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キリスト教 3

日時: 2015/11/08 22:04 (enabler)
名前: ガラシャ

このスレももう3つ目になります。ききさん、いしまるさん、お二人のお陰で、色々なことを知り、救われることも多くありました。

これからもよろしくお願いします。

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No.0に対する返信 ( No.1 )
日時: 2015/11/09 08:43 (odn)
名前: いしまる

ガラシャさん、新しいスレ立てありがとうございます。

> お二人のお陰で、色々なことを知り、救われることも多くありました。
そう言っていただくと有り難いです。

本田神父によると・・「救い」とは「神の国に生きる」ということと同義であるらしいです。神の国とは、聖霊と一体になって実践する、解放と平和と喜びであるとのことです。

つまり、いじめやその他、しいたげられて、苦しんでいるその人の側にしっかりと立ち、抑圧を解いて、苦しみから解放する平和を実現させ、みんなに真の喜びをもたらす。それが神の国というわけですね。

今回も、仕事がいそがしいので返信が遅れますが、よろしくお願いしますね。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.2 )
日時: 2015/11/09 17:36 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
少しでも、心が軽くなれば幸いです。

それぞれ年齢に限らず、一人一人が
抱える問題や重荷はありますよね。

誰かに話したり相談したりして、心の重荷が
少し軽くなることもあれば
どうしても話せない時は(細かいことは、プライバシー
の問題もあるので話せませんよね^^それに
うまく伝えにくいこともあるでしょう。)、神様にお祈りして、聖書を読んで、重荷の中で何を手放すべきか、
どう対処したらいいかを問うということも大切です。

苦しい時、悲しい時は、辛くて失望してしまったり
絶望しそうになることもありますよね。

四方八方、どうにもならないように見えても
(自分の目に救いや解決がないように見えても、
誰も理解できず、助けてくれそうにない時でも)天は空いています。
神様は、どんな時にも、あなたのそばにいますからね^^

イザヤ書49章15節
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。

親御さんとの関係は、良いようですが
それでも、すべてを相談したりはできにくい時や
理解しえない時もありますよね。
親御さんも、あなたも互いに少しでも
理解したくてもできない時もあるでしょう。
不安になったり、時には怒りや不満も生じることも、あるでしょうが、どんな時でも神様は、そばにおられますからね。^^

自分を責めすぎず、神様の子供として愛されていること、
そして霊的に(心や精神も)成長ができることを信じてくださいね。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.3 )
日時: 2015/11/11 17:48 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。
仕事が落ち着いたのでレスします。

『夜と霧』のヴィクトール・フランクルの思想には、私も助けられましたね。
「人間は、常に人生から問いかけられている存在である」というのが人間のあるべき姿であると、フランクルは考えました。つまり、人というのは、自らの力のみによって生きているのではなく、“何か他の力”何か他の働き”によって生かされているのでしょう。

自分の人生には、どんな意味が与えられていて、どんな使命がが課せられているのか・・それを発見し、実現するように日々、精一杯生きていくというところに、「人生から問われている」の、フランクルの言葉の意味があらわれていますね。

> 悪とは善の欠如ですか。
> 善の欠如と言うより、神との愛と信頼ある関係から
> 離れること(断絶、不従順)が、罪や悪へと結びつくという感じがします。
私もそう思いますよ・・・。悪というのは、人間の貪欲など、むさぼり(必要以上に求める心)や、怒りや憎しみ、そして、思い上がりや、真理に対する無知の心が悪を生みだしますからね。

ユングは「悪はどこから来るか」という問いには、キリスト教世界では答えられていない、と言っていたそうです。そして、原始キリスト教における「悪とは善の欠如である」という教義に対して疑問を抱いていました。彼の考えでは、人間の本性というものは、善と悪、精神性と物質性、神性と悪魔性の結合において存在していて、キリストと反キリスト(悪魔)を一体不可分の関係にあるものとしてとらえています。

ききさんは認めないでしょうが・・ユングが堅く信じるところでは、悪は、神の中に、また人間の中に確かに存在すると、すでに、ユングは若いときから自然界や人間の内面の中に、そして神の中に悪が存在するという体験的確信があり、暗にそれを主張していたそうです。

これはグノーシス思想の影響を強く受けていますよね。しかも善と悪は、共に人間をこえた神的な力として、この世を支配しているものと考える傾向があり、悪は、善と同じく“実体”として存在するものとして考えられたそうです。(この辺の思想は、欧米に巣食うロックフェラーなど、悪魔のようなハザールマフィアの存在があるので、私には分かる気がします・・)

> ユングのお父様は、牧師であったものの、母親と祖父には
> 霊感があって、霊界(神の聖霊とは違う物?)と
> 交信していたということですか。
ユングの母方の家系は、霊能者(霊媒師)として有名だった牧師の祖父や、透視能力を持っていた祖母、そしてユングの母や叔母とその一家の人々がいて、つまり、ユングのいとこ達も、全員何らかのサイキック能力を持っていたと伝えられています。

ユングは、この母方のいとこ達と幼少の頃から親しく遊んでいたそうで、彼にとって、霊や魂という目に見えない存在、テレパシーや予知、透視のようなサイキックな能力は、その存在を証明する必要すらないほど、身近であり、確実に存在するものだっだのでしょう。

ユングが無意識との対話を通じて自らの病の治癒をすすめ、ヨガの瞑想法を実践していくとき、彼は易経や気功法など「東洋哲学」への傾倒がありました。そして何と、ヨガの瞑想法は独習で達人となり、霊的なグルー(師)を持つようになります。そして「無意識」のしくみを知り、その奥の「自己(セルフ)」について、心を“神”へと高めていく構造を理解していったようです。

しかし、1952年『ヨブへの答え』というユングが75歳くらいの著書が出たとき、ユングは、神は人間に対して善のみではなく、悪をなす存在だと説いた・・という非難の声があがり、教会関係者から激しい敵意が彼に向けられたそうですね。彼は親しい友人に向かって、「昔なら私は火あぶりになっていただろう」と語ったそうですよ。

> 私は、聖書の創造論を信じてますよ^^
聖書にいわれる創世記を、生命の進歩や成長を認めつつ、信じておられるのですね。
私は進化論を疑いませんが、創世記の古代人の神話と、現在の自然科学の考え方では次元が違うように思います。たとえば、ふと、自分自身がこの世に生を受けているという不思議に思いを馳せ、人智をはるかに超えたような生命の神秘を感じるときがあるので、創造主の存在を感じ、自然とその存在を認められる気持ちになる自分を感じますね。

また、イエス・キリストの復活も、新しい天地創造のはじまりとして、この世界が最終的には神の愛の勝利に終わるものであると約束される、私たちに希望の証になるものですよね。
   メンテ
No.3に対する返信 ( No.4 )
日時: 2015/11/12 17:15 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは
> 自分の人生には、どんな意味が与えられていて、どんな使命がが課せられているのか・・それを発見し、実現するように日々、精一杯生きていくというところに、「人生から問われている」の、フランクルの言葉の意味があらわれていますね。

そうですね。人生に対して、自分がどのような態度を
とっていくのか。
そして、神様に対して、和解して共に歩むのか
自分の好きなやり方(自力)で生きていくのかという
選択も、態度、向き合い方の一つでもあると思います。

> ユングは「悪はどこから来るか」という問いには、キリスト教世界では答えられていない、と言っていたそうです。そして、原始キリスト教における「悪とは善の欠如である」という教義に対して疑問を抱いていました。彼の考えでは、人間の本性というものは、善と悪、精神性と物質性、神性と悪魔性の結合において存在していて、キリストと反キリスト(悪魔)を一体不可分の関係にあるものとしてとらえています。

お父様からは答えが得られなかったのですよね。
当時でもいろいろな教理の本はあったと思いますが。
16世紀からあるハイデルベルグ教理門答もありますし
その他、他の教理門等や礼拝説教でも、
罪や悪の由来は書かれたり述べられていると思いますが
彼の価値観として、納得しなかったのでしょうね。

イザヤ書 59章1〜2
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ

悪は<罪>から来ると言ったらいいでしょう。
罪、罪の思いはどこから来るのかと言ったら、
もと天使だった悪魔の場合高慢から来る神様への反逆、不従順から来るといえます。
神を愛し、信じ、尊ぶ代わりに、自分が神に成り代わりたい、自分が神のように拝されたいという高慢な思いから来たものです。
人間の場合、神への不従順によって堕落したと言えます。

神性(聖なるもの)と、悪魔性の結合はないと思います。
人間の本性というより、罪を受け継いだ不完全な人間の
本質といった方がいいと思います。

しかし、本来神が造られた人間に悪魔性が
備わっていたわけではありません。

> ききさんは認めないでしょうが・・ユングが堅く信じるところでは、悪は、神の中に、また人間の中に確かに存在すると、すでに、ユングは若いときから自然界や人間の内面の中に、そして神の中に悪が存在するという体験的確信があり、暗にそれを主張していたそうです。

認められないですね^^
悪魔が神に反逆して、罪の思いを抱いたことと
人間が、神への従順から離れて罪を犯したのは
事実ですが。
神自身が、自分に対して反逆することはできません。

罪を受け継いだ人間であれば、牧師でも
親でも大人でも、時には矛盾する行動をとることは
あるでしょう。(意図せず良くないことや間違ったこと
することもあります。)
しかし、罪を受け継いだ人間と神とを同列(同レベル)
に考えて、判断してしまうというのは、問題です。

ユングは、神を人間と同列、同等、同格に見てしまっていると思えます。

> これはグノーシス思想の影響を強く受けていますよね。しかも善と悪は、共に人間をこえた神的な力として、この世を支配しているものと考える傾向があり、悪は、善と同じく“実体”として存在するものとして考えられたそうです。

愛、公正、善なる存在として神と
利己愛に満ちた悪(罪)の存在である悪魔は
確かにいると信じてます。

神は善の源(親)であり、悪魔は罪の源といったようなものでしょうか。

ヨハネの手紙第一 3章8節
子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

3章9節
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

神から生まれるということは、罪を悔い改めて
罪の赦しを受け取って、神様との関係の中で
生きるといえます。

神の子供になり、神の種(聖霊)をとどまらせるのか
悪魔の子供になる(自分の善悪や判断のみに
頼って、神に従うのでなく、自分を神として生きる)のか。。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.5 )
日時: 2015/11/12 22:04 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
続きです。

> ユングの母方の家系は、霊能者(霊媒師)として有名だった牧師の祖父や、透視能力を持っていた祖母、そしてユングの母や叔母とその一家の人々がいて、つまり、ユングのいとこ達も、全員何らかのサイキック能力を持っていたと伝えられています。

そうだったのですか。

聖霊の力や賜物というのは、神の御心を知るため、そして
福音を知らせるため、神との関係を強めるために与えられる力です。

霊媒や超能力では、いろいろな情報を得たり
不思議なことを行えたりしますが<神との関係、
霊的な救いに導くことがない>というのが特長です。

聖霊に導かれて、個人預言(個人的な助言)を
牧師などがいう場合は、その人の罪を知らせたり悔い改めに導いたり、助言などで<神との関係を良くするため、成長させるため>のものと言えます。

聖書でも、預言者などが戒めや助言のために
王や支配者やその他の人々を戒めた記述が多くあります。

多くの霊能力者(霊媒や占いなどスピリチャル系)は、
神との関係というより、人々の関心ごとに沿った助言をしていますよね。

> 「無意識」のしくみを知り、その奥の「自己(セルフ)」について、心を“神”へと高めていく構造を理解していったようです。

聖霊ではなくて、自分の無意識を聖霊の代わりに
神になるための拠り所とするのは危ないと感じます。

ヨハネ14章6節で
イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

無意識に頼るのではなくて、聖書を読み、無意識の
域にまで、神様の聖霊に満たされることが
必要だと思います。

> しかし、1952年『ヨブへの答え』というユングが75歳くらいの著書が出たとき、ユングは、神は人間に対して善のみではなく、悪をなす存在だと説いた・・という非難の声があがり、教会関係者から激しい敵意が彼に向けられたそうですね。

