに行くと、お互いに抱き合って再会を喜んでいた。

当時は「石炭車」なので 皆の顔が煤だらけなのをお互いに笑って
楽しそうだった。

それから デパートの食堂に案内して「かもなんばん」を食べるのだった。

なぜか?母は このメニューを定番にしていた。「おいしい」というのだが。

それから 別れの日まで「宝塚歌劇」の鑑賞。「清水寺」の参拝。などなど 暑い中を毎日案内して回った。

清水寺の場合は祇園で「かまなべうどん」を食べた。「かきこおり」が追加されたように思う。

暑いからと言っても自動販売機があるわけではない。あの頃は 飲み物だってふんだんに飲めるわけではなかった。

「清水寺」は毎年のことなのだが 私は暑さが嫌だった。基本的に体力不足だったのかもしれない。

数日は こうして母の笑顔が続いて、その後重苦しい不機嫌が続く。

それでも はしゃいでいる母を複雑にうれしいとも思えない私がいた。やがて来る嵐を予想して。

母には6年間共有した「同窓生」がいて この人たちは バラの季節に来訪された。

それはそれは 気の使い方が大変で「何が同窓会なんだよ!」っていう感想を持ったのだが。

母は 着実に「洋食器」を買いそろえていた。モダンな「テイー・カップ」などがそろっていたけれど ついにそれを活用する機会はなかった。

今 残念に思うのは「ブドウだなの下」で家族そろってテーブルを囲み おいしい紅茶を母のお気に入りのカップで飲めなかったことだ。

半世紀を過ぎて色あせたすべての食器は廃棄してしまった。

父が 出張のたびに買い集めた「民芸品」も私はすべて「廃棄」した。

我が家にとって「旅行」は夢の趣味だった。母を「東京」にも「北海道」にも「フランス」や「ハワイ」にも連れて行かなかったことを悔いても悔いても無念に思う。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.20 )
日時: 2021/04/24 12:58 (eonet)
名前: yamaneko

作家の富士 正晴さんは 「子守唄を聞かせるように もらった子だよ!と 教えることが良い。お母さんももらったのだよ」と言われている。

成人して 給料を手にするようになって読んだ雑誌に書かれていた。因みに富士さんももらい子を育てられた。

私の家庭ではどうした方針だったのかはわからないままだし、戦争戦後を通じて家族と親せきやご近所さんは 家族同然だったから たいして深刻な思いはなかったと想像する。

ごく普通に育つと考えたのだろう。

もしかすると別の時代なら 母の思い通りに育ったかもしれないし 別の子供なら こどもらしくやんちゃをして育ったかもしれない。

お兄ちゃんも 私も本当に母に苦労を掛けたのに 期待に沿えなかった。

「生い立ち」の基本がほかのことは違う。それが一番の理由ではないだろうか?

のちに分かったことだが 私は「中国生まれ」だった。お兄ちゃんは日本で生まれて 中国にわたっていたらしい。

なぜお兄ちゃんは妹と別れて中国に行ったのかは わからないままだ。

そもそも 兄と妹として育てられたはずなのに そのように過ごした記憶もない。

むしろ いとこたちが入り混じって父母に甘えて、私とお兄ちゃんは蚊帳の外だった。

私は「家族の愛情」には渇望していた。

ユングなら分析できるかもしれないが 私は小学校6年生になっても「お人形遊び」から卒業できなかった。

紙の箱を使って「家」を作り 理想の家庭を想像して遊んでいた。

ほかにも遊びがあったはずだが 何かをしていても すぐにこの自分の遊びが恋しくなって一人で遊んでいた。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.21 )
日時: 2021/04/24 13:49 (eonet)
名前: yamaneko

母も体調や精神状態は悪くなっていった。

昭和30年代。高度成長に入って 周囲の田んぼはどんどん宅地になった。

目の前に家が建ち始める生き苦しさ。

お隣さんは「日通」の重役。大向さんは「銀行支店長」そのほかにも 日本舞踊を習っている人やら今までお付き合いのなかったソサエテイが一団となって ご近所さんになった。

都会化した近所の中で 我が家は「田舎」のような雰囲気があり それが良かったのだが 母は「コンプレックス」に押しつぶされそうだった。

そして「脈が消える」と言い始めた。おかしなことを言うとは思ったが 私には余裕がない。

放っておいたら「睡眠薬」を飲んでいた。戦後の睡眠薬は死に至る薬なので「一回量」しか処方されない。

二回飲んでいることは わかっているけれど そのほかはどうしていたのかわからない。

それから「針治療」を受けたこともあった。

今なら「精神科」を受診するのも簡単だし「内科」でも「睡眠薬」や「安定剤」を処方していただけるけれど 当時の精神病への理解はうすかった。

体も心もボロボロだったのではないだろうか?今になれば そう思える。

「不整脈」ということも 今になって分かったことである。「悪いながらも丈夫な心臓です」と言われたから 心臓は悪かったのだろう。

70代になって「うつ病」と診断されて毎月受診するようになり「心電図」をとっていただいたことが今になって思い出される。

育児と重なって 受診をやめてしまったけれど。環境が良ければ100歳までも生きられたろうに。

受信するときは 母は嬉しそうだった。旅行でもないのに 楽しみにしたのは内科医が亡くした息子と同年齢だったこと。

田舎の診療所には珍しい医者だった。私の相談にも乗ってくださって 母を失う不安には「普通の人間は120歳まで生きられるんだよ」と慰めてくださった。

私の不調にも「この新聞を読んでご覧」と言われた。「心身症」が記事になっていた。

だから どうすればよいのか?教えてくださったかどうか?忘れた。

問題が多すぎたのか?問題と感じすぎたのかどうか?その後も 苦労は続いた。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.22 )
日時: 2021/04/24 16:41 (eonet)
名前: yamaneko

