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キリスト教

日時: 2015/04/27 20:18 (yournet)
名前: ガラシャ

キリスト教のかたに質問があるのですが、いらっしゃったらお返事ください。

イエローページ

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Re: キリスト教 ( No.1 )
日時: 2015/05/25 09:33 (au-net)
名前: 片栗粉

キリスト教徒では無いのですが学校で教わり友達が熱心な教徒なので簡単な質問なら答えられると思います。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.2 )
日時: 2015/05/26 00:15 (mesh)
名前: 匿名

キリスト教徒ですよ。キリスト大好きです。
幼子のように素直な気持ちで、新約聖書のキリストの言葉を受け入れ、素直に実行することが大切なことだと思っています。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.3 )
日時: 2015/06/24 21:46 (enabler)
名前: ガラシャ

神に祈るときの言葉が様々ですが、なんといって祈っていますか?

補足…祈った後十字を切るのですか?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.4 )
日時: 2015/06/24 22:09 (mesh)
名前: 匿名

天にましますわれらが父よ
御名があがめられますように
御国が来ますように
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように
私たちに日ごとの糧をきょうもお与えください
私が負いめのある人たちを赦したように
私たちの罪をお赦しください。
私たちを誘惑にあわせず悪からお守りください

アーメン

です

十字はきりません


   メンテ
Re: キリスト教 ( No.5 )
日時: 2015/06/24 22:13 (enabler)
名前: ガラシャ

ありがとうございます。これからも色々教えて頂けますか?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.6 )
日時: 2015/06/24 23:05 (mesh)
名前: 匿名

私で役立てるようならぜひ。

最初の3年くらいはとにかく聖書を繰り返し読み、頭に叩き込むといいようですよ。幼心の状態で御言葉を受けとめていくと自分の中にすっと入っていく感覚がありました。
もっとも大切なのは知行合一というか、実践だと思ってます。

知り合いの日本基督教団のクリスチャンは読書家で、6〜7冊以上の聖書を手元に持っていました。原書も手にしてました。
さすがにそこまでは大変でしょうけど…訳がそれぞれ違うようなので
ゆくゆくは数冊を読み比べをしてみるというのもいいと思います。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.7 )
日時: 2015/06/24 23:39 (enabler)
名前: ガラシャ

中学2年生です。聖書ですか。一応自分のものは持っています。繰り返し読んでみようと思います。また、よろしくお願いします。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.8 )
日時: 2015/06/24 23:57 (enabler)
名前: ガラシャ

質問が三つあります。

@朝や夜の祈りの言葉を教えてください

A礼拝に行かないのは、信仰心が足りないということですか?

B洗礼名というのは、誰がどのように決めるのでしょうか。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.9 )
日時: 2015/06/25 00:01 (dip0)
名前: きき

BBN聖書学院ですと、オンラインで無料で聖書の勉強ができますよ。
聖書と福音というサイト(ラジオ関西)も
毎週メッセージを更新していて、わかりやすく楽しいメッセージなので
おすすめです。

主の祈りはいいですね^^
教会では主の祈り、そして使徒信条を読み上げることもありますね。

十字を切るのはカトリックの方などですね。

聖書を一度は全部読まれるのもおすすめです。
オススメは、新約は福音書、ローマ書、コリント1、2、ガラテヤ、エペソ、ヤコブ、です。
旧約は、律法書や歴史書などは難しいかもしれませんが。。
創世記、出エジプト記、詩篇、箴言、伝道の書、イザヤ書はオススメです。

聖書の通読表なども、ネットで印刷できるものもあります。
聖書通読のススメ のサイトです。
biblestyle.com

1年で、旧約と新約を読み切るというのもありますし
旧約を一回、新約を2回読み切るというのもあります。
biblestyle.com/planner.html

聖書は、教会では新共同訳、新改訳などがよく使われますね。
口語訳も読みやすいと思います。
(私は新改訳と口語訳と、ルター訳をもっています)

牧師さんや神学生、また聖書が好きな方ですと
ギリシャ語の原語聖書と比べる方や
キングジェームス訳(英語)を読みこなす方もいますね。
手に入りにくいですが、詳訳聖書もいいと言われてますね。
   メンテ
No.8に対する返信 ( No.10 )
日時: 2015/06/25 00:25 (dip0)
名前: きき

> 質問が三つあります。
>
> @朝や夜の祈りの言葉を教えてください
主の祈りを基本にあとは、聖霊の助けによって
信仰が成長するようにいのりますね。

霊的に成長すること(神の愛と聖霊の助けによる、
人格的な成長)も大切ですね。
霊の実については、
ガラテヤ 5章22節から23節にあります。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。

自分の言葉で自由にお祈りしていいのですよ^^
親愛なる神様とお話しする感じでいいのです。

参考までに。。
長崎の教会のサイトで<こんな時にどう祈ったらいいの?>というページがあります。
www.being-nagasaki.jp/kyoukai-gennki/inori.htm#asa

最後に
イエス様のお名前(御名)によって祈ります、アーメンで
結びます。

> A礼拝に行かないのは、信仰心が足りないということですか?
礼拝は、神様を賛美するためにありますよね。
そして信徒同志励まし合い、愛を示すということもできます。

行かないからといって信仰心がたりないというのではなくて、
行くことが可能であれば行った方がいいでしょう。
ただ、教会によっては。。礼拝が絶対的になっている
律法主義的なところもありますね。

私は
第一に 神様との関係(たての関係)聖霊による信仰の成長 信仰(信頼関係)
第二に 家族や身の回りの人の関係(社会との横の関係)    
第三に 教会と、信徒同志の関係 教会での奉仕など
(信徒同志の横の関係)ですね^^

これが、第一に神様の関係でなくて、教会(組織)になってしまうと、おかしくなってしまうことがあります。
主に信仰をもって、信頼関係を育てるのと、ただ熱心に宗教をするのはちがいます。

夫婦ともに信徒である場合や、配偶者、親が理解がある場合は、礼拝に全て参加することも可能ですが。。毎週はこれないという方もいるでしょう。
たとえば、滅多にない休みに家族でお出かけをする、親族(親)に月1回など、
定期的に会う場合、誕生日やお祝い事がある場合は、当然ながら。。
そちらを優先して礼拝はお休みすることもあります。

第一テモテ 5章8節に
<もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです>
とあります^^

なにがなんでも礼拝に参加しないと不信仰ではありません。
本人や家族の病気や障害、または家族の大きな反対で、礼拝には定期的に
参加できない方もいます。
教会の人間関係で傷つかれて。。信仰は保ちつつも、教会には通ってない方もいます。

通常の教会でも、日曜礼拝以外に平日に信徒さんの家で集まって、時に牧師さんを呼んで聖書研究をすることもあります。
日曜の礼拝にこれなくても、2〜3人であつまりあって、ともに祈ったり賛美できれば。。それは喜ばしいことです。

> B洗礼名というのは、誰がどのように決めるのでしょうか。

プロテスタントにはないですね。

カトリックなどであるのでしょうが。。
成人している場合は、本人の希望などを考慮してつけられるのかもしれませんね。

ガラシャさんはどちらかというと、カトリックなどに関心があるのか、カトリック系の学校に通っているのでしょうか?

聖書を一人で読むだけではどうしても、
わからないこともあるので、教会に行かれるか
教会のサイトなどを見るのもいいですよ。

聖書に関する質問の答え、 ゴットクエスチョン日本語版も
おすすめです。
良い知らせ(福音)、重要な質問
よく聞かれる質問、イエスについて、教会についてなど
いろいろあるので、よかったらみてくださいね^^

www.gotquestions.org/Japanese/
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.11 )
日時: 2015/06/26 06:19 (enabler)
名前: ガラシャ

ありがとうございます。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.12 )
日時: 2015/06/26 13:54 (spmode)
名前: 匿名

細川ガラシャかな?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.13 )
日時: 2015/06/26 19:29 (enabler)
名前: ガラシャ

細川ガラシャを尊敬しているので、ガラシャという名前を使わせていただきました。匿名さんはクリスチャンなんですか?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.14 )
日時: 2015/06/27 08:02 (spmode)
名前: ゆい

キリスト教の祈りには色々ありますよ。
匿名さんが書いていたのは主の祈りと
言って最も基本的なお祈りですね。
匿名さんが書いていたのは現代文版かなぁ
私は文語版を使っていますよ。

主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を
今日も与えたまえ
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく
我らの罪をも赦したまえ
我を試みに会わせず
悪より救い出したまえ
アーメンです。
他に有名なお祈りはカトリックには
ロザリオの祈りと言われるものがあります。



   メンテ
Re: キリスト教 ( No.15 )
日時: 2015/06/27 13:37 (enabler)
名前: ガラシャ

ゆいさん、ありがとうございます。ロザリオの祈りとはどういうものなんでしょうか?

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.16 )
日時: 2015/06/27 13:41 (enabler)
名前: ガラシャ

ゆいさん、ありがとうございます。ロザリオの祈りとはどういうものなんでしょうか?
質問です。私の家はキリスト教ではありません。そして、私は教会に行っていません。いつか洗礼を受けたいと思っているのですが、親の同意がないと洗礼を受けられないんですか?洗礼名は誰がつけるのでしょうか。自分では決められないんですか。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.17 )
日時: 2015/06/27 17:48 (dip0)
名前: きき

祈りはいろいろありますね。

聖書の詩篇なども、祈りとして用いることができると思いますよ。

聖書を読む前に主の祈りをして、聖書の言葉の理解を願うのもいいです。
黙読もいいですが、詩篇など、声に出して読むこともオススメです。
教会でも、その日の聖書箇所を皆で読むこともよくありますからね。^^

私はニーバーの平安の祈り、 清澄の祈りもすきです。
<神よ 変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。>

ご家族はクリスチャンではないのですね。
未成年の場合、ご家族に相談のうえ洗礼を受ける方がよろしいと思います。
洗礼を受けるには、通常、教会に通うことが必要です。

神様への(存在や権威への)信仰をもっていたといても、神様と共に
生きるためには、基礎的な聖書の知識もいれなければいけません。
教会にいかれて、牧師さんや神父さん洗礼の準備のための聖書勉強をする
必要があります。
プロテスタントでは、教会によりますが3〜6ヶ月です。
(聖書の教え、神、イエス、聖霊について、教会やクリスチャン生活について、学ぶと思われます)
カトリックでは、1年〜くらいかかるということです。
(プロテスタントと違い、礼典、儀式などを重んじるので、聖書の教え以外に
覚えることが多いのでしょう。)

洗礼名ということは、カトリックの教会で洗礼を受けられたいということでしょうか。
まずは、所属教会を決める必要があるので、気になる教会に2〜5箇所
礼拝に参加されてみて、牧師、神父、信徒さんの雰囲気もみられるといいでしょう。

私も、長老派、バプテスト派、福音(自由福音)の教会を訪れてみた結果
自由福音系の教会に通っています。
同じ<派>であっても、教会によって。。そして牧師さんや信徒さんの
雰囲気もかなり違います。

信徒数も30人以下のところもあれば、50〜100人の
ところもありますし、信徒さんも年配の方多いところや、子供や若い方もいる教会もあります。

カトリックなどにおいての洗礼名にかんしては、おそらく自分の希望も考慮されると思います。

参考までにカトリック、聖公会、プロテスタントの違いについて
www.geocities.jp/todo_1091/bible/night-tale/008.htm

分かりやすく言うと。。
カトリックの権威の順番は   神>教会>聖書、聖伝>信者
プロテスタントの権威の順番は 神>聖書>教会(信者の集まり)
教会(組織)の権威が大きいのがカトリック、聖書(神の教え)が
上と考えるのがプロテスタントです。

カトリック、プロテスタント両方の教会を訪れてみてください。^^
私は、神>聖書>教会という考えに共感するので、プロテスタントの
教会に所属しています。

細川ガラシャさんを尊敬しているのですね。
信仰が厚く、非常に美しく聡明な方だったようですね。
最初は夫である、細川忠興に(キリスト教徒への)ひどい迫害をうけて
離婚も考えたようですがオルガンティーノ宣教師に思いとどまるようにいわれ、
最後には、人質になるのではなくて死、介錯されることを
(自害は禁じられてたので)受け入れたということですね。

マザーテレサさんも有名ですが、戦前に日本でも貧民を救済していたひとも
いました。 <賀川豊彦さん>は、ご存知でしょうか?
戦前日本の労働運動、農民運動、生活協同組合運動、JA共済の生みの親そして
貧民街で、救済活動をされていました。

同志社大学を創られた新島襄、八重さん、作家の三浦綾子さん、医者の日野原重明さんなども、有名ですね。^^

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.18 )
日時: 2015/06/29 09:13 (spmode)
名前: ゆい

仕事等色々忙しくて
返信遅れて申し訳ありません…
どの宗教を信仰するかは個人の意思ですので
洗礼はご家族の許可がなくても受けられますが
他の方も書かれているように
未成年様の場合は
ご家族に相談してからがいいと思います。

ご家庭がキリスト教と違う宗教でも
ご自身が本気で信仰したいと思う気持ちが
あれば勿論洗礼を受けれます。
教会により色々違うかもしれませんが
洗礼名は神父様につけてもらう事も
ご自身で決める事も可能です。

ロザリオの祈りと言うのはカトリック教会
での一般的なお祈りで
ロザリオという仏教ではお数珠みたいな
お祈りの道具を手に取り
イエス・キリスト様のお母様である
聖母マリア様を通じてイエス様や
神様にお祈りをすることですよ。

無理やり勧誘されたりする事はないので
一度最寄りの教会に行かれてはいかがですか?
礼拝や観覧は信者さんでなくても
どなたでもご自由に参加できますよ。
詳しくは教会ホームページにも
載っていますよ。
私も最初はホームページで最寄りの教会を探し
日曜日礼拝や教会観覧(見学)に行きましたよ♪






   メンテ
Re: キリスト教 ( No.19 )
日時: 2015/06/29 09:41 (spmode)
名前: ゆい

連続レス申し訳ございません…
先の方も書いていましたが
細川ガラシャさんを尊敬されているのですね。
キリスト教には宗教差別を無くそうとした方
貧民の救済活動をした方
色々偉大な方がおられるから
憧れや尊敬がありますよね!
知ってますか?あの悲惨な事件により
お亡くなりになられたジャーナリストの
後藤さんもキリスト教の方だったそうです…
彼の著者を読み初めて知りましたが
彼も貧困の国の救済活動をしていたんだ
そうです…
他にも先の方も書いてるかの有名な
マザーテレサや
歴史上の人物にはスレ主様の尊敬する
細川ガラシャや他には天草四郎も
活躍していますね。
私も尊敬する人がいてキリスト教に興味を
持ったんですよ
知らないかもしれませんが
私はマキシミリアノ・コルベと言う
神父様を尊敬しています。






   メンテ
Re: キリスト教 ( No.20 )
日時: 2015/06/29 16:10 (dip0)
名前: きき

コルベ神父ですね^^
強制収容所で、ほかの人の身代わりに
刑罰をうけることを選ばれた方ですね。

キング牧師の非暴力、ボーンヘッファー牧師の積極的暴力への抵抗
いろいろな抵抗の仕方がありますが、人間の尊厳、人への愛、神の教えを守るために
命を惜しまなかった方たちは。。尊敬できますね。

上智大学の名誉教授で、司祭でもある、アルフォンスデーケン氏なども
家族もろともナチに反対していということで、尊敬しています。

デーケン氏は死生学、(死の準備教育または、ホスピスなど
ターミナルケアについての専門家)の専門ですが、
かれの著書などもオススメですよ。
<よく生きよく笑いよき死と出会う>
など、一般の図書館にもあるかとおもわれます。

聖書を読むこと、祈ること(できれば礼拝に参加されること)ももちろん、
大切なことですが、たとえば、渡辺和子氏、アルフォンスデーケン氏
三浦綾子氏など、クリスチャンの書物を読まれるのもオススメです。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.21 )
日時: 2015/06/29 19:38 (spmode)
名前: ゆい

ききさん
はいっそうです(^-^)
コルベ神父様は
戦時中
アウシュビッツ収容所で家族持ちの
死刑を求められた収容所のために身代わりを
申し出て殉教された尊いお方です…
私の尊敬と憧れの人物です!

スレ主様
上記の方も書いてますが
聖書やお祈りの本も大切ですが
聖人・聖女関係の書物も素敵ですよ♪







   メンテ
Re: キリスト教 ( No.22 )
日時: 2015/06/30 07:11 (enabler)
名前: ガラシャ

ゆいさん、ききさん、貴重なお時間を使って教えてくださり、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.23 )
日時: 2015/06/30 21:38 (enabler)
名前: ガラシャ

皆さんは、聖フランシスコの祈り?(平和の祈り)を唱えたりしますか?
他にも普段祈っている言葉があったら、教えてください。お願いします。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.24 )
日時: 2015/06/30 23:57 (dip0)
名前: きき

フランシスコの祈りもいいですね。ただ、<唱える>というわけではないですね。
ニーバーの平安の祈りにしても、お祈りとして唱えるとかそういうのではなくて
心に留めておく、好きな祈り(言葉)ですね。

しかし第一に、神様の言葉である聖書をよむこと(神様のご意思、お考えを
知ること。)が大事です。
聖書がまず、主要な霊的食物ですからね。^^

祈りの言葉は、そこまでこだわらなくていいのですよ。

もちろん、主の祈りは、教会で皆で祈るときだけでなくて、家で祈るとき
デボーション(黙想、聖書の学び)の前に用いてもいいと思います。

聖書通読をして、それについて黙想しつつ、反省したり、気付かされたてんについて、思い巡らすのもいいでしょう。
小さく声に出して祈っても構いませんし、黙って祈っても構いません。

以前もご紹介しましたが
福音書、ローマ書、コリント1、2、エペソ、ガラテヤは特にお勧めです。
(ヤコブ、ヘブルもいいですけどね)
祈る際に、聖書箇所を引用することもできますよ。

コリント第一 13章4〜7
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

たとえば、こういう箇所を読んで、
主よ、私はまだ愛において、未熟であり、身勝手な部分がたくさんあります。
自力(肉の努力)では不可能ですが、マルコ10章27節にあるように
<人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである> 
あなたの恵みと聖霊の助けにより、すこしずつ愛において成長できることを
信じます。。
引き続きあなたのご加護があることに感謝しつつ。。
主イエスの尊いみなをとおして、お祈りします。 アーメン

苦難のときには
コリント第二4章8〜9節
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

とあるように、自分の視点から、自分の限られた経験や知識からすると
行き詰まっているように見えますが、主の支えがあり決して見捨てられないことを信じ、感謝します。。
抱えきれない重荷は、あなたに委ねます。
私がすべきこと、できることに集中できますように。。
正しい判断ができますようにお導きください。。
主のお名前をとおしてお祈りします。。

という感じで。。いいのです。^^

聖書箇所を引用するというのも。プロテスタン系のクリスチャンや
牧師さんがよく用いる祈り方(自由祈祷)かもしれませんね。

イエス様も、悪魔の試みにあわれた時に、聖書の言葉
(旧約聖書のみ言葉)を用いて対応されましたよね^^
ヘブルの4章12節にもあるように
神の言葉はいきていて、力がある。。とありますからね。

聖書をもっているということですので、まずは気軽な
新約聖書と、旧約は創世記からすこしずつ読んでみてくださいね。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.25 )
日時: 2015/07/01 07:05 (spmode)
名前: ゆい

先の方々が書かれていた宗派(カトリック・プロテスタント)などの違いによって
平和の願いをするところもしないところも
あるのではないかと思います…
私の所属しているカトリック教会では
平和の日と言うのがあります。
広島や長崎に原爆が落とされた日や
終戦記念日などです…
その日には教会のミサで神父様と
平和の願いを唱えたり、
各自自宅で唱える方々もいます。

まだ教会に行かれた事がないとの事ですが
まずは一度勇気を出して
教会に行かれて見てはいかがですか?
いずれ洗礼を受けたいのでしたら
教会ってどんなものなのか
体験してみるのも良いですよ。
先の方が方々も少し書かれていますが
同じキリスト教でも宗派も色々ありますので
最寄りの教会をネットで知らべて
いくつか見学に行って見て
自分の雰囲気にあった教会に
時々通って見てはいかがでしょうか?