神様は、愛と公正のお方であり、善をなさるお方ですが、<人間にとって良いことだけをもたらすとは
限らない>とも言えますよね。
人間が善だけを行っていれば別ですが^^。

神は戒めや裁きをもたらすこともあります。
悪をなす人間に対する裁きであって、神が悪なのでも
ないですし、悪をなすわけでもありません。

正しく生きているヨブが攻撃されることを許すのは
因果応報という考えからすればおかしい、悪だと思うのかも知れません。

もし、神の厳しい基準の因果応報という法則がこの世を支配しているなら人間に永久に贖いや救いなどもたらされないでしょう。
神から断絶状態で苦しむのは<因果応報>と言えます。

しかし神様は、人間を愛するがゆえに救いの道を
備えてくださいました。

罪の支配下に置かれた人間に対して、旧約時代には律法を設けて何が罪なのか、基準を教えてくださいました。
(イエスの贖いまでの、教育係としての役割を律法は
果たしていました) 

ヨブがサタンの攻撃の前に、恵みを得ていたのは
神の教えに従い、正しく生きていたからですよね。
攻撃を許して、苦しみにあったという部分だけでなく、
その前の恵みの部分を忘れてはいけないと思います。

この世は、確かにサタンの支配下でありますが、
神の教えを愛し、従い(従いたいと願い)神につながることで、恵みを得ることができるということにも
目を向ける必要があります。

> 私は進化論を疑いませんが、創世記の古代人の神話と、現在の自然科学の考え方では次元が違うように思います。たとえば、ふと、自分自身がこの世に生を受けているという不思議に思いを馳せ、人智をはるかに超えたような生命の神秘を感じるときがあるので、創造主の存在を感じ、自然とその存在を認められる気持ちになる自分を感じますね。

聖書は、神の霊感によって書かれた
神様からの手紙であり、真理の書物。。と
多くのクリスチャンは信じています。

創世記は科学論文でもありませんので
確かに、創造について事細かに、科学的に
詳しくは書かれていません。^^

聖書には、神様の救いのご計画が書かれています。
人間の罪の始まりと、罪からの
救いであるイエス(救い主)について述べられてます。

神様が人間に伝えるたい主題、人間が知るべきことは
どのように罪から救われて、神様と共に住むことが
できるか(天国に凱旋する)です。

創世記が事細かに、科学的に書かれていたとしたら、科学や創造の過程に関心がある人は満足するでしょうが。。
それがわかったところで霊的な救いには至りませんよね?

聖書が科学的に書かれていたら、信じるという人もいるかもしれませんが。。科学的というのは、
<実験的に証明できる、再現できる>ということです
から、いくら神様が解説しても、実験しても人間の力では
再現できないので、無理でしょう。^^

言い換えれば神だからこそ、可能な<創造>という
超科学?だからこそ可能であることを
科学という人間の枠組みで理解や実現しようと
すること(理解できると思うこと)自体が。僭越とも言えます。

科学者の中にも、神を信じる人もいますが
神の作られた宇宙の仕組みを知ることが
できるのは、素晴らしいことですが。
人間の科学力では、再現不可能なこともありますよね。

仮説として、科学の一部として立てることはできるかもしれませんが
証明となると、不可能(地球や宇宙の創造、人間や生物の創造、誕生について)のことが多いと思います。

科学を否定はしませんが、人間の科学と神の創造を、同列に置こうとするのには、無理があると思いますよ^^

聖書は、すべての人間の好奇心や疑問を
解決するために作られているわけではないです。
しかし、救いのための福音や、この世で
生きる上での、知恵や真理は十分に書かれていると
思いますよ。
   メンテ
No.4に対する返信 ( No.6 )
日時: 2015/11/14 16:02 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

> ユングは、神を人間と同列、同等、同格に見てしまっていると思えます。
そのようですね・・。
なぜ、ユングは神を人間と同列、同等に見てしまったか、私なりに調べてみました。

まず、彼がのめりこんだグノーシス主義のキリスト観というのは、「御子の三重身」といって、「人の子」として受肉したイエス(御子)は三つの存在様式をもつとされました。霊気的人間、心魂的人間、そして処女マリアから生まれた肉的人間です。

イエスの物質的人間の肉体は、その深遠の底深く、霊的な本性を宿しているというのですね。

ユングによれば、原始キリスト教の人間観は、すべての人が「神の子」ないし「人の子」(これは当然ですね)であると主張し、福音書のイエスは人間性の「原型」を示すもので、イエスと他の人間との間に本性上の差は何もない、と彼は言います。「聖霊の受肉」はすべての人間に与えられている普遍的な先天的可能性を意味するそうで・・心理学として「受肉」とは、肉的身体の中に霊的次元のつながりが先天的に潜在している、というのがユングの解釈でした。

今のキリスト教の正統教義では、キリストは唯一の受肉した「神人」すなわち「子なる神」であって、一般の人間とは本質的に異なった存在ですよね。しかし、正統教義が確立する紀元4世紀以前の時点では、キリストと一般の人間は同じ神的本質をもつということが明確に主張され、古代東方教会や、原始キリスト教の中に、ユング的解釈を容れていた事実があるそうです。

ユングのキリスト教の正統教義での様々な疑問や不信感、そして父親に対する不満や失望から、グノーシスに傾倒していき、そして「無意識」の理論をめぐりフロイトとの決別後、誰にも認められない孤独から、分裂病症状に陥り、そこからの脱却として「無意識」との対話が彼を救っていきました。

つまり、無意識との対話の手段として、マンダラや、ヨガの瞑想法、易経や坐禅など、“仏性”という人間性の中にある霊的で、永遠な本性の潜在的可能性としての悟りが、彼を救ったともいえます。(これらの悟りへの智慧は、霊的認識としてのグノーシスに類似した観念らしいですね)

ダスカロスによれば、天地創造について、私たち人間は、絶対存在に似せてつくられていて、やはり、その本質は同じですが、数量的にはもちろん比べものにならないそうです。その絶対存在性の神のありようは、人間や科学の世界が踏み込める範囲を超えているらしいですね。

新約聖書、ヨハネの手紙1-4章12節に「未だかつて神を見た者はいない」とあるように、その究極の根源は計り知れない神聖にして深遠なる領域にあり、人間には及ばない知識、能力を超えたところにあるようです。

そして、ダスカロスは、神がそのまま地上に降りて人間になった「神人」はイエス・キリストただ一人であり、その他のマスター(聖人や天界の住人たちは)地上で転生を繰り返す中で意識を高める、神と一体化した「人神」であるそうですね。
   メンテ
No.6に対する返信 ( No.7 )
日時: 2015/11/16 19:14 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
ガラシャさん 今日は^^

> まず、彼がのめりこんだグノーシス主義のキリスト観というのは、「御子の三重身」といって、「人の子」として受肉したイエス(御子)は三つの存在様式をもつとされました。霊気的人間、心魂的人間、そして処女マリアから生まれた肉的人間です。

神の子として、そして人として(ただし聖霊によって
受肉されたので罪は受けつがなかった)
受肉して生まれましたね。

受肉はしていたものの、肉的な思い(肉的な性質、罪)
を持った人間ではなかったと言えます。

> ユングによれば、原始キリスト教の人間観は、すべての人が「神の子」ないし「人の子」(これは当然ですね)であると主張し、福音書のイエスは人間性の「原型」を示すもので、イエスと他の人間との間に本性上の差は何もない、と彼は言います。「聖霊の受肉」はすべての人間に与えられている普遍的な先天的可能性を意味するそうで・・

受肉、いわばマリアが罪のない方である
イエスさまを宿したことは、
クリスチャンが、罪を許されて、信仰によって
聖霊を受け取るということ(聖霊の宮になる)
の<雛形>とも言えますね^^

聖霊を受け入れる可能性はもちろんあります。
ただ、信じて受けるか、信じずに受けないかは、それぞれが選択するとも言えるでしょう。

>心理学として「受肉」とは、肉的身体の中に霊的次元のつながりが先天的に潜在している、というのがユングの解釈でした。

人は、<本来は>完全な肉の体を持った、
霊的な存在として作られたと言えるでしょう。
アダムとエバも、神に従っていれば、霊的な命を
もち永遠に生きることが可能だとも言えるでしょう。

しかし、罪を犯して、神に反逆し、神との関係から離れたために、限られた命だけを持つようになったと言えます。
罪によって、霊的命を失ったとも言えます。

今は、罪を受け継いでいるので(罪を許されていても
肉の体は朽ちますので)肉的身体、というのは、<器>に過ぎなくなっていると言った方がいいでしょう。

第二コリント 4章7節
私たちは、この宝を、土の器に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

宝は、イエス様の聖霊です。
すべての体(人間)にプログラムが備わっている(先天的に聖霊が存在している)というよりは、信仰によって、神と和解する(神とつながる)ことによって備えられると言った方がいいでしょう。

失ったもの(霊的命)をイエスを信じることによって
取り戻すこととも言えます。
原罪と、罪の支配下から解放されて、霊的命を
再び得る道を与えてくださったと言えます。

神につながる、霊的に生きる(再生する)
というのは、いわばパソコンが電気(聖霊)につながって常に充電されると言ったらいいでしょうか。

今の体は朽ちる体ですが、天国での体は
栄光の体と言って、朽ちない体とされています。
太陽光発電のように、常に、神と共にいることで
生きることができるのでしょう。

> 今のキリスト教の正統教義では、キリストは唯一の受肉した「神人」すなわち「子なる神」であって、一般の人間とは本質的に異なった存在ですよね。しかし、正統教義が確立する紀元4世紀以前の時点では、キリストと一般の人間は同じ神的本質をもつということが明確に主張され、古代東方教会や、原始キリスト教の中に、ユング的解釈を容れていた事実があるそうです。

子なる神と、神の子供というのは、
似ているようで違うとも言えますね。

人は神に似せられて作られていると書かれていますが
神と同等というわけではありません。
(人間の親子であれば、親と同等やそれ以上の
能力を持つことはありますが、神と人間は
普通の人間の親子とは違って、創造者と被造物の
関係であることを忘れてはいけません。^^)

神の国を共に支配することになる、聖徒も
いると言われていますが。
キリストが王であって、神の子供である
聖徒は友であり臣下と言えるでしょう。

神の子供とされるというのは、臣下と言っても
奴隷のような存在ではなくて、家族や友として
愛され、大切に扱われると言ったらいいでしょうか。

愛があり、寛大な神によって、同等のように扱われるのであって、同等という意味ではないでしょう。
でもそれを、不当には思わないのは、
神様の圧倒的な力を感じるからとも言えます。

> ユングのキリスト教の正統教義での様々な疑問や不信感、そして父親に対する不満や失望から、グノーシスに傾倒していき、そして「無意識」の理論をめぐりフロイトとの決別後、誰にも認められない孤独から、分裂病症状に陥り、そこからの脱却として「無意識」との対話が彼を救っていきました。

父親への不信。。クリスチャンでもそうでない人でも<人間の父親像、母親像>をもとに、神様を見てしまうということがあるようですね。

詩編27編10節
父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

とあるように、人の父母は、時に(悪意がなくても)
愛や公正において、完全ではありえませんが。。
天の父は、完全な愛と公正のお方です。

> つまり、無意識との対話の手段として、マンダラや、ヨガの瞑想法、易経や坐禅など、“仏性”という人間性の中にある霊的で、永遠な本性の潜在的可能性としての悟りが、彼を救ったともいえます。

ユングは、無意識の対話によって、精神的に(分裂病などから)救われたということですね。

> ダスカロスによれば、天地創造について、私たち人間は、絶対存在に似せてつくられていて、やはり、その本質は同じですが、数量的にはもちろん比べものにならないそうです。その絶対存在性の神のありようは、人間や科学の世界が踏み込める範囲を超えているらしいですね。