寒暖差が堪えるのか?のどが痛い。コロナかも?と思うだけでも気力がなえる。

明日のために 収穫したいけれど、どうにも体が動かなくて。甘いものが食べたくなって「草餅」を3個も食べてしまった。

「引揚者」という「差別用語」に出会ったのは成人してからのことだった。

私が学んだ高校も短大も「差別」という言葉さえ知らなかったのか?少なくとも恵まれた環境の人間ばかりだから 人を傷つけることを話題にする必要がなかった。

私は 社会人になって初めて自分が「大陸生まれ」だということを 話題にした。

それは 母が資産を処分して田舎に引きこもり、私はひとり文化住宅を借りて暮らし始めてからのことだ。

住み慣れた家を売るという話は 私にとっては大変な衝撃で、「ここで二人で暮らしたい」といったけれどその時の母の対応はすさまじかった。

「家にはお金がない」と怒鳴った時と同じで すさまじい力があり 私は打ちのめされた。

一言で 決裂し、和たちは自分のすべてを失った。それは 母も同じだった。

私の精神状態は「自由と孤独」を共有した不安定な状態になった。

今まで抑え込んでいた感情が一度に流れ出して そういう話もできるようになったとき その恐ろしさを思い知らされることになる。

「引揚者」という言葉がたちまち広がった。そして「悪評」として定着した。

それまでの私は 少なくとも「資産のある家庭に育った 良い子ちゃん」だったらしい。

それでも若さと世間知らずというのはパワフルなものだ。何を言われているかなど気にも留めずに 演劇も映画も音楽も思う存分に楽しんで過ごした。

2年間は全く母を気にすることもなかったと思う。

「糸の切れた 凧みたいに」と上司に忠告されたが 笑って返していた。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.23 )
日時: 2021/04/24 17:16 (eonet)
名前: yamaneko

振り返れば それまでの私は「母の一言」に従って生きていた。

母の精神状態が 悪くなっているときは私も悪かったに違いない。

母も私も この家に立派な婿養子を迎えて家を継ぐという目標に向かって邁進していたわけだ。

母も私も 崖っぷちで頑張っていた。あと一年ですべてが完成するとこ

「あなたは大学に行くのです」に始まって思い通りの進学校に進み、これは親戚には価値のわからないことで 世間からは高く評価され「縁談」まで舞い込んできたほどだった。

母は 私につけられた「勝ち」に高さに思い上がった。「眼鏡をかけると女の値打ちが下がる」といった時は本当に驚いた。

相手は 有名私学出身の男性で 私はその人はお気に入りだった。とにかく「じゃがいも」のように温かい人だった。

お母さんも苦労人で 私には優しかった。その気持ちを受け止めてくださったのではないだろうか?

しかし 母はお断りした。失礼な断り方だった。

4大はすべて 不合格になり、でも 社会人になる自信はなくて 公立短大に通いだして 私はバイトに誘われた。

自分でお金を稼ぐ体験は楽しみだった。

しかし!私は社会人には慣れないだろうと思えた。やがり 人見知りする。

大手証券会社に行くと スマートな男性集団を観るだけでボーとしてしまう。

家庭教師をすると おもてなしが重荷になる。

そんなこんなで それでもい一学年の最後の春休みh一人で見つけたバイトに通えるようになった。

学生ばかりの大集団だったが 話をしなくても一日過ぎるそのバイトは 面白くはないが 継続した。

3月末。毎日声をかけてくる男子学生が「演奏会に来て!」と言ってチケットを渡してくださった。

毎日お断りしていた私はチケットを観て思わずお礼を言った。うれしかったのだ。

男性も笑顔だった。

演奏会は素晴らしかった。母も誘えばよかったと後悔した。友人も誘わず一人で行ったのにはあ理由がある。

異性との付き合いは初めてのこと。声をかけてくれる男性は 風体からすると不良時見て見えた。

進学校の男性たちはお坊ちゃんだから風体もよい。そこで比較すると どうも不良っぽい。

だから 友人も母も誘えなかった。

だが 大学のブレザー。大学のワッペンを胸に堂々とした姿は素晴らしかった。

私の心に少し「もしかすると?」気持ちが芽生えた時に 父が死んだ。

突然の「死」は 親族を混乱させたし、それを私がカジ取りできなかったことで私たちは すべてを失う羽目になった。

通夜の席で 母が大見栄を切った。

「どんなことがあっても 大学は卒業させて見せる」と。

そんなことを言わなければ 良かったのに。私はその言葉に縛られてしまった。

父の死は衝撃ではあったけれど 混乱する親族を収めることができなかった私自身を情けなく思う。

父の死と同時に 私へのいやがらせが親族の伴侶から始まった。

大黒柱を失うということは 情けないことだと 風呂につかりながら一人で泣いた。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.24 )
日時: 2021/04/25 03:22 (eonet)
名前: yamaneko

小学5年6年のさんざんな経験を何とか乗り切って 中学生になった私の心は相変わらずだったが ある日担任が言った。

「誰にも 言わないから本当のことを書きなさい」と。

課題は「私の家族」というものだった。

「誰にも言わない」という一言が 私をどれだけ「勇気づけただろう。「ああ!これで 重い石を下せる。

私はいっつきに「お兄ちゃん」のことを書き上げた。そして なんという気持ちの軽さ。

少なくとも小学生時代に抱え込んだ重い石が おろせた。

そえだけで 十分だった。誰にも打ち明けられなかったことが まるで蒸発したように感じられて 中学生活を楽しめる気がした。

しかし!中間考査の後 保護者面談があり 私の作文は母に公開された。

「誰にも見せない」という今日二の言葉は「嘘」だった。

この「裏切り」は 母を打ちのめし 私を追い詰めた。

そのことを担任は知らない。

母が受けた衝撃は計り知れないことだったろうし、母が私に課した「制裁」は厳しかった。

「家庭の恥を世間にさらした罪」には「懲罰」が課せられた。

中学時代は「お弁当」持参になる。その事件後の弁当は「おかずなし」で「白米だけ」がアルミ弁当にぎっしりと詰められていた。

それを見て驚いた私は 再後席に座って弁当のふたを立てて かくして食べなくてはならなかった。

それが嫌になり 弁当は持たず、菓子パンを買うようになったけれど 並んで菓子パンを買うことそのものが 寒々しく感じられた。

担任を憎み 母を恨んではいたけれど「勉強しなさい!」と怒鳴られては「予習復習」に専念する毎日だった。

母は その後毎日私の机を点検し「日記」を盗み見るような日が続いた。

そして 書いてあることを話題にするところまで行くと もうどこにも「逃げ場がない」状態だった。

悲惨な中学生に声をかけてくれる「生物教師」がいた。事情を聴かれたのか?