   メンテ
Re: キリスト教 ( No.26 )
日時: 2015/07/01 14:40 (dip0)
名前: きき

祈りに関して
神への賛美の祈り、感謝の祈りはもちろん
第一にすることです。

そして自分の霊的成長について祈ることももちろんいいです。
家族や友人の健康について祈ることも構いません。

<とりなしの祈り>というのもあります^^
家族や友人、信徒仲間について祈ることもあります。
病気、経済的な問題、精神的な問題について、癒しと
主の支えを祈ります。

教会によって違うのですが 福音教会でも
教会員で病気のひとがいれば、病気の癒し、速やかな回復を祈ることもあります。
積極的に、牧師や他の信徒仲間がその人の方に手を置いたり
して祈るときもあります。

戦争や痛ましい事件があれば、それに対して牧師が祈ったり、
(その日担当の)兄弟姉妹などが祈ることもあります。
日曜の礼拝以外に、教会ごとに聖書勉強会、そして祈祷会(祈りの会)のようなものが
あります。
祈祷会というのも、いろいろなスタイルがあるようです。
(だいたい夜がおおいので、わたしは参加しないですが)
おそらく、様々なとりなしの祈りが中心かと思います。

しかし、最終的には、マラナタ 主よ来たりませ。。
主の再臨によって、神様の愛ある支配がくることが、
完全な解決になるといえるでしょう。
主の祈りにもありますよね^^<主の御国が来ますように> 

聖歌もいろいろあります。。伝統的なものから、若者が多いところや、
、または聖霊派や、超教派などではヒルソング系のものを歌うこともありますね。

伝統的な教会ではオルガンがありますが、最近では(わたしの通う教会も)
普通の建物で賛美することも多いので、ギターや電子ピアノなどで伴奏する
こともあります。 
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.27 )
日時: 2015/07/01 18:41 (enabler)
名前: ガラシャ

ゆいさんへ
見学ですね。一度も行ったことのない場所なので、勇気をだして、今度行ってみます。

ききさんへ
他の人のための祈りですね。自分の大切な人はもちろん、他の国の苦しんでいる人々にも祈ってみます。

私はロザリオのようなものが欲しいのですが、どこで買ったりもらえたりするんですか。
補足…ずっと行っていませんでしたが、出来れば私はカトリックに
入りたいと思っています。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.28 )
日時: 2015/07/01 22:30 (dip0)
名前: きき

ロザリオは、ネットでもキリスト教の用品を販売しているところで
購入できますよ。

カトリックであれば、 
ドンボスコ社 女子パウロ会が、信頼できるのではないでしょうか。

500円〜1000円くらいの
手軽なアクセサリーのようなタイプのものもありますし、
3000〜5000円の、ものもありますね。

祈りの際に、補助的につかうもののようですね。
せせらぎ というサイトにも詳しくありますが。
seseragi-sc.jp/xe/3500

祈りと生活の項目には、毎日の聖句や
祈りのヒント(デボーション、黙想のヒント)もあるので
参考にされるのもいいですね。^^

ロザリオの祈り方、四つの神秘についての項目もよまれてみてください。
正直、教会にいかれてなかったり、くわしく聖書解釈を聞いてないうちは
よくわからないかもしれません。
最寄りの教会にて、神父さんなどに相談されてみてください。

祈ってから福音書を、定期的に読むことでも、聖霊の助けにより
理解が深まるとおもいます。

キリスト教系の本屋、雑貨を
販売しているところが近くにあると実際にみられるのでいいですね。

東京であれば、教文館などは品数がおおいですよ。^^
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.29 )
日時: 2015/07/02 06:36 (enabler)
名前: ガラシャ

ありがとうございます。ネットでも買えるんですね。知りませんでした。またわからないことがあったら教えてください。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.30 )
日時: 2015/07/02 10:24 (ucom)
名前: ZZ

クリスチャンですが無神論者です。
なりたくてなったわけではないので。
全ての宗教が好きじゃないですね。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.31 )
日時: 2015/07/02 14:06 (dip0)
名前: きき

ZZさん
幼児洗礼をうけたのでしょうか?

通常15歳くらいなどになったら
再度信仰告白というようなものがあると思いますが。

キリストの救いを信じていない、神様の存在も信じてないのであれば。。
クリスチャンではないですね。
洗礼を受ける=クリスチャンになるではなくて、
洗礼の意思表明のさいに、洗礼を受ける。。ですからね。

こちらで、他の宗教とキリスト教の違いについての一つの
答えがあるのですが 抜粋しますね
私も、また多くのクリスチャンも、<宗教>をしているという
感覚はありません。

信仰をもっている、神との信頼関係のうちに、
人生を歩んでいるという感じです。。

www.ne.jp/asahi/feg-kani.c.c/f.h.l/q&a/q&a21.htm

 宗教は山登りにたとえられます。最初に山に登った人(開祖)がいて、
その人が「この道を行けば頂上(救い)に着く」と教え、やがて多くの人(信者)が同じ道を登るようになるのが宗教というわけです。日本では、「どの道(宗教)で登っても、同じ(または似たような)救いの頂上に着くのだから、どの宗教でも同じ」という考え方があります。

 しかし、キリストの救いは、山に登るのではなく、天に上ることです。
全宇宙を創造された天の神の国に入ることです。これはだれにもできません。人間は天まで届く階段をつくれないからです。キリストが、天から地上に延ばされ、地上から天に上れることが確認された、天まで届く唯一の階段です。
天から地に人となって降りてこられたキリストが、永遠のいのちとからだを持つ人として、再び昇天されたからです。キリストは天に上る道を教えられたのではありません。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネの福音書14章6節)と言われたキリストこそ、天に上る道そのものなのです。
神に逆らう人間を、罪と死と滅びの谷底から救い上げ、昇天されたご自分と同じ、永遠のいのちと体を持つ人間に造り変えて、天国まで引き上げてくださる救い主は、
キリストだけです。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.32 )
日時: 2015/07/02 20:54 (enabler)
名前: ガラシャ

zzさんへ
zzさんは、幼いころに洗礼を受けられたということですか。もしよろしければ今の気持ちなどを聞かせて頂けると嬉しいのですが…

ききさんへ
質問です。再度信仰告白とは何をするのですか。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.33 )
日時: 2015/07/03 00:14 (dip0)
名前: きき

堅信礼(けんしんれい)というものがあります。
カトリック教会では受洗後一定期間のあと、 (幼児洗礼の場合は7歳以上) ,
うけるものです。

プロテスタント教会では、幼児洗礼を受けたひと(ルター派の教会など
一部のプロテスタントでも、幼児洗礼があります)が、自己の信仰告白をして
教会の正会員となる儀式です。
これは、だいたい15歳〜頃に行われます。

幼児洗礼をせずに、15歳以上など。。大人になったひとがおこなうのは、
洗礼、信仰告白式です。これらは所属教会で行われます。

なかには親がクリスチャンで、なんとなく流されて?洗礼を受けてしまった人もいるかもしれません。
通常は、親がクリスチャンでも(片親、両親)15〜20歳など、
ある程度信仰が定まってから受けることがおおいですが。。。

または、20歳以上で自分の意思でクリスチャンになったものの、
おもっていたものと、キリスト教(聖書の教え、神様のお考え)の信仰が
違っていたと感じて。。信仰が弱くなる、失うこともあるでしょう。

教会(信徒)は、キリストの花嫁という言い方もあります。
夫婦が、若い方だとわかりにくいかもしれませんが

結婚しても、価値観の相違などですぐ別れる人もいますよね。
ただ、多くの人はよほどのことがない限り、離婚はしないですが。。
神への信仰につまずいてしまうというのは、
結婚(配偶者)への期待どうように、神様(信仰生活)への自分の期待が。。
違ったということも多くあるでしょう。

聖書では、信仰(信頼)に関して、夫婦関係、親子関係にたとえることが
よくあります。

キリスト教に限らずある宗教に入る人、信仰に入る人の中には
自分が信仰によって、<楽になること><救い>を期待して入ってくる人がいます。
もちろん、きっかけとして、苦しみや疑問を解決するためであっても
構わないのですが。。そこから、神様への依存だけでなくて、愛と信頼が
育つかどうかは、個人差があります。

キリスト教読み物サイトに面白い記事があります。^^
わら的宗教、アヘン的宗教、命のパン的宗教
www2.biglobe.ne.jp/remnant/081wara.htm

クリスチャンはたしかに、神様により頼みはしますが。。
利己的な依存のままでは、うまくいきません。
夫婦関係(恋人関係)がうまくいくためには、個人が自立していることが
必要ですが、神様との関係でも。。神様に依り頼むと同時に、
聖霊の助けとともに、自分の果たすべき分(成長すること)を果たすという
責任、課題もあります^^

ヘブル12章5〜12 (神のクリスチャンへの訓練の箇所も
よまれてみてください)

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.34 )
日時: 2015/07/03 11:59 (ucom)
名前: ZZ

>洗礼を受ける=クリスチャンになるではなくて、
>洗礼の意思表明のさいに、洗礼を受ける。。ですからね。

それはあなたの理屈です。

あと、色々書いてくれたみたいですがアホらしくて見る気もないので
書くだけ無駄ですよ。
ここで能書きたれるよりも現実社会で困った人でも助けてやってくださいな。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.35 )
日時: 2015/07/03 13:58 (dip0)
名前: きき

ZZさん
信仰(信頼)にかんしても、一時的に、または長期間
見失ってしまうこともあっても、また信頼を取り戻すこともあります。
肉の死を迎えるまで、どうなるかはわかりませんからね。

洗礼をうけてなくても、教会にいったことがなくても
死の間際に。。神様と和解される方もいますし、
(他の人にはわからなくても)死の直前に神様の語りかけが
ないとも。。限りません。

ガラシャさん。
私自身は、神様をしったのは、プロテスタン系の幼稚園にいったときですが、
家族はクリスチャンではなかったので。小中学校時代は、自分で聖書(新約)を
よんでいました。 そのごも、時々聖書を読み返したり、祈ることも
ありました。。
教会に行って洗礼をうけたのは実は、30歳をすぎてからです^^
神様を信じていたものの、教えの素晴らしさを感じていたものの
神様と一緒に人生を歩む決意をするまで。。心の畑が耕されるまで、20年以上かかってしまいました。 (聖書でも種まきの例えがありますよね。
信仰が、育つにはそれぞれ時期があるものです)

クリスチャンになって(または神様を知って)5〜30年
たっていても、大きな困難にあるとき、神の恵みやささえに
不安や疑問を持ってしまうこともあります。
人はどうしても、自己都合や、自分の見地ないで考えてしまうことがあるので、
焦ったり不安になることもあるものです。
それでも、神様の深い愛、そして初めの愛、信頼を思い出して、信仰(信頼関係)に
とどまることが、多くあります。

ガラシャさん、そしてZZさん、現実世界でもクリスチャンができることは確かにありますね。
とりなしの祈りはもちろん、小さなことならできます。

マザーテレサも「私たちはこの世で大きなことはできません。
小さなことに大きな愛を込めるだけです」とはなしましたが、一人一人の
クリスチャンすべてが、マザーテレサや加賀豊彦さんのように 貧民街などの奉仕は、できないかもしれません。

しかし愛を示すほうほうは様々です。
まず、自分を愛せてない人は、まず自分をいたわることもできるでしょう^^
神様は、自分を愛するように隣人を愛しなさいと言っていますからね。

自己肯定感を持ち、自尊感情を持つことで。。他人への信頼や尊重が
できるようになりますからね。

多くのクリスチャンは、学校、仕事などがあったり、家庭での役割や責任
(親、子供、夫婦)があるので、、人生の多くをかけて他人の福祉に生きることはできませんが。。日常の中で、小さなことに、愛を込めることはできます。
家庭内でできること、近隣の人にできること、友達にできることなど。ありますね。

もちろん、クリスチャンでない人でも、隣人に対して親切な方もたくさん
いらっしゃいますね^^
小さな心遣いをみると、心があったまります。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.36 )
日時: 2015/07/03 18:29 (enabler)
名前: ガラシャ

なるほど、そうなんですか。詳しく説明してくださってありがとうございます。キリスト教の世界では、自傷行為、自殺はいけないということですが、なぜなのでしょう。それと、礼拝に行くときに、お金は必要ですか。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.37 )
日時: 2015/07/03 20:16 (dip0)
名前: きき

礼拝に行くときにお金はいりません。
教会によっては、献金箱が回ってくることがありますが。
入れなくても構いません^^
もちろん、気持ち程度に100円でもいいんですよ。
まだ中学生ですし、お小遣いもかぎられているでしょうから、きにしなくて
いいです。(近くに教会がなければ電車賃もかかってしまいますよね)

自傷行為、自殺はいけないという理由ですか?
これらも、牧師さんや神父さんも、ネットでも答えているとおもいますが。。

私なりに答えてみますね。
神は、愛、公正、聖なるお方です。
まずこれが基本です。 

1、自分を愛すること、そして私たちは主の贖いによって罪を許されていること
2 裁きは主のものであり、公正に判断されるべきであること
3 神さまが望むのは、生贄(自罰)ではなくて、砕かれたこころ
  悔い改めて、更生することだからです。

マタイ22章37〜39
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」と教えられました

神が、自分を愛しなさいといっておられますよね^^
そして、神様の教えに従うことが、神様を愛することでもあります。

許しの問題
すでに十字架のうえで主が、私たちの原罪、過去、現在、未来の罪を背負って
くださっているのは、ご存知ですね。
これを、たんなる<知識>としてでなくて、自分のものとして<受け入れている>
かどうかによって、物事の見方はかわってきます。

主の十字架の血いがいに、人間の罪を帳消しにできるもの。。ありません。
自分の体を傷つけ血をだしたり、命を削ることで、自分の罪をなくすことや、償うことはできないのです。
もちろん、法律によって死刑判決が出ることもありますが、
だからといって、被害者がもどるわけではありませんよね。
罰は与えられても、あがないはできないこともあります。
(コルベ神父のように身代わりになって、一時的に誰かの肉の命を助けることはできるでしょう。でも、その人の罪を赦して、霊の命を救えるのは。主のみです)

世では(無意識においてか)、自分を罰することで、償いができる(したい)とおもっているところがあります。
自己嫌悪から自分を傷つけてしまうこともあるかもしれません。
おそらく、昔、家や自分の恥をさらさないために、死ぬということを選んでいた風習の影響もあるでしょう。
名誉殺人というのは、まだ中東にもありますね。

でも、実際、罪を完全に赦すことができるのは、主のみです。
かつて主が十字架について罪を贖うまでは、イスラエルの民は
動物を捧げていました。
金銭などで賠償できないような罪の場合、
罪のないもの(子羊など)の血、犠牲が必要であるということを
しらせるために、そのような儀式が課せられたとされてます。

神の小羊であるイエス様以外に、罪をあがなえる人、霊、魂、体を完全に
救える人はいません。それをまず理解する必要があります。

申命記 1章16〜17
またそのとき,私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。 「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。 ある人と身内の者たちとの間,また在留異国人との間を正しくさばきなさい。
さばきをするとき,人をかたよって見てはならない。 身分の低い人にも高い人にもみな,同じように聞かなければならない。 人を恐れてはならない。 さばきは神のものである。 あなたがたにとってむずかしすぎる事は,私のところに持って来なさい。 私がそれを聞こう。」

正しくさばきなさいとあります^^
世の中には、法律があり、犯罪は法律に則って
裁判官、検察官、弁護士、証人など。。複数の人たちによって
当事者(犯罪者、被害者)いがいの人たちによって、公正に裁かれます。
しかし、ときに冤罪もおこりえます。人のさばきは。。完璧ではありません。
でも、完璧でなくてもあったほうが、あるていどの秩序は守られます。

人を偏ってみてはいけないとありますね。
他人を傷つけたくない人が、なぜ自分のことを傷つけるのか?
それは、自分に対してのみ、こうあらねばいけないと<偏ったみかた>
<偏った期待>をもっているからですよね。
正しい判断を、神に委ねること、また客観的な意見を他の人に
聞くことは。。謙虚さをたもち、公正さを保つのに必要なことです。

詩篇51篇16〜17
たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたた ましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません

聖書からの例があります。
キリストを裏切ったユダは自殺しましたね。
キリストを否定し、逃げた使徒たちは、自殺はせずに、悔い改めました。

ルカ22章31〜
シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロはイエス様を否認し、非常に自分をせめました。
死んでも主を裏切らないと、自負していたのですから。。
プライドはずたずただったでしょう。。でも、自殺はしませんでしたね。

人は、失敗することがあります、自分の弱さゆえに、とんでもない
過ちを犯すことがあります。
必ずしも、すべてのクリスチャンが死を恐れずに、キング牧師や、
コルベ神父のような態度や、殉教者たちのような態度をとれるとは限りません。

もちろん、反省することは大切です。
使徒たちは、そのご復活された主とであい、信仰をつよめ
死に至るまで(殉教するまで)忠実だったと言います。

神様は、私たちが主にあって、成長することを望まれています。
自分を愛することは、自制、忍耐が試されることです。


   メンテ
Re: キリスト教 ( No.38 )
日時: 2015/07/03 20:47 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん

もちろん、クリスチャンの中にも、かつては自傷を
してしまった人や、アルコール依存、摂食障害、そのた
様々な依存など、問題を抱えていた人もいます。
しかし、克服をしたひともいます。

神様の愛と恵みを、受け取ることで、生き方を変えられることも
多くあります。
もちろん、変化には時間がかかることもあります。

私は自傷はないですが、死にたい(生きているのが苦しい)
とおもったことは10代のときに、ありますよ。
ガラシャさんは、自傷をしたこと、したいと思ったことが
あるのでしょうか。

ネットは、PCからみているのでしょうか。
携帯ですか。

ハーベストミニストリーの中川健一牧師が
3分でわかる聖書 というシリーズでメッセージをされています。

自殺についても、こちらで答えてます。
www.youtube.com/watch?t=128&v=NAYc7r-c_rc

その他いろいろ分かりやすく説明されているので
おすすめですよ。

YouTubeがみられないばあいは、
ネットなどでいろいろ検索されてもいいと思いますよ。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.39 )
日時: 2015/07/04 06:12 (enabler)
名前: ガラシャ

自傷、しています。pcから見ています。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.40 )
日時: 2015/07/04 11:20 (ocn)
名前: 雲丹丼大盛

場違いかもしれませんが便乗してここで一つ質問させてください。

エホバの証人ってキリスト教とも関わりがあるのでしょうか?
先日訪問して来られて、頑なに宗教お断りの姿勢では居たのですが、参考までにということでリーフレットを受け取りました。
内容はまず不安を煽るような内容が並び、聖書のどこをどう読めばその不安は解消されるだののくだりが主でした。
殆どが言われるまでもなく普段から心掛けている私からしたら極々当たり前の内容ではありましたが、リーフレットを受け取ったことでしつこく勧誘に来るんじゃないかととても不安です。
こんな不安を振りまく方々が広めている、下手なコンサルのような世の中の不安を取り除く説法って、怖くありませんか?

ちなみにリーフレット冊子タイトルの、ものみの塔ってバベルの塔ですよね?神様に近づこうとして怒られたあれですよね?

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.41 )
日時: 2015/07/04 14:01 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
自傷をしているのですね。

なにかきっかけがあったのでしょうか。
学校、家庭などの問題があるのですか。

問題があった時、いろいろな対処法があります。
私は昔(中高生の時))ノートに自分の思いやイライラを書いていました。
あとは、聖書を読んだりたまにですが祈っていました。

自分の中にある苦しみや、モヤモヤを書き出す
というのも大切だと思います。
カウンセリングを受けたり、信頼できる人に話すというのも
問題を<出す><放す>という作業は必要です。

できれば、話す、なく、笑う、汗を流すなどをして
苦しみや、ストレスを解消する、発散するというのが建設的な
方法です。

内向的(自罰傾向が強いタイプ)なひとは、ストレスを溜め込みすぎてしまえば、
自分を傷つけたり、自傷はしなくても自己嫌悪になり、不信感を高めてしまいます。
または外向的なひと(外に責任をもとめるひと)は人を傷つけたり、当り散らしたり。。というふうにでてしまうこともあります。

神様に、自分の抱えている悩みや苦しみを
打ち明けること。
そして、自傷は。。やめたいですよね?
自分を傷つけることは、あなたを愛している神様(主)が
悲しまれますよね。 ご家族は、自傷されていることをしっているのでしょうか。

   メンテ
No.40に対する返信 ( No.42 )
日時: 2015/07/04 16:28 (dip0)
名前: きき

雲丹丼大盛さん

> エホバの証人ってキリスト教とも関わりがあるのでしょうか?

キリスト教界では、異端とされています。
理由は。まず第一に、主イエスを、神の子ではあるが
神ではないとしているところでしょうか。

個人的には、真面目でいい方達ですけどね。
ただ、この世の価値基準でいい人=正しいというわけではありません。
若干、行い主義に走っている部分があるかとおもいます。

彼らが教えていることも、全てが間違っているわけではないですし
一部、一理あるところもあります。
異教の影響を受けている部分があるというのは、事実ですね。
キリスト教は最初迫害されていたのですが、
ローマで国教化されたりして、大規模になったさいに。。
異教(ミトラ信仰)などの影響、慣習をとりいれてしまった
部分は。。否めないですね。

イエスの誕生も、仮庵の時期(9〜10月)といわれてますね。
誕生よりも復活の方が大切ですから、事情をしっている
クリスチャンはみな、イースター(復活祭)をより大事な日と考えてます。

> 先日訪問して来られて、頑なに宗教お断りの姿勢では居たのですが、参考までにということでリーフレットを受け取りました。

エホバの証人のかたは、熱心に伝道されますよね。

> 内容はまず不安を煽るような内容が並び、聖書のどこをどう読めばその不安は解消されるだののくだりが主でした。
> 殆どが言われるまでもなく普段から心掛けている私からしたら極々当たり前の内容ではありましたが、リーフレットを受け取ったことでしつこく勧誘に来るんじゃないかととても不安です。

聖書に書かれていることは、ほとんどのことは
良識ある人が共感することですね。 
神様が人間に良心を与えてくださった(心の中の律法)といえますね。
ただ、自由意志も与えておられるので。。なにを選択するかは、個々人が
きめることになります。

罪が入ってしまったので、その良心も完全なものではなくて
利己的、自己都合で、善悪を判断するという傾向や、責任転嫁をする
傾向もあるとは思います。
また感情に流されてしまって、間違った良心や罪悪感が生じることもあります。 (良心の誤作動もあります)

また来られたら、断られてください。
丁寧に簡潔に、お断りすれば下がってくれますよ。

> こんな不安を振りまく方々が広めている、下手なコンサルのような世の中の不安を取り除く説法って、怖くありませんか?

不安だけを煽るのは、よくないですね。^^
福音というのは、<良い知らせ><救いの知らせ>ですからね。

ただ、クリスチャンも(全員ではないかもしれませんが)聖書を
信じていますし、聖書を読んでいますので。。、終わりののち、
再臨があることは知っています。

終わりの日の預言の部分は非常に難しく、まだ信仰がない状態(神様との信頼関係)では、不安が起こってしまうので。。あまり知らさないのです。
礼拝でも、終わりの日については話しません。
ただ、牧師や神学者によっていろいろな見解はすでに書かれています。
調べたい人は、クリスチャンでもそうでなくても。。いまはネットがあるので
調べられます。

反キリストが起こり、艱難ののちにキリストの再臨があるのですが
それは、悪魔の支配が終わる<喜びの日>でもあります。^^

> ちなみにリーフレット冊子タイトルの、ものみの塔ってバベルの塔ですよね?神様に近づこうとして怒られたあれですよね?