似せられている、本質は同じ(似ている)
でも、次元が違いすぎるということですね。


   メンテ
No.7に対する返信 ( No.8 )
日時: 2015/11/17 16:53 (odn)
名前: いしまる

仕事が落ち着きましたので、返信します。

> 神につながる、霊的に生きる(再生する)
> というのは、いわばパソコンが電気(聖霊)につながって常に充電されると言ったらいいでしょうか。
私たちが住んでいる世界では、非常に重要視され、奇跡的な感覚器官とされている“視力”ですが、みずからの神聖な存在性を理解するには不充分なもの・・とダスカロスは言われました。私たちの物質的な目で、神の無限なる慈悲の光をとらえることはできないそうですね。

父なる神は人間の理解を超えた存在であり、肉体に備わった視力でなく、「サイキカル体」という四次元の世界での感情体で、睡眠中に潜在意識的に訪れる世界や、体外離脱でのサイキカル体が最初に行く世界、といった特質である感情と、イエス・キリストを通して初めて、私たちは父なる神を理解できるようになるそうですね。

ですから、私たちは、神との一体化(テオーシス)を求めて心を燃え立たせ、一体化への切望は素晴らしい喜びをもたらすそうです。人間の本質は、私たちが神を否定するような環境で暮らすことを、どこかで恥じていると、ダスカロスは言います。

> 父親への不信。。クリスチャンでもそうでない人でも<人間の父親像、母親像>をもとに、神様を見てしまうということがあるようですね。
ユングは幼い頃から、「神がいるのなら、なぜ、この世にはこれほど恐ろしい悲惨な出来事に満ちているのか」という疑問について、父親はまったく疑問を解く手がかりを与えてくれず、その疑問はユングの生涯にわたって続いたのですね。そのため彼は、キリスト教の神やイエス・キリストを恐ろしい存在と感じてしまうところがあったようです。

ですから、ユングは神を決して否定せず、むしろ、キリスト教を大切にしながらも、みずからの“神”への疑問や、分裂病症状から脱するために、グノーシスや、東洋哲学を研究していったのだと思います。タブー視される、「輪廻転生」も彼の少年期からの体験ですが、晩年までそれを語らなかったそうですしね・・。

神は「対立の一致」として善だけでなく悪も含んでいる・・という『ヨブへの答え』というユングの著書に対して、教会関係者から激しい敵意が彼に向けられたときも、彼のキリスト教への思想は、時代より進みすぎていた問題提起だったのかもしれません。

教会でも、「信仰があれば、きっと幸せになるはずだ」、「信仰があれば、災いや病にはあわないはずだ」のような幸福主義の教えばかりでは、統合失調症のような心の病をもつ人には辛いのではないでしょうか。そこはやはり、弱さを弱さのままで受け入れてくれる教会で、しかも、本人が望んでいるように、互いに祈り合うことができるような、そんな人のつながりがあって、願望や思想が安心して語れるような場所であればいいですね。
   メンテ
No.8に対する返信 ( No.9 )
日時: 2015/11/25 04:00 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんばんは お久しぶりです。

人の視覚では見えないものはたくさんありますよね。
知覚する、つまり目では見えなくても
被造物、人間やこの世界を見て、神の存在を
知覚する、信じるということは可能ですね。

ローマ 1章20節
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

古代や中世に限らず、科学技術が発展した
今でも自然の美しさや、生物や宇宙の神秘など、やはり感動します。。

ヘブル 11章1〜3
<信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです>

信仰によって、この世界を見たときに
神様がいらっしゃると思いますね。

> 父なる神は人間の理解を超えた存在であり、肉体に備わった視力でなく、「サイキカル体」という四次元の世界での感情体で、睡眠中に潜在意識的に訪れる世界や、体外離脱でのサイキカル体が最初に行く世界、といった特質である感情と、イエス・キリストを通して初めて、私たちは父なる神を理解できるようになるそうですね。

神様(イエス)を信じるということは、御霊(聖霊)が
ないといえないことです。
感情体と言いますか、聖霊によってイエスが
キリストだと告白できる、信じられると
聖書には書かれてますね。

ユングはキリスト教、聖書の解釈を、独自に研究して行ってグノーシスや東洋哲学にに流れていったのですね。

> 教会でも、「信仰があれば、きっと幸せになるはずだ」、「信仰があれば、災いや病にはあわないはずだ」のような幸福主義の教えばかりでは、統合失調症のような心の病をもつ人には辛いのではないでしょうか。そこはやはり、弱さを弱さのままで受け入れてくれる教会で、しかも、本人が望んでいるように、互いに祈り合うことができるような、そんな人のつながりがあって、願望や思想が安心して語れるような場所であればいいですね。

教会も、やはり色々です。
これは、学校でも、会社でも、病院(医者や
看護師や介護士)も様々であるのと同じです。

信仰によって、幸せになるというのは、
信じれば何もかもがうまくいく、問題が
なくなる、というものではありませんね。

ニーバーの祈りの
変えられるものは変える勇気を
変えられないものは、受け入れる冷静さ(静けさ)を
それを見分ける知恵を

のように、対処できることは、対処し
出来ないことは、受け入れる。。変えられないものは
ただ受け入れるしかないこともありますよね。
(なんで私が、こんな目にとか、〜がなければ、
〜でなければ私は幸せだったはず、とか、
自分の主観やとらわれによって、苦しみを
さらに大きくしてしまうこともあります。
病気や障害に限らず、この世での悲しい現実を受け入れるに至るまでには、人によっては何年〜何十年かかることも
ありますよね。)

信仰によって、幸せになるというのは、
神様の恵みと支えに委ねるともいえるでしょう。

体(病気)の癒しは、時にあるものの
必ず誰にでも常にあるというものではないので、
霊の救い(福音を信じることにより救われること)と
魂の救い(聖霊によって、神様のみ言葉によって
魂が救われる、肉の思いやとらわれから救われる)
を中心に信じて、神様と共に生きることになります。

もちろん神様との愛ある縦の関係だけでなく
兄弟姉妹との愛ある横の関係も大切ですね。

統合失調症や、様々な精神的な疾患や障害を持った方だけでなく他の苦しみ(この世では解決できない苦しみ)、人間関係、経済的な問題を抱えている方もたくさんいます。

教会で、苦しい立場や弱い立場にいる人が
牧師や他の信徒から温かく受け入れられることが必要なのですが、教会によっては限界があることもあります。

対応ができる人がいる教会もあれば、
あまり対応できない教会もあるでしょう。

信徒の中で、(元)現看護師や、障害児教育や福祉で働いている方など、ある程度、病気や障害への専門知識や
理解がある方がいるときもいますが、
そうでないこともあります。

多くの方は、教会に安らぎを求めてくることも多いと思います。 少し大きな期待をしている方もいるでしょう。
しかし牧師や信徒たちが知識がない、知識不足ということもあって、時に、期待が外れて傷ついてしまうということもあります。

礼拝以外にも、聖書研究や、祈りの会などが
教会や、個人の信徒の家で行われることもあります。 
病気や、時間的に交わりが難しい場合は、
礼拝の前や後などに、牧師さんや仲の良い(信頼出来る)兄弟姉妹に相談したり時間をもらって祈ってもらうということが必要にもなりますね。
私も時々祈ってもらいましたよ。^^

自分から祈ってくださいと言える方も
いるでしょうが、言えない方もいるでしょうから
できれば、統合失調症やその他大きな病や
障害を抱えている方には、家族や信徒の友人などの
サポートや仲介も必要ですよね。

安心できる場所であるのが家庭であり、教会(霊的家族、兄弟姉妹)と言えますからね。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.10 )
日時: 2015/11/25 18:55 (enabler)
名前: ガラシャ

ききさん、いしまるさん、最近はだいぶ落ち着いてきました。でも、まだ不安定なところも多々あります。
また辛くなったら聞いていただけますか。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.11 )
日時: 2015/11/25 19:33 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
お久しぶりです

少し落ち着いてきましたか。
何かあれば、いつでも
お話ししてください。

お返事しますね
(たまにパソコンの調子が
悪い時がありますが^^)
   メンテ
No.9に対する返信 ( No.12 )
日時: 2015/11/27 03:40 (odn)
名前: いしまる

ききさん、ガラシャさん、こんばんは。

> 信仰によって、この世界を見たときに
> 神様がいらっしゃると思いますね。
そうですね。私もそう思います。

ダスカロスは「神」という言葉は使わずに「絶対存在」という言葉で、神様の存在を表現しました。そして、絶対存在とキリスト・ロゴスと聖霊が三位一体により存在しているというのは、「絶対自己充足性」と呼ばれている神の本質であると言われています。

つまり、自己充足性とは、絶対存在の基本的な特質の一つで、完全な豊かさ。至福。あらゆる必要性から完璧に自立した状態で、この世のすべてのものは、尊く清浄な自己充足性の中にもともとあり、それらは絶対存在の神聖なる瞑想と表現によって生じていくそうです。(絶対存在、つまり神様が意志の喜びに先立って、表現を黙想している状態と考えられるそうですよ)

絶対存在の中には、神聖なる全愛、全智恵、全力を見出すことができ、神が人間を生じ、人間に発達可能な自己認識性や、特別の尊い価値ある目的を授けたことは、想像を絶する大きな愛によるものなのですね。

そして、結論として「神は生命である」とダスカロスは言われます。絶対存在は、命そのものであるというわけですね。さらに、人は誰でも個人的なレベルに応じて、内なる自己(自己認識−魂)とコンタクトを取り、その人なりに神を理解していくことができるそうです。

しかし、彼は、自分の語る言葉であっても決して鵜呑みにしてはいけないと、生徒たちを戒めました。何であれ鵜呑みにせず疑問をもち、すべてを実際に体験して試し、自己修養によって得られた指針から主体的に判断しなくてはならないと、教えました。

最近の、自称祈祷師による糖尿病の男児に適切な治療を受けさせず、死亡させた事件がその問題点を表してますね。

> 多くの方は、教会に安らぎを求めてくることも多いと思います。 少し大きな期待をしている方もいるでしょう。
> 安心できる場所であるのが家庭であり、教会(霊的家族、兄弟姉妹)と言えますからね。
そうですね。教会に安らぎを求めて、大きな期待をしている方がいるのは、やはり、そこに「救い」を求めてくるのでしょうね。

しかし、救いというのは、信頼できる人に相談したり、礼拝や祈りの会などで、牧師さんに祈ってもらうことで救われるかもしれませんが・・何より大切なのは、今生きている社会で圧迫され、抑えつけられた生活などから解放をもたらすための、人の道にかなっている適切な行動と、考え方を正していくことだと思います。

そのために聖書を読み、祈り、気づきという理解、心の変化によって根底から誤った原因を分析し、その結果もたらされる平和と喜びが、本当の救いなのでしょう。

その救いは、やはり、生きているこの世でも実現させるような行動や生活、生き方をしなければならないと、イエスは「主のいのり」マタイ六章9-13節の中で教えているのですよね。
   メンテ
No.12に対する返信 ( No.13 )
日時: 2015/11/28 02:29 (dip0)
名前: きき

いしまるさん こんばんは

>世のすべてのものは、尊く清浄な自己充足性の中にもともとあり、それらは絶対存在の神聖なる瞑想と表現によって生じていくそうです。
神と繋がっているということ、
それが、(神様と共に)生きるということ
だと思います。

> そして、結論として「神は生命である」とダスカロスは言われます。絶対存在は、命そのものであるというわけですね。
神様の息が人間に入れられて、<霊>が
備わった命(魂)になったと言いますね。
神の霊は命の源ですね。

> 最近の、自称祈祷師による糖尿病の男児に適切な治療を受けさせず、死亡させた事件がその問題点を表してますね。
祈ってもらうことや、祈ることで、神(聖霊)の
癒しで治る、改善することもあれば
通常通り、病院で治療を受けたり、手術や
薬の服用が必要なこともありますからね。
バランスを持つことが大切だと思います。