学校内では どこからでも姿を観ては近寄ってきて「お前 元気にしてるか?」と聞いてくださった。

事情を話したかったけれど もう「教師を信頼する」ことはできなかった。

「教師は嘘をつく」ことを経験してしまったから 子悪露を開けなかった。

母の影響もあり「生物」には興味があり、フィールド・ワークも楽しかった。

「生物」はいつも最高点だった。

卒業するまで その先生の「げんきかー?」という声は 行内でも郊外でも私を支えた。

そして 二年三年の担任には恵まれた。

何とかくじけずに登校ができたのは 教師の中に 私を観てくれているといううれしさが感じられたからだ。

あのまま だれも声をかけてくれなければ 私は家を出たかもしれなかった。

母は「飴と鞭」を使い分けて 私を「追い込むこと」に成功したかのように思っただろう。

また 私も高校という問題を乗り越えることができたのは 震えあがるほどの「恐怖」があればこそのことだった。

明らかに間違っていることだけれど 本来は高校進学によって 私の心は癒されるはずだった。

困難を乗り越えることは大切なことで そこで人間は成長する。

私も 「これで 苦しかったことが解決する」と勘違いしていた。やはり バラの花が香るころまでのことだった。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.25 )
日時: 2021/04/25 09:03 (eonet)
名前: yamaneko

結局のところ 私は「実の両親」と「育ての両親」のどちらにも属さず、どちらとも離れられない中途半端な立ち位置で生きる状態だった。

「お兄ちゃん」も同じことで「喪主」と言われてもただの飾り物で居心地が悪そうだったし 私は極度に緊張していた。

母を取り巻く人はたくさんいて 私たちは口も手も出せなかった。

そのころはまだ私の「喪服」は用意されていなかったので葬儀の時は借りたけれど母が「喪服を作らないといけない」と何度も口にした。

娘に「借り物」を着せたことが悔しかったらしい。

当時は「遺体の焼却」には一晩かかっていたので 翌日に「骨拾い」をおこなった。

白木の箱に入った「骨箱」を白い布でくるんで首から下げる。と、胸のあたりに抱くように思える。

父を抱いて思わず悲しみがあふれた。ああ!こんなにも父は重いのだと。

母が抱けばもっと悲しかったであろうから 私が抱いて帰ったのは良かったとも思い、どうしてこんな悲しみを味わうのかとも思いながら嗚咽しないように耐えていた。

毎週の法要が4週続いて連休前。

家族が留守の間に グリー・クラブの学生が聞き合わせに来られたらしい。

大学名を名乗り 丁寧に我が家の様子を聞かれたという。

支店長夫人が対応してくださったらしい。

母には話していなかったことなので 気分が悪かった。そして その二週間後に再来訪された。

バラは咲き スズランもライラックも香りを振りまいている心地よい昼だった。

客もなく 母も外出し、一人二階でくつろいでいた。「ごめんください!」に「はーい!」と答えて 会談を走り下りた。

何かを期待したというわけでもない。

なぜか?そうした。

彼は いつもの姿で門の扉を挟んで立っておられた。少し驚いた。着替えの服はないのかしら?

舞台での姿は 素敵だったがまた同じ服ではどうもなあと、心の中で感じていたが低調なお悔やみの言葉には 涙ぐむ私がいた。

お茶も差し上げず そのままお別れした。

母にどう伝えるか?悩んで過ごした。

達筆の手紙が届いたのは その後すぐだった。見事な文字を観て 私は圧倒された。

私は悪筆だ。返事を書くことはできない。母にはどういえばよいだろうか?

「こんなお便りをいただいた」とだけ伝えて手紙を見せた。

母は無言だった。それで この話は終わったと私は思っていた。

49日を前にする休日。実の兄が来た。
「おばちゃん この家を売って金を貸してくれ!」とのことだった。

私は驚いて あきれた。しかし!母はまた驚きの行動をした。

私の机から「手紙」を出してきて 兄に見せた。そして「こんな人が来てくれないかなあ?」という。

どうしてこうなるんだろう?

相手がどういう人なのか?聞きもしない。お付き合いの話もない。返事を書いたかどうかも聞かない?

しかも!引き出しを勝手に開けて 自分の持ち物のように扱う神経はどうしても理解できない。

兄の言葉は無視できても 母の行動は許せなかった。その場で手紙を奪い取り燃やしてしまった。

学校を続けろと言いながらすぐに結婚話にすり替える母の言葉は信用できなかった。

今まで嘘をつかれた子供だけに これからも嘘でどこまでも操られるような不愉快な気分だった。

その日で 私と母の運命は破綻したように感じている。

もともと 曲芸のように何とかバランスを取りながら保てた関係は これで完全に壊れてしまった。

そして 努力しても母も私も「幸福」にはなれなかった。



   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.26 )
日時: 2021/05/07 20:16 (eonet)
名前: yamaneeko

やれやれ パソコンを「おちゃずけ」にしてしまって いろいろと手当てをしても回復しなかったので 新しいのを買い 夫が使えるようにしてくれた。

もう 大金を使う必要はないと思ったのだが 部屋に引きこもってほしいと考えたのか?強引に 取り寄せた。

この間 母の日記を読み返したり、自分の日記を読み返したりしてみると 思い違いやら記憶違いがあきらかになり、それはそれで うれしいやら悔しいやら いろいろな感情に包まれた。

どちらにしても「過ぎた時間」なので 意味があるとは言えないのだけれど。

たまごっちさんが入院だったり わごんさんもにゅういんされていたりしたことが分かって ほっとした次第。

わたしのからだも がたがたになっていく法な不安はあるけれど どうせいつかは死ぬのだから 今を力いっぱい生きることができれば 幸いと考えるようにしている。

私には 幸いまだ一応は健康な体があり車で行きたいところにも行けるのだから。

さて!バイト明けの疲れをいやしてまた つぶやきを継続することにしようか?
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.27 )
日時: 2021/05/08 13:48 (eonet)
名前: yamaneeko

「ここよりも 広い土地が手に入るからここを売る!一人であんな寂しいところでっ住むのは嫌だから 一緒に来て!」という母の言葉は突然のことった。

その日は 土曜日だったのか?家にいる時だった。デパートから帰宅した母の顔は上気して 久しぶりに「きれいだなあ!」と感じた。そして「毎日 こんな表情で生きてくれたら。」と願う私に とんでもない言葉だった。