バベルの塔が描かれているのですね。

どういう意図でかかれているのでしょうかね。
人(この世)が神に成り代わろうとして、罪をバベルの塔のように
積み重ねていることを表しているのかもしれませんけどね。(警告、批判のような感じでかいてるのかもしれませんね)

   メンテ
No.42に対する返信 ( No.43 )
日時: 2015/07/04 18:25 (ocn)
名前: 雲丹丼大盛

> ききさん
自分でググって調べればいいところ、丁寧にお応えいただきありがとうございます。

キリスト教観点からも異端に属するものなのですね、新しい見解が備わりました。

また来られた際には丁寧にお断りしたいと思います。
基本姿勢は、あなた達を否定する気はないから、あなた達も私の意志・信念を否定して押し付けてこないで、というものなのでそれに準じたいと思います。

信仰宗教はキリスト教では無いのですが、新約聖書はある経緯で頂いたことがあり、一つの物語的に読んだことがあります。
漫画で触れている部分を探求したかったという動機ではありましたが。
まあ、聖書に限らず、良きも悪きも自分の為に、周りの為になりそうなことは参考にさせてもらう人なので、無神論者というよりも複合神論者的な性質はあります。

お返事頂いた内容も興味深いものでしたので、また時間がある時に自分でも色々調べてみたいと思います。

ありがとうございました。


>> スレ主さん
貴重なレス枠をお借りしてすみません。
意図する内容とは違うかもしれませんが、関連する知識・情報の一端の問答として見て頂ければ幸いです。


   メンテ
Re: キリスト教 ( No.44 )
日時: 2015/07/04 18:26 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん

とりなしの祈りというのは、世界平和など大きなことではなくて、
あなたの身の回りのことでもいのってもいいのですよ。

愛と平和はまず、家庭や身近なところから
つまり、中学生であれば、学校での友達関係での
平和を願ってもいいのです。

ただ、主の祈りや、平和の祈りをいのったからといって
あなたの心にずっと平安が来る、または物事が良い方に変わっていく
ということではありません。

ここだけは、誤解をされないでくださいね。^^
確かに祈りによって心が、一時的に落ち着くこともありますが、
祈りは、特効薬や精神安定剤でもありません。
むしろ、神の言葉、祈りは。。日々自分の心と霊を養うための
食物です^^
健康で抵抗力があれば病気を跳ね返すことができますよね^^
またそれほど悪化しなくても済みます。

祈り、信仰というのは。。魂のために(感情、考えかた)の健康を
促進し、維持するためのすばらしい霊的食物です。

家族、または友達との関係で悩んでいるときも、自由に祈っていいのですよ。
神様、いま私は〜のことで苦しんでいます。悲しんでいます。
と打ち明けていいのです。
神様は自分を価値ある者として認めてくださり、愛してくださっていることに
感謝します。
自分を否定してしまいそうな気持ちがあればそれも伝えて、
自分を愛せますように、ゆがんだ自己評価を正してください。。
と祈ってください。

ニーバーの平穏のいのりにもありましたが、
自分で変えられること(対処できること)、変えられないことを
見極めることも大切です。

自分の能力ではどうにもできなくても、親や先生、カウンセラーに相談して、
多少。。対応できることもあるでしょう。(解決できるとは限りませんが、
アドバイスやヒントは得られるかもしれません。)
自分にできなくても、抱え込まずに、相談してみてください。

聖書の言葉や祈りというのは、決まった祈りを唱えればいいということではなくて、
その内容をしっかりと受け入れて、実践していく必要が有ります。
唱えたら魔法のように問題が解決できるわけではありません。

ガラシャさんは、とても言葉数が。。すくないのと、
祈りの言葉に。。ずいぶんこだわるので
気になっていたのですが。
普段から、家族やまわりに 意思表示をするのが
苦手でしょうか?
自分の言葉で、自分の考えを。。率直に話すのが
苦手ですか?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.45 )
日時: 2015/07/04 19:23 (enabler)
名前: ガラシャ

家族は知りません。意思表示は苦手ではないですよ。親ともよくしゃべります。率直に話すのは、苦手ではありませんが、照れくさいので…
でも、やめると思います。でも、何が原因で自傷しているのかもわからないんですよね。でも大丈夫です。本当にやめるんで。
   メンテ
No.43に対する返信 ( No.46 )
日時: 2015/07/04 22:07 (dip0)
名前: きき

> > ききさん
> 自分でググって調べればいいところ、丁寧にお応えいただきありがとうございます。

もちろん、ネットでも教会や牧師さんの見解もありますが
一信徒としての意見を聞くというのも、それはそれでいいと思います。

> キリスト教観点からも異端に属するものなのですね、新しい見解が備わりました。

新約聖書をおもちなのですね^^
旧約ももちろんあるといいですが、新約聖書だけでも
かなりのことは、学べますよ。  黙示録もついてますか?

日本ではキリスト教への知識が少ないので、エホバの証人の方に
キリスト教世界の問題点をいわれると、そうなのかなと思ってしまって
エホバの証人の<組織>が正しい。。とおもってしまいがちです。

たしかに、キリスト教会、世界がかつて行ってきたことには
問題点があるのも事実ですからね。
ただし、そのなかにも良心的な神父、牧師、信徒もいたというのも
事実ですし。

どの教派も、完璧ではないですが。。大切なのは、キリストによる救い、
神との信頼関係を深めることであるので。。
教会組織に過度に重きを置きすぎなければ、問題はないかとおもいます。

わたし自身、がちがちの組織はすきではないので^^
自由福音教会で、自由献金でいいところにかよってます。

> また来られた際には丁寧にお断りしたいと思います。
> 基本姿勢は、あなた達を否定する気はないから、あなた達も私の意志・信念を否定して押し付けてこないで、というものなのでそれに準じたいと思います。
それでいいとおもいますよ^^

> 信仰宗教はキリスト教では無いのですが、新約聖書はある経緯で頂いたことがあり、一つの物語的に読んだことがあります。
> 漫画で触れている部分を探求したかったという動機ではありましたが。
> まあ、聖書に限らず、良きも悪きも自分の為に、周りの為になりそうなことは参考にさせてもらう人なので、無神論者というよりも複合神論者的な性質はあります。

そうなのですか。
神様の存在は信じている(いるのかな?)けども、まだ
聖書の神が真実の神とも、思えない。。確信がつかない。。といったかんじですね。
そういう方、結構多いですよね。
科学者の方でも、経営者の方でも、神、またはそのような存在がいると信じている方もいますからね。

> お返事頂いた内容も興味深いものでしたので、また時間がある時に自分でも色々調べてみたいと思います。

ぜひお時間がある時に調べてみてください。
   メンテ
No.45に対する返信 ( No.47 )
日時: 2015/07/04 22:13 (dip0)
名前: きき

> 家族は知りません。意思表示は苦手ではないですよ。親ともよくしゃべります。率直に話すのは、苦手ではありませんが、照れくさいので…

そうですか、すこし恥ずかしがり屋なのですか。
親御さんとも普通に話せるのですね。

> でも、やめると思います。でも、何が原因で自傷しているのかもわからないんですよね。でも大丈夫です。本当にやめるんで。

理由がわからないのですか。
友達関係、また勉強などでも、問題はないですか?

とくにいじめや、虐待がなくても、なんとなく自尊心が低くなるときも
あるかもしれませんね。

大したことではないと、押さえ込んでしまうこともあると思います。
小さなことでも、ちょっときになったら、ノートに書き込んで
いちど心の整理をつけるのもいいですよ。

やめられないときは、ちゃんと相談されてくださいね。。
いいにくいかとは思いますが。。
あまり深くはきっていませんか?
跡が残ってしまうと、それを気にして悩む人もいますからね。。
クッションを叩くとか、輪ゴムでばちんと叩く程度にするとか。。^^
してみてください。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.48 )
日時: 2015/07/05 02:18 (odn)
名前: いしまる

このスレではキリスト教に詳しい方がいらっしゃるようで、私もかねてからキリスト教について、抱いていた疑問、腑に落ちないところがあるので、この場をお借りして少し質問させてください。

まず、キリスト教では「ヤハウェ」を唯一神として崇めていますが、その経緯として・・ユダヤ民族の北王国が滅亡した時にいわゆる一神教が成立したそうですが、神との関係で北王国が滅んだのは、民族全体が「罪の状態にある」から民が滅亡したとされ、それでも常に「神は正しい」とされたそうですね。

「信仰」とは、絶対に正しい存在がこの世にいると考えて、その前に自分のすべてを投げ出し身をまかせることですよね。そして、神や神秘的な絶対者に救いを求める宗教では、信仰が何より活動を起こすもとの力となるでしょう。

しかし、なぜ、民族を救えず、何も期待できなかったような神が正当化され、「本格的な一神教」が成立していったんでしょうか?

「聖書」は神についての書物ですよね。天地創造の物語などでは、神は積極的に活動しているようですが、聖書全体を読むと、「神」はほとんど何もしない・・ということが書かれている、と言ってもいいらしいですし、このように、不気味に沈黙する神を絶対者として崇める宗教は、私にとって、近づきがたい存在であるのですが、如何なものでしょう。
   メンテ
No.48に対する返信 ( No.49 )
日時: 2015/07/05 06:14 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
私は、神学者ではない、一信徒でありますが、一意見としてお話ししますね。

長くなるので 2つに分けますね。

一神教が成立といいますか、〜教としていぜんに、最初から天の父である
ヤハウェは唯一神ですね。ノアも、アブラハムも、モーセも、唯一の神を信じていました。 クリスチャンは、子なる神、聖霊なる神も信じています。(神は一人ですが。)

罪ゆえに、滅んだ(滅ぼされるのを許された)のは事実ですね。
ただ、<民の罪をどうとらえるか>によって、神が正しいと共感できるか
できないかは違ってくると思います。

神は、愛と公正のおかたです。 愛と公正のおかたによる支配は
信頼に値するものですよね。
信頼しているからこそ、忠実でいたいとおもうものですよね。

> しかし、なぜ、民族を救えず、何も期待できなかったような神が正当化され、「本格的な一神教」が成立していったんでしょうか?

神様に期待できなかったのではなくて、民の方が、神の愛情と信頼を
裏切りつづけたといえます。 これも、視点の違いです。

北イスラエル王国は、バアル神など偶像礼拝(異教の神々を崇拝)するという罪を
おかしました。そして、アッシリアに滅ぼされることになりました。
ユダ王国ものちに。。バビロニアに滅亡されますが、70年後(前538年ごろ)
に再建されました。
<完全に、見捨てられたわけではない>ということに、眼を向ける必要が
あります。^^

列王記などに詳しく書かれていますが。。北王国、南王国共に
甚だしい不信仰、不従順の状態でした。

人は、宗教、信仰を考えるときに<神の責任>について考えます。
しかし<神の責任>だけでなくて<民の責任>があります。

能力的に<救えなかった>というよりも、<救わなかった>いや。。神を信頼しなかったために、救われるみち、悔い改めて神様の恵みに歩むみちを、<自らの
頑なさと、不忠実ゆえに絶ってしまった>といっても、仕方ないと思います。

自らの罪ゆえ、滅びの道に進んでしまったといえるでしょう。

ヤコブの手紙 1章14〜15
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」

神が正当化されるというのは、不正を行ったの、正当化されたという感じにきこえますね^^ 
しかし、神は不正をおこなわない。。だけでなくて
聖なるかたなので、不正は行えないのです。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.50 )
日時: 2015/07/05 06:25 (dip0)
名前: きき

続きです。
旧約聖書のホセア書をよまれるとわかりやすいのですが。
簡単に説明すると。神はホセアという預言者に対して、ゴメルという不従順な妻と結婚するようにいわれました。

ゴメルは結婚していても、日替わり(日ごと?)いろいろな男性と不倫をするような女性でした。しかも不倫相手との子供ももうけていました。(今でも考えにくいですが、当時は姦淫をすれば石打です。それだけ重い罪をなんども犯していたということです)
忍耐強く妻を愛するホセアの愛情を無視し。。結局ゴメルはホセアと子供を捨てて、不倫相手のところにいってしまいます。

ゴメルは恋人にすてられ、苦しい状況に追い込まれていて<奴隷>の状態におちいりました。。そこで神様の命令(お告げ)によって。。ホセアはゴメルを赦して、再びゴメルを受け入れて家に戻ることになります。

これが神と北イスラエル、南イスラエル王国の神に犯した罪をわかりやすく示したものです。
実を言えば、神と人間の関係の縮図です。
(神と人との契約の関係は、よく夫婦関係にも例えられます。
教会はキリストの花嫁とも言われています。つまり、
偶像礼拝は、不倫、裏切り行為であり契約違反です。)

神に対してイスラエルの民がおこなった罪、不信仰は、本来であれば、神様に完全に見捨てられても仕方ないくらいの罪だったわけです。
(アダムとエバの罪ゆえに、人間は死ぬようになり、天国には入れなくなりました。恵みもなくなったのですが。。イスラエルの民は神を信じ従うことで、恵みのうちにいました。)

神が民を見捨てたのではなくて、民が神の愛と信頼を裏切り続け
悔い改めの機会を与えられても無視し。。拒み、
みずから滅びのみちに進んで<奴隷>になったのです。

しばらくして、自分たちの罪の結果の不幸をまのあたりにして、
頑なな心が溶けたとき、神様の赦しによって、ふたたび
一部のユダヤの人が悔い改めて、神の元に戻りました。

神様が不正をされているのではなくて、忍耐強く、悔い改めを望み、人間が不幸に陥らないように望んでいるかがわかります。

新約の時代、そしていまはイエス様の十字架の贖いに信仰を持つことで神との和解が可能となっています。(天国の道が開けました、以前は、預言者も、洗礼者ヨハネでさえも、黄泉の慰めの場所にいったとされます。 エリヤは例外かもしれませんが。。)
ローマ人への手紙10章21節 『またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反 抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

神様は、いまも手を差し伸べてますが人間は、自分の好きなこと(自分が正しいと思うこと)をしたいと考えてます。
自由と思っていることが、世の支配者(サタン)の奴隷、
罪の奴隷となり、滅びや死に向かうことを理解(認識)してません。滅びのみちは広く命のみちは狭いといえます。

なぜ民が滅ぼされたのに、神を信じるのか?
神の恵みからはなれたら、滅びると理解して、神のもとに
戻ってくるのです。 
クリスチャンも単に滅びたくないという理由ではなくて^^
愛と公正ある神の支配下に住みたいと思うから
信じるのです。 

> 「聖書」は神についての書物ですよね。天地創造の物語などでは、神は積極的に活動しているようですが、聖書全体を読むと、「神」はほとんど何もしない・・

聖書は、神についてだけでなくて、神のお考え、約束
がかかれています。
人間の罪の始まり、罪の結果、人間の罪の根深さ、救いのみち(キリストの十字架上のあがない)、
最終的にキリストの再臨によって、悪魔の支配(統治)から、神の統治へともどることが書かれてます。

何もしていないのではありません。^^
救いのみちとして、イエス様を地上に送られました。
そして昇天されてからは、聖霊(内在する神)を信じる人たちに与えてくださっています。
神様の働きは、すべて人間の目に見えることではないものです。
(肉眼で見えるものは、限られていますよね)

聖霊による働き、支えというのは、ずっと続いています。
わかりやすく言うと、電気の流れは目に見えませんよね。
でも、何かが動くことや、光ることで電気が通っているとわかります。
反対になにかが機能しないと電気が入ってないことが
わかりますよね。 ときに奇跡や癒しがありますし、
愛や勇気ある行動であったりします。
クリスチャンでも聖霊に満ちてる人もいれば、あまり
充電されてない人、時。。もあります。 

いま神様のはたらきが静かに見える時は、
嵐の前の静けさならぬ、裁きと救いの前の静けさにすぎないと。
私は思っています。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.51 )
日時: 2015/07/05 11:08 (enabler)
名前: ガラシャ

ききさんへ
自慢ではないですが、勉強関係ではクラスで一番なので特に悩んでいません。友達関係は、普通にうまくいってます。普段一緒に過ごす友達もいます。本当によくわからないんです。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.52 )
日時: 2015/07/05 16:37 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
勉強麺でも、友達関係も特に問題はないですか。
親御さんも、成績がよければ、頑張ったねとか
普通に、褒められたりもするというかんじですか。。

いまは問題はなくても、以前、小学校の時のことなども
とくにわだかまりがあることもないですか。

あとは。。親御さん同士。。夫婦関係も問題ないでしょうか。
夫婦仲があまりよくない時も、不安定になることも
ありますからね。。
兄弟姉妹などとの関係も。。とくに問題もないという感じですか。

自分はそこそこ幸せだけれども、なんとなく、
これでいいのかという感じなのでしょうかね。

周りの友達や世の中のことで、不安を感じているのですかね。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.53 )
日時: 2015/07/05 21:16 (enabler)
名前: ガラシャ

普通にほめてもらえます。両親も仲悪くないです。私は1人っ子ですし。もし、唯一あるとしたら、クラスです。まとまりがないというか言い方は悪いですがバカの集まりで…。合唱も授業もまともじゃなくて。それがストレスかもしれないですね。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.54 )
日時: 2015/07/05 22:31 (dip0)
名前: きき

親御さんも仲は悪くないのですね^^

クラスに対しての不満ですか。
小中学生の時期というのは、成長期でもありどうしても差があるものです。

ガラシャさんのように、真面目で冷静な生徒さんから見ると
なんであんなに騒ぐのだろう、なぜ協力しないのだろうと思ってしまうでしょうね。

時にイライラしても、できるだけ。。人の良いところも見るようにしてください。
聖書の言葉を、神様のあなたへのメッセージ、あなたの人格を
作り上げるための。。教えとして、受け止めて読んでみてください。

中学生時代は、自我がでてきて、いろいろ周りに対して、自分に対しても、
批判的な思い、人を、裁こうとする気持ちが出てくるときです。
しかし、いずれ自分も欠点や弱点があることに気がつくと思います。

個人差がありますが、小学校高学年〜中学生くらいになると、自分も、
たくさんの罪を神に対して、人に対して犯していると。。気がついて、認められるようになるでしょう。

まず、原罪(アダムとエバが犯した罪)いがいの、自分が犯してしまう罪の自覚がないと、罪の赦しを必要と感じないですし、イエス様への十字架上の罪の贖いへの信仰はしっかりと持てません。

人の精神的成長、身体的成長(身体能力)、学習能力(才能、得意分野)
というのは、違います。
勉強で得意分野と苦手分野がある人もいますし、スポーツが得意な人、
実技、音楽、家庭科など、手作業が上手な人もいることでしょう。

学校など、集団生活で大切なのは。。勉強することだけでなくて、、
様々な人とであい、多様性と、それぞれの違いを知り、できる限り受け入れ協力することでもあると思います。^^ あまりにも非協力的な人は確かに困りますね。

ピリピ2章もよまれてみてください。
2。。。、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3 何事でも自己中心や虚栄心からすることなく、へりくだって、互いにひとを自分よりも優れた者とおもいなさい。
4 自分のことだけでなく、他人のことも顧みなさい。

とりなしの祈りについては。。
クラスの人々が、それぞれの得意分野を認め、協力し合えるように。。
生徒同士も、そして、先生に対しても尊重する気持ちや
協力する気もちを持てるように、
まとまりがある良いクラスになりますようにと。。
祈るのもいいですね。

ただ、問題に対して、不満、イライラを感じるだけでなくて
(反応するだけでなくて)
その人たちのために祈る(対応する)というのもオススメなんですよ^^
自分に、誰かに意地悪や暴言を吐く人がいても
そのひとの心の平和を願うこともオススメです。

ローマ12章14〜18もよんでみてください。
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

ローマ書、エペソは。。ほんとオススメですよ。
学びとなること、自分の霊性を訓練するためのアドバイスが
たくさんあります。^^
私はあちこち線を引いたり、丸つけてます。
付箋も聖書全巻あちこち貼ってます。^^
   メンテ
No.50に対する返信 ( No.55 )
日時: 2015/07/06 11:25 (odn)
名前: いしまる

ききさんへ
考察や意見を交えての詳しい解説、ありがとうございます。
スレ主さんの悩みについては、いずれ何か宗教的観点で力になれたらと思いますね。

ホセア書など、自分を裏切った妻を許すという経験を通じて、神と人との関係がいくぶん理解できました。

詰まるところ、北王国滅亡で、南王国が存続し、北王国から南王国に逃げてきたユダヤ民族も含め、「人が神を選べない」ような切迫し、追いつめられた状況が民族全体に広がり「自分たちの神はヤハウェだけだ」という民族の転換というべき、確固たるユダヤ民族の思想的背景が、こういったところにあったように思います。

そして、もう一つ、私を悩ませるものに「黙示思想」があります・・。キリスト教では「ヨハネ黙示録」というものですよね。

「この世」は神によって創造された世界。しかし、この世は「悪」の状態にあるので、神が悪であるこの世界を滅ぼし、この世は終末を迎えることになる。そして、神は新しい世を創造し「来るべき世」として、一部の者だけが新しい世に導き入れられる・・。というのが基本的な内容ですね。

神が一方的に「この世」を滅ぼし、一部の選ばれた者だけが救われるという内容を、“文学”という側面で広めるならいいと思います。しかし、“思想”や“教え”として世界に広め、「現実にこの世は間もなく滅んでしまう」という、不安や混乱、を私のような無神論者や一般社会にも、与えてしまうのは否めないと思うのです。

一神教の持つ、こういった終末論は私にとって受け入れ難いものがありますね。
   メンテ
No.55に対する返信 ( No.56 )
日時: 2015/07/06 15:07 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
> ホセア書など、自分を裏切った妻を許すという経験を通じて、神と人との関係がいくぶん理解できました。

少し、クリスチャン(ユダヤ教徒のかたもふくめ)の
神に対する、考え。。主は忍耐強く愛あるお方であり、
不実であったのは人間であったという視点を認識していただけて
嬉しいです。

もちろん、国が滅ぼされ、多くの人が犠牲になるのは痛ましいことですけどね。

> 詰まるところ、北王国滅亡で、南王国が存続し、北王国から南王国に逃げてきたユダヤ民族も含め、「人が神を選べない」ような切迫し、追いつめられた状況が民族全体に広がり「自分たちの神はヤハウェだけだ」という民族の転換というべき、確固たるユダヤ民族の思想的背景が、こういったところにあったように思います。