> そうですね。教会に安らぎを求めて、大きな期待をしている方がいるのは、やはり、そこに「救い」を求めてくるのでしょうね。
根本的な救いは、教会とそこでの関係ではなくて、
神の教え(福音)と神様との関係にある。。というのが、本来のところですね。

多くの方は<信仰>や<宗教>に関しても、自分なりのイメージ(先入観、的外れの思い込みや期待)を持ってい
ますよね。

教会や宗教(宗教組織)に信仰を持つのではなくて
神に信仰を持つ(信頼関係を築く)ということが
聖書でいう<信仰>だと言えます。

信仰については、ヘブル人の手紙の1章、全体を読まれることをお勧めします。。
2節
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
8節
信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
(アブラハムの時代、モーセより前の時代ですから
聖書はありません。しかしアブラハムは(モーセ同様)
神様との霊的な個人的な関係があったのでしょう。
アブラハムは、信仰によって神様の召し(命令、勧め)に従いました。 

祖国は、天にあると考えるのがクリスチャンです。
クリスチャンは、この世での幸せや安定を望んでもいいのですが、過度にこの世での生活だけのことに
価値を置きすぎてもいけません。

人間関係、家族、友人、恋人との関係ももちろん大切ですが、そこの関係に過度に期待したり依存してもいけませんね。
人間関係で失望した時も、自分と神との関係に目を向けることで、冷静さを取り戻すこともできます。)

> しかし、救いというのは、信頼できる人に相談したり、礼拝や祈りの会などで、牧師さんに祈ってもらうことで救われるかもしれませんが・・何より大切なのは、今生きている社会で圧迫され、抑えつけられた生活などから解放をもたらすための、人の道にかなっている適切な行動と、考え方を正していくことだと思います。

人との関係で、ある程度、暖かい関係を持つことも大切ですしが、それは<完全ではない>ので、そこだけに
頼ってはいけないんですよね。

まず神を愛して、神を中心にしたから、自分を愛して
隣人を愛することが大事です。
自分中心や、他人中心(他人との関係や、評価に
依存する)でも平安はないですね。

人間との信頼や愛だけに頼る人も多くいますが、
それで何とかなる人(比較的、安定している人、
大きな病気や障害や問題にない方)もいますが、
そうもいかない状態の方もいますね。

家族や社会の人間関係で、虐待やひどい裏切りに
会うこともあれば、重い病気や精神の病であったり、その他、人間の助けや思いやり(愛)では癒しや、救いや
解決が。。難しいケースもあり限界があるでしょうね。

> そのために聖書を読み、祈り、気づきという理解、心の変化によって根底から誤った原因を分析し、その結果もたらされる平和と喜びが、本当の救いなのでしょう。

そうですね。
精神的に不安定な方でも神と出会うことで、生きる希望を見つけて(時に何年かかけて)励まされる方もいれば、教会という組織(宗教組織)に過度に期待(依存)しすぎてしまって、失望してしまう方もいるでしょうね。

教会が温かい場所であるということは、
もちろん大切ですが、過度に期待もしては
いけないと思います。。
教会にも、信徒(兄弟姉妹)にも限界があります。

家族でも、やはり限界があることもありますからね。
家族にも(親兄弟、夫婦)できることと、できないことがあるように、教会にも、教会の牧師や信徒にも、できることとできないことがあります。

分かち合える苦しみもありますが、助け合える部分も
あれば、それぞれ、自分が背負っていかなければいけない
(イエス様と一緒にくびきを追いながら背負う)
問題もあります。

> その救いは、やはり、生きているこの世でも実現させるような行動や生活、生き方をしなければならないと、イエスは「主のいのり」マタイ六章9-13節の中で教えているのですよね。

主の祈りというのは本当に
私たちがどのように、主と共に生きて
主を待ち望むべきかが書いてありますよね。

この世では、人がどんなに努力をしても
どんなに愛を込めても、(病気や障害、犯罪、貧困、不正)解決ができないこともあります。
神の国がくることを待ち望み、神に委ねることによって
救われることもありますね。

何もしないのではなくて、
やるべきことをし尽くして、
もしくはできることがなく、神様に
委ねるしかないときも。。ありますね。
   メンテ
No.13に対する返信 ( No.14 )
日時: 2015/11/30 15:30 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

> 祖国は、天にあると考えるのがクリスチャンです。
> クリスチャンは、この世での幸せや安定を望んでもいいのですが、過度にこの世での生活だけのことに
> 価値を置きすぎてもいけません。

> 人間関係、家族、友人、恋人との関係ももちろん大切ですが、そこの関係に過度に期待したり依存してもいけませんね。
> 人間関係で失望した時も、自分と神との関係に目を向けることで、冷静さを取り戻すこともできます。
なるほど。家族、友人、恋人など人間関係というのは、もろく崩れやすいものというのはよくわかります。特に、肉親同士の憎しみや、肉親憎悪、親に対する侮蔑は、ずっと根深く残り続けると思います。(病気で死んだ父と私の関係がそうでしたから・・)

仏教では怨憎会苦(おんぞうえく)といって、怨み憎む対象に出会わなければならない恐怖や、苦しみに襲われるといった「人生が思うようにならない」“苦”が発生するといいます。肉親同士の憎しみなどは、そこに、家族が養い、共に助け合いながら生活しなければならないために問題が深刻ですね。

親子の関係での怨憎会苦の解決方法は、マンガ家の田房永子さんが“絶縁”がいちばん良い方法だと言っています。つまり、どんなに悪い親子関係でも「親子の絆」というものが存在するのであれば、そこには、絶縁という緩衝材をつかって、ストレスから身を守ることが必要であるというわけです。

私が特に、イエスに心を寄せるのは、不仲のまま亡くなっていった父への愛を埋めるためでしょうか。イエスこそ神の子であり、イエスと出会うときに父なる神に出会い、そしてイエスこそ、私たちに父なる神との交わりを仲介する唯一無比の存在であるのでしょう。

そして、祖国は、天にあると考えるのがクリスチャン・・なのですね。もし私たちがそのように信頼したとすれば、キリスト教の信仰とは、理屈ではなく、根源的な生き方の決断になりますね。

> 主の祈りというのは本当に
> 私たちがどのように、主と共に生きて
> 主を待ち望むべきかが書いてありますよね。
「主の祈り」は、聖書の中の、祈りの模範であり指針となるものですね。ダスカロスによるとこの祈りは、聖ヨハネとの霊的な交流によって、彼に授けられたそうで、新約聖書に記された祈祷文から、後半、続きがあるようです。

絶対無限の存在である神よ。〜
あなたを、真理として理解することができますように、
私たちの理性を光で照らし出してください。
あなたの愛を、あなた御自身と他のすべての人々に対して映し出すことができますように、
私たちの心をきよめてください。
アーメン

つまり、神が永遠の命であり、愛であり慈悲である全知全能の存在として、神の存在が真理であり、今、生きている私たちをその真理の光で照らし出し、そして、すべての人々に愛が届くように、心を清め精神を浄化すべく、努力し生きていきたい。という祈願があったのですね。

主の祈りは、イエスが弟子たちに教えた祈りの模範として、「神の国」と「神の義」を切に求めれば必要なものが与えられる・・という祈りに加えて、すべての人が愛で満たされるように、というイエスの思想が示されているようです。
   メンテ
No.14に対する返信 ( No.15 )
日時: 2015/12/21 20:49 (dip0)
名前: きき

お久しぶりです
いしまるさん ガラシャさん

あと数日でクリスマスですね
(本当のキリストの生誕日は、はっきりは
しないにせよ、私たちの罪を贖ってくださり
天国への道を備えてくださった方が
この地に生まれたことは、最大のプレゼントですね)

家族や友人関係、恋人でも、本当の信頼は築くのには時間はかかりますが、確固とした信頼がそれまでにできてない限り、互いに対する責任や期待(適切な期待も含む)が果たされなかったり、誤解があると
、崩れてしまいますよね。

特に家族においての信頼関係は、ルール(約束)が守られたり、責任を果たしたり、互いに尊重することなしには、築けないものですよね。

> 肉親同士の憎しみなどは、そこに、家族が養い、共に助け合いながら生活しなければならないために問題が深刻ですね。

家族で互いに愛という最高のものによる関係を築けない
場合は、徳、理性や礼儀(義務なども含む)を持って
付き合わないといけませんね。

しかし、一方だけの努力ではどうにもならなく
失望感や悲しみや怒りを特に感じるのも
家族関係(親子、夫婦)ですよね。

> 親子の関係での怨憎会苦の解決方法は、マンガ家の田房永子さんが“絶縁”がいちばん良い方法だと言っています。

場合によっては家族(親子)でも、絶縁
もしくは距離を持つというのも大切だと思います。

赦しは、時がくれば(傷を神に癒しいただいて
悲しい事実を受容する時が来ること)必要だと思います。
残念ながら、物理的理由や、その他の理由で、和解ができないことは、多々有りますが
自分自身の中で、赦す(許容でなくて受容)ことは
可能だと思います。

イエス様への信仰ゆえに、神の恩寵ゆえに
自分の罪も赦されているという事を受け入れた時、
感謝を感じた時、自分自身の罪の許しを願うようになって悔い改め、(主の祈りにあるように)
自分に罪を犯した者への赦しは可能に
なると思います。

> 私が特に、イエスに心を寄せるのは、不仲のまま亡くなっていった父への愛を埋めるためでしょうか。イエスこそ神の子であり、イエスと出会うときに父なる神に出会い、そしてイエスこそ、私たちに父なる神との交わりを仲介する唯一無比の存在であるのでしょう。

心ある人(愛と義を愛する人)は、神や人との
愛ある関係、信頼できる相手を望むものですよね。

関係の是正や和解ができないというのは、
辛い事ですよね。 致し方ない理由があっても
家族ゆえに簡単に割り切れないものですよね。

> そして、祖国は、天にあると考えるのがクリスチャン・・なのですね。もし私たちがそのように信頼したとすれば、キリスト教の信仰とは、理屈ではなく、根源的な生き方の決断になりますね。

信仰というのは、生きかたを
左右するもの、支えるものとも言えますね。

> つまり、神が永遠の命であり、愛であり慈悲である全知全能の存在として、神の存在が真理であり、今、生きている私たちをその真理の光で照らし出し、そして、すべての人々に愛が届くように、心を清め精神を浄化すべく、努力し生きていきたい。という祈願があったのですね。

地の塩、世の光として、生きることで
照らしていくことが必要ですよね。

聖書では<油>という表現がよく使われますが
これは聖霊、祈りとも言われます。
それぞれが、油を絶やしてはいけないと言えます。

信仰(神との信頼関係を築く)によって
自分が霊的に成長すると言えるでしょう。

旧約聖書レビ記 6章12〜13でも、
祭壇の火は、燃え続けさせ、それを消してはならない、かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい

とあるように、生け贄に関しては、完全な神の子羊である
イエス様の犠牲によって、罪の贖いは完成されています。
イエス様への信仰や、聖書の学びや祈りによって、その火(油、霊)を絶やさないようにという考えがあります。

もちろん、何時間も祈らないといけないという
訳ではないですが。^^
たとえ忙しくても、5分でも10分でも、黙想したり
祈る時間を持ち、神との関係(信頼、愛、感謝)を
考える時間が必要です。

たまにあまりにも身体的、精神的に疲れ果ててると
できないこともありますが、そういう時こそ
本当は祈りが必要であり、場合によっては
祈ってもらう仲間の信徒の助けも必要だと
思います。
(自分のことはおろそかになっても、誰か互いに
祈り合う人がいる場合(適度な責任があると)、
頑張れる人もいますからね^^)

マタイ25章の
賢いおとめと愚かなおとめの例もありますが
(イエスへの)信仰という灯火があっても、それぞれの
神との信頼関係、祈りである油(聖霊)は、分けたり
代わりはきかないものです。