私は「ここで二人で暮らそう?」といいかえしたけれどそれはまたあの時のように猛烈な反撃を受けた。

どんなに考えても今は土地を買う時代で、父の資産を担保にしてセカンドハウスを買うべきだった。

その資産を転売して いわゆる「土地ころがし」の全盛期なのだ。

だが 母は足元を見られて 格安で売り払った。

当時の日記には 私んことは書いていない。おそらく母はごかいをしたまま感情に流されたのだと思う。

その後「老人ホームに入りたい」との電話が職場に入ってきたけれど、大金を持っているのにどうして老人ホームなのか?わけのわからにまま 私は恋愛に夢中だった。

2年間は 恋愛に夢中で 母のことは忘れた。
学生時代には 友人とも侍従に付き合えなかったし、異性と喫茶店に行くことは禁じられていたけれど 母の監視からはなれた私は ごく普通の青春を真o喫していた。

恋愛は充実していた、音楽や文学に登山など夢中になることがたくさんあって忙しかった。

私は 母のことや自分の生い立ちを考えると 結婚には及び腰だった。

父の死後すぐに来てくださった男性とならおそらくは上々だったと思うのは 資産があり 学歴もあり母も若くて 夫婦ともに母に育てられる年齢だったからである。

今でも おそらくあの人の場合はうまくすすんだであろうとおもえる。

時代を背景に「グリークラブ」活動はもだんだった。ダーク・ダックスの猛烈人気とかさなっている。

あの家で 彼が練習している姿や 母の笑顔やらを想像するだけでも幸せになるほどだ。

母も私も 彼のコンサートに行っただろうし「第九」を歌う練習もしたことだろう。

父母が建てた家は まさに音響効果が良い建築だった。

幼児期 協会の「パイプ・オルガン」に心震えた時のように 私の家族は美しい音楽に包まれて過ごすことができただろう。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.28 )
日時: 2021/05/09 17:28 (eonet)
名前: yamaneeko

母の「日記」が残されている。

父没後半年間はノートに。二年後の「同窓会」からその後8年の時々のもの。

父を亡くしてからの私と母はほとんど会話をする機会もなかった。

と、いうより私は母の言葉に翻弄される日々だった。

しかし 母が私を頼りにしていたか?それは「さっちゃん」という歌を教えた日の記録。

「ようこが 新しい歌を教えてくれた。朝から晩までその歌を歌って過ごした。」

何気なく教えた歌を歌い続けた母の孤独が伝わって 涙がわいてくる。

抱きしめてあげたかった。お母さんのせいではない「寿命だった」と言ってあげたかった。

でも 私は体も心も凍り付いていたから どうしても母をなぐさめることはできなかった。

今 この年になって 母の孤独の深さを思い知る。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.29 )
日時: 2021/05/09 17:37 (eonet)
名前: yamaneeko

母と別れて3年後。景気はうなぎのぼりで「年末調整」が10万円もあるという。

今までの不幸を詫びて「蓼科」までの旅行に誘った。

母は大喜びで 12月の30日に私の文化住宅にやってきた。

着物姿で父愛用のボストンバックを下げて。

終始 母の機嫌は良好だった。

信州は大雪だったけれど大きなストーブで「白樺」を燃やす山荘の夜は暖かく母は元気に過ごした。

「白樺」に寄生する「きのこ」の鍋を「おいしい!」と言ってたべたり、「このきのこは珍しいですね?」と山荘の主に尋ねた。

翌朝 そのきのこをお土産に下さった。

たぶん ご近所に配って土産話もしたことだろう。

その日の日記は「ようこと二人 楽しかった」と記されていた。

このフレーズがその後も 記録されていて 母の思いがしのばれる。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.30 )
日時: 2021/05/09 18:35 (eonet)
名前: yamaneeko

あの日の不思議。

母は 一人で電車の駅から遠い 私の住居に来た。

そこに来るのは初めてのはず。住所は知らせておいたと思うが どうして場所を知ったのだろうか?

引っ越しの日。私は 母に別れも告げなかった。

世間知らずの娘が 一人暮らしをする。

その不安は絶大だった。

でも!私は 一人暮らしを選んだ。

遠距離通勤は想像するだけでも不可能だった。

それに どこに住むのか?わからない。

どの土地が手に入るのか?すら わからないのだった。

何よりも 家族が手塩にかけた庭を人手に渡すという考えが理解できなかった。

でも それを言葉にできない私がいた。

別れてから 私の給料が蓄えてあり、母は経済に行き詰まったという事情が見えてきた。

父なき後3年余が過ぎていた。

この期間 私は母との生活が安定していると考えていた。

生活費がどれほど必要か?考えてみ見なかった。母がやりくり上手なのは知っていたから。

でも まったく私の給料を使わなかったとは知らなかった。こんなことがあるとは考えもしなかった。

何のために 受験したのか?何のために公務員になったのか?何の意味も感じられない気がした。

私の人生は目標を失った。しかし!いきていなくてはならない。

母を置いて 遠くに行くことはできない。

母も私も 同じ思いで生きていた。

母は 土地を譲ってもらえず家は建てられず 遠縁の物置で二年を過ごした。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.31 )
日時: 2021/05/10 09:30 (eonet)
名前: yamaneeko

昨日から「もみの木は残った」を観る。

明治36年生まれの「山本 周五郎」さんの晩年作品。

母が明治38年生まれだ。山本さんは小学校の先生に「小説家になりなさい」と勧められたという。

母の場合も 小学一年から6年間は同じ担任だったらしい。

眼が不自由な母に「眼鏡を買っていただけるから 幸せなんだよ」と言われたそうな。

読み書きそろばんには秀でていた母は「男松」と呼ばれたらしい。

「まつえ」という名に「男にも負けない」その筆を評価されたのだろう。

「書家」になってもよいのではないか?と思うこともあったけれど それはそれでお金がかかるし、どんな世界にもお金というものが付きまとう。

私は 親戚の皆がやはり間違っていると思う。

自分の子供さえ 育てられない時代に人の子を育てた母は偉かったとほめられこそすれ 非難されるいわれはどこにもない。

私が 母をほめることができればすべては上々だったのだと反省する。

学歴などどうでもよかった。食べさせてもらうだけで 幸福だった。

「おかあさん 偉かったよ!」と心で伝える朝である。

枝がしなるほどに実った「さくらんぼ」を摘み取って 食べながら。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.32 )
日時: 2021/05/11 19:06 (eonet)
名前: yamaneeko