神さまを選ぶことはできますが。
異教の神(人が作った神)にたいしてより頼んでも、世の考え方、自分の考えにより頼んでも滅びに進んでしまうということ
を会得したということもあるでしょうね。

もちろん、滅びなど大きな犠牲なしに、従順であれば
いいのですが、悲しいかな人間は、失敗をして
痛い目に合わないと、理解できないこともありますよね。

神様は人に、自由意志をお与えになってます。
しかし。。
申命記にもありますが。
主がエジプトからイスラエル人を救い出し、カナンの土地を
約束された際に、このように語られています。

申命記30章15節〜20節 ちょっと長いので抜粋ですが^^
<見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。
確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。
私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。>

神を選択することはできます。
でも、他の神を選択すれば。死とのろいがあるとすでに書いてあるのです。
契約の際に、民が守るべきことがかいてあります。
(夫婦であれば不倫はいけませんし、会社であれば不正行為は禁じられますし、それを望むのは当然ですよね)

約束の地を与える際、契約がされていて、それを理解した上で
その地に住むのであれば、契約を守る必要がありますよね。

神を選ぶ選択肢がない というよりも、イスラエルの民は(神と当時契約した民)納得して、聖書の神を選んだのです。
子孫については、父祖の世代がした契約だからというのも
現代の考えではあるでしょうが。

生まれる国を選べないというのも、もちろん事実でしょう。
でも、神様に従っている間は、平穏であるわけですから、
独裁政権など、国民が酷い扱いを受けているわけでは。。ないわけです。
神さまを拝したくなくて、他の神々を拝したいのであれば、異教の神々が拝されている他の国に移るという選択もあるわけです。

神の恵みのなかにいつつ、自分勝手に契約を破るのは、問題ですよね。
いわば結婚している女性が、ご主人のお金(収入)をすべて管理して、そのお金を不倫相手に貢ぐ。。というのは、おかしいですよね。
それなら別れて、自分の働いたお金で、貢げばいいのです。

選べないのではなくて、選ぶのは自由ですが、
自分で選んだなら、その結果も刈り取らないといけません。 
聖書の神のもとの恩恵は失いたくないけど、好き勝手
行動したい(権利は求めて義務は果たさない)では。。困るわけです。

> そして、もう一つ、私を悩ませるものに「黙示思想」があります・・。キリスト教では「ヨハネ黙示録」というものですよね。
黙示録も有名ですが。 聖書全体に終末の預言が書かれていますね。
旧約聖書の、ダニエル書、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル。。ほとんどがそうです。新約でも、所々、福音書や他の書簡でも述べられてます。

> 「この世」は神によって創造された世界。しかし、この世は「悪」の状態にあるので、神が悪であるこの世界を滅ぼし、この世は終末を迎えることになる。そして、神は新しい世を創造し「来るべき世」として、一部の者だけが新しい世に導き入れられる・・。というのが基本的な内容ですね。

一部の者というのが、数億なのか、数十億なのかはわかりませんが確かにそうですね。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.57 )
日時: 2015/07/06 20:27 (dip0)
名前: きき

いしまるさん、
返信が、ながくなってしまったので分けますね。

> 神が一方的に「この世」を滅ぼし、一部の選ばれた者だけが救われるという内容を、“文学”という側面で広めるならいいと思います。しかし、“思想”や“教え”として世界に広め、「現実にこの世は間もなく滅んでしまう」という、不安や混乱、を私のような無神論者や一般社会にも、与えてしまうのは否めないと思うのです。

例えば、圧政のなかに住んでいる人は、諸外国が介入してくれることを
望む人もいるでしょう。
でも、日本では、そこまでの感覚を持っているひとはすくないので。。
危機意識もすくないため。。聖書の教えにピンとこないひとが多いと思います。

世界に稀に見るほど、安全な国ですからね。
(ただし戦後の、戦争のない状態が特別であって
それが当たり前ではありません。)

本来、平和というのは外交をしたり、軍備を整えたり訓練をして
自己防衛をする(スイスのように)覚悟をもったりしないと保てないものなのです。 
日本は。。地理上の関係や、アメリカの傘下(庇護)にいることでの(デメリットもありますが)平和の状態になれているので
甘くみ過ぎてます。
外交能力がない、能力が低い政治家でもなんとかなっているのは、幸か不幸か、アメリカに守られている(従っている)
からでしょう。でも今後はそうはいかなくなるかもしれません。
(親元で楽をしている、大人と同じです。
持ち家があって、ローンも終わってれば家賃も払わないで、生活費を入れるだけで済むので、普通の収入があれば、いい暮らしができます。そういう恵まれた、甘い状態にあるのが日本です。)

それと聖書は、人が作った<文学ではない>です。^^
人が作った宗教ではなくて、神の霊感によって書かれた書物
ですので。、物語としてみなしません。

そして、この世を不安に陥れているのは、聖書の終末の預言、
(真理や救いの教え)ではな、<罪>とその結果による苦しみです。 多くの人、国家(または軍事、軍事産業、経済界など)
が利己的なことをおこない、人への愛や共存を願わないため問題が山積みなのです。

彼らにとってこの世の終わりは、自分たちの破滅ですので
恐ろしいですし、嫌でしょうね。

この世の滅び、神の救いを懸念する一般社会の人というのは、あくまで<平穏無事に住んでいる人>といえるでしょう。 日本は、地震や火山、放射能の問題はありつつも、
まだ戦後、日本では戦争は起きてませんし、なんとか生活できる人がほとんどです。 

日常茶飯事のごとく、道を歩けば暴漢におそわれる、女性だけで行動をしても、
襲われないのが、当たり前と考える国です。 しかしそれが
当たり前でない国は沢山あります。

この世が滅ぶことを恐れる=この世に愛着がある、世を愛していると、世の恩恵を得ている。
比較的恵まれている日本や欧米であっても。最低限度以下の暮らしから。どんなに努力しても抜け出せない人、困窮にある人、搾取されている人は。この世を愛してなどいませんよ。^^

もちろん、ひとは、自分の生活に精一杯ですし
自分のできることをするしかありませんが、世の中の負の面にたいして完全に目を背けるのはよくないと思います。
(いつも、悲観的でいろといういうわけではないですが。)

ヨハネの手紙一第2章15節から17節
<「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます>

この世で、圧政にたいして、人々が革命を起こしたり、反乱を起こしても多くの人が犠牲になりますよね。
犠牲ゼロで。。権利や、自由を得ることは。。不可能でしょう。

人間は、過去なんども権利を求め、尊厳を守るために
戦ってきました。
いま、危機感がないのは、今の所戦後、戦争に巻き込まれてないからということと(祖先の働きの恩恵にあずかっているだけで
自分たちでは何も獲得してないですが、ずっとその恩恵が
続くと。。楽観視しすぎてます)
戦後教育で、問題意識や、危機感を持たないように、教育されてきたからです。

もちろん危機意識を持つ人もいますが。。危機感を持つ人が、おかしい、気にしすぎというふうな風潮もありますよね。

> 一神教の持つ、こういった終末論は私にとって受け入れ難いものがありますね。
そう感じるのは。あなたが、この世の悪の部分によって、
損害を受けてないからでしょうね。
または身近でそういう人を見てないからでしょう。

仏教にしても、キリスト教にしても。。また特定の神を信じてなくても。。
この世の不正、罪の傾向をきちんと認識するひとは、人間の努力の限界をみれば。。もし愛と公正の神がおられるなら
介入して欲しいと思うものだと思いますよ。^^

山上の説教は有名ですよね。
クリスチャンでなくても、(ガンジーはこの聖書の箇所に
感銘をうけて、非暴力で、正義を求めたと言われます)
この言葉に共感するひともたくさんいます。

仏教徒のかたにしても、他の信仰を持つ人でも、ほとんどのひとは。。
本物の義、公正を求めているかたが多いと思います。
いわゆるカルトや異端に行ってしまうひとであっても、本当に根は誠実で、良いことを願っていると思います。(選ぶ組織を間違ったといえます)

そのため、クリスチャンは、そのようなかたたちが、キリスト者になることも
願い祈ります。(余計なお世話と言われても、祈ります)

マタイ5章
貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。
その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。
その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。
その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。
その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.58 )
日時: 2015/07/06 22:41 (panda-world)
名前: 沙門

キリスト教なんてやめときな!
そんなきれいな宗教じゃない。
その歴史は血塗られている。
昔からキリスト教に迫害され虐殺された他宗教がたくさんある。
アメリカがキリスト教至上主義だったから今の世界の混乱を招いた。
キリスト教徒じゃない日本人には無差別に大量虐殺である原爆投下を躊躇なくしたし、イスラム教徒はひたすら悪者扱い。
何百年も少年への性的虐待を慣例的に行ってきたなんてキリスト教以外にはない。
見ための荘厳さにだまされたら後悔する。
二千年かけて人間の欲望が固まったのがキリスト教なんだよ。



   メンテ
Re: キリスト教 ( No.59 )
日時: 2015/07/06 23:16 (enabler)
名前: ガラシャ

私は、神を信じます。過去の過ちは繰り返さない、それでいいのではないのでしょうか。罪を悔い改めることが重要なのではないのでしょうか。沙門さんは、キリスト教を信仰していないみたいですが。
確かに、虐殺などもしたかもしれません。しかし、キリスト教徒の方も虐殺されていますよね。人は誰しもお互いを傷つけているんです。だから、許さないといけないんです。
   メンテ
No.58に対する返信 ( No.60 )
日時: 2015/07/07 00:23 (dip0)
名前: きき

沙門門さん
> その歴史は血塗られている。

人間の歴史は、血塗られてますよね。
人は罪を受け継いでいますので、どの国のひとでも、
どの宗教や理念(無神論や共産主義)が多く信奉されている国でも、戦争、争いと
無関係ではあり得ませんよね。

日本も血なまぐさい戦国時代があったわけです。
江戸時代、そして、戦後は、戦争はなかったものの、
これからどうなるかは。。わかりませんね。

それに、聖書の黙示録ににもかかれてますが。
たしかに、キリスト教世界の歴史も血塗られてますね。
ただ、すべてのキリスト者がそれに加わったわけではないですね。

17章。。抜粋ですが。^^
<御使いが私に、「大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう」と言った。私は、ひとりの女が、神をけがす名で満ちている緋色の獣に乗っているのを見た。獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。女の額には、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」と書かれていた。
私はこの女が、聖徒たちの血とイエス・キリストの証人たちの血に酔っているのを見て、非常に驚いた。御使いは言った。>

クリスチャンも、当然ですが、キリストの血によって悪事をしていた
キリスト教世界の歴史は、理解してますよ^^
プロテスタントのルターでさえ、当時(16世紀)ローマ教皇を、反キリスト扱い
してましたからね。

大バビロンへの解釈ですが、一般的にローマカトリック、
という考えがおおいです。(もちろん、いまのカトリックの一信者さんや
誠実な神父さんを批判するつもりはないですが。。)
ただ、プロテスタント組織として(一個人は別として)聖書に反することに
関わってしまったことも否めないのは事実でしょう。

> 昔からキリスト教に迫害され虐殺された他宗教がたくさんある。
キリスト教の名の下に、キリスト教組織が迫害をおこなってきた、
もしくは、黙認したのは事実だと思います。

しかし、そのなかでも、本当に神を愛し、神の教えを愛する人は、
悪事に手を染めることを拒んでいたと思いますよ。

> アメリカがキリスト教至上主義だったから今の世界の混乱を招いた。
それは違います。 すべてを宗教、信仰の問題に結びつけるのは
よくありません。^^

キリスト教、または聖書の教えが問題ではなくて、
むしろイスラエルロビー、軍事産業など。。支配者層の問題が大きいです。(キリスト教右派福音派を問題視するひともいますが、全キリスト教徒、福音派のクリスチャンすべてが戦争に賛成しているのではないです。)

あとは、経済的な利潤<お金がらみ>などもあるでしょう。
国はとうぜん国益を考えますからね。
アメリカ(キリスト教圏)に限らず、どこの国でも同じですよ。

人間の罪をいつか、宗教(キリスト教)にすべておしつけて、迫害をしてくる可能性はあります。
黙示録17章にも書かれてますが(終わりの日の預言です)

<地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。>
つまり、キリスト教の宗教組織と一緒に悪事を行ったといえます
一個人、一部では誠実な人もいました。
<十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。>
おそらく、世界的な権力をもつ国、政治家?である獣が、キリスト教など
宗教を、自分の身代わりにスケープゴート(悪の元凶に仕立て上げて)
滅ぼしにかかると思われます。
それから。。キリストの再臨がきます。^^

> 何百年も少年への性的虐待を慣例的に行ってきたなんてキリスト教以外にはない。

どういう統計から、そういえるのでしょうか?

キリスト教徒(司祭や牧師でも)でも、罪を犯した人が
いたのは事実でしょう。 でも、キリスト教世界以外にないとうのは違います。

紀元後の2000年どころか、古代の時代、また旧約時代、バアル信仰など、神殿に娼婦や男娼がいましたよ。
他の異教(多神教)でこそ、性的不品行はよくあることです。
ただ、聖書の民と違いそれが、宗教儀式や伝統として、
正当化されていました。 

日本も、虐待、犯罪として捉えているかは別として(昔は、子供の人権も道徳観念も低かったので)
古くから、寺や(女人禁制ですから)武家でも少年を性的対象としていた慣習があった時代は千年以上もありますよ。 

すべての悪事が、キリスト教世界にだけあるときめつけるのは、
偏りすぎていますよ。そして、他の宗教や国を、美化するのも
非現実的です。人間が罪を犯すのです。宗教ではないです。

それに、キリスト教世界(欧米)ではイスラム教徒の人も
すんでいますし、共存できる場合は、受け入れてます。

ご存知かとおもいますが、カトリックの司祭は結婚できませんが、プロテスタントの牧師は妻帯可能です。
はっきりいいますと、使徒ペテロも結婚してましたよ^^
使徒たちの中でも結婚している人もいましたし、結婚するしないは個人が決めることです。

ただ、独身のほうが、家族への扶養などの責任がない分
主のための働きに集中できるので、もし、独身でいられるなら、
(自制できるなら)それはそれでいい。というだけです。

カトリックが、最初の教皇としてあげている
(実際は別として)ペテロが結婚をしているのに
なぜ、司祭は結婚してはダメだと決めたのかが不思議ですよね。

ルターは、プロテスタントを起こし、
司祭が結婚することを可能にしました。 ルターは結婚して子供をもうけています。

そして虐待に関してですが、赤の他人や先生や司祭よりも、
親兄弟、親族など、身近な人、友人や知り合いに性虐待(暴行)をうけているひともかなりいます。ただ、その場合、告発しにくいのです。
信頼関係にあるのを、利用したもので、最たるものは身内の
犯行です。 

> 見ための荘厳さにだまされたら後悔する。
> 二千年かけて人間の欲望が固まったのがキリスト教なんだよ。

すべての人間は、罪の影響下にあります。
人間の欲望、罪は、古今東西、すべての人にあります。
すべての欲望や、諸悪の根源を、キリスト教(キリスト教世界)
だけにおしつけるのは極論ですよ^^

荘厳なのは、カトリックなどの教会ですよね。
日本人は、キリスト教=カトリックというイメージが
濃いですね。 確かにカトリックの方がまだ多いですが。。
南米(カトリックが多い)のブラジルでは、ここ40年くらいで
プロテスタントが10%くらい増えてます。
中国でも(地下教会もいれれば)1億以上クリスチャンは
いるといわれてます。

プロテスタント宣教はまだ150年なので、どうしても
イメージがそうなってしまうのでしょうね。
キリスト教界と言っても、現在はいろいろありますよ。

いまは、普通の建物で賛美を行う教会も沢山あります。
プロテスタントの教会は、とってもシンプルですよ。^^
ほとんど公民館と変わりませんし、ただ十字架をおいて
ギターやピアノで、賛美したりもします。
   メンテ
No.57に対する返信 ( No.61 )
日時: 2015/07/07 14:14 (odn)
名前: いしまる

ききさんへ、
まず、なぜ私が、 一神教の「終末論」というのは受け入れ難いものがあるのか・・もう少し説明をしますね。
それは決して、この世の悪の部分によって、損害を受けてないからではなく、身近でそういう人を見てないからでもありません。

たしかに、今の日本は世界に稀に見るほど、安全な国で戦争のない状態が続き、治安や経済の面からみても危機意識が少なく、政治や教育、モラルや人権に関する問題意識が希薄になっていることでしょう。そして「この世の悪の部分」が見えない、危機に対する盲目の状態にもなっています。

国が政治的、経済的に常に不安定で、人々が困窮に苦しむような時代であれば、その困窮の原因や帰結するところを、神や絶対者の審判など、未来への救済に求めようとするのは、どこの国や文化でも宗教一般に見られるわけです。

しかし、“終末”という基準を、個人の死の意味ではなく、民族全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と、選ばれた一部の者だけが新しい世に導き入れられる・・という考えにするならば、終末論は本質的に一神教のものであると言えるでしょう。

たとえば、仏教では、原始仏教・初期大乗仏教を含めて、この世の始まりや終わりというものを説いていません。お釈迦様は、時間に終わりがあるか、ないかという問いに対し、意味のない議論であるとしていて、「捨置記」・・無意味な問いには答えない(捨て置く)態度をとられています。

つまり、終末論や、この世の終わりなど考えたり、議論したりするのは、結論が出ず時間のムダ、意味のないことであると言われているのですね。

どんな社会状況、環境に自分が身をおいていても、「過去を追うな、未来を願うな、ただ今日成すべきことを成せ」という基本的な教えにより、過去は追わず、未来も願わずに、昔の過ち、うらみなどは、転変し変化していく自己と環境によって、許し、離れていくことができるのでしょう。
   メンテ
No.61に対する返信 ( No.62 )
日時: 2015/07/07 17:29 (dip0)
名前: きき

> 国が政治的、経済的に常に不安定で、人々が困窮に苦しむような時代であれば、その困窮の原因や帰結するところを、神や絶対者の審判など、未来への救済に求めようとするのは、どこの国や文化でも宗教一般に見られるわけです。

完全な救いは神にしかなし得ないという考えですが。

共通点だけでなくて、全く違う部分があります。
再臨は、最終的な、悪の支配のさばきですが。。それ以前に神様は天国への
道を用意してくださっています。
キリストの十字架の贖いによる罪の赦しを信じることによって天国に
入ることができる。
これは、聖書のみが教える事であり、ほかの宗教と全く違います。 

ヨハネ 14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

<真理>、であって、<宗教>ではありません。
キリスト教の創始者ではなくて、キリスト(救い主)であるというのが
違うところです。

> しかし、“終末”という基準を、個人の死の意味ではなく、民族全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と、選ばれた一部の者だけが新しい世に導き入れられる・・という考えにするならば、終末論は本質的に一神教のものであると言えるでしょう。

終末、そして再臨にかんしての教えは、もちろん聖書のものです。

> たとえば、仏教では、原始仏教・初期大乗仏教を含めて、この世の始まりや終わりというものを説いていません。お釈迦様は、時間に終わりがあるか、ないかという問いに対し、意味のない議論であるとしていて、「捨置記」・・無意味な問いには答えない(捨て置く)態度をとられています。

一部浄土真宗などは、景教(東方キリスト教)の影響があって、
極楽浄土などの教えをとりいれているとされてますね。
本来の仏教には、天国や、神(仏)を崇めると言う思想もないですからね。

神様がおられて、人間の罪の始まりと、その終わり、解決があると
約束しておられるのであって、それを人間が考えるべきとか、考えなくてもいい。。
という問題ではないと、私は考えます。

人間の疑問に答えるために、作られた思想(宗教・教義)ではなくて。。
神様が人間にメッセージ(預言、アドバイス)を与えてくださっているのです。

聖書を、他の宗教の経典のように人間が作った経典ととらえていて、
神様の霊感によって書かれたものでないと思っている限り、
どうしても、ここの部分で納得はしずらいでしょう。。

仏教の考え(人間の考え)では、無意味な問いだと結論つけていることは、<事実>
として認めますが、それは、仏教の上での結論であって<真理>とはかぎりません。

第一コリント 1章(抜粋ですが)
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。

世の知恵、つまり人が作った思想には、良いもの立派なものもありますが
神を知ること、真理をしるまでには。。いたりません。
人の作った思想、宗教と、<真理>のちがいは。。そこにあります。

> つまり、終末論や、この世の終わりなど考えたり、議論したりするのは、結論が出ず時間のムダ、意味のないことであると言われているのですね。

仏教的立場だと、そう考えられているのですね。
しかし、終末論について、論議をするしないは、自由として
終末は(悪の支配の終結、救い)人が認めようと認めまいとくるというのが
聖書の教えです。

毎日考えるわけではなくても、再臨されるということを時々思い起こすことがあっても
それは、無駄、意味のないではないと思いますよ。

例えば、人も、普通に生活をして、時に娯楽を楽しむためにお金を使い
つつも、将来のことを考えて貯金したり保険に入るわけですよね?
(余裕のない人は、貯金も、保険も入れませんが。)
明日〜数年後、病気、事故、災害、戦争で。。死ぬかもしれないのに、なんで
老後のために貯金なんてするのかといったら。。<いつ死ぬかはわからないから>
こそするんですよね?