神との関係の度合いや、成長はクリスチャンでも
差があります。
洗礼を受けて1〜3年でも成長が著しい人もいれば、
20年以上経ってもあまり信頼関係が育ってない
こともありえます。

個人的な霊の火、油(神との信頼関係)は、
それぞれの責任の範囲です。
祈りをしてない時や聖書を読んでない時は、
神様を信じていても、知恵にかけてしまい、
(神や聖霊の導きより、自分の知識や判断に頼ってしまうので)不安が大きくなってしまいます。

人生の春夏秋冬があるように、時に、
非常に困難な事もあります。
すぐに(1〜5年)解決や乗り越えるのが難しく、
神への<信仰>と関係によって支えを得ながら、
<希望>を持って耐え忍ばざるをえない時期もありますね。

第一コリント13章13節
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。」



   メンテ
No.15に対する返信 ( No.16 )
日時: 2015/12/24 02:52 (odn)
名前: いしまる

どうも、お久しぶりです。
今日はクリスマス・イヴで、クリスマスはイエスの誕生日としてお祝いされていますが、やはり、イエスの誕生日はわかっていないのですね。

12月25日は、もともとミトラ教という古代ローマの密儀宗教の主神を祝うローマ帝国のお祭りであり、キリスト教でも、クリスマスはイエスの降誕を記念する祭日であって、イエス・キリストの誕生日と考えられているわけではないのでしょう。

日本では、キリスト教の信徒数は人口比で1%にも満たないのに、なぜか、多くの人がプレゼントを交換しあい、男女の愛の祭りのようになっていて、多くの日本人は宗教行事としてイベントを行ってはいないですね。でも、私も子どものころは、プレゼントをもらえるお祭りの日として、ワクワクしていたものでしたけどね。

> 関係の是正や和解ができないというのは、
> 辛い事ですよね。 致し方ない理由があっても
> 家族ゆえに簡単に割り切れないものですよね。
家族というのは、通常であれば、強い愛情で結ばれているけれど・・いったん泥沼に陥ると、他人の争いよりも激しい憎悪が襲ってきますし、家族の関係はこじれると調整には時間がかかったり、一生修復不能になったりします。そのためにも、親子であっても、絶縁や距離を持つというのも大切で、精神的、気持ち的に親との縁を断つというのは必要だと思いますね。

そして、いったん親との縁を切り、親への恨みを捨て、何もかも気持ちを新たにして、あらためて、自分の幸福への人生を切り開いていくことが大切だと思います。

クリスマスのイエスの降誕もそうですが、イエス・キリストというのは、謎の多い人ですね・・。最近になって、私は、1945年にエジプトでナグ・ハマディ文書の一部として発見された、『トマスによる福音書』を知りました。現行の新約聖書には含まれないという点で、外典ですね。

トマスによる福音書は、114の文からなるイエスの語録集ですが、キリスト教をローマ帝国の統一に利用しようとしたコンスタンティヌス大帝により、排斥されたそうで。その他、ユダの福音書、マグダラのマリアの福音書など、権力者の支配統治に都合の悪そうな福音書はコンスタンティヌスにより、しっかり退けられています。

『トマスによる福音書』は、神の光はイエスの内にのみあるのでなく、少なくとも潜在的には、万人の内にある、としているそうで、万人は神の似姿に創られたのであり、人間一人一人に与えられた聖性を通じて神を知ることを求めよ、とする。

つまり、トマスによる福音書はグノーシス派のものでした・・・。古代インドの究極の悟りとされる、「梵我一如」梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であり、これらが同一であると知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想に通じるものがあったようです。

当時のローマ帝国や教会にとって、個人が一人一人に与えられた聖性を通じて神を知り、万人が神の子になる可能性がある、と説く福音書というものであっては都合が悪いのでしょうね。

現在でも、「トマスによる福音書」はあまり価値がないというのが信徒や教会の見解なのでしょうか? 信仰(神との信頼関係を築く)によって自分が霊的に成長するため、トマスの福音書から得られる信仰上の利益はほとんどないといってもいいのでしょうか。

現在私は、キリスト教のメシア思想を学ぼうと思って、友人に誘われて神慈秀明会という、教団に見学に行ったりしましたが、まったく入信するつもりはありません。この宗教は、祝詞を唱えるため、一応、神道に分類されているようですが、教義には仏教の観音が出てきたり、ユダヤ教やキリスト教のメシア思想があったりと、様々な宗教思想を複合しているようで、何か信仰として一貫性に欠けている気がしますね。

聖書の準備が整い、また、トマスによる福音書などの疑問が解け次第、来年、教会に行ってみることにします。
   メンテ
No.16に対する返信 ( No.17 )
日時: 2015/12/25 19:10 (dip0)
名前: きき

クリスマスは、クリスチャンやキリスト教世界に
おいては、家族で過ごすというのが伝統的ですね。
(日本でいうお正月のような感じです)

今年、礼拝で歌った歌、いくつかあったのですが
初めて歌ったもので気に入ったものを紹介します。

賛美歌 107番
まぶねのかたえで
Ich steh an deiner Krippe hier
パウル ゲルハルト 作詞
バッハ 作曲のものです。

日本語は、意訳ですが、なかなかいいですね。
本来の訳と直訳を読まれるのもオススメです。

> そして、いったん親との縁を切り、親への恨みを捨て、何もかも気持ちを新たにして、あらためて、自分の幸福への人生を切り開いていくことが大切だと思います。

クリスチャンが、肉の自分において死んで
新しく生きる(新生する)するというのは、
私たちが自分の罪や自分に対する人の罪と
その影響下から(奴隷状態)解放されて、
神と共に、自分に対しても、他人に対しても正しい関係を
持つということなんですよね。

過去の記憶を持ちながらも、必ずしも、家族や他者との
和解や理想的な関係など、良い結果を得られなくても。。
、霊的な成長は可能ですし、天国への希望があります。

> トマスによる福音書は、114の文からなるイエスの語録集ですが、キリスト教をローマ帝国の統一に利用しようとしたコンスタンティヌス大帝により、排斥されたそうで。その他、ユダの福音書、マグダラのマリアの福音書など、権力者の支配統治に都合の悪そうな福音書はコンスタンティヌスにより、しっかり退けられています。

支配のために、<都合が悪い>福音書だからという
意見があるのかもしれませんが、
私は、トマスの福音書や、他の外典は、
旧約聖書や他の、福音書の内容と比べて<合致しない>
ため、神の霊感ではなくて、人間的な思い、思想や
哲学が入っているので退けられたのだと思いますよ。

旧約聖書にも新約聖書にも、単なる教訓や
いい教えが書いてあるだけでなくて
人間の罪、愚かさや過ちが、はっきりと書いてありますし
(王などの立場の人々の過ちも書いてます)
人間にとって、または支配者のために都合のいいことが描かれているわけではありません。

> 『トマスによる福音書』は、神の光はイエスの内にのみあるのでなく、少なくとも潜在的には、万人の内にある、としているそうで、万人は神の似姿に創られたのであり、人間一人一人に与えられた聖性を通じて神を知ることを求めよ、とする。

何もせず、普通に生まれたままでは、人は霊的には死んだ
状態です。
神はすべての人を救うのに、十分な、罪の贖いを
されました。
しかし、それは、自動的にすべての人(万人)が神の子となるというわけではありません。

霊によって生まれ変わること(イエスを救い主と認め
神との関係を修復すること)
罪を悔い改めて、神を信じ、神に従って
生きようと決めたとき、聖霊を頂くものです。

そのままでは、神の似姿からは離れていますし、
人間の努力だけでは、罪があるので神の似姿にはなれません。

> つまり、トマスによる福音書はグノーシス派のものでした・・・。

神の似姿に作られたというのと、
人間=神と同等というのは、違いますね。

> 当時のローマ帝国や教会にとって、個人が一人一人に与えられた聖性を通じて神を知り、万人が神の子になる可能性がある、と説く福音書というものであっては都合が悪いのでしょうね。

グノーシス的な教え(人間=神)が、支配に都合が悪いのではなくて、本来の聖書の教え、人間よりも神に従うという教えに、本当に従うのであれば、
福音書の教えすべてが、支配しゃ(圧制者)には
都合が悪くなるでしょう。^^

実際、圧制者のもとでは、聖書の教えに従うクリスチャンも迫害されたり、牢屋に入れられることもあります。
(初期のクリスチャンでも、現代でも同じです)
または、偏見を持たれることもあるでしょう。
伝統や、他の宗教に、同調をしないこともあるので
不寛容だと(人間的な見地から)思われることもありますよね。

> 現在でも、「トマスによる福音書」はあまり価値がないというのが信徒や教会の見解なのでしょうか? 信仰(神との信頼関係を築く)によって自分が霊的に成長するため、トマスの福音書から得られる信仰上の利益はほとんどないといってもいいのでしょうか。

旧約聖書、新約聖書に十分に、霊的に成長するための神の知恵は得られます。
最初にモーセに与えらえた、十戒を守ることでも信仰上の
成長の益はありますが、それすら守るのは困難です。

たくさんの書物があるから、信仰上の益が得られる
訳ではないです。
信仰の成長というのは、聖書を読むことだけでなくて
(それも大事ですが)神の教えを守ること、
守ることの大切さを経験することで得られるものです。

人間の人生の目的に関しては
聖書には、このように書かれています。

伝道者の書 12章13
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

申命記10章12−13
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。

レビ記19章17−18
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

マタイ12章(これは、レビ記や申命記など、
旧約に書かれている神の教えについて、再度イエス様が
大切な教えだとして、お話されたものです。) 
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これがもっとも大切な第一の掟である。第二の掟もこれと同じように大切である。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。

> 聖書の準備が整い、また、トマスによる福音書などの疑問が解け次第、来年、教会に行ってみることにします。

私も、旧約聖書外典は、文庫本ですが
関根正雄氏のものを持ってますが、あまり深くは
読んでいないです。
正典である、旧約、新約を読まれることを
お勧めします。
少なくとも旧約聖書を1度、新約聖書を2度は
通読されてみてから、外典と比べて見られるといいと思いますよ^^
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.18 )
日時: 2015/12/28 15:19 (dip0)
名前: きき

追記です
聖書は全巻を読むのが一番いいのですが。
旧約は新約よりも長く、内容も硬い部分や
難解な部分もありますし(律法書や預言書など)
時間も新約を読むより、3〜5倍くらい
かかるでしょう。

創世記、(できれば出エジプトも)イザヤ書、詩篇
を先に一度読まれることをお勧めします。^^

これらを読む前に、ヨブ書や、預言書(終末の裁きのことなど)を理解するのは難しいことだと思います。

賢い方であっても、聖書(神様について)はやはり
聖書の箇所の一部分だけを読んだり、解説書を
読むだけでは深くは理解はできません。

神への信仰、罪の始まりと、神の救いの目的
神が愛と正義のお方であり、約束を守る方
(成就される方)であるとことへの信頼なしに
ヨブ記やその他の預言書など<硬い書物や内容>は
理解(受容すること)は難しいと思います。

神様の教え(聖書の教え)と外典や、哲学や、ニューエイジ、グノーシスの教えでは<似ている><同じように思われる>と思うでしょうが、クリスチャンが
みると、根本的な部分で違うところがあります。

それに気がつくには、聖書をまず読み、神様のお考え、ご計画を(ある程度)知ることが必要です。

本物の宝石と、イミテーションを見分けるには
まず本物の宝石を徹底的に見て知る必要があるといいます。 

聖書を読み、神様の言葉に触れ、イエスというお方に出会うことが何より大切です。
自分にあった教会も見つかるといいですが、
何より大切なのは、神様との関係です。

イエス様は、言葉ですから、聖書を読むことによって
真理を求めている方には、神様の呼びかけ(語りかけ)を感じることができると思いますよ。
   メンテ
No.18に対する返信 ( No.19 )
日時: 2015/12/30 17:25 (odn)
名前: いしまる