昨日と今日はバイトだった。休日の畑仕事が堪えるのか?どうも体調が悪い。

体の痛みは 鎮痛薬で抑えて ふらつきは風邪薬で何とかする。

でも昨夜も今日の午後も爆睡したところを見ると 疲れているようおもえる。

バイト先までの運転中 私は道路周辺をよく見ながら走る。

「赤松」をみつけたり「五葉松」の木を見つけては「まつぼっくり」を拾う。

昨日は道路の際に美しい花を見つけた。

葉っぱの形から「朴木」だということはわかったけれど その美しい花を見るのは初めてのこと。

帰宅途中に車を止めて 枝を折る。なんと!「つぼみ」も「実」もそろっている。

三本の枝を折り、うきうきと帰宅する。

夫は「朴木ではない」というがネットで確認すると、ばっちりだった。

かぐわしい香りがするので 息子も夫も「このままおいておこう」と言った。

植物に囲まれて育ち、植物とともに生きて今充実を感じる。

母が「ハワイの花やって!楽しみやなあ?」と言いながら「ジンジャー」の球根を玄関横に飢えている姿を思い出した。

そして 夜には母とハワイに旅立つすがたを描きながら眠りについた。

「ようことふたり楽しかった」と母が書き残してくれた思いをあたたかく抱きながら。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.33 )
日時: 2021/05/14 17:45 (eonet)
名前: yamaneeko

「農園を作りたい」のが私の希望だった。

子供時代は「花が良い」と考えたけれど成人してからは 周りが都市化してお花屋さんもたくさんできて 花は珍しくないものになった。

母の「バラを育てる」という決意もあえなく沈没。

あれから半世紀を経て 私は裏山を「山椒と山吹きの森」にすることにたどり着いている。

確実に 収入になり 体の負担も少ない。

残しておけば 息子でも経営できる可能性がある。

そういう構想を抱いて以来「山椒」が次から次に目に入り どんどん苗木ができていく。

明日からは梅雨入りなので 山に植え替える予定。体が元気であってほしい。

また「ミニ盆栽」に興味を持っている。

これもまた母の真似をすることになるのふだが 母は夏の楽しみに「ジオラマ」を作った。

草の種を買って生け花に使う 薄いお盆のような「水盤?」に「農村風景」を作った。

毎年作られるその「ジオラマ」は 懐かしい子供時代の記憶につながって 私は嬉しかった。

私は「森」をテーマに作りたいと思う。

「実生のもみじ苗」をたくさん抜いてきて3本ずつ ポットに植えた。

大きくしないで育てるのは無づかしいだろうが。紅葉が楽しみだ、

「ポプラ」の苗木は「これは大木になる」と言って夫は嫌がったけれど それを小さく育てるのが これからの楽しみだ。

まずは「もみじ苗」をいろいろ集めたいとおもっている。

ゆうチューブで「歴史列伝」があり「東郷平八郎」「乃木希典」などの明治の軍人。

それに「山本五十六」の生き方には心打たれる。

母は「ロシア戦争」開戦の年とともに生まれ 「太平洋戦争終結」とともに 私の母になった。

苦労ばかりの人生だったと思うが こうした「軍人」の生きざまも苦悩と苦労に満ちていると思えた。

そして 何よりあの「徳川家康」は言う。

「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を歩むがごとき」と。

母の苦労は母一人の苦労ではなかった。

人生とはそうしたものだ。と、思えば悲しみも軽くなろう。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.34 )
日時: 2021/05/15 20:22 (eonet)
名前: yamaneeko

「僕の前に 道はない

      僕の後ろに 道はある」

先日来 小学高学年の夏休みに 田舎に絵をかきに行った。

「育ての母」に連れられて「実の母」を訪問した。

当時 私は二人の母がいることを知らなかった。

なぜ 「育ての母」が田舎に私を連れて行ったのか?覚えてはいないけれど「写生」をしたことは記憶している。

前に見えるのは「道」だった。

田舎で一番の高山で、子供はそこには上ってはいけなかった。

だが「道」はあり、ほかに描くものはないように思えた。

私は 画用紙に「道」を描いた。もしも「高村高太郎」の「この詩」を知っていたなら 私はこの道の先を見通すことができたかもしれないと思うこともあったけれど やはり道に先は見えないものなのだ。

教師が賢い人であったなら 私の絵からさまざまな意味をくみ取ってくれただろうが、それは期待できなかった。

「道」の先にはとんでもないことがたくさんあって、できることなら違う道を通ればよかったと思う。

だが 所詮「道は後ろにある」ものだ、

私があゆんだ「道」も「高村高太郎」が歩んだ道もやはり厳しさや悲しみや苦しみを伴い、ほんのわずか光が差すような幸福を感謝する。

そういうものだったろう。

ところで 母が田舎に私を連れて行ったのはなぜなのだろうか?

母の日記からも そのなぞは解けない。

同じように「上高地」から「横尾」に至る道を 青春時代の私は毎年歩いた。

そこは「穂高」に上る登山道に続く「道」だった。

母と別れて自由の身だったからだろうか?なにもかもが美しく楽しかった。

しかし!山から 帰ると同じ毎日が繰り返された。

「道」の向こうは別世界に過ぎなかった。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.35 )
日時: 2021/05/17 19:46 (eonet)
名前: yamaneeko