> どんな社会状況、環境に自分が身をおいていても、「過去を追うな、未来を願うな、ただ今日成すべきことを成せ」という基本的な教えにより、過去は追わず、未来も願わずに、昔の過ち、うらみなどは、転変し変化していく自己と環境によって、許し、離れていくことができるのでしょう。

聖書でも、思い煩うな、とありますので、
自分のできることに目を向けて、なすすべきことをなせというのは
同じです。

失望や悲しみにあっても、自力(自己回復)だけでなくて、神の愛や支え
周りの人の愛や支えによって、確かに。。助けられます。

以前の過ち、恨み、怒りでも、もちろん時間とともに、また自分が自信を取り戻すことや、状況が少し改善することで。。緩和することもあります。。

例えば、家族が、病気や事故や災害にあった時、亡くなった場合、まだ
心の整理はつけやすいでしょう。(それでも長年苦しむこともあります)
しかし犯罪に巻き込まれたり、戦争などで残虐に殺された場合。
心の整理をつけるのは、非常にむずかしいでしょう。ときには精神が破壊されてしまうこともあります。

クリスチャンの中には、信仰によって敵をも赦し(罪を憎んで人を憎まずという感じです)亡くなった家族や犠牲者についても、神が正しく扱ってくださるということを信じ、残りの人生を、感情としては悲しい部分もありますが。。精一杯生きている
かたもいます。
ただし、魂の救い、成長、神との信頼関係の度合いは個々違いますので精神的にダメージを受け、重い鬱になってしまうクリスチャンもいます。(鬱状態になるのが罪ではないですよ^^
神父、牧師、シスター、信徒だれもがなる可能性はあります。)
回復が、1〜3年で済む人もいれば、10〜20年以上かかる人もいるでしょう。

ローマ 9章33節
彼に信頼する者は、失望させられることがない

クリスチャンには、再臨への希望(完全な悪の支配の終わりへの希望)
もありますが、それいぜんに天国の希望もあるのです。^^

黙示録 21章3〜4
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

神への信仰によってしても、時に精神的な苦しみや
病気などから この世においては解放(解決)されないことも多々あります。
しかし、肉の死後。。天国では、そういうものから完全に解放されるという
希望<約束>があることを信じるのと、信じないのでは。。まったくちがいます。

死後に天国がなくても、悟って、どんなことが自分や家族に起こっても
心の静けさを(時間の経過で)保てる人は、それはそれで。。いいと思いますよ^^
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.63 )
日時: 2015/07/08 19:18 (enabler)
名前: ガラシャ

少しずつみんなを尊重できるようにしようと思います。あともう一つ困ったことがあるんです。聞いていただけますか?

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.64 )
日時: 2015/07/08 20:10 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
はい。自分自身をもちろん、大切に扱いつつ、
ほかの方も出きる範囲で尊重してください^^

困ったことがあるのですか。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.65 )
日時: 2015/07/08 20:33 (enabler)
名前: ガラシャ

はい、あります。私には不登校の友達がいます。仮にSちゃんとします。私はSと同じ班なのです。班は5人で、私とS、男子3人です。Sは給食台の準備と後片付けが仕事なのですが来ないので誰かがやらなくてはなりません。しかし、私は給食当番なので準備をすることが出来ません。男子に手伝ってというと、ヤダーとかお前班長なんだからやれよとか言ってきます。しかもSは超マイペースで
「ガラシャちゃん、夏休みに理科とかのノート見せてくれない?」
と吞気に言ってきて、迷惑をかけてるとも思っていないです。
許さなきゃいけないのはわかっているけど、なんで私が…という強い憤りを感じて、消えてほしいと思ってしまいます。そのストレスからアムカをしてしまいます。

連絡しても電話に出ないし、謝りもしないし、平気でノートを要求してくる図々しさに怒りが治まりません。こういう人にはどう対処すればいいんですか。祈っても、心が落ち着きません。
   メンテ
No.65に対する返信 ( No.66 )
日時: 2015/07/08 22:33 (odn)
名前: いしまる

> 連絡しても電話に出ないし、謝りもしないし、平気でノートを要求してくる図々しさに怒りが治まりません。こういう人にはどう対処すればいいんですか。祈っても、心が落ち着きません。
まず、友達の過ちについては、できるだけその場で言ってあげる。これが友情です。
そして、できるだけ、相手を傷つけるような言葉を使わず、適切なことばで忠告するのがいいですよ。

見過ごしてそのままにしておくと、相手もどんどん図々しくなって、逆に友情が怒りなどで、憎しみ合う関係になってしまいますからね。

勇気をだして、友達のよくないところは、あなたの気遣いをこめた、はっきりした言葉で注意してあげましょう。
   メンテ
No.65に対する返信 ( No.67 )
日時: 2015/07/08 22:34 (dip0)
名前: きき


同じ班のSちゃんが不登校なのですね。
Sさんが、学校を休んでいるときも、ほかの男子生徒がしてくれるのでなく
あなたにすべて<責任転嫁>をして、押し付けているのですね。

学校に来ているときは、Sちゃんがしているのでしょうか?

あなたが<班長>だからと、責任転嫁するのは、ずるいですよね。
<同じ班なのだから、共同責任でしょう>と言ってもいいと思いますよ^^

問題ごとは、できれば本人同士で解決できればいいのですが
それができない場合は、すこし権威のある人、大人、つまり
先生に相談をした方がいいです。

休みがおおいので、ノートを見せる必要があるのですね。
先生に相談をして、学校でコピーをとらせてもらうか、
したほうがいいのではないでしょうか?
いくら友達でも、しょっちゅう貸すのも大変でしょう。

> と吞気に言ってきて、迷惑をかけてるとも思っていないです。
遠慮がちでないのは、嫌ですよね。

> 許さなきゃいけないのはわかっているけど、なんで私が…という強い憤りを感じて、消えてほしいと思ってしまいます。そのストレスからアムカをしてしまいます。

許すと、赦すの違いはわかりますか?
人にある罪や弱さを赦す(情状酌量)のと、罪や無責任な行動そのものを
許容するのは。。違います。

神は、私たち(ガラシャさん)の罪を赦してくださいました。 弱い部分のある、
成長に時間のかかる私たちを、愛してくださっています。
でも、罪を犯すことを許可しているのでも、罪を愛しているのでもありません^^

許さなくてはいけないのに、許せないとおもうと、
自分を責めたり、さばくことになりますよね。 自己嫌悪になり、
それで、アムカをしてしまうのでしょうかね。。

神様は、あなたのSちゃんの身勝手な態度が、許せない、不快だという
気持ちも理解してくださってます^^
Sちゃんの、身勝手な行動は、不快を感じますと祈ってもいいのです^^

非協力的な男子生徒に、協力して欲しいと、自信を持って伝えられますように。
必要に応じて、先生に協力を願うことができますように。
勇気を出せるように、いつもそばにいてくださるインマヌエルの神様、
どうか支え、助けてください。。と祈るのも実際的な祈りです。

> 連絡しても電話に出ないし、謝りもしないし、平気でノートを要求してくる図々しさに怒りが治まりません。こういう人にはどう対処すればいいんですか。祈っても、心が落ち着きません。

電話に出ないというのは、休んだ日に自宅の電話にかけるのでしょうか。
それとも、携帯でしょうか。
あなたの負担のないようにしたほうがいいですよ。

謝りもしないというのは、電話をしたのに、折り返し連絡をしなかったことですか?

人に親切にすることは大切ですが、図々しい人(言い方は悪いですが)
にたいしては、境界線(限度)を設けることも大切です。

祈ることも大事ですが、祈りで大切なのは
心にある不安、怒りをそのまま隠さずに主に言い表すことです^^

私たちの心には常に、ちいさな不満や怒りや欲望などの雑草がはえてきます。。
でもそれを、毎日祈りによって、神様と共に抜いていくんです^^

ヘブル12章15節
「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように

雑草を放っておくと(我慢しないといけない、許さないといけない、
〜しないといけない)、根がついてしまって簡単に抜けなくなり、
怒りや、悪口、陰口をいったり、それができない場合、自己嫌悪から、
自分を痛めつけたり、他人への、恨みや苦々しさが。。溜まっていきます。

ある程度意思表示ができても、相手から、<身勝手な自己主張>
をいわれると言い返しにくい。。こういうことは、中高時代まで(10代)は、
よくあることです。^^
20代でも、相手によっては(立場上、状況によって)切り返しが難しいことも
あります。

相手が、身勝手な主張をしたときに、自分は、どうやって
意思表示、<適切な自己主張>ができるだろうか?と考えてください。

適切な自己主張をするためには、自己肯定感は大事ですよ^^
そして<理想><目的>をきちんと持つことも大事です。
自分のいうことを相手が聞いてくれる(相手をコントロールできる)
ということではなくて。
望ましい状態になるためには、どうしたらいいか?と考えるんですよ。^^

聖霊様は、インマヌエルの神様は、常にあなたのそばにいます^^

   メンテ
No.62に対する返信 ( No.68 )
日時: 2015/07/08 22:37 (odn)
名前: いしまる

ききさん、

やはり、クリスチャンの死生観や信仰の基盤となる考え方は、最終的には天国への希望なんですね。

つまり、神とともに人々が暮らし、人は天国(神の国)の民となり、そこでは、死も悲しみも苦労もない、永遠の幸せが保障されているという天上の理想世界なんでしょう。

その天国に行くとき行われるのが「最後の審判」なのですね。

つまり、神が創造したこの世界は、いつの日か終わりのときを告げる。その最後に神の手で行われるのが「最後の審判」であり、人々が神の国の民となるために、この世界の終末は必ずやってくるというわけですね・・

人々が天国に行くために、「この世界は終わらなければならないし・・世界は必ず終わる」と考えると、私のようなキリスト教徒以外の人間は、この世の終わりについての恐怖に震えてしまいます・・・。

しかし、もともと、キリスト教における天国と地獄の考え方は、ユダヤ教の影響を受けているでしょうし、現在一般化している「天国」や「地獄」に対するイメージや考えは、ほとんどが人間の“想像力”によって作られた芸術や文学によるものだと思いますね。

ジョン・レノンの「イマジン」という有名な曲が、「天国は存在しない」の歌詞の部分が葬儀にふさわしくないとして、近年、イギリスの葬儀などで使用が禁止されているという話には驚きましたが・・。ジョン・レノンは禅や空の概念に影響を受けていたそうで、完全な自由な信仰による歌でもあるのでしょう。

宗教の死生観というのは、その宗教が生まれた自然や土地、環境によって考え方が変わっていきます。
キリスト教を生んだ過酷な砂漠のなかでは、生命は弱い存在です。そこで圧倒的な力を持った絶対的な神が、すべてを創造し、すべてを破壊してしまう一神教の信仰が、ぴったり合ってきます。

インドや東南アジアでは、高温多湿な環境で、生命が簡単に死に、そしてまた、新しい生命が生まれてくる生命力あふれる環境です。人が転生し、別の生き物に生まれ変わる「輪廻」という発想がぴったりくるのです。

いずれにせよ、「もうすぐこの世は終わり、希望の天国へ行けますよ・・」のような、終末論が目的となるような一神教が、私にはもう一つ理解できません。
   メンテ
No.68に対する返信 ( No.69 )
日時: 2015/07/08 23:55 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
毎回長い返信で申し訳ないです。

> やはり、クリスチャンの死生観や信仰の基盤となる考え方は、最終的には天国への希望なんですね。
天国に行くのが目的というより、神様との和解により、再び天国(バラダイス)に
住むといったらいいでしょうか>^^

> その天国に行くとき行われるのが「最後の審判」なのですね。

天国は、いまは肉の死後、イエス様を信じた人、神と和解している人が
いくところでもあり、
再臨後は、(言い方が正しいかはどうかわかりませんが)
天国が降りてくるといったらいいでしょうか。

最後の審判というのは、1000年王国ののちの、最終的な審判と
言われています。 そこで、天にそのまま住むのか、地獄に
サタン(悪魔)と悪霊たちと一緒に投げ込まれるのか?ということですね。

> 人々が天国に行くために、「この世界は終わらなければならないし・・世界は必ず終わる」と考えると、私のようなキリスト教徒以外の人間は、この世の終わりについての恐怖に震えてしまいます・・・。

神様は、すべての人が救われることを望んでいます^^
でも、すべての人が救われるかどうかは。。わかりません。
(天国に行きたくない、神の教えなど従いたくない人は
無理に入る必要はないわけです^^)

再臨以前に、または。。死を迎える前に信仰をもって生きられれば
それが一番望ましいので、福音が伝えら、救いの証として洗礼を
受けることは勧められています。。
が、洗礼がひとを救うのではなくて、信仰が救うのです。。

キリストが十字架にかかったときに、右がわにいた犯罪者が
死の間際に救われた例もあるので、かならずしもクリスチャンとして人生を何年〜何十年も送ってないといけないわけではありません^^。

いまは、神への信仰を持ってないあなたや、周りの多くの家族や友人も
ひょっとしたら、今後神様を信じるかもしれません。^^
死の直前に福音が告げられ、信仰を確認される。。かもしれませんからね。
それは、誰にもわかりません。

それに、幼くなくなる子供や、障害のある方もいるでしょう。
神様は公正な方なので、かならず、個々人にあった対応をされていると思います。

> しかし、もともと、キリスト教における天国と地獄の考え方は、ユダヤ教の影響を受けているでしょうし、現在一般化している「天国」や「地獄」に対するイメージや考えは、ほとんどが人間の“想像力”によって作られた芸術や文学によるものだと思いますね。

聖書を文学と思う人は、実は。。一部カトリックやリベラルクリスチャンと
言われる人の中にもいます。
それは。。正直おかしいことですけどね。

ユダヤ教と、キリスト教と、一般的には、分かりやすく。。そういう<宗教のグループとして>わけ方をするのですが。
ユダヤ教徒とクリスチャンの違いは、イエスをキリスト(救い主)として
認めているか、いないか?です。

ユダヤ教徒は、いまでもキリスト(救い主)を待っているんです。
そのため、新約聖書を神からの書物と信じてなく、旧約聖書
とくに、モーセ五書を重んじているわけです。

神様とクリスチャンの関係は親子に例えられますが
ユダヤ教徒と、クリスチャンは、兄弟のようなかんじです。

最初イスラエルの民を、選ばれたわけですが。。それはなにも
彼らが優れていたからではありません^^
アブラハムへの約束を守られただけなのです。

キリスト教がユダヤ教の影響を受けている。。というより、
旧約と新約は、両方とも神の教えであり一貫してます。

2テモテ3章16、17節
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべて良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

たとえば、あなたが30歳だとして、15歳までの歴史、
16歳からの歴史があって、全てをあわせてあなた自身の人格が作られてますよね。
たとえ、人格が成長して、少し見た目や所作が変わったとしても。。あなたはあなたですよね^^

神様は、旧約と新約で、基本的にその教えが変わっているわけではありません。
マタイ15章17節
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するために来たのではなく、完成するためである。

申命記 6章5節
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
レビ記 19章1節
復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

イエス様は、旧約聖書にある神様の教えの、本質を
改めて、正しく教えているだけです^^
ユダヤ教徒たち、律法学者などは(のちのキリスト教世界もそうですが)
律法を、ひとを守るためや、愛し合うためのものではなくて、
、ひとを裁いたり、自分がほかのひとより、立派だと思うために
律法を利用していました。

神の公正と愛の教えは旧約聖書にもあったことですので、
引き継いでいるのです^^
ただ、違うのは、新約の時代1世紀に、旧約の預言で約束されていた救い主が来たということです。

そして、私たちは律法の元で、罪を認識し、形だけ(表面で)
<教えを守る>のではなくて
神の愛と救い、恵みのうちに、神への信頼と愛ゆえに、
<教えに従う>ことの大切さを教えてくださいました。

ガラテヤ3章24節
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
しかし、、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

聖書は、人間の罪の歴史とその解決について述べていると
同時に、<キリスト>を語っています。
旧約ではキリスト(救い主)についての預言があり、
終末と神の国の到来も告げてます。。
新約はキリスト(救い主)が罪を贖ってくださったあとですので、福音と神の救いの計画が再度かたられてます。

以前は、自分の罪を購い、救ってくださる
<キリスト>が来てなかったので、イスラエルの民は
代わりに、動物を犠牲として神殿に捧げるようにと決まっていたのです。
(その後の神の子羊であるイエス様の予告版、象徴としてです。)

でもキリストの贖いの後は、キリストを信じることで
救われ、天国に行けるようになりました。
異邦人(ユダヤ人以外)にも、救いの道が開かました。

分かりやすく言うと、以前は、行き来できなかった国(天国)と
国交が樹立して、行けるようになった。。ということです。

イエス様は、人間と神様の和解のための、橋渡しをする方、
神の国と、いまの世にすむ全世界の橋渡しをする、
、政治家、外交官のようなもの。

そして、私たちの罪を弁護してくださる弁護士でもあり。。キリスト(救い主)です。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.70 )
日時: 2015/07/09 07:08 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
> ジョン・レノンの「イマジン」という有名な曲が、「天国は存在しない」の歌詞の部分が葬儀にふさわしくないとして、近年、イギリスの葬儀などで使用が禁止されているという話には驚きましたが・・。ジョン・レノンは禅や空の概念に影響を受けていたそうで、完全な自由な信仰による歌でもあるのでしょう。

彼の信仰、思想をうたったものが、イマジンですね。
天国は存在しないというのは、禅など、仏教の方のお葬式であればいいですが
クリスチャンの葬儀にはふさわしくないですよね^^

完全な自由な信仰というのは。、聖書とは違う信仰、ということでしょうか?
聖書の教えは、不自由な、人の自由を奪うものと捉えるひともいますね。(聖書の神の倫理感は高いものですが、それこそ一部の
<教会>が、聖書の教えより、世の教えに迎合している部分もありますね)

むしろ、真理は人を自由にするとあります。
罪の奴隷状態から、世の考えからの自由。。と考えます。

ジョンレノンは、平和主義、反戦というイメージがあるので、好感をもつのでしょうが。天国がない、宗教(信仰)がないのが、平和と安易に決めつけるのは危険です。

大切なのは、聖書の教えである、神への愛、自分への愛、
隣人への愛において成長することであって、
神への信仰、愛までも、不要なものとしてみなすことではないと思います。

> キリスト教を生んだ過酷な砂漠のなかでは、生命は弱い存在です。そこで圧倒的な力を持った絶対的な神が、すべてを創造し、すべてを破壊してしまう一神教の信仰が、ぴったり合ってきます。

キリスト教以前、ユダヤ教(イスラエルの民が信じた神)の時代にも、
エジプトや、アッシリアでは多神教が盛んでした。

砂漠だから一神教がもとめられたというのは、宗教学者や、心理学者の説でしょうかね。。 
聖書では、アブラハムという信仰の厚い人への約束として、
彼の子孫であるイスラエルの民を選んだといわれています。

人がユダヤ教やキリスト教の神を選んだり、創作したのではなくて
神が、民をえらんでいるんですよ。^^ 

申命記7章7〜8節
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、贖い出された。

クリスチャンに関しても同様です。
ヨハネ 15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。

> インドや東南アジアでは、高温多湿な環境で、生命が簡単に死に、そしてまた、新しい生命が生まれてくる生命力あふれる環境です。人が転生し、別の生き物に生まれ変わる「輪廻」という発想がぴったりくるのです。

それも、宗教学者や民俗学かなにかの見地でしょうか。 
多神教は、古くからあるものです。輪廻思想に関しても、
インドのバラモン教以前に、古代エジプト、バビロニアからあるものとも言われていていますね。
〜の生まれ変わりなど、霊魂不滅の考えは古代からありますから、
そこから東、西、南、北と。。世界に異教の教えが広まっていったともいえます。

大バビロンの淫婦というのは、その名前の通り、キリストの血によっている、偽りの
キリスト教世界だけでなく、古代バビロンを発祥とする異教の信仰、多神教、
も含まれるかもしれません。

> いずれにせよ、「もうすぐこの世は終わり、希望の天国へ行けますよ・・」のような、終末論が目的となるような一神教が、私にはもう一つ理解できません。

そう感じている方も多いですよね。
理解するというのも、正直説明されたから理解出来るというわけでも
ないと思います。

むしろ、神様の愛と公正さへの信頼が強いからこそ、
神様のご計画を信頼するといえます。^^

聖書をたとえ、何回も通読していても
信仰を持たずに読んでいたら、理解できないとおもいます。
聖書を暗記するくらいの学者であっても、神への信仰(信頼)
や、愛や感謝がなければ、理解できないことがあるとおもいます。。

終末論が、宗教の教義上の<目的>ではないのです。

いわば、およそ7000年ほどの
悪魔による人間への占領統治からの解放を約束しているのが
聖書の神です。 

黙示録、再臨が<目的>の宗教、一神教というより、
解放のための神様の約束は、私たちの<希望>です。
ニュアンスがちょっと違います^^

聖書には、人間の罪の始まり、その結果もかいてありますが、
神の救いの計画が書かれていると信じています。
再臨の前の。前兆として(過程として)終末(艱難)があるということを知らせてくださってるのだと。。受け止めてます。

   メンテ
No.70に対する返信 ( No.71 )
日時: 2015/07/10 03:50 (odn)
名前: いしまる

ききさんへ、

キリスト教というのは、天国というものが、神からの永遠の祝福を受ける場所として、その存在の意義が大きいんでしょう。そして、神への信仰と愛が人を救うというのが、基本的な考え方になるのでしょうね。

しかし“信仰”について考えていると・・この掲示板の前で考え込み、眠れなくなり、仕事にも差し支えるので、もうこの辺で、そろそろ区切りをつけたいところですね。

まず、“信仰”とは、絶対に正しい神が存在すると考えて、その前に自分のすべてを投げ出して身を任せることですよね。だから、キリスト教では信仰が何より大切な、宗教活動の原動力になるわけです。

一方、仏教のお釈迦様は絶対者の存在を認めなかったから、何かにすがって信仰するという信仰心への対象がない。なので、すべてを任せれば救ってくれる、そういう神秘的な絶対者はどこにもいないというわけです。

そして、「悟りへの道順は教えておくから、それを頼りに自分で進んでいきなさい」とお釈迦様は言い残しました。だから、仏教は信仰で成り立つ宗教ではなく、自分で修行する宗教になったのですね。

だからといって、仏教だけが「真理」の教えで他の宗教はそうではない、のではなく・・神道、仏教、キリスト教、などさまざまな宗教がそれぞれの違いを尊重しながら連帯する、「宗教多元主義」といった新しい時代へと踏み込むことが重要だと思いますよ。

そういう意味で、イマジンの「天国は存在しない」という歌詞が一見、神への信仰や、愛が不要なもので、それが平和への道筋だという短絡的なものにも感じますが・・。そこはやはり、生起と変容の場としての、完全な、自由な“信仰”であるのです。