こんにちは。
年末年始は、仕事やその他の行事でいそがしく、キリスト教や瞑想のための時間がなかなか取れなくて残念です・・

クリスマスは教会では、礼拝で賛美歌が歌われるのですね。

その賛美歌については、あまりよく知らないですが、J.S.バッハについては、西洋音楽の基礎を築いた「音楽の父」と称され、私も昔からなぜか心を惹かれていました。バッハはルター派の信仰をもった敬虔なクリスチャンだったそうですね。

バッハの宝石のような曲の数々は、すべて神に捧げるために書かれたものだそうで、彼は「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして、隣人に喜びを与えることだ」と繰り返し語っていたと言われます。

特に私が好きな曲は、『G線上のアリア』と『主よ、人の望みの喜びよ』ですね。

> 私は、トマスの福音書や、他の外典は、
> 旧約聖書や他の、福音書の内容と比べて<合致しない>
> ため、神の霊感ではなくて、人間的な思い、思想や
> 哲学が入っているので退けられたのだと思いますよ。
トマスによる福音書は、内容の多くは新約聖書に書かれているものと同じですが、グノーシス派の福音書で、神秘主義に重きを置き、キリスト教の階層制度のもととなった思想をすべて否定していたそうです。

> 旧約聖書にも新約聖書にも、単なる教訓や
> いい教えが書いてあるだけでなくて
> 人間の罪、愚かさや過ちが、はっきりと書いてありますし
> (王などの立場の人々の過ちも書いてます)
> 人間にとって、または支配者のために都合のいいことが描かれているわけではありません。
確かに、福音書の記述は当時の教会にとっても、都合のいいものばかり書かれているわけではないのでしょうね。
       
伝説によると、コンスタンティヌスがキリスト教に改宗したのは、(はじめは多神教を信仰していたそうです)神の予兆を見たためと伝えられるそうです。伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に、太陽の前に十字架と、ギリシア文字XとP(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、それと共に「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見たようです。そして、戦に勝利した皇帝はキリスト教を帝国の宗教として認めていきます。

つまり、コンスタンティヌス1世は、迫害を受けながらも、下層市民や奴隷の間に広く普及し、次第に上流階級にも広がるキリスト教を帝国の統一に利用しようとして、キリスト教はローマ帝国の国教となっていったわけですが・・こういった皇帝に神の予兆を見させたり、三位一体の教義を確立させていったその経緯にも、何か絶大な神の力がはたらいたように私は感じますね。

さて、以前にも、トマスの福音書などのグノーシス派については、いろいろお話ししましたが、正統キリスト教がグノーシス派を異端とみなした直接の理由は、旧約の神と新約の神を区別したところにあるのでしょう。グノーシス主義者は旧約の神を「妬む神」「怒る神」とよび、新約の神を「愛の神」であると区別しました。しかも、グノーシスの神話では、反宇宙的二元論といって、この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善の父なる神「至高者」が存在する・・とあります。

そうなってくると、聖書において、救世主であり、ただ一人の神の子であるイエス・キリストの存在自体が曖昧になってくるように思いますね。やはり、私たち人間そのものが「罪」の状態にあり、道徳や法律などに反して、神の意志や愛に対して背く、私たち人間の愚かさが“悪”の元凶である、という視点に立たなければなりませんよね。私自身、「あなたの父母を敬え」という十戒にある基本的な神からの問いかけが守れなかった現実が、原罪をよくあらわしていると思います。

> レビ記19章17−18
> 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
現実的に友情や、夫婦の愛、親子の愛にしても、いつか薄らいでいき、無くなってしまうものです。何かきっかけがあるかもしれませんが、誰のせいでもなく、それが自然なものなのでしょう。

聖書に出てくる「愛」と訳している「アガペー」は、本田神父によると、その人を人として「大切にする」ことと言われます。好きになれない相手かもしれない、でも大切にしなさい。愛情を感じない相手であるかもしれない、でも大切にしなさい。これこそ人間として大事であると・・そして、聖書の「神は愛である」という言葉も、神は愛情そのものだといっているのではなく、神は人をその人として大切にする方である、と理解するべきと本田さんは言われます。

> 神様の教え(聖書の教え)と外典や、哲学や、ニューエイジ、グノーシスの教えでは<似ている><同じように思われる>と思うでしょうが、クリスチャンが
> みると、根本的な部分で違うところがあります。
>
> それに気がつくには、聖書をまず読み、神様のお考え、ご計画を(ある程度)知ることが必要です。
>
> 本物の宝石と、イミテーションを見分けるには
> まず本物の宝石を徹底的に見て知る必要があるといいます。 
>
> 聖書を読み、神様の言葉に触れ、イエスというお方に出会うことが何より大切です。
> 自分にあった教会も見つかるといいですが、
> 何より大切なのは、神様との関係です。
もちろん、聖書をまず読み、神様の言葉に触れることによって、イエス・キリストに出会い、神との関係を築けるのでしょうね。

私が直接、キリスト教に興味を持ち、その神秘の力を信じるきっかけになったのは、本田神父による「心底貧しくされている人たちは、神からの力がある」という聖書の言葉と・・キリスト教神秘家であるスティリアノス・アテシュリス(ダスカロス)の教えです。彼はやはりグノーシスの影響を受けています。しかし、彼は、「神-人」キリストの教えと、新約聖書にその基礎を置いていて、はっきりした目的を持ち、道徳的、倫理的、精神的な性質を養うことに重きを置いた思想家ですね。

興味を持ったきっかけは何にせよ、イエス・キリストに出会い、神との関係・・究極的にはキリスト・ロゴスと一体になり、自己認識-魂が絶対存在との一体を悟れるような期待感をもって、聖書と取り組んでみようと思います。
   メンテ
No.19に対する返信 ( No.20 )
日時: 2016/01/02 15:57 (dip0)
名前: きき

2016年が始まりましたね
ガラシャさん いしまるさんに取っても
良いお年でありますように。

>
> クリスマスは教会では、礼拝で賛美歌が歌われるのですね。

伝統的な歌、聖しこの夜や
その他の歌などが歌われますね。

普段は、モダンな賛美が多いのですが(私の
通う教会では)昔からある賛美も
素敵ですね。

> その賛美歌については、あまりよく知らないですが、J.S.バッハについては、西洋音楽の基礎を築いた「音楽の父」と称され、私も昔からなぜか心を惹かれていました。

バッハは、多くの教会音楽をつくりましたね。
教会が、大きな力を持っていた時代ですから
(良くも悪くも文化、芸術に影響はありますね)

> バッハの宝石のような曲の数々は、すべて神に捧げるために書かれたものだそうで、彼は「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして、隣人に喜びを与えることだ」と繰り返し語っていたと言われます。

自分自身の才能に関しても、自分に栄光を帰すのでなく
神に栄光を帰すというのは、多くの才能ある
クリスチャンの音楽家スポーツ選手などが言いますね。
牧師や一般クリスチャンも、栄光在主、すべての
栄光を主にお返しします。。という言い方を
時々します^^

私たちはそれぞれ、賜物(才能)を頂いています。
大小、目立つものも目立ちにくいもの、いろいろありますが。 才能を伸ばすための努力をするのは、自分自身でも、才能(賜物)を与えてくださるのは、神である。
そういう精神を忘れないことは大切ですね。^^

> 特に私が好きな曲は、『G線上のアリア』と『主よ、人の望みの喜びよ』ですね。
それらも、素晴らしい曲ですね。

> トマスによる福音書は、内容の多くは新約聖書に書かれているものと同じですが、グノーシス派の福音書で、神秘主義に重きを置き、キリスト教の階層制度のもととなった思想をすべて否定していたそうです。

多くは、聖書の正典と一致していても、
その中の何に重きをおくのか。。ということが
重要ですね。
階級制度、というのはカトリックのように、法王を
頭とするものですね。枢機卿、大司教など、かつての
教会は大きな権力を持っていましたよね。

プロテスタントやその他の宗派が出てきて
牧師などは、教師ではありつつも、
信徒を愛し、牧し養うという考えを持つ
教会も多くなりましたね。

役割としての(小さな)権威はあっても、(親が子供に
先生が生徒に、上司が部下に)それは過度に振りかざす
ものではなくて、家族や学校や会社など社会の
中で物事が機能するため、協力関係を可能にするため
の愛と知恵ある権威と従順であるべきですよね。

イエスが使徒たち(私たち、または教会)を愛すように、
牧師は信徒を扱い、夫は妻を扱い
親は子供を、私たちは周りの人を扱っていかないといけないものです。
    
> つまり、コンスタンティヌス1世は、迫害を受けながらも、下層市民や奴隷の間に広く普及し、次第に上流階級にも広がるキリスト教を帝国の統一に利用しようとして、キリスト教はローマ帝国の国教となっていったわけですが・・こういった皇帝に神の予兆を見させたり、三位一体の教義を確立させていったその経緯にも、何か絶大な神の力がはたらいたように私は感じますね。

神の予兆を見たというのも、何かしたの
神の力が働いた可能性はありますね。

もちろん、キリスト教がその後、大々的に
ひろがる経緯には、(人間的な考えや、国や政治の
都合などが入って)間違った方法も取られたことも
ありますが。
それであっても、神様は人間の不完全な方法や
過ちからでさえも、最善に導いてくださると思います。

> 旧約の神と新約の神を区別したところにあるのでしょう。グノーシス主義者は旧約の神を「妬む神」「怒る神」とよび、新約の神を「愛の神」であると区別しました。しかも、グノーシスの神話では、反宇宙的二元論といって、この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善の父なる神「至高者」が存在する・・とあります。

神の愛と義の部分(許しと裁き)について、
別々の神がいると考えたのですね。

国、親などを考えればわかることですが。
愛(恵み、庇護)と同時に、家族、国民に対する
ルール(義務、責任)を与えますよね。
これは、決して矛盾するものではありません。

もし創造された神が劣悪であれば、このような
素晴らしい地球環境はつくらなかったでしょう。
様々な種類の木々や花々、春夏秋冬がある国も
あります。
人も、素晴らしく作られています。

視覚、聴覚、味覚など、動物とは異なります。
神に似せて作られているので<創造する>力が
あります。
字を書く、詩を書く、本を書く、本を読む
芸術を楽しむ、楽器を演奏する、作曲する、
絵を描く、鑑賞する、様々な食事や味を楽しむ。
こんな力を劣悪な神であれば、人間に授けるだろうか?と
思わないのが不思議です。

愛ある神が与えてくださったものに対して
感謝するのでなくて、聖書にある神の(不従順な)
人への裁きの部分だけを見て、神のねたみや怒りを
<悪>と判断するのは、愛がない(利己愛、自己都合)
考えだと思われます。

最初にアダムとエバが(善悪の知識の身を食べた後に)犯した過ち。。
<責任転嫁><自分の過ちを認めずに、誰かに責任を
なすりつける>のと同じでしょう。

自分たちの悪い行いや罪を悔い改める代わりに
神の裁きに対して、不平不満や不服を唱えたり、
神を悪とみなすのは。。自分が神に成り代わって
善悪の裁き(判断)を下す、知恵がある、権威がある
と思い違いをしている、と言えます。

ルールを守らなければ、それなりの
処罰があるものです。
権利ばかりを主張したり、神に良いことばかりを
要求するというのは。。
人間に都合の良い神を良い神とみなしていることに
なりますよね。

それはまさに、人間が作り上げる、人間のための
神様(人間が作る宗教の神)といえますよね。
神様が人間を創ってくださったというへりくだった気持ちが。。全くない、神への<愛><敬虔な恐れ>の
欠如と言えます。

   メンテ
No.19に対する返信 ( No.21 )
日時: 2016/01/02 17:42 (dip0)
名前: きき

長くなってしまったので分けますね。

> そうなってくると、聖書において、救世主であり、ただ一人の神の子であるイエス・キリストの存在自体が曖昧になってくるように思いますね。

私たちの罪に関しての意識、
イエスの贖いの意味を失くすというのは、
悪魔の罠とも考えられます。

グノーシスにしても、ニューエイジにしても
アダムとエバが犯した<罪>人間が犯した<罪>の部分をうやむやにする、罪の重さを矮小化するという
考えがあるように思えます。