湿度が高く、道路を走っていて「霧」に包まれた。

対向車のライトが見えるのは接近してからなので 速度をおとして 用心深く走った。

先日見つけた「朴木」は 花が散り寂しい風景になった。

「卯の花」が、ピンクと白い色をたくさん咲いていた。

「卯の花のにおう垣根に ほととぎす はやも来なきて」という唱歌を口ずさみながらまた思い出に包まれたが。

山の上に作られたお寺は「霧の中」で、床の石には靴の跡がべったり残っていた。

いつも見える向かいの山の大きな木も見えない。でも夕方には「霧」が立ち上っていく様子が見えた。

我が家も 冬にはこうした風景に包まれる。冬の「霧」は冷たいが今は「蒸し暑い」。

帰り際に 見つけておいた「実生のあかまつ」を抜いて帰る。

先週は3センチだと思ったが今日はすでに倍の大きさになっていた。

子供の成長を思いだしながら帰宅した。

母も「松の木」を庭に植えていた。訪問客が「松の枝」をくぐれるように考えたのだろう。

何しろ「松」は縁起が良いから。

母の思いをつなげることはできなかったが 同じことをしている自分がいて、子供は親に似るものだと思う。

私は「ミニチュア盆栽」にするつもりだ。

「もみじ」「あかまつ」「ぽぷら」「などいろいろと増えてきて 楽しい。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.36 )
日時: 2021/05/18 19:11 (eonet)
名前: yamaneeko

連日バイトで 今日は「倒れるかも?」と思う一日だった。

蒸し暑いので行き苦しい。昨日の疲れもある。この夏を乗り越えられるだろうか?

朝一に「タウリン」を飲んで気合を入れ、ファミマでおやつを買うが いつものようには「買いたいもの」がなかった。

「ポテトチップス」と「チョコ」を買っていった。

中国で生まれた私を 生まれた時から知っているはずの「お兄ちゃん」に会いたいと思うけれど今は音信不通である。

母が亡くなる直前に広島からみまいにきてくれたのだが その時は我が家は長年の介護と息子とのダブル介護で大混乱。

おもてなしもせず食事をして別れた。

母の死亡を知らせて、遠いところからは来る必要もないと考えたけれど お兄ちゃんこそ大切な人だったと思うようになった。

お兄ちゃんにしても読んでほしかっただろう。

お兄ちゃんは幸せな結婚をして 男児二人を設けたが なぜか?奥さんに逃げられた。

私が娘を生んだすぐ後のことだった。

「家に帰ったら 荷物がなくなっていた」と 母に相談に来ていた。

あのお兄ちゃんのこと。何が起きたのかわからなかった。奥さんはしっかりとした美しい女性で 母も世話になった。

母も私も 驚くばかりで何もできなかった。

そうこうしていると お兄ちゃんは新しい伴侶を得て 広島に引っ越していった。

それからは 贈り物だけでつながっていた。

母をも待ってくれた 新しい夫人も美人で気持ちの良い人柄だった。

もっと早く出会っておけばよかったと後悔したが、仕事を辞めた私には何もできなかった。

この「お兄ちゃん夫婦」と母と私で 毎年旅行をして過ごしたら それなりに楽しかったであろう。

母の寿命を恐れて 家に縛り付けた私は間違っていた。

「お兄ちゃん」もその後、音信不通になってしまった。母だけが私たちをつないでいたのだと痛感した。

私は 長い間悩まされた「親族」とは「絶縁」した。

「絶縁」して 気が軽くなったけれども子供たちは 誰一人頼る相手がいない。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.37 )
日時: 2021/05/19 08:37 (eonet)
名前: yamaneeko

頼る相手といえば 私の場合は 誰一人頼る相手はなかった。

叔父叔母さえ 親しくできる相手はいなかった。これは明らかに 実の親と育ての親がいるという 親族環境が原因だと思う。

だが 母には毎週のように相談相手が来た。主に「お金貸して」ということだった。

断ることができない母の苦しさはいかばかりだったろうか?

雨上がりの庭に出て 草をぬいていると そこに母がいるように感じる。

うつうつとした日々の暮らしの中、ふと自然に触れることが息抜きになっていたに違いない。

京都の「高尾」に「もみじ狩り」のバスツアーに参加した母は「もみじの苗」を持ち帰り その成長を楽しんだ。

当時は「もみじ」は珍しい樹木だったから 秋には紅葉をめでたりした。

こちらにいしょくしていた「もみじ」も昨年切り倒した。

でも今は たくさんの「もみじ苗」を育てている。いまや「もみじなんて」の時代。

それを「もみじ山」にするか「もみじ林」にするか?を楽しみにしている。

小さな「鉢」にどんな「もみじ風景」が再現できるだろうか?
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.38 )
日時: 2021/05/21 10:53 (eonet)
名前: yamaneeko

大雨で裏山はびしょびしょになり 草は勢いよく背を伸ばしている。

これは「草刈り」も大変だなあと思いながら 何度もお茶を飲んだり 食事をして昨日の疲れを回復する。

少し小雨になったので 傘をさして山歩きをする。この目的は「山椒の木」を見つけること。

我が家は 斜面を切り開いて立っている家なので 道は「坂道」だ。ごうごうと雨水が 溝と道路を流れている。

流されないように 気を付けながら平坦な道まで下りる。

そこから隣の山に入るのだが その道には たくさんの「山椒苗」ができている。

先日も10本ばかり抜いて帰ったけれど 目につかなかったのか?新しく発芽したのか すでに3本見つけた。一番小さい気のを抜いて帰り 鉢植えにする。

大きな木は 裏山に穴を掘ってから移植することにした。

外に出ると 空気がおいしい。

いつまでもこうして散歩ができることを願う。そして「山椒と山吹きの森」を作り上げることが目標だ。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.39 )
日時: 2021/05/22 21:03 (eonet)
名前: yamaneeko

嵐のように過ぎ去った時間。「実山椒」の収穫が山を越えた。

この山椒が5万円で売れるのなら、、、と思わず妄想した。

上を向いて枝を引き寄せて 右手で「山椒」を摘むのは 苦しい。

一日目は元気だが、二日目の日曜にはもうバテバテだ。

おまけに「山吹き」は下を向いて収穫する。これがつらい。

一日おきにやればよいと思うのだが
 バイトが入っているから そうならない。

まあ これで収穫が終わったから 少しは休めるのだが。

上を向いていると「枯れ枝」が落ちてくる。よく見れば「朴木」の大木に藤の弦が巻き付いて枝を枯れさせている様子。

その本体は大きな幹で 我が家の方向に傾いている。

これは!もしかすると 倒れるかもしれない。すると 今の「山椒の木」は全滅。

「鹿ネット」は壊滅・しかも、家にも被害が及びそうだ。

さてさて!造園業さんが町内におられるから 見ていただき今のうちに切り倒していただかねば。

ところが こうしたことには夫が絡む。

そして 必ず「後手に回る」ことが明白。

地主さんとのうちあわせなど考えると今から 生き苦しい。

夫は自分の意志でならお金を動かすが私の提案では必ず動かさない。

今回は先にお金を出して 話を切り出すか?それにしても「桜の木」もまいとし切ってほしいと言ってるのに「まだ大丈夫」と言い続けて17年。

もう手に負えない。そういうと機嫌が悪くなる。

我々のような ものぐさ人間はこうした自然の中では暮らせない。

おまけに貧乏人なのになんで10万ものお金を役にも立たない木を切り倒すのに使わねばならないのか?