そして、般若心経の「色即是空、空即是色」にみられるように、すべての事物は関係しながら変化を続けるといったように、科学的にも認められる物質的な現実の中で、キリスト教での信仰や、仏教での悟りによって生きる道を開いていくのが大切だと思います。
   メンテ
No.71に対する返信 ( No.72 )
日時: 2015/07/10 18:36 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

> しかし“信仰”について考えていると・・この掲示板の前で考え込み、眠れなくなり、仕事にも差し支えるので、もうこの辺で、そろそろ区切りをつけたいところですね。
^^
信仰というのは、簡単なようで難しいものですよね。
信頼関係というのは、人と人との関係も、やっぱり
<出会い>というのがあると思います。

クリスチャンにとっても、信仰をもつときというのは
信仰というのは、絶対的な神様への信仰(信頼)と同時に、
イエスキリストという救い主、または親友、尊敬する師のような
かたとの<出会い>と、<信頼関係>でもあります。

ピリピ 3章20〜21節
彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」

ペテロ第一 2章11節
愛するものたちよ。あなた方に勧める。あなた方は、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。

クリスチャンの国籍は、天にあるので、天国に凱旋するという言い方をします。

> 一方、仏教のお釈迦様は絶対者の存在を認めなかったから、何かにすがって信仰するという信仰心への対象がない。なので、すべてを任せれば救ってくれる、そういう神秘的な絶対者はどこにもいないというわけです。

そうですね。仏教は本来は、神仏を拝んだり寄り頼むものではないですね。
ただ、人間がどのように生まれたのか、なぜ存在するのか。。にたいしては、
あまり考えず、この苦しみの多い世において、どのように業に縛られず、
生きられるかということでしょうね。

> そして、「悟りへの道順は教えておくから、それを頼りに自分で進んでいきなさい」とお釈迦様は言い残しました。だから、仏教は信仰で成り立つ宗教ではなく、自分で修行する宗教になったのですね。

人間の業や欲(聖書で言えば罪の傾向)から、解放されるために
修行をすることが大切だということですね。

聖書でいうと、人が罪を自覚するためにも律法がありました。
隣人愛や理性によって、自制はいくらかはできますが、自力では、罪をなくすことも、完全に解放されることも不可能だという考えがあります。
そのために、罪の赦しが必要であり、自分の不完全な良心(判断力)に
頼るのではなくて、聖書を読んだり、聖霊のたすけによって、人格を成長させていただくことが大切だとされています。

修行といいますか、人生において人格を成長させるという感じですね。
(この世の教えや業に支配されずにいきる、罪の奴隷から解放されて
神の奴隷、神の子として生きるという差はありますが、
この世の罪の傾向から、離れる。。という点では似ていますね^^)

ただ、聖書の考えでは、本来ひとは神ににた形として創られたので、
神さまに倣うというかんがえです。
<あるべき姿に、なるために>。という点が、違うところでしょう。

> だからといって、仏教だけが「真理」の教えで他の宗教はそうではない、のではなく・・神道、仏教、キリスト教、などさまざまな宗教がそれぞれの違いを尊重しながら連帯する、「宗教多元主義」といった新しい時代へと踏み込むことが重要だと思いますよ。

尊重するというのは大事ですね。
ただ、多元主義(絶対的な真理はないという教え)は、神、創造主を信じない
仏教的な考えですね。 
仏教徒の方を、非難するつもりはないですし、多元主義を主張する方は
それはそれでいいとおもいますが、多元主義には同意できないです。^^
もちろん、私は争いは望んでませんし、共存は望みます。

宗教、信仰において。。多元主義を推奨したからといって、この世の
問題、犯罪、戦争がなくなるわけでも。。ないです。
この世の問題は、信仰(宗教、思想)の違いではなくて、仏教でいう業欲の深さ、
聖書でいう<罪>の傾向。。わかりやすく言えば、利己主義、自己中心的
傾向から来ています。 
仏教の教えも、聖書の神の教えにも、倫理観にたいしても、まったく敬意のない、
人間が様々な問題をおこします。

よく一神教は、排他的だという人もいますが
排他的というと言い方は悪いですが、親が自分の子供を特別愛し、
養うのは当然のことでしょう。 
なおかつ、周りの人にも出来る範囲で親切に、協力的にしていれば
問題はないのです。
国はまず自国の利益を考え、その次に周りの国とも良い関係を築くものです。

一神教や、またほかの信仰のその排他的(神の正しさを絶対視すること)なことよりも、問題で、恐ろしいのは。。利己主義のほうです。
自分さえよければ、それでいいという考えです。


> そして、般若心経の「色即是空、空即是色」にみられるように、すべての事物は関係しながら変化を続けるといったように、科学的にも認められる物質的な現実の中で、キリスト教での信仰や、仏教での悟りによって生きる道を開いていくのが大切だと思います。

自分や周りの生きる道を、大切に扱うのは大事ですよね。

自分にある罪、業を。。どうにかしたい、制御したり、解放されたいと願う
信仰を持つ人(キリスト者、仏教徒、)または無宗教であっても、自分の
人格を磨いて、共存を願う良心的な人もいます。

その一方で、自分の罪の傾向、業を、正当化して、好き放題する人もいます。
この世の支配者層や、この世に流されている人は、残念ながら、自分のなかにある罪、業、欲の赴くまま、行動をしていると思われます。

変化はしていきますが、人の業や欲は。。無くなりませんよね。

   メンテ
No.72に対する返信 ( No.73 )
日時: 2015/07/11 15:30 (odn)
名前: いしまる

ききさんへ、

やはり、問題の本質は“多元主義”にあるようですね・・

私の一神教についての疑問が完全に払拭してないところと、あなたの、多元主義に同意できず、他の宗教には好意的であっても融和はできない、という観念や思想には齟齬がありますよね。これは、別に個人の間の思想の違いなので何も問題などありません。

しかし、キリスト教とユダヤ教との関係を考えると、キリスト教はユダヤ教の一宗派として誕生していながら・・。
イエス キリストの受難、つまり、イエスは、ユダヤ教徒によって、ユダヤの裁判にかけられた後、ローマ政府に引き渡され磔刑(はりつけ)に処せられたのですよね。

イエスを迫害し、抹殺したのは、ユダヤ人であるわけです。キリスト教の教父たちはユダヤ人たちがキリストを十字架刑に追いやったとしてユダヤ人を厳しく糾弾し、これがキリスト教社会による、ユダヤ人への差別と迫害の始まりと見ていいでしょう。もちろん「出エジプト」と「バビロン捕囚」の歴史をみれば、ユダヤ人がそれ以前の、旧約聖書の古代ユダヤ民族の時代から、差別と迫害を受けていたのでしょうけど。

イスラム教はユダヤ教やキリスト教の影響を受けて成立しましたね。
しかし、ムハンマドが口述する「コーラン」にはユダヤ教とキリスト教に関する誤解が多く含まれていて、政治的にもユダヤ教とイスラームは対立するようになり、イスラム教はキリスト教とも対立関係に入り、それ以降に口述された「コーラン」にはユダヤ教とキリスト教に対する罵倒が頻繁に登場するようになったそうです。

長い歴史の中で、キリスト教やイスラム教はユダヤ教を差別し、キリスト教とイスラム教も激しい敵対を繰り返しました。現代の政治や社会問題は、戦争として、これらの宗教間対立の暗い影を落としているわけです。

たしかに、利己主義や罪、業を正当化して欲の赴くまま、行動する人は反宗教的というか、神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間のすべての営みや活動に対して、自分勝手な思い込みや思考で、好き勝手な行動を起こす人たちなのでしょう。

そして、宗教の多元主義というのは、さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想です。

その多元主義を認めないような、頑なな宗教思想は利己主義や差別主義、欲の赴くままの自己中心性思考と裏腹で、表裏一体の思想だと思いますね。

私が宗教を信仰したり、修行する上で必要だと思っているのは、自分の信じる神や仏と同じレベルで、他宗教の経典や教義を尊重し、理性的に、より高い認識・理解に自分を導くことだと考えます。
   メンテ
No.73に対する返信 ( No.74 )
日時: 2015/07/11 21:49 (dip0)
名前: きき

いしまるさんへ
> やはり、問題の本質は“多元主義”にあるようですね・・

問題の本質は、神を認めているのか、認めてないのかでしょう。
多元主義というのは、絶対的な神をみとめてませんので、
そこは、あいいれませんよね。^^

クリスチャンも、共存は望んでますよ。でも多元主義(神の存在、
権威を否定すること)には同意できません。

キリスト教とユダヤ教の関係について。。
ユダヤ教徒の多くが、イエス様を<救い主と受け入れられず>、
神の子だということを冒涜だとして、磔にしたといえますね。

イエス様や弟子たちが、旧約聖書自体を大切にしていたのは事実ですし
ユダヤ教徒の中でも、イエス様を<救い主と受け入れていた>人は
いたというのも事実です。

> イエスを迫害し、抹殺したのは、ユダヤ人であるわけです。

迫害したのもユダヤ人ですが、最初のキリスト者(キリスト教徒ではなくて
キリストに従うもの)になったのも、ユダヤ人ですね。

ユダヤ人差別に関しては、たしかに、キリスト教対ユダヤ人以前にも
、バビロニア、アッシリア、ローマなどほかの異教徒からの迫害や制圧を
受けていましたね。

> イスラム教はユダヤ教やキリスト教の影響を受けて成立しましたね。

コーランは、旧約、新約聖書の一部が。。含まれてはいますが、
だいぶ違う解釈がありますよね。
イエスは預言者として受け入れているけれども、救い主としては認めてないですね。

> 長い歴史の中で、キリスト教やイスラム教はユダヤ教を差別し、キリスト教とイスラム教も激しい敵対を繰り返しました。現代の政治や社会問題は、戦争として、これらの宗教間対立の暗い影を落としているわけです。

ユダヤ教徒も、キリスト教やイスラム教を、差別といいますか
関わりを避けている部分がありますね。
間違って解釈して、選ばれた民=優れていて、ほかの民が劣っていると
見ていた部分もあるでしょう。
ただ、少数派なので差別され迫害されているというイメージが強いですね。

現在世界を動かす影響があるのは、イスラエルや、アメリカのユダヤ人
(イスラエルロビー)といわれているひともでしょう。
(もちろん、質素に暮らしてる普通のユダヤ教徒のひとが
ほとんどだとおもいますが^^)

いまは、どちらかというと、イスラム教の国々が
イスラエルを嫌ってますよね。

キリスト教世界が、イスラム教世界と対立があったのは事実です。
国の利権の拡大のために、つまり黙示録にもありますが、世の王たち、政治家などが
大バビロンの淫婦(キリスト教と自称していても、実際は聖書の神の
教えには従ってない組織)と手を組んで、悪行をしてきたと思います。

神の教えが、戦争を起こす教えではないのです^^
権威をもってしまったキリスト教会が、間違った道に進んだとも言えます。

人が、罪の奴隷状態から救われ(霊の救い)そして世の奴隷から救われ
(魂の救い)て、神の奴隷(子供)になるというのが聖書の教えです。
しかし、教会が、この世の権力に迎合してきたという部分はあります。
教会といえども、人の組織ですので、過ちは起こります。

黙示録には、(1世紀の時点で)バビロンから離れるようにという聖書の預言
がかかれています。
キリスト教会が、この世の王と悪行を犯すことは、前もって神には
わかっていたことなのです。(イスラエルの民が異教の神にはしって、
神の教えから離れているという、罪の歴史もあります。
歴史は繰り返す。。ではないですが、人の罪は根深く、何度も過ちを犯すのです。)

私自身、権威主義的な教会、この世の政治にかかわり過ぎている教会とは
距離をおいたほうがいいと思います。

黙示録18章2〜5
彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。
すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」。
わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。
彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。

聖書の神とその教えを愛しているクリスチャンもいます。
すべてのクリスチャンが、戦争など争いをのぞんでいるわけではありません。
でも、戦争は。。起こってしまうものです。

イスラエルはおそらく。。近い将来。第三神殿を作るでしょう。
そのための準備を用意していています。
神殿建設研究所というところが、建てるプランを
発表してます。
建てる<時>を待ってるだけのようです。
建てれば。。戦争がおこるか、攻撃されるでしょう。

> そして、宗教の多元主義というのは、さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想です。
>
> その多元主義を認めないような、頑なな宗教思想は利己主義や差別主義、欲の赴くままの自己中心性思考と裏腹で、表裏一体の思想だと思いますね。

多元主義を認めないのが、利己主義とはおもいません。
多元主義というのは、絶対的な創造主、神などいない、真理などない。。と言っているようなものですよね?

多元主義を求めている人たちがいることは、認めます。
でも、クリスチャンはそれに同意できないですね。^^

もちろん、キリスト教会の中でも、エキュメニズム(宗教の統一)を推奨してる
ところもありますが。
わたしは、なんでもかんでも、一緒にすればいいとは思いません。^^

コンビニのような画一的な宗教になれば、いいということでもないです。
そもそも、何を基準に統一するかとなると。。それも問題になります。

> 私が宗教を信仰したり、修行する上で必要だと思っているのは、自分の信じる神や仏と同じレベルで、他宗教の経典や教義を尊重し、理性的に、より高い認識・理解に自分を導くことだと考えます。

尊重はしても、同調はしない。。それでいいと思いますよ。
より高い認識、理解といっても。。それは、<知識>ですよね。

信仰というのは、知識だけではなくて、神とその教えへの愛や信頼関係
が大切なんです。

クリスチャンの信仰に、理解や尊重があれば、
多元主義に同意できないのは、納得できると思うのですが。。。

   メンテ
No.74に対する返信 ( No.75 )
日時: 2015/07/12 09:03 (odn)
名前: いしまる

ききさんへ、

今回、あなたの意見やキリスト福音会のHPを見たりして、キリスト教(プロテスタント)の福音派の方が、宗教多元主義を否定しているのはよく分かりました。

たとえば「受肉」・・すなわち、神の子キリストがイエスという人間性をとって、この地上に生まれ“神”が人の形をとって現れる、受肉の教理は、キリスト教を唯一妥当性のある宗教として絶対化する最大の要因になるのでしょう。

キリスト教を相対化して、他にも妥当性のある複数の宗教の存在を認める、宗教多元主義というものは、イエスが神の受肉であることを否定しなければならなくなりますからね。

つまり、イエスが神の受肉であれば、イエスをキリストとするキリスト教こそ、唯一の神の最終啓示であり、それ以外の宗教を認めることはできないというわけですね。

しかし、今の世界は宗教多元主義の時代です・・。さまざまな宗教がそれぞれの違いを尊重しながら連帯する、という時代になってきています。他宗教の経典や教義を尊重し、より高い認識・理解に自分を導く、というのは、単に知識や理論だけではなく“実践”“実行”しなければならないのだと思います。

宗教多元主義の枠組みの中で、キリスト教が人間性の変革をもたらす実力のある宗教として、主導的位置を占めることができるとすれば、聖霊運動の波がキリスト教という宗教の枠を超えて、世界の人々に及んでいくようになると考えられるでしょうか。

しかし・・宗教というものは、その教えの最終目標、概念というものが、それぞれまったく違うところにあるというわけです。

仏教は、輪廻転生から抜けること、つまり「悟り」が最終目標であって、輪廻の終了を確信するための方法を、修行というかたちで説き示したのですね。

神道は自然崇拝・アニミズムなどを特徴とし、現世利益、現世主義的といったところに特徴があるでしょうか。

キリスト教はイエス・キリストの十字架の死と復活を、信じれば救われる。つまり救いは天に上ること。天国まで引き上げてくださる救い主は、キリストであるというわけですね。

詰まるところ・・自分の信じる宗教やキリスト教を絶対化することなく、自分の存在も相対化して、柔軟な姿勢で、硬化した宗教の枠にとらわれることなく、各自が体験している宗教の現世利益など有用性を証言し、伝えていく必要があります。そのような姿勢が、これからの宗教多元主義の時代に求められる宗教の姿であると思います。

というわけで、宗教、とりわけキリスト教についての私の疑問が解け、ある程度の理解が深まったので、この辺で区切りをつけたいと思います。また何か、疑問が湧きましたら相談しますので・・

また、スレ主さんには、悩みのための貴重なこの場をお借りしてすみませんでした。
   メンテ
No.75に対する返信 ( No.76 )
日時: 2015/07/12 17:35 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
> 今回、あなたの意見やキリスト福音会のHPを見たりして、キリスト教(プロテスタント)の福音派の方が、宗教多元主義を否定しているのはよく分かりました。

福音派というのは、とくに、聖書を真実と認めているので
かなり保守ではあります。
キリスト教界のなかでも、ときに批判されることもあります^^
しかし、世に迎合してリベラルになりすぎたら、それこそ神への信仰から
逸れるので、もはやキリスト者と言えなくなるでしょう。

> つまり、イエスが神の受肉であれば、イエスをキリストとするキリスト教こそ、唯一の神の最終啓示であり、それ以外の宗教を認めることはできないというわけですね。
そうですね。^^
そこを否定したら、クリスチャンではなくなります。
復活もなければ、天国への信仰もなくなります。

> しかし、今の世界は宗教多元主義の時代です・・。さまざまな宗教がそれぞれの違いを尊重しながら連帯する、という時代になってきています。他宗教の経典や教義を尊重し、より高い認識・理解に自分を導く、というのは、単に知識や理論だけではなく“実践”“実行”しなければならないのだと思います。

聖書の教えは、様々な宗教の、倫理観に通じるところもあります。
とくに、仏教や儒教などは、ほかの異教(かつてのバビロニアの異教など)
とはちがって、高い倫理を説いている部分は、共通するでしょう。

キリスト教の良い部分は、福祉に影響を与えたところでしょう。
病気のひと、障害のあるひとへの配慮、子供、女性の教育などが
発展したのは、キリスト教世界がもたらした、良い部分です。

ガンジーも、山上の垂訓に感銘を受け、非暴力、非服従で戦いましたね。

> 詰まるところ・・自分の信じる宗教やキリスト教を絶対化することなく、自分の存在も相対化して、柔軟な姿勢で、硬化した宗教の枠にとらわれることなく、各自が体験している宗教の現世利益など有用性を証言し、伝えていく必要があります。。

宗教の現生利益などの有用性。。
つまり、聖書でいうと、<魂の救い>の部分ですね^^
魂の救いは、この世の考え(常識と思われていること)からの解放でもあり、
聖霊の助けと、聖書を読み祈ることによって、人格形成されることですね。^^

日本人の多くは、これといった信仰(強い確信)がないひとがおおく、
宗教においては。。多元主義的でしょう。
しかし、信仰がない人は、普遍的な聖書の教えや、仏教や儒教の教えではなくて、
<変動的な人の考え>、自分の常識、世間の考えを絶対的なものにしてしまいます。

人は、なにかしらを、絶対的なものではないにしても、それに近いくらい
大事な考えとして生きるものです。
常識によって、守られる部分もあれば。。常識にとらわれて、苦しんだり、人をさばいたり人の目を気にしたりすることもあります。。 
または、都合のいい常識(一部で一般化されていること)を盾に、自分の欲に従って生きることを正当化します。

聖書、仏教、儒教でいわれる。。<高次のものを信じ、それに沿って
生きる>ことが、世のひとには受け入れられないこともあります。
聖書の教えや、仏教や論語の教えと違って、この世の常識は<自己都合>によって、
変化していくものです。

そういうものにより頼んでいる人に、聖書や仏教の素晴らしい
教えや有用性を伝えようとしても、彼らの中の<絶対的な価値観><自己都合の優先>とぶつかるので。。受け入れられないのです。

中には、聖書や仏教の教えに、共感する人もいるでしょう。。でも
信仰までには。。至らないのです。
人生に、キリストを迎えたり、仏教の教えに従って、鍛錬していこうという
気構えをもつまでには。。いたりません。
自分は信仰などなくても、良識があるし、倫理観もあるし、
困ってないから。。それでいいと思う人もいます。 

いわゆる、そういう人が宗教の枠にとらわれないというイメージを
持つのかもしれませんが。

いしまるさんは、原始仏教を信奉しているのでしょうか。
とくに、団体には所属しないで、信奉しているという感じですか。 

ガラシャさん、この場をたくさんお借りしました。
すこし難しい話もあったと思いますが、
聖書の考えの理解や、神様への信頼や愛が。。深まれば
幸いです。^^


   メンテ
Re: キリスト教 ( No.77 )
日時: 2015/07/22 14:06 (enabler)
名前: ガラシャ

何の投稿もしておらずごめんなさい。悩みを聞いてください。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.78 )
日時: 2015/07/23 17:47 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
おひさしぶりです。

学校で何かありましたか?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.79 )
日時: 2015/07/24 07:24 (enabler)
名前: ガラシャ

こんばんは、お久しぶりです。部活の顧問の先生に、きついことを言われて。剣道では手の内が必要なのですが、全然できなくて…


二年生だからって試合に出られると思うなよ!!1年生だって出来てるぞ、面をつけたら学年なんて関係ないんだぞ

と言われました。頑張って出来るように努力もしてるのに、全否定で…
やっぱり私はダメなんだなと思いました。

こんなことでごめんなさい
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.80 )
日時: 2015/07/24 18:33 (dip0)
名前: きき

剣道をされているのですね。

勉強だけでなくて、部活などスポーツや、音楽などにしても
何かを習得するときに、飲み込みが早い人と
すこし時間がかかる人がいます。

努力をしても、頑張っていても、すぐにできないことはあります。
勉強でもスポーツでも、大人になれば、仕事でもそうですよね。

叱責、指導をあなたの人格への全否定ととらないことです。
努力をしてないと、あなたの頑張りを否定しているわけではなくて、
まだ習得してないという、事実<結果>をみて
身につけられるようにしなさいと、言っているのでしょう。