教え自体は聖書の教えに似ていて、隣人愛、良い行い
などを提唱しているので、正しいように思われますが。。
罪への意識(神に対する罪)が、あやふやになっている。。それが、神と同等になるような考え
(サタンが神の主権を認めるのでなく
自分が神に成り代わるようになるということと
同じ考え)にもつながっていると思われます。

>やはり、私たち人間そのものが「罪」の状態にあり、道徳や法律などに反して、神の意志や愛に対して背く、私たち人間の愚かさが“悪”の元凶である、という視点に立たなければなりませんよね。

アダムとエバが罪を犯してしまったのは、
サタンの巧みな誘惑(試み)もきっかけとしては
ありましたが、神への愛や信頼よりも、自分の益を優先したり、自己都合を考えてしまったからですよね。

神を中心にするのでなく、自分を中心にする
神と神の教えに目を向けるのでなく、自分に(自分の益)
注目しすぎると、判断を誤る事が多々あります。

神が既に、私達の益を考えてくださって
最善をなしてくださっていることへの感謝や
信頼を失うこと、疑うこと(疑わせる)を
望むのが、サタンですからね。

親が子供を正しく愛せていれば、子供が親を愛するのも、従うのもそれほど難しくないものですよね。。
ただ、エデンの園に居ても(この世で恵まれた
家庭環境で育っても)、神の恵みや愛や、親への
感謝や従順よりも、自己都合な考えを持ったり
不平不満や、わがままな気持ちが起こることも
ありますよね。

罪が入ったことで、一番強い絆で結ばれるべき
家族の愛ですらも歪んだものになっていますし、
多くの悲しみ、苦しみ、憎しみの連鎖があるのは
悲しいことです。 

その負の連鎖(罪の影響、罪の鎖の苦しみ)を断ち切るには、肉においては、罪を犯す人間(自分の親、または
アダムの子孫)の子供として生まれた自分において、
象徴的な意味で死ぬ(肉の死)必要があります。
イエスと共に、死に、そして霊的な意味で
神の子供として生まれ変わること(再生すること)
そして、神の子供として生きて行くということが
必要です。^^

ヨハネ8章32
<真理は人を自由にする。>
福音(イエスの贖い、復活、霊的に生まれること)
は罪から解放し、罪による苦しみやとらわれからも
解放してくれます。

> 現実的に友情や、夫婦の愛、親子の愛にしても、いつか薄らいでいき、無くなってしまうものです。何かきっかけがあるかもしれませんが、誰のせいでもなく、それが自然なものなのでしょう。

なくなってしまうのは、罪を受け継いだままの
状態においては、自然(罪の結果)とも言えますよね。
愛を築こうとしても、一方的な努力だけではどうにも
ならないこともありますよ。

神の愛は薄れるようなものではないですし
本来の愛は、薄らぐものではなく、泉のように沸き上り、与えても無くなるようなものではないものです。

罪の影響下にはあっても(家族や他人との関係を
変えられなくても)
罪から解放された自分という、新しい身分を
意識する必要はあります^^

自分が罪を赦され、義人とされているということ
そして、
ローマ8章37節にあるように
<私たちは、私たちを愛してくださった方によって
これらすべての中にあっても、圧倒的勝利者と
なるのです>
この世で、艱難、家族や自分や周りの罪ゆえの負の連鎖や苦しみがあっても、それに対して、<無力>ではなくて
<勝利者><解放されたもの>になることができます。

自己認識(認知)、自分の立場が変わるというのが
罪の悔い改めと、再生した後の信仰でもあります。
それを理解してないと、聖化(霊的成長)も
すすみにくいものです。

> 聖書に出てくる「愛」と訳している「アガペー」は、本田神父によると、その人を人として「大切にする」ことと言われます。

愛は、大切にするというと分かりやすいですね。
相手の命を慈しむ、相手の存在を慈しむものです。

愛は個人的な感情ではなくて、意志でもあるとも言いますね。
感情が愛を左右するのでなく、愛が意志を生み出し
感情を制御するものであるとも言えます。

本田神父がおっしゃるように、
弱くされること、(謙虚に、へりくだること)
によって人間は、自分が神の愛と恵みのうちに
生かされていることに気がつくこともありますね。

と言うより、人間は儚く弱い存在である
神の恩恵に依存した存在であるというのが事実であるの
ですが、自分の立場を忘れて神の恵みへの感謝が薄れてしまうと恵まれた環境や物事を<当然>のように
考えてしまいますよね。

科学では、宇宙や地球の秩序を解明は多少は
できても、秩序を作り出すことはできません。
(バイオスフィア2のように、人間が生存できる地球環境のようなもの作っても、2年ほど生きられたようですが、酸素や二酸化炭素や食料の供給の問題が
起こり、健康は保たれなかったようです。
罪の影響下や悪魔の影響下にあるにせよ、地球環境が
どれだけの秩序で(神の恩恵があること)成り立っているのかを思い知らされますね。^^)

> 興味を持ったきっかけは何にせよ、イエス・キリストに出会い、神との関係・・究極的にはキリスト・ロゴスと一体になり、自己認識-魂が絶対存在との一体を悟れるような期待感をもって、聖書と取り組んでみようと思います。

イエス様(ロゴス)の言葉を、日々のパンとして欠かせないものになることが、
神との関係を一層強くするものだと思います。

永遠の命は、イエス(神の言葉ロゴス)、神の知恵と
共にあることですからね。

食べること(聖書を読む)、消化し、反芻すること
(黙想し、言葉を自分の中に取り入れること)
祈ること(神との対話、コミュニケーション)
実践すること(日々の生活に当てはめること)
は大切ですね。^^

   メンテ
No.21に対する返信 ( No.22 )
日時: 2016/01/04 16:16 (odn)
名前: いしまる

こんにちは。
今年もよろしくお願いします。
初夢はあまり良くないものでした・・父親が悪い状態で出てきたので。
家族など故人がよくない雰囲気で出てきた場合、災いに関する夢でもありますが・・
それが、あまりにも不気味さが強いほど、吉意も強く、死と再生を表すそうですね。

> 自分たちの悪い行いや罪を悔い改める代わりに
> 神の裁きに対して、不平不満や不服を唱えたり、
> 神を悪とみなすのは。。自分が神に成り代わって
> 善悪の裁き(判断)を下す、知恵がある、権威がある
> と思い違いをしている、と言えます。

> 権利ばかりを主張したり、神に良いことばかりを
> 要求するというのは。。
> 人間に都合の良い神を良い神とみなしていることに
> なりますよね。
>
> それはまさに、人間が作り上げる、人間のための
> 神様(人間が作る宗教の神)といえますよね。
> 神様が人間を創ってくださったというへりくだった気持ちが。。全くない、神への<愛><敬虔な恐れ>の
> 欠如と言えます。
ドイツの哲学者ニーチェの「神は死んだ」という言葉は有名ですね。

この言葉の意味は、キリスト教の絶対存在や価値観、超越的な神の国への信仰が消滅して、現実の生や世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ・・ということばで表したものです。

ニーチェによれば、人間は、より高い価値を生み出したいという「力への意志」を常に持っているといいます。人は神に似せて作られているので<創造する>力などもそうでしょう・・今の社会で神学的には、“神”は人間にとってリアルな存在ではないという意味で、この「神は死んでしまった」という言葉を使うのでしょうね。

現実では、人は、その「力への意志」が満たされないことが多いものです。すると人は、力を持っている強者に対してルサンチマン(怨恨)に陥るのです。(私自身も、現実社会では自分自身の力不足からの葛藤の毎日ですね・・)つまり、ニーチェはキリスト教(ユダヤ教から)の禁欲的道徳を生み出した無意識の動機は、他者、力のある者に対する怨恨の感情であったというところにあると言っています。

しかし、ニーチェのキリスト教批判の基本的な考え方を正確に捉えれば、彼はキリストそのものを批判しているのではなく、キリスト以後の歴史的キリスト教を批判しているのですね。

「この世界をありのままに受け入れて愛するべきである」と・・創造と破壊の無限な円環としての世界をありのままに肯定し、瞬間を生き直す。そして、同じことの繰り返しの毎日を、むしろ積極的に肯定する「運命愛」としてニーチェは説きました。

今の日本には、信仰心や倫理性が欠落したニヒリズムが蔓延しているように思います。この世界には最初から絶対的な真理、価値がまったく存在しないという考え方ですね。「どうせ、世の中は無価値だ、だから壊してしまえ」もしくは「思考停止して、どうでもいいや。流されてしまえ」これは、信仰心や倫理性のない良くないニヒリズムです。

ニーチェが考えるニヒリズムは、「世の中は無価値かもしれない。だが、それでも、自分は何か価値を見出して、強く生きていきたい。そして、国家や社会、地域、人のために尽力したい、支えたい」というものですね。

> その負の連鎖(罪の影響、罪の鎖の苦しみ)を断ち切るには、肉においては、罪を犯す人間(自分の親、または
> アダムの子孫)の子供として生まれた自分において、
> 象徴的な意味で死ぬ(肉の死)必要があります。
> イエスと共に、死に、そして霊的な意味で
> 神の子供として生まれ変わること(再生すること)
> そして、神の子供として生きて行くということが
> 必要です。^^
象徴的な意味で死ぬ(肉の死)必要がある。というのは、「洗礼」を受けるということでしょうか? 洗礼とは、イエス・キリストの死と復活にあずかって身も心もキリストのものとなること、古い人間に死んでキリストのいのちに生かされること・・と、よく神学者が言われていますが、やはり、あせらず、自分自身の信仰のなかでイエス・キリストとの出会いを待ちたいと思います。

> 科学では、宇宙や地球の秩序を解明は多少は
> できても、秩序を作り出すことはできません。
> (バイオスフィア2のように、人間が生存できる地球環境のようなもの作っても、2年ほど生きられたようですが、酸素や二酸化炭素や食料の供給の問題が
> 起こり、健康は保たれなかったようです。
> 罪の影響下や悪魔の影響下にあるにせよ、地球環境が
> どれだけの秩序で(神の恩恵があること)成り立っているのかを思い知らされますね。^^)
なるほど、人工生態系のなかでは、2年ほどが生きられる限界だったのですね。この施設は150億円を地元の資産家らが投じて建設されたそうですよ。

たとえば、人の“心”を(死んでからも)完全な形で再現する方法が研究されていて、脳を保存しコンピュータで完全に解析できれば、現在技術的に可能で、人ははるか未来まで生きることができるらしいのです。しかし、それはあくまでも、肉体はなく、コンピュータ上で人を生き返らせるだけですが、数百億ドルもかかるそうで、つまり一人、数兆円かかる計算となります。キリストの復活、そして、死者が何かの形で現れるというのが、いかに凄い現象であるかがわかりますね。
   メンテ
No.22に対する返信 ( No.23 )
日時: 2016/01/04 21:48 (dip0)
名前: きき

こんばんは
> 家族など故人がよくない雰囲気で出てきた場合、災いに関する夢でもありますが・・
> それが、あまりにも不気味さが強いほど、吉意も強く、死と再生を表すそうですね。

夢を見られたのですね。
過去の悲しみ、憎しみ、苦しみを
時間をかけて、受容(咀嚼)しているのかも
しれませんね。

新しく生まれる(再生)するには、
過去に決着をつける、整理する必要がありますよね。

クリスチャンとして、罪の悔い改めというのも
神に対する罪を犯す、罪を受け継ぐ
古い自分との決別(象徴的に言えば、肉において
死ぬこと)とも言えます。

> 今の社会で神学的には、“神”は人間にとってリアルな存在ではないという意味で、この「神は死んでしまった」という言葉を使うのでしょうね。

そうですね。
神が存在していても、それが、自分にとって
リアルな存在でなければ、いないも同然なのですよね。

> しかし、ニーチェのキリスト教批判の基本的な考え方を正確に捉えれば、彼はキリストそのものを批判しているのではなく、キリスト以後の歴史的キリスト教を批判しているのですね。