久しぶりに「一攫千金」を妄想した。

本当になれば この山の大木をみんな切り倒してやる!

貧乏な地主に貧乏な住人。なんという不運だろう?
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.40 )
日時: 2021/05/23 17:25 (eonet)
名前: yamaneeko

今日は快晴!梅雨の晴れ間ということか?

晴れの日は体が軽い。それでも昨日の活躍が堪えているらしく 一時間ほどはうとうとしていた。

6時。山に登って収穫。やっと「済んだ!」ので ご近所さんの「山吹き」と「実山椒」を収穫して 届けるが車がない。

何度も様子を見るので お隣さんが「買い物に行ってるよ!」と教えてくれた。

これほど無関心な近所も少ないかもしれない。

この人は気が小さい人らしく こそこそ隠れて収穫する。

「いただきますよ」とか「しゅうかくするで」とか あつさり声掛けすればよいと思うのだが。

自分の持ち山なのに 若者夫婦に「丸禿」にされてしまった。

公園のようになったけれど 雨が降れば草が生える。そのたびに草刈りをされると やかましい。

休日は特に あちらもこちらも刈ってしまう。地主が違うところまで行っているのでなんとなく心配だ。

我が家は体力のない夫婦なので草ぼうぼうだ。だが ここだけは自分流にやらせていただく。

我が家は「地代」も払っているのだし。

夫も ふらふらして頼りない。明日からの雨に備えて草刈りに行ったけれど 帰宅して入浴するなり ベットに倒れこんでいる。

あれもこれも手に負えないことを抱えてどうしよう?

この頃の妄想は「海上自衛隊 医官」になればよかったということだ。

母の家系には医療従事者が多い。母の一番上の兄が医者。姉は看護婦。昭和になって「薬剤師」も。

母の希望は「薬剤師」か?「医者」だった。私は どちらもむりだろう?と思ったけれど「為せば成る」。

とんでもない進学校は突破した。問題はそれからだ。もともと大学に行っているほど両親は若くない。

しかも 生活は母の強烈な管理のもとにやりくりしていた状態。

「資産運用してくれたら?」と母に相談したけれど、「お父さんが公務員だから」との返事だった。

だから結論的には「十分な経済ならば私は別の人生を選んだ」ということだ。

中学を出て「自衛隊高校」に行けばよかった。「給料」がいただけて しかも勉強できるのだし、頑張れば「防衛医大」をめざすこともできたろう。

15歳から 家にお金を入れて父は退職し、アパートにして 収入を確保すれば父も母も安泰ではないか?

現に斜め向かいの息子さんは「陸上自衛隊」の高校に進んだ。

陸上自衛隊の駐屯地はすぐ近くだったから 通学もできたろう。

問題は戦後15年を経て「自衛隊」は活躍の場を失い、ほとんど「影」の存在だったこと。

「自衛隊」へのアレルギーは強かった。

昔と同じで「貧しい家庭」の子供が入隊する例が多かったと思う。

だが!受験勉強ばかりで体力がやせ衰えた経験からすると「厳しい訓練」を受けることで 体は強くなり、精神も鍛えられるだろう。

学習力はそれに伴ってついてくるに違いない。

「戦争映画」を見て 海軍の制服にあこがれた私なら 向いていたかもしれない。

経済の不安がなくて たくさんの学習や訓練を受けるなら それはそれでよかった気がする。

「妄想の中」で父と母が長寿であることがうれしかった。

だがしかし!である。昨日のニュースでは富士山ふもとで「実弾演習」が行われたという。

その費用はなんと!「10億」だそうな。この国はどこまでも愚かだと思う。

10億の金を「コロナ難民」に支給すればどれだけの命が救われるか?まったく「コロナ無知」の政治家ばかりで情けない。

軍備に金を回せば 国民は貧しくなる。貧しくなると抵抗しなくなる。そこで「戦争が好き」な政治家や金持ちや軍需産業は戦争を始めるのだ。

「妄想」と「現実」の違い。


   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.41 )
日時: 2021/05/24 11:23 (eonet)
名前: yamaneeko

昨日と打って変わって 肌寒い曇り空。

昨夕に慌てて「鹿よけネット」を張ったけれど「鹿」は侵入した。

しかし!被害はなさそうだ。よかった!

少しだけ 補強するために山に登り、あっという間に「虫刺され」で皮膚がはれ上がった。

猛烈なかゆみだ。やはり「アレルギー」は強いようだ。この体に「ワクチン」なんてとんでもない。

ネットを張りながら また昔を振り返っていた。私が小学一年の秋に「転校」した。

父母は家を建てる手伝いに毎日出かける。夕方 私はいとこと二人で 父母のところまで歩いていく。

そして皆で帰宅する。

そして気が付いた。小学時代の初期に私は「学習の習慣」が身についていないのだと。

「宿題」をした記憶がない。今までつききりだった「母」は家を建てることに夢中だったし家計をやりくりすることにも苦労していた。

だから 私は低学年時から授業が理解できなかったのだと気が付いた。

高学年になると 成績の良いクラスメイトの家を回って ともに宿題をするようになった。

その時 今も付き合いのある人が「しかくいかたちに字を書くと上手になるってお父さんが言ってた」というのを聞いてうらやましい気持ちを抱いたのを覚えている。

お父さんに教えてもらうなんて羨ましいと思った。

私は 父からの手ほどきは覚えていない。

「お習字」も「絵画」も「木琴」も誰も、何も言ってはくれなかったように思う。

母が苦労した姿がますます 子供の私のこころをいっぱいにするようになっていた。

さあ!今日もバイトだ。こんな日は休みたいと思うけれど 行けば気が晴れるので やはり行ってきましょう。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.42 )
日時: 2021/05/25 18:45 (eonet)
名前: yamaneeko