<結果>に関しては、いい評価がされないということは残念だと思いますが
それは、致し方ないですよね^^

注意されて、自分がダメなんだ、全否定されていると思わないことです。
注意や叱咤激励は、あなたの人格への攻撃ではありません。

ヘブル12章10〜11
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

クリスチャンというのは、人生を通して、神に人格を形作られていきます。^^
もちろん聖書を読んだり祈ることなど、神様との交わり(縦の関係)だけでなくて、
家族や周りの人(先生、友達など)との関係(横の関係)においても、
人は、人格を形成するために、訓練されます^^

厳しい指導や、マイナスの評価に慣れてないと、面食らってしまうかもしれませんが、
暴言ではないかぎり、先生の注意や指導を受け入れられるように
感情的に受け取るだけでなくて、事実を受け入れられるように成長することも大切ですね^^

できない、評価されない=全否定された、自分はダメだとおもうのではなくて、
まだまだ、この点においては訓練が必要だなとおもってください。

中高生くらいのときは、勉強、スポーツ、外見のことなどで評価の基準を
重くおきがちです。
もちろん、勉強やスポーツができることはいいことですが、
それは、人やあなたの全体を表す10項目〜のうちのひとつの分野にすぎません。^^

大切なのは、霊の実、あなたがどういう人格を作り上げるか?です
ガラテヤ5章
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

勉強、部活、スポーツ、友達や家族との付き合い、家庭でのお手伝い、今後バイトをしたり仕事をするにしても。。
これらの、人格を築き上げるための、訓練の<手段><過程>と考えると
過度に、落ち込むこともないでしょう。

能力、結果、他人の評価に過度に振り回されないことです。
剣道の手の内をみにつけるのに、1〜3年かかることがあっても
落ち込まないことです^^
人格形成は、30年〜50年たっても、まったく終わりません。
自分にまだ至らないところがあることを、事実として受け入れることは大切ですが
自分がダメだと、否定しないことです。
部分否定、反省はしてもいいですが、全否定を、自分でしてはいけませんよ^^

神様の訓練や、励まし、赦し、戒めは一生続きます^^
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.81 )
日時: 2015/07/24 19:11 (enabler)
名前: ガラシャ

優しい言葉をかけてくださってありがとうございます。少し、気持ちが落ち着きました。これからも頑張れるように、神様に、力を与えてくださいと祈ってみます。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.82 )
日時: 2015/07/25 13:19 (spmode)
名前: 匿名

ききさんへ

私はエホバの証人ですが、あなたの信仰から外れるからとこのような不特定多数の方が見る場で私達が異端であるとの発言、心外で心が痛みます。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.83 )
日時: 2015/07/25 16:25 (dip0)
名前: きき

匿名さん

エホバの証人の考えがキリスト教の考えからすると異端というのは、私だけの意見
だけではなくて、キリスト教界や、その他からみても異端と思われているものです。

キリスト教の教会にもかならず、エホバの証人、モルモン、統一教会とは
違うというふうに、断り書きがあります。

1 三位一体を信じない
2 イエスを神の子とみとめていても、神である(子なる神)と認めていない点
 (クリスチャンも神様の子供ですが、子なる神であるイエス様とはまた別です^^)
3 独自の新世界訳という聖書をつかっており、内容が改竄されていること。
4 予言をなんどかしていて、外していること。
5 律法主義的すぎること 
  (伝道が義務的になっていることや、
  武道(体育)すら否定しているところ。
  誕生日すら祝わない(異教の習慣とはいえ、個人を
  神扱いして礼拝するわけではないですから、構わないでしょう。)

エホバの証人の組織や教義を異端といっているのであって
個人的に、エホバの証人の方の人格を否定するものではありません^^

そして、なにもカトリック、プロテスタントの全ての教会が
絶対的に、全面的に正しいなどとはいっていません。

しかしエホバの証人自体、キリスト教世界(カトリック、プロテスタント)
を、批判されていて<エホバの証人が、唯一神の教えに従う組織>だという主張をされていますよね?

たしかに、キリスト教会に異教の影響、伝統が一部入っています。
多くのプロテスタントや福音派の牧師やクリスチャンはそのことを
知っています^^
エホバの証人の主張と、同じまたは似ている部分もあります
ハロウィーンなどはあまり祝わないクリスチャンもいますよ^^
(基本偶像を用いないこと、兵役(軍事)にかんして、土木作業や福祉など代わりの
業務に就いているかたもいます。
お葬式などで焼香はせずに黙祷だけにすること。。などは、
エホバの証人に限らず、ほかのクリスチャンでも個々人の決定ですることです。)

このよに完璧な教会(組織)も、人間もありません。
カトリック、プロテスタントという<宗派>をひとくくりにして
<絶対正しい>などとは。。、私も多くのクリスチャンもそこまで
言いませんよ。 

でも、完璧ではないものの良心的で聖書の神を心から愛して、教えを尊重したいと願う教会、神父、牧師、一般信徒もいるのです。

レムナント (残りのもの)という言葉をご存知ですか?
エレミヤ書3章3節 
しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。

カトリック、プロテスタントのなかでも、残りのもの。。神の教えに立ち返り、心から神を愛するものはいます。

エホバの証人の組織に属することが、神に従うことでは
ありません。
クリスチャンの信仰は基本は、自分と神との関係です。

使徒1章8節 (イエス様が言われたことですが)
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

クリスチャンは、エホバ(ヤーウェ)の証人ではなくて、
イエス様の証人です。
父なる神であるヤーウェも信じますし、天のお父さんと
呼びかけますよ^^
ヤーウェよ!とは言いませんが。多くの人も、自分の親に対して
名前では呼びませんよね。(呼ぶ人もたまにいますが)
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.84 )
日時: 2015/08/02 21:20 (enabler)
名前: ガラシャ

相談に乗っていただけませんか。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.85 )
日時: 2015/08/21 17:35 (dip0)
名前: きき

ガラシャさんおひさしぶりです
だいぶ日が経ってしまいましたが
学校生活で何かあったのでしょうか?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.86 )
日時: 2015/08/25 01:07 (odn)
名前: いしまる

ききさん、お久しぶりです。

今回また、この場をお借りして質問があります・・

ガラシャさんも、どしどし悩みを打ち明けてください。
キリスト教にかぎらず、仏教や他の宗教、心理学や哲学などすべては、人間の智慧や原理などを探究するために、人の苦しみや悲しみや悩みを打ち明けて、みんなでその苦しみを共有していくことで、心の安らぎを得ようとするはたらきがありますからね。

ちなみに私は、どこの団体にも所属しておらず、実家が曹洞宗であり、宗教に関心があるというだけの普通のサラリーマンのおっさんですよ。

さて、私の今回の質問は、「聖書」についてです。

今、日本でもっともよく利用されている聖書は、カトリックとプロテスタントが共同で訳した新共同訳聖書ですよね。日本聖書協会では新共同訳に代わって新しい訳の「標準訳聖書」の作成を決定したそうで、2016年を目標に出版準備が進められているそうですが・・

ある機会があって、本田哲郎さんという日本のカトリック教会の聖職者で、フランシスコ会の元日本管区長であり、新共同訳聖書の編集委員も務められた、カトリックの神父である本田さんの『釜ヶ崎と福音』を読むことになりました。

本田さんは大阪の釜ヶ崎で、労働者の支援活動を続けながら聖書の見直しに取り組んでおられ、新共同訳聖書の翻訳の偽りを指摘されています。

たとえば・・
マルコ福音書「時は満ち神の国は近づいた 悔い改めて福音を信じなさい」は、
本田氏は「時は満ち神の国はすぐそこに来ている 低みに立って見直し 福音に信頼してあゆみを起こせ」と訳されています。

私としては、悔い改めて福音を信じなさい・・は、福音を信じていればそれでいいんだ、のような上から目線の言葉に感じますし、本田氏は、「悔い改めて」ではなく、低い視点に立って、福音を信頼して自分で行動してください、というのが正しい訳であると言われるのです。

ほかにも、マタイ福音書5章「心の貧しい人たちは、幸いである」については、
本田氏は「心底貧しくされている人たちは、神からの力がある」と訳されています。

これは、翻訳者がほぼ全員、「幸いである」というのは、原文を偽っている、という結論に達していたにもかかわらず、協会が、「変えてしまったら売れなくなる」として、定着度の高い表現は変えないことにしたという、なさけない話であると本田さんは指摘されるのですね。

つまり、正しい宗教、キリスト教に属しているから、天の国に入れてあげましょう。そして貧しいことはそのままで幸いであり、いいことですよ、というのは大間違いであると本田さんは言っています。なので、この従来訳では、貧しくされている人、貧しい人の側からの視点に立って行動したとき、神の特別な力が発揮されるという、福音のメッセージが歪曲されてしまうことになるでしょう。

なぜ、日本聖書協会は、神学傾向の違う翻訳者一人ひとりの訳文を寄せ集め、表記形体だけを統一編集したりして、誤りや、矛盾を生み出すようにするのでしょう?

たとえば禅の世界では、「不立文字」という言葉があるくらい、文字にしても伝えられない、純粋経験の修行の場であるわけです。そして、その大本になった仏教の『ダンマパダ』などの経典は、中村元氏や、どの仏教学者が訳しても、ブッダの教えの神髄はそのままであるはずです。

キリスト教が誤解されている大きな問題点に、まず「聖書」の、事実ではない偽りの従来訳にその間違いがあるのではないでしょうか?
   メンテ
No.86に対する返信 ( No.87 )
日時: 2015/08/25 04:13 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
おひさしぶりです。

わたしは、新改訳と口語訳をもっていますが共同訳聖書は。もってないです^^

プロテスタント教会では、新改訳を用いることが多いと
いわれていますが、訳としてはあまりよくないとも。。いわれてますね。
教会ではあまり用いられないものの、口語訳はまだ良い方だともいいます。
(ただ口語訳は参照聖句がかかれてないので、新改訳を読むことの方がおおいです)

牧師さんや神学者のかたは、
ジェームズ欽定訳(英語)やギリシャ語など原語と比べて読まれるかたもいますね。

> 本田さんは大阪の釜ヶ崎で、労働者の支援活動を続けながら聖書の見直しに取り組んでおられ、新共同訳聖書の翻訳の偽りを指摘されています。

翻訳によって、(一般信徒がよむと)微妙に解釈が違くなる可能性があるので
牧師さんのの解釈(説明)や、解説書などを参考にしたほうがいいですね。

> たとえば・・
> マルコ福音書「時は満ち神の国は近づいた 悔い改めて福音を信じなさい」は、
> 本田氏は「時は満ち神の国はすぐそこに来ている 低みに立って見直し 福音に信頼してあゆみを起こせ」と訳されています。
>
> 私としては、悔い改めて福音を信じなさい・・は、福音を信じていればそれでいいんだ、のような上から目線の言葉に感じますし、本田氏は、「悔い改めて」ではなく、低い視点に立って、福音を信頼して自分で行動してください、というのが正しい訳であると言われるのです。

いろいろな訳がありますよね。
同じ言葉でも言い回しによって、印象は違ってきますね。

罪(罪の行い)を悔い改めなさいということは、言い換えれば、神さまの方に立ち返る
(神様との和解を望む)ということでもあると思います。

低い視点にたつというのは、謙虚になる、へりくだるという
意味合いでしょうか。。? 

よく言われるのが、人の見方(視点)ではなくて、神からの視点(神様のお考え)を
考えることです。

> ほかにも、マタイ福音書5章「心の貧しい人たちは、幸いである」については、
> 本田氏は「心底貧しくされている人たちは、神からの力がある」と訳されています。

> つまり、正しい宗教、キリスト教に属しているから、天の国に入れてあげましょう。そして貧しいことはそのままで幸いであり、いいことですよ、というのは大間違いであると本田さんは言っています。なので、この従来訳では、貧しくされている人、貧しい人の側からの視点に立って行動したとき、神の特別な力が発揮されるという、福音のメッセージが歪曲されてしまうことになるでしょう。

そうですね。
キリスト教という<宗教>や<〜派、〜教会>に属しているから天の国に入るのではなくて、イエス様をキリスト(救い主)と受け入れて、罪を悔い改めて神様と和解をしたから天の国に入れると。。わたしも多くのクリスチャンも考えていると
思いますよ。

心の貧しいというのは、経済的に貧しい、単に謙虚であるという意味ではなくて、
心が砕かれている人、自分の罪深さ、自分な何もないということを
悲しくおもっている状態ですね。

聖書のたとえ話にもでてきますが、他の人と比べてあまり罪を犯してないと
自負している(つまり心が貧しくない、自分は罪が軽いとおもってるひと)
律法学者やパリサイ人ではなく、自分が罪人であると自覚している
収税人や遊女のほうが、自分の罪深を悲しんでいる。。と言えますね。

多く赦されているものは、多く(神を)愛する、神に感謝をするとも
いえます。

人は、どうしても人間の視点(自分や世間の見方)で、比較したり、自己評価をしたり
他人を評価したりさばいたりしてしまいがちです。
律法学者に限らず、だれしもが。。〜よりはマシだとおもって
自己正当化したり、自分の罪を矮小化してしまうことがあると思います。

大切なのは、世の視点から見て、自分から見て正しいもの(ましなもの)
になるのではなくて、神の視点から見て。。自分はどういうものなのか?と
考えることでしょう。

もちろん、罪を犯すことはよくないですし、罪をたくさん犯す状態を
続けることを勧めるわけでもありません。

そのままでも受け入れられるというのは、今のままでいいという
意味ではないものですね。
ここもよく勘違いされるところですよね^^

こういう解釈に関しては、礼拝や受信(洗礼をするための準備)の
際に、詳しく学ぶことがあると思います。
ただ全ての教会で、共通の準備コースがあると言うわけではないですし
宗派によって解釈が違う部分がありますね。。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.88 )
日時: 2015/08/25 05:54 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
少し分けて返信しますね

> なぜ、日本聖書協会は、神学傾向の違う翻訳者一人ひとりの訳文を寄せ集め、表記形体だけを統一編集したりして、誤りや、矛盾を生み出すようにするのでしょう?

神学傾向が違う人々とともに、聖書を作るのは
たしかに難しいですよね。

ただ微妙な訳の違いがあっても、聖書の解釈を聞いたり
よむことで、あるていどはカバー(フォロー)できるとわたしは考えます。^^

ただ神学傾向が大きく違う場合は、おなじ訳をよんでも
違う解釈をすることもありますね。 
ただ、100%聖書をただしく解釈するのは、不可能かと思います。
特に。。預言のことに関しては、訳の問題だけでなくて解釈は非常に難しいです。

> たとえば禅の世界では、「不立文字」という言葉があるくらい、文字にしても伝えられない、純粋経験の修行の場であるわけです。そして、その大本になった仏教の『ダンマパダ』などの経典は、中村元氏や、どの仏教学者が訳しても、ブッダの教えの神髄はそのままであるはずです。
>
> キリスト教が誤解されている大きな問題点に、まず「聖書」の、事実ではない偽りの従来訳にその間違いがあるのではないでしょうか?

訳によって、解釈が微妙に違うことはありますね。
自己流で(それぞれの翻訳のとおり)文字通り理解してしまうと、
違うニュアンスになってしまうことはありますね。

解釈の助けとして解説本があったり、礼拝での牧師さんの説教があったり
日曜礼拝以外に聖書研究なども行われていたりもします。

聖書をほぼよんだことがないひとでも、キリスト教について
一部の情報だけをきいて、良くも悪くも、誤解していることもおおいでしょう。

また多少聖書をよんでいたり、教会に行ったことがあったとしても
自己流の解釈をして、誤解してしまうこともあるでしょう。

クリスチャンに対して修道士のように、つつましく質素な
生活をするものというイメージを持つ人もいると思いますが、
普通に仕事をして、高収入を得てもいいですし、
家をもっても、よい車を持っても別に構わないのです。

裕福なことが悪いことではなくて、利己的になったり
お金の奴隷になることが。よくないことです。
裕福であったり余裕があるからこそ、人をもてなしたり、
援助を惜しまないなど、その人だからこそできることも
あるでしょう。

運が悪ければ(悪い教会や牧師にあたってしまうと)
神様や教えにたいしても、不信感を感じたり信仰を見失うこともあります。

真髄が大事(幹が大事であって、枝葉はそこまで重要でない)というのは、
聖書も同じだとおもいます。
もちろん、あまりにも真髄(本筋)がずれてしまう訳であれば問題ですけどね。

より正しい<訳>であることももちろん、望ましいです。
しかし、一部分の聖書の句(節)の訳がいまいちでも
前後の文脈や、聖書を全体を通して読むと
理解できることも多いものです。

クリスチャンでない人も、聖書の有名な句をしっていることも
多いですが、一つの聖書の句を間違って解釈してしまうのは、
(クリスチャンであっても解釈の間違いは起こりえますが)聖書全体を通してよんでないからとも言えます。 

人を理解するにも、ほんの一面や、ある局面だけの
言葉や態度だけで、その人を正しく判断はできないものです。
聖書も、ほかの部分と照らし合わせることで、神様の
教えや、言葉の意味合いが理解できることもあります。

あるていどの正確な知識(聖書の知識)も大事ですが、
理解を深めるには、神様への信頼や愛も大切だとおもいますよ^^。

   メンテ
Re: キリスト教 ( No.89 )
日時: 2015/08/27 03:20 (odn)
名前: いしまる

まず、マルコ福音書の中で、イエスが最初に口を開く場面での「時は満ち神の国は近づいた 悔い改めて福音を信じなさい」という従来の翻訳が、多くの人の耳に慣れているように思います。

しかし、本田神父はこの部分を「時は満ち神の国はすぐそこに来ている 低みに立って見直し 福音に信頼してあゆみを起こせ」と訳し直されています。

「悔い改める」をあらわす、原文のギリシャ語の「メタノイア」という表現には、悔いたり、改めたりする意味合いは入ってないらしくて、“視座を移す”つまり、物事を見る姿勢や立場、痛みを抱えた人たちの側から、物を見るように見直しなさい、というのが聖書の「メタノイア」の本来の意味であるらしいのです。

さらに、ただ「悔い改めて福音を信じなさい」というのであれば、心を改めて信者になり福音を信じるだけ、そして神様を信じてさえいれば、あとはすべてうまくいきますよ・・のようなニュアンスで、これが、キリスト教という宗教の信仰の一般的なイメージになっていますね。

しかし、そんな現実的に都合のいいものなど、この世にはありません。

信仰をあらわすギリシャ語の「ピスティス」という表現は、“信じて行動を起こす”つまり、信仰というものは、行動をともなって信じる必要があるわけです。

なので、信じた通りに行動しましょう、というのが信仰であり「福音に信頼してあゆみを起こせ」という本田神父の訳が、イエスが最初に口を開いた本当の言葉であると私は思います。

この信仰「ピスティス」は、ブッダの遺言である「自灯明、法灯明」と同じですよ。

つまり、自分自身と、法(ブッダの教え)の二つだけをよりどころにして、救いを求め、祈りと信じるだけの宗教ではなく、自分で行動し進む自己鍛錬の道としての場であるのだよ、とブッダは説かれました。イエスも同じ内容を最初に説かれたのではないか・・と私は思いたいですね。

ききさんが持っている口語訳聖書や新改訳聖書では、その福音書の中で、信じて行動を起こすような、イエスのはらわたをつき動かされて民衆の痛みの共感によって引き起こされる、神のはたらきを読み取り、感じることができましたか?
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.90 )
日時: 2015/08/27 07:58 (enabler)
名前: ガラシャ

またアームカットをしてしまって…
いろいろあって…
   メンテ
No.89に対する返信 ( No.91 )
日時: 2015/08/27 18:37 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは^^

> しかし、本田神父はこの部分を「時は満ち神の国はすぐそこに来ている 低みに立って見直し 福音に信頼してあゆみを起こせ」と訳し直されています。
>
> 「悔い改める」をあらわす、原文のギリシャ語の「メタノイア」という表現には、悔いたり、改めたりする意味合いは入ってないらしくて、“視座を移す”つまり、物事を見る姿勢や立場、痛みを抱えた人たちの側から、物を見るように見直しなさい、というのが聖書の「メタノイア」の本来の意味であるらしいのです。

痛みを抱えた人の立場から(思いやりを持って)物事をみるという
洞察力や、想像力、(良い意味の)同情心をもつということですね。

悪い行いを悔い改めるようにというよりも、罪の自覚や、神様への愛や
義への飢え渇きの足らなさを自覚しなさいということもあるのでしょう。

be hungry ハングリーになれというよりも、むしろ。。私は、
自分が貧しいことを自覚しなさいという意味合いも
あるのではないかとおもいます。

経済的に健康的に恵まれていることは良いことですが、
とくに問題はないけれども、なんだか満たされてないという人もいるでしょう。
そこそこ満たされていても、隣人とのよい信頼関係、人や社会に貢献してないと
満たされないこともありますよね。

> さらに、ただ「悔い改めて福音を信じなさい」というのであれば、心を改めて信者になり福音を信じるだけ、そして神様を信じてさえいれば、あとはすべてうまくいきますよ・・のようなニュアンスで、これが、キリスト教という宗教の信仰の一般的なイメージになっていますね。
> しかし、そんな現実的に都合のいいものなど、この世にはありません。

間違って解釈しているひとも、クリスチャンでないひとでも、クリスチャンでも
いるかもしれませんが、おそらくクリスチャンであれば、理解していると思いますよ。^^
神様に対す愛や神様のお考えへの関心があれば、理解はすすんでいくものです。
もちろん、なかには自己都合で聖書の教えを解釈して、
さらに神様の考えを知ろうとしない方もいるかもしれませんが。

乳、離乳食でおわってしまって、きちんとした霊的食物まで食べようとしない(未信徒だけでなく)クリスチャンもいると思われます。

おそらく、多くのクリスチャンでない方は、キリスト教の
愛とゆるしの部分はすきでも、神の義、裁きの部分は、見たくない、
ということもあるでしょう。

> 信仰をあらわすギリシャ語の「ピスティス」という表現は、“信じて行動を起こす”つまり、信仰というものは、行動をともなって信じる必要があるわけです。

そうですね。
もちろん、〜しなければならないという行い至上主義になってはいけませんが、
悔い改めた上で、行動をするということは大切です。
ここは、バランスをもたないといけない部分です。

そのままでいいよで終わってもいけないですが、その人なりの
成長を見守るという愛や忍耐強さも必要ですよね。

> なので、信じた通りに行動しましょう、というのが信仰であり「福音に信頼してあゆみを起こせ」という本田神父の訳が、イエスが最初に口を開いた本当の言葉であると私は思います。

信頼して歩みを起こすというのは、
信じることによって、歩む力を得る。。と言えるかもしれません。

またイエス様は、ご自身の行いによってお手本を見せていますので
聖書全体をよんで、主の言動をしっかりと読み黙想する必要はありますね。

福音(キリストの救い)は、神様が旧約の時代に約束しておられたことですので
神様を信頼することの大切さをあらためてかんじます。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.92 )
日時: 2015/08/27 22:09 (dip0)
名前: きき

> この信仰「ピスティス」は、ブッダの遺言である「自灯明、法灯明」と同じですよ。

> つまり、自分自身と、法(ブッダの教え)の二つだけをよりどころにして、救いを求め、祈りと信じるだけの宗教ではなく、自分で行動し進む自己鍛錬の道としての場であるのだよ、とブッダは説かれました。イエスも同じ内容を最初に説かれたのではないか・・と私は思いたいですね。

キリストに従い、見習うこと。。クリスチャンになるというとは神に新しく
形作られるということですからね。

たんなる自力(肉の努力)でも、他力本願(なんとかなるとか、なんとか
してくれる)でもなくて 
仏教用語で、そっ豚同時という言葉がありますが、神に依り頼みつつ
恵みを受けつつ、霊的に成長させられるという感じではないかとおもいます。

> ききさんが持っている口語訳聖書や新改訳聖書では、その福音書の中で、信じて行動を起こすような、イエスのはらわたをつき動かされて民衆の痛みの共感によって引き起こされる、神のはたらきを読み取り、感じることができましたか?

どの訳の聖書を読むかというよりは、
信仰をもって読むか、神とその教えをもとめる、飢え渇きを持って
読むかどうかにかかっているのではないかと思います。

聖書を(偉人伝などの物語のように)読むだけだと、どんな訳の
聖書を読んでもイエスは立派な人だったんだな
良い教えだな。。と思うだけで終わることもあるでしょう。
でも自分と自分の人生には関係無いと思ってしまうものです。

人の罪のために死なれたといっても、自分の罪のためにとは
考えなかったり、そもそもそこまで罪を犯して無いと
思っていれば、実感はわかないものです。

私も小、中学生のときに、主に新約聖書を何度か読んでいるときは。。
神様を信じてはいましたが。。まだ教会などにもいってなかったので
基礎的な解釈も足らなかったことから、罪の自覚や、罪の赦しへの感謝の気持ちを
実感してなかったといえます。
小、中学生のときは、実はプロテスタント系の幼稚園のときに教わった、
<隣人を自分のように愛しなさい>という言葉が心にあったため。。人に意地悪をしたり、いうことは皆無だったので、罪を自覚するということもピンとこなかったものです。 なぜ他の人は意地悪したり、足をひっぱたり不毛なことをするのかと
悲しく思っていたものです。

そのためか、イエス様の人格と神様の教えには感動はしたものの。。
自分の罪のゆるしへの感謝の気持ちは。。少なかったと思います。

中学以降、大人になる成長過程で自分と他人の罪や弱さ醜さに嫌という程
ぶつかった上で。。神様を自分の人生に受け入れる決意をして、罪を自覚して悔い改めて感謝を捧げた後に聖書を読んだり、きちんと説教などで解釈を聞いてから読むとだいぶ違いました。^^

父なる神様や、子なる神様であるイエス様への信仰、感謝に
かんしては、クリスチャンでない方も知っているかとおもいますが<聖霊>にたいする信仰については、教会に行ったり
きちんと解釈を聞かないとわからないものです。

罪を悔い改めて、信仰を持ったときに神様からいただ<聖霊>の働きと重要さを理解してないと
聖書への理解も、霊的な成長も。。どこか頭での知識になったり
<自力>の肉の努力になってしまいがちです。

聖霊様の助け(自分の肉の良心ではなくて、あたらしい霊の良心のような存在)がないと、良いことを行ったり行い続けることはできないとおもいます。 

聖霊に関しても、ローマ6章〜8章にかかれてますので
新改訳でも、共同訳でもなんでもいいので。。
よかったら読んでみてください。

いろいろな困難に対する解決はすぐには無理でも、平安をえるのためのヒントや、
自己成長のための課題は聖書を読むことや黙想(内省、反省)による<きづき>もあります。

聖書のみ言葉をよんでいると、自分自身の人生の困難な時期に
幾つかのみ言葉が思い起こされることがあります。

福音書はもちろんですが、ローマ書は好きな書簡です
ローマ8章28節
神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています。

希望のある言葉であったり、耳の痛い、自省(反省)を促す言葉が
思い浮かぶこともあります。

何事も<時>があるという、伝道の書の言葉も好きですよ。
自分が成長するとき、時期を待って耐えるとき、
自分の弱さや自力の努力の限界を認めて、恥を忍んで人に相談したり
頼るべきとき。。黙って自分で考えたり感情や心を整えるべきとき、というのもありますからね。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.93 )
日時: 2015/08/27 22:34 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
アームカットをしてしまったのですね。
傷は浅くすみましたか?
きちんと処置をして、後を残さ無いようにしてくださいね。

親御さんや先生など、アムカをしてしまったことなどは
打ち明けられましたか。。

自己嫌悪や自分や他人へのイライラという感情が生じてしまったり
すること自体は、無くせ無いにしても(防げ無いにしても)
そういう感情が起こったときに、できるだけ
自分を傷つけずに、違う形でストレス解消できるように
いくつか、ストレス方法を決めておくといいですよ。

吐き出すこと、発散することは大切です。
ただ、人や自分を攻撃するというのは、自己肯定感や自己信頼感を
傷つけてしまいますし、自己嫌悪をさらに抱いてしまうとおもいますので、
発散にはなりません。。。

クッションを叩いてもいいです。
好きな音楽を聴いて、発散するのもいいですし
思ったことをノートに書いてから
びりびり破ってしまってもいいでしょう。

私は中学生〜高校生のときは、よく紙に書いて
発散してましたよ^^(人に相談ができなかったので、
聖書を読んだり祈ったり、紙に書いて発散くらいでした)
大人になってから、信頼できる人に、年に数回だけですが。。
相談できるようになりましたが。。
   メンテ
No.90に対する返信 ( No.94 )
日時: 2015/08/28 12:00 (odn)
名前: いしまる

こんにちは。
ききさんには、また後日返信しますね。

> またアームカットをしてしまって…
> いろいろあって…
ガラシャさん・・
アームカットをしてしまう原因というのは、友人関係やそのほかでの、ストレスからなんでしょうね。

アムカへの強い衝動や、それほどの苦しみをガラシャさんが抱えていて、その衝動をなくすには、根本的な問題を解決していくのが必要になってくるものと思われます。

まず、人間に対するあらゆる刺激がストレスになるわけですから、生きている限りはストレスから逃れられません。しかし、だからといって悲観する必要はありません。

ストレスには、良いストレスと悪いストレスがあるからです。

良いストレスは、自分を奮い立たせ勇気づけたりする刺激になる状態。
悪いストレスは、恐怖や不安、過労など自分の心身に悪い影響を及ぼす刺激となる状態です。

良いストレスを受けているときは、むしろ心も体にも良い影響を及ぼすというわけですよ。

ですから、恐怖や不安、疲れからくる悪いストレスを、良いストレスに変えていったり、ストレス自体を軽くするために、嫌なことや不安などは受け手の受け止め方次第で、軽減させることができるのです。

たとえば、「この嫌な勉強を努力してなんとか乗り越えれば、実力をつけられる」とか、
友だちに対して、強い憤りを感じたときは、「落ち着いた心を保ち、気持ちを安定させ、平常心をもてば徳が積まれ、運が開ける」と信じれば、精神的ストレッサーは軽くできます。

またアムカは続けると、嗜癖、常用癖となり、「はまって」いってしまいますよ。

本当にやめたいのだけど、緊急の対処療法的には、
・切るかわりに赤ペンで線を書く。
・氷を握る。
・火傷をしない程度の熱い湯を浴びる。
などがあり、私は熱い湯は今でも浴びることがありますね。

自傷行為ではなく、あなたに最も適したストレス解消法を見つけてくださいね。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.95 )
日時: 2015/08/29 15:58 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

クリスチャンでない者にとって不明なものの一つに、「聖霊」が挙げられますね。

ききさんの返信の中の、
<聖霊>にたいする信仰については、教会に行ったりきちんと解釈を聞かないとわからないもの・・

そして、聖霊の助け(自分の肉の良心ではなくて、あたらしい霊の良心のような存在)がないと、良いことを行ったり行い続けることはできない・・という、聖霊について私なりに考察してみました。

辞書などによると、聖霊とは・・父なる神、子なるキリストとともに三位一体を形成する第三の位格で、霊の人格性と聖性を強調して<聖霊>と呼ぶ、とあります。

つまり実際に、聖霊は神の業を伝えるもので、人に宿り、啓示を与え、聖化へと導くような、助け主なのでありましょう。

有名な、マリアが処女のまま、聖霊によってイエスを身ごもった話は有名ですね。

こういった、聖霊の、神の活動する力、「神の手」を描写する信仰については、たしかに、聖書をしっかり読んで、教会に行き、理解しないと分からないものなのでしょうね。

仏教では、聖霊のように、人に宿り、神の業が伝わるものに相似するものに、<悟り>を得る、というものがありますね。

仏教では神の業ではなく、あくまでも自分の心の修行であり、心を磨く作業により、神通力を得て、煩悩を消滅させる<悟り>を得るためのカリキュラムがあるのです。

それは「三十七菩提分法」といって、
「四念処」に始まり、「四正勤」「四神足」「五根」「五力」「七覚支」そして、正しいものの見方を基本とした、「八正道」の総計三十七種の修行方法があります。具体的には生活方法や、呼吸法、瞑想などによる修行ですね。

こういったカリキュラムで、<悟り>へのステップがすべて述べられています。それは、やはり仏教では、生きる苦しみで悩みぬいた末、出家して修行される方が多いようです。すべての仕事や、俗世の生活や楽しみから離れ、僧侶になり、釈迦の教えに従って修行し、心を磨き、そこで体得した境地を法話として皆に伝えていかれるのでしょう。
   メンテ
No.95に対する返信 ( No.96 )
日時: 2015/08/29 20:28 (dip0)
名前: きき

いしまるさん こんにちは^^

> クリスチャンでない者にとって不明なものの一つに、「聖霊」が挙げられますね。
実はクリスチャンでも、聖霊に関しての知識といいますか
理解には差があるものです。

> ききさんの返信の中の、
> <聖霊>にたいする信仰については、教会に行ったりきちんと解釈を聞かないとわからないもの・・
教会ですら、聖霊の働きに関してあまり説明しなかったり、その働きのたいせつさを
教わらないこともあります。

自分が霊によって生まれ変わり、聖霊をうけたのだ。ということを
教会で教わっても、単に知識として、そうなんだと<他人事のように>軽く流すのと、信じて理解して<自覚をもつ>かどうかによって差がでてしまいます。

知識をただ表面的に知っているのと、自分のものとして受け入れるというのは、
違うものです。

> つまり実際に、聖霊は神の業を伝えるもので、人に宿り、啓示を与え、聖化へと導くような、助け主なのでありましょう。

罪の赦しや聖霊を授かっても、そのことをクリスチャンが理解、自覚してない
また、聖霊の働きを本人が望んでないと。。発揮されないという部分もあります。

<自己認識>がかわらないと、ひとはすぐには変われないことがあります。
私も含め。。どうしても古い自分の考え(主観、経験)に惑わされてしまうことも
あります。
もっと霊的な思いに満たされるようにしたいですね。。^^

> 仏教では、聖霊のように、人に宿り、神の業が伝わるものに相似するものに、<悟り>を得る、というものがありますね。

> 仏教では神の業ではなく、あくまでも自分の心の修行であり、心を磨く作業により、神通力を得て、煩悩を消滅させる<悟り>を得るためのカリキュラムがあるのです。

祈りや黙想(瞑想)によって、神様、仏の教えを思い巡らすことは
大切ですよね。

仏教では悟りを開くことにより、煩悩から解放される
というものですが。

聖書でいう聖化というのは、微妙に違います。
神が、十字架の贖いによって、罪をゆるしてくださった時点で
すでに、<罪からの解放は完成している>ということです。

たしかに、信仰を持ってもすぐに、クリスチャンがすぐに
(または死ぬまでに)キリストに似たものになっている
わけではないかもしれません。、
聖化が、<目に見える事象を見れば>現在進行中であるとはいえ。。
すでに、救いは完了している、(仏教で言えば、煩悩からの
解放はすでに終わっている)ということなのです。

この点は理解が難しいのですが^^
聖化、目に見える変化を遂げることは大切なのですが
それ自体が、罪(煩悩)からの救いをもたらすとか、
それが<目的>クリスチャンが、教えを実行できるように
鍛錬するための義務、修行というと微妙に違うのです。

むしろ救いの<結果>の一つとして、聖化があるといえるでしょう。(自力では聖化はむりです)
肉の体を持って、この世で生きている間、聖霊の助けによって
可能となる聖化(キリストに少しでも似せられること)というのは、神様の救いによってもたらされる<恵み>だと思います。
聖化に至ることは、<神に栄光を帰すること>になるのです。

うまく説明ができませんが。。。
私はそのように捉えています。

すべての信徒が、出家したり修道士や牧師などにはなれませんが
それらの方のお話を聞くことで、聖書やブッダの教えへの
深い理解が深まりますし、助けや励ましとなるので、ありがたいですね^^。




   メンテ
Re: キリスト教 ( No.97 )
日時: 2015/08/30 23:39 (odn)
名前: いしまる

聖霊といえば、聖霊降臨と呼ばれる新約聖書にあるエピソードの1つで、イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた信徒たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事が有名ですかね?

教会における最初の聖霊のはたらきが示されたのは、この時の弟子たちが集まって、祈っていたときで、舌の形をした「炎」が一人ひとりの頭の上に止まったといいます。この日から、弟子たちは声を張り上げて、イエスの教えを伝え始めたといわれますね。

つまり聖霊というのは、人に宿り、人間の力では知ることのできない宗教的真理を、何かしらの超自然的存在を介して人間へ伝達するものなのでしょう。そして聖霊の働きによって人間がすべての罪から救われ、生命の霊、すなわち永遠の生命のために、ほとばしり出る“霊魂”そのものなのでしょう。(これはあくまでもキリスト教における聖霊の私なりの想像です)

私が仏教に興味を持ち、キリスト教にも関心を持ったのは、正直に言って、現世利益のためです。

私は若いころから、いろんな劣等感を抱いていて、人と付き合うのが苦手で、友人や周りとのよい信頼関係をきずくのも困難でしたしね。やがて、40代で何とか自分を変えたい、変わりたいという一心で、仏教や心理学を勉強してみることにしました。

しかし、頭の中での形だけの知識を植え付けても、何も変わらない。それは仏教の修行を自分なりに実直にやってみても同じです。何かしらの邪念と煩悩とが修行の邪魔をしているのでしょうね。(むしろ、心理学の方の自律訓練法というリラクセーション法は効果があったと思います)

ここへ来て、本田神父の「心底貧しくされている人たちは、神からの力がある」という聖書の言葉には、目を開かされました。貧しくされている人、貧しい人の側からの視点に立って、福音を信じて行動したとき、神の特別な力が発揮されるという、宗教や哲学、心理学のエッセンスがそこにすべて詰まっていたからです。

つまり、聖書に記された神の人類救済の歴史は、世の中の貧しい人たち、貧しく小さくされた人たちが選ばれているというところでしょう。

民の父祖アブラハムは、寄留者であり、モーセは逃亡者であり、イエスの十二人の弟子は罪人とみなされ、イエスは、当時のユダヤ社会の低みに生まれ、低みに立ちつづけ、罪人として低みに死んだイエスは救世主として復活しました。

この聖書の言葉は・・私が昔からの劣等感に悩み、人付き合いや自分の能力のなさに苦悩していたような、閉塞していた自分の人生に勇気を与えてくれたようです。

このように、聖書の言葉に力を与えてもらいながら、仏教での心の修行をしてみるという方法もいいかもしれませんが・・クリスチャンが、聖書の教えを実行できるように鍛錬するための、“義務”“修行”というものが何かあるのですか?
   メンテ
No.97に対する返信 ( No.98 )
日時: 2015/08/31 04:56 (dip0)
名前: きき


聖霊により、異国の言語を話すという奇跡がおこったり、
使徒たちなどが、病気を癒したり、悪霊を追い出すなどの働きを
することもありますね。

現生利益については、最低限の経済的な安定や精神の安定、良い人間関係は誰しも望みますし、それを望むことが、悪いことでもないですからね。^^
ただし宗教が現世利益を売りにして、儲けるのはいただけないですよね。

人間関係はほんとうに難しいですよね。 ほんとうの信頼は、築くのに難しく
、相手次第では失うのはあっという間ですからね。

聖書は福音(救い)を知らせる書物ではありますが、人間の罪の始まりと
その結果も書いてあります。
人間関係での勧め、アドバイスも沢山あります。

多くの宗教書や、自己啓発書、心理学の教えでも、元となるところは
聖書であることが多いですし、共通する面がありますね。

> しかし、頭の中での形だけの知識を植え付けても、何も変わらない。それは仏教の修行を自分なりに実直にやってみても同じです。

知識だけでは、かわれないというのは。たしかに事実ですよね。
自分の思考、固定観念(自分自身への、必ずしも正しくない自己評価、
世間の常識や見方)、意識が邪魔をしている場合は変われないものですよね。

> ここへ来て、本田神父の「心底貧しくされている人たちは、神からの力がある」という聖書の言葉には、目を開かされました。

人の低いところからの視点というのは、反対に言えば
神からの視点(神の自分への愛ある見方)でもあると思うのです。

> つまり、聖書に記された神の人類救済の歴史は、世の中の貧しい人たち、貧しく小さくされた人たちが選ばれているというところでしょう。
神様は心の貧しい人たちを省みてくださっていますし、
神様は、外見によって偏り見ない方で、人の心を見る方です。
富んでいるひとでも、心の良いひとであれば神様は愛されて用いられます。

アブラハムは信仰によって認められ、神様のご指示によって生まれ故郷をでて
カナンへむかいつつ寄留者となりました。
モーセはイスラエルの民を救うために、選ばれたと言えます。
王のもとで育ち恵まれていましたが、自分がイスラエル人だと知り、エジプト人を殺してしまったため逃亡者となりました。。でも、神の命令によりエジプトに向かいイスラエルの民をエジプトから救い出しましたね。

イエス様は、ユダヤ社会の低みに生まれたのは、神様の愛の深さと謙虚さの
表れですよね。 
きたない家畜小屋というのは、私たちの罪の汚さを表すともいえます。

世の中で富んでいるように見える人でも、
罪とその結果であるの、死からは解放されないので、憐れみと救いの対象です。

> この聖書の言葉は・・私が昔からの劣等感に悩み、人付き合いや自分の能力のなさに苦悩していたような、閉塞していた自分の人生に勇気を与えてくれたようです。

神様は、悲しみにある人、社会で劣等感を感じる人のそばにもいますね。
社会の価値観というのは、進化論という土台を信じていると、弱肉強食を
当然のもの(致し方ない)とおもったり、弱者への思いやりがない
部分がありますよね。

> このように、聖書の言葉に力を与えてもらいながら、仏教での心の修行をしてみるという方法もいいかもしれませんが・・クリスチャンが、聖書の教えを実行できるように鍛錬するための、“義務”“修行”というものが何かあるのですか?

義務といいますか、守るべき大切な教えはあります。
マタイ22章36〜39です (旧約聖書のレビ記19章の引用でもあります)
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

一般の自己啓発書や、心理学書では、人間関係においての
<黄金律>として<隣人をあなた自身のように愛するように>とだけ紹介しますよね。
しかし<第一の戒め>というのは、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして
神である主を愛せよ。。です。

神の存在と、神への愛や教えを抜きにして、自分と同じように隣人を愛しても。。
片手落ちと言えます。

クリスチャンは、とくに戒律への<義務>はないです。
律法は、キリストに導くための養育係としての役割があると
パウロも述べています。
いわば、義務教育(他律や強制、義務による信仰生活)から
高校〜大学以降の、(自主的な、自律)信仰へと変化したと言えます。

義務ではなくて、神への愛によって、神の教えに従うのです。
子供が親の意見を聞くのは、義務や強制ではなくて、愛や信頼であるほうが
望ましいですからね。^^
義務から教えを守るのではなくて、愛を動機にするのがより望ましいです。

イースター前などに一部断食(アルコールやコーヒー、甘いもの、肉類など)
をするクリスチャンでもいますが、断食をしないからといって、
不信仰だと裁くべきでもないのです。
アルコールも一切飲まず、肉などを食べない宗派もありますが、
それを守ってもいいし、守らなくても救いには関係ないのです。

律法を多く守ってるからといって、神や隣人への愛がなければ
自己満足や、優越感をもつだけで終わってしまいます。

特別な修行は、必要はないです。
そもそも、罪からは救われているものの、罪の影響下にある
この世で生きている間に、<霊的な戦い>というのは十分あるものです。

エペソ6章10−12節
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.99 )
日時: 2015/08/31 11:26 (enabler)
名前: ガラシャ

やっと少し、落ち着いてきました。
実は彼氏の前で、素直になれなくて。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.100 )
日時: 2015/08/31 11:28 (enabler)
名前: ガラシャ

もう書き込みができないので、新しいスレを作ります。
ききさん、いしまるさん、これからもよろしくお願いします。
   メンテ

Page: 1 |

この度、テーマを『生きること、そうでなければ、死ぬことについて』としまして、皆様の死生観や現実の生活における知恵など、自由な視点からの寄稿をお願い申し上げております。

カテゴリ こころの悩み
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