昨日と今日のバイトが終わった。

「山椒の収穫」が堪えているから 仕事は軽くこなしておきたいと心掛けた。

でも 今日はまた「足の痛み」に脅かされた。「薬」を飲んでいないことに気が付いて ズボンのポケットから薬を取り出し立ち飲みする。

やはり 痛み止めを飲まずに働くことはできないようだ。

へとへとに疲れて帰り 入浴はやめて シャンプーと洗顔をして お寿司を食べて眠る。

夕方「洗濯物を入れてほしい」と息子に頼む。夏のような日差しなので 外に出る気がしなかった。

夫は 買い物に行き、帰宅したところだった。

昼寝しながら 母と旅行する夢を見た。

「交通公社」を利用すればよかったと反省した。「友の会」に入って 仲間もできたろうし、母の楽しみ「駅弁」の話題も花咲いたであろう。

夏は「北海道」。冬は「ハワイ」気持ちが滅入る二月は「台湾」。

こうして全国の「駅弁」や「外国料理」を楽しむ人生であってもよかった。

「台湾」には養子縁組をした娘の故郷がある。昭和17年に死亡しているがその「命日」はわからない。

一枚の写真が残されているけれど 太平洋戦争中のことなので 母は詳しくは語らなかった。

ただ 私も知らなかったけれど「父の墓」に埋葬されているらしい。

「墓碑」にその名はなかった。

どういう風に死んだのか?

夏のある日、玄関に踏み込むなり真っ青な顔ををして倒れこんだという。

そのまま息を引き取った。当時の村は「土葬」だったが村の人間ではないから父の仕事で信頼する村の長が「火葬」してくれたという話を聞いた。

聞いたのは小学時代で、まさか家の中に「人骨がある」とは知らなかった。

そして その話が事実かどうか?も不明である。

なぜなら 同じ名前の女の子が私の実の姉の一人だから。

何が現実で何が虚像なのか?今もなおわからない。

75年も生きていながら こんなにミステリアスな人間はいるのだろうか?

そして 母は私以上にミステリーにとんだ生涯だったことを想うと、かえすがえすも「幸せ」にしてあげられなかったことが悔やまれる。

母は母である前に「目が不自由な女性」だったのだ。しかも「子供がいない」。

この悲しみを救えるのは私だったのに。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.43 )
日時: 2021/05/26 13:41 (eonet)
名前: yamaneeko

足の痛みと皮膚のかゆみに襲われている。

「痛み止め」と「アレルギー」の薬を飲むたびに眠気がする。

これまではこんなことはなかったのだが、それだけ疲れているということなのか?それとも 弱っているということか?

二年越しのがんとの闘い中の親友に電話したけれど出なかった。

半年間の「抗がん剤治療」の結果が出るということだが。

まさか!余命告知はされていないはず。

ただ 「甲状腺」「乳がん」の手術後「骨転移」もあって、その後に「肝臓がん」と診断されたので もしかすると末期かもしれない。

それでも 転居するなど元気に行動しているから 今までのがん患者とは様子が違う。

精神力だけでは 動けまい。

親友といえども 自分の命にかかわる話は嫌なものだろう。聞くほうも気を使うし。

このまま メールが来るまで放っておこう。

今日は「赤しそ」を植えたかったしりhびりにも行きたかったし「まつぼっくり」も拾いたかった。

でも!今日はただ眠ろう。明日はまたバイトだ。元気になればよいのだが。

西郷輝彦さんは 奥さんとオーストラリアに治療に行かれたそうな。

日本では未承認の治療だという。大丈夫かな?元気そうに見えたし奥様の顔も見られたしよかった。
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.44 )
日時: 2021/05/27 06:18 (eonet)
名前: yamaneeko

雨降り・今日のバイトは不安でいっぱい。

倒れなければよいけれど、昨夜も長時間の睡眠で 食欲もないし、大丈夫だろうか?

とはいえ 休めないから 倒れないように動くほかはないのだが。

家族もみな沈没する中。出かけることにしようか?
   メンテ
Re: 遺言になるkも知れないけれど。 ( No.45 )
日時: 2021/05/27 16:09 (eonet)
名前: yamaneeko

無事に帰還!!夫も回復!!

こんなにうれしいことはない。私が死ぬことも夫が死ぬことも 後の面倒を考えるとできるだけこのタイミングは避けてほしい。

私は「葬式」が嫌いだ。まあ好きな人は少ないだろうが。「葬祭業」であっても なかなか難しいものだろうと考える。

父の時のあわただしさが いつまでもトラウマになっている。

今はコロナの関係で葬式を行わなかったり家族層になっているから もうあのような騒ぎはしなくて済むだろうが。

私は自分の生い立ちの複雑さを解決するために親族とは「絶縁」した。

父方の女性と母方の男性をカップルにして 私の後見人にと母が仕組んだ縁談が結果 より複雑な関係になって長年私を苦しめた。

母の死後一年でその女性が亡くなった。その時決断した。

もともとは「中国」に置いてきぼりにされたかもしれない私だから今更一人になっても同ということはない。

そうして 残る叔母の葬儀を無視することで 完全に「絶縁」した。

私は本当に気持ちが軽くなった。

母がいればこそ保たれたバランスだが死んでしまえば 血のつながりのある兄や姉が 近づく。

思い出を持たない私にとって これは煩わしいことに過ぎない。

それに なぜか?生んだだけの母が皆に好かれて苦労して育てた母は尊敬もされずねぎらいもない。

生みの母親は 無学な女性だったらしい。

文字の読み書きもおぼつかないということだが、私にはわからなかった。

育ての母親は 生みの母と仲良く付き合っていたけれど 時折こうした陰口を漏らした。

日記にはこの姉と母の姉とで信州旅行に出かけたことが記してある。

「ようこにみおくられて」と一文字。

記憶にないことだが。

この矛盾の中で 母は良く生きたものだ。

山崎豊子さんの「大地の子」を読んだときに 私は大いに共感した。

「私は大地の子です」と答える気持ちは私そのものだと思った。



   メンテ

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この度、テーマを『生きること、そうでなければ、死ぬことについて』としまして、皆様の死生観や現実の生活における知恵など、自由な視点からの寄稿をお願い申し上げております。




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