キリストや聖書を批判するというより、
(宗教)組織としてのキリスト教やその行い
に疑問や批判を感じる人はたくさんいますね。

> 象徴的な意味で死ぬ(肉の死)必要がある。というのは、「洗礼」を受けるということでしょうか? 
洗礼を受けるというのは、神と共に
生きていくということの、公にする証でもあります。

もちろん、これは<決意>であって
その後すぐに、過去の悲しみや苦しみが
消え去って生きられるというわけではありません。
だいぶ癒されても、時に(何かのきっかけで)
古傷が疼くこともあるでしょう。

クリスチャンになって(洗礼を決意して)
最初の数年で、癒しが50〜80%なされても、
80〜90%以上癒されるには時間がかかるかもしれません。

神と聖書、キリストへの基本的な信頼が当ても、
まずは幾つかの教会の礼拝に参加してみる必要も
あるでしょう。
焦らずに、イエス様と出会い(祈って聖書の言葉を
読むこともいいです)を待ってみてください。

> なるほど、人工生態系のなかでは、2年ほどが生きられる限界だったのですね。この施設は150億円を地元の資産家らが投じて建設されたそうですよ。

神様が造られた地球の生態系、秩序は
考えられないほど、素晴らしいものですね。

何百億、何兆円かけても、人間の理想的な環境を
<維持>することは、困難なのですよね。
たとえ、今後それが、5〜10年生存可能に
なったとしても。。
人間が生まれて(聖書の記述からすれば)
何千年も、最適な環境が保たれていることは、
神様の英知と恩恵だと思われます^^

> たとえば、人の“心”を(死んでからも)完全な形で再現する方法が研究されていて、脳を保存しコンピュータで完全に解析できれば、現在技術的に可能で、人ははるか未来まで生きることができるらしいのです。しかし、それはあくまでも、肉体はなく、コンピュータ上で人を生き返らせるだけですが

人は<無>から有を、作ることはできないですよね。
神がすでに作られた自然や、秩序(法則)や
物質を利用して、何かを作ったり加工することは
できますが。。
何兆円もかけても、人は人を作れませんが、
胎児は母の胎内で育ちますからね。
人や生物の命が存在することは、改めて
いかに奇跡てきなことなのか、思わされますね。

当たり前と思ってしまっていればそれも、<自然><そういうもの>で済まされますけどね。

> 今の日本には、信仰心や倫理性が欠落したニヒリズムが蔓延しているように思います。この世界には最初から絶対的な真理、価値がまったく存在しないという考え方ですね。「どうせ、世の中は無価値だ、だから壊してしまえ」もしくは「思考停止して、どうでもいいや。流されてしまえ」これは、信仰心や倫理性のない良くないニヒリズムです。

まさに信仰心と倫理性の欠如
(神への不遜、高慢、自己中心)が、
神への信仰や、今存在する、自分(人間)や
生けるものへの尊厳を失わせていますね。

>現実では、人は、その「力への意志」が満たされないことが多いものです。すると人は、力を持っている強者に対してルサンチマン(怨恨)に陥るのです。(私自身も、現実社会では自分自身の力不足からの葛藤の毎日ですね・・)

向上心を持つというのは、素晴らしいことですが
現実<罪を受け継いだこの世>では、能力も、
生まれ育つ国も家庭環境も、不公平なのが当たり前
です。
力への意志があっても、すべての人が、いつも
満たされるものではないものですよね。

向上心は必要ですが、それが過度になったり
評価に囚われ過ぎたり、心を乱されないためにも。。
自分のありのままの存在意義
(神と自分の関係)を静かに思い巡らす
黙想の時を持つのも大切ですね。^^
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.25 )
日時: 2016/01/06 01:39 (dip0)
名前: きき

ふうさん

わかりました
雑談、時々 閲覧しますね。

私も、理系でなく文系出身です。
法学科ではなくて外国語学部出身ですが^^
ある程度、ネットで調べたり一般的な
意見はお話できるかと思います。

ただ、他の方が怒られてしまうのは
仕方ない部分があるのはご自分でもわかりますか?

おそらく、あなたも悪気はないのでしょうが、
それでも言葉には、良くも悪くも<力>というのが
ありますので、マイナスなイメージを一度与えてしまうと、プラマイゼロ(中庸)に戻すのにとても時間が
かかってしまいます。

お友達関係や、家族関係など人間関係で
コミュニケーションは問題ないですか。
何かトラブル、誤解が生じることは
ありませんでしたか?

おそらく、ふうさんの場合、学校のテストなど
ペーパーテスト上や、作文などでは
問題がないのかもしれませんが、
コミュニケーションでの言葉のやり取りが
苦手なのでは? と推察されます。。

それで、人を怒らせる話し方をするという
意見が出たのも、理解ができますし、
あなたが人を怒らせる話し方をする才能
があるというのも<冗談>には、聞こえなかったのです。

言葉足らずの部分があったり、
または(悪気がなくても)、丁寧な
言葉使いができてない部分があると思われます。

丁寧な言葉遣いは、先生などとお話するときに
使いますよね?
それとも、気さくな話し方ですか。。

個人差がありますが、親子や先生とも
友達感覚のような関係や、話し方をする方が
最近は多いといいますが、それがあるのであれば
気をつけられた方がいいですよ。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.27 )
日時: 2016/01/06 15:32 (dip0)
名前: きき

ふうさん

雑談のところに
スレ立ててもらってもいいですか。

名前はふうさんで
立てられますか?

トリックさんにも
来ていただきたいのであれば
以前のハンドルネームの方が
いいのかもしれませんが。。
お任せしますね。

人から頭が悪いと言われるお人好し?
人から褒められる謙虚さの 使い分け の

意図がわかりません。

そういう使い分けをしたいのですか。

そうであれば、何のために。 (なぜ)
そう見られたい、見られたくないのか。(それはなぜか)

詳しく話してもらえると、
答えやすいです。

漠然と言われると、分かりにくいですし
あなた自身が、自分の中で整理してから
相談をするという、訓練にもなりますからね。^^


   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.28 )
日時: 2016/01/06 16:19 (dip0)
名前: きき

追伸です
ふうさん

お人好し になる必要はありません。
人から頭が悪い、良いと評価されることは
気にしないこと、
ただ、誠実で親切であったほうがいいですね。

謙虚である必要は、常にあります。
それは、褒められるためではなくて、
謙虚でないということは、無知(恥ずかしいこと)
だからです。
人は常に、自分の無知と無力な部分に出会います。
5〜10年前よりは、知識や知恵がついても
やっぱり、私もまだまだ無知で無力な部分がたくさん
あります。 一生そうだと思いますよ^^

人の評価を気にするのでなくて(人に左右される、依存する)、人としてどうあるべきか?という次元で物事を考えると、自分がどう行動すべきか? 分かると思います。

私はクリスチャンなので
聖書から、一つあなたにお伝えしたい言葉があります。

箴言15章1〜2節
柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。
知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。

相手がこう言ったから、やり返す、責める。。
というのは、相手に対して<反応的>になっています。
相手に誤解をされたり、否定的な意見を言われると
ムッとするかもしれません。

感情は誰しもあります。 でもまずは相手を
責めたり、コントロールしようとするより
自分の感情をコントロールしてください。^^
気持ちの高ぶり、揺れを抑えてから。客観的に、冷静に考える時間を持ってくださいね。
それから、対応するんです。
自分も尊重されることを望むなら相手を尊重しないと
いけません。^^ 戦うとか、有利な立場に立つのでは
なくて、相手と対等になって、穏やかな関係に
なることを望んでください。

相手に悪意がある、ともし一瞬思っても本当にそうだろうか? という疑問も持ってください。
あなたは、なんでも疑って、こだわることが大切だと言っていましたよね?^^

ぜひ、それを、人や物事に対して、不快な気持ちになった時、不満を持った時に活かしてください。
相手の真意(悪意があるのか、あなたのことを考えているのか)に対して<自分の思い込みや、誤解が
ないか?>を考えてみてください。

早合点をしたり、相手を責めるような言葉を
強く言ってしまうと余計、相手との関係を悪くしてしまいます。

聖書には、神様の知恵がたくさんあります。
信仰を持つ持たないは、自由ですし強制などもしませんが、<教養>として文学だけでなく、聖書や思想書をこれから読まれるといいですよ。
法学にせよ、律法など人よりも高い権威のあるものに
従うというのも、聖書の律法の影響があります。
民主主義の考えも、キリスト教の神の下の平等という
考えがあって成り立つものと言われます。

仕事の掲示板で無人島さんも、文学を読むように勧められてましたね。
私も本を読むこともお勧めします。

知っている言葉、教訓があっても、
本当にそれを理解する、血肉とするのでは
全く違います。^^
<知識>と、<知恵>の違いも、考えてみてください。
就職に役にたつ勉強(知識)だけでは、人生を
豊かに、(本当の意味で)自由に生きることは
難しいものです。

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.29 )
日時: 2016/01/08 02:20 (odn)
名前: いしまる

ふうさん、ききさん、
こんばんは。

> 親からも注意をうけますが、人から頭が悪いと言われるお人よし と 人から褒められる謙虚さ の 使い分けがわかりません
あなたの親から注意をうけるというのは・・人への配慮不足と、素直になって相手の意見などを受け入れる謙虚さが足りない、という内容なのでしょうか?

謙虚であるというのと、お人よしであるというのは、頭がいいとか悪いとか、褒められるとか・・そういう意味とはまったく違うと思いますね。つまり、その人の人間性や、“人格”の問題です。

ここはキリスト教についてのスレなので、その観点から進路と学力についての悩みについて述べると・・まず、キリストは無学だったと、本田神父は言われます。

イエスは家畜小屋で生まれ、就いた仕事が「石切」です。石切は日常で石の粉を吸う仕事ですから、塵肺で早死にすることが多く、奴隷、寄留者、罪人あつかいされていた貧困層に割り当てられた仕事でした。当時の社会で、罪人と見なされた石切のせがれイエスには、学問をするゆとりもチャンスもなかったはず、と本田神父は言われます。

それにもかかわらず、12歳のイエスが、神殿でユダヤ教の祭司を相手に議論するという、イエスの神童ぶりを示すエピソードがあるそうです・・それは、彼が神の子であり、イエスという人間性をとって、神の最高の人格が宿っていたからと考えられると思いますね。人の「智慧」というものは、知識や学の有無ではなく、その人間の“人格”に宿るものなのかも知れません。 

> 洗礼を受けるというのは、神と共に
> 生きていくということの、公にする証でもあります。
>
> もちろん、これは<決意>であって
> その後すぐに、過去の悲しみや苦しみが
> 消え去って生きられるというわけではありません。
> だいぶ癒されても、時に(何かのきっかけで)
> 古傷が疼くこともあるでしょう。
「洗礼」というのは、全身を水にひたすとか、頭部に水を注ぐことによって罪を洗い清め、キリスト教徒になるために教会が執行する儀式とありますが・・実際にも、現在の教会でこのような儀式が行われているのでしょうか? また、キリスト教についての正しい理解が問われたりするのでしょうか。

イエスの最期の近く、ヤコブとヨハネが、彼の側近にしてくれという前約束を取り付けようとしたそうですが。イエスは「これから、わたしが身を沈める、『沈めの式』(洗礼式)であなたたちも身を沈める覚悟はあるのか」と言われたそうです。

イエスはすでにヨルダン河で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたはずです。でも、イエスにとって洗礼とは十字架によって、自分に死んで、復活のいのちによって立ち上がること・・それがイエスにとって真の洗礼であるのでしょう。

ニーチェが「運命愛」として、この世界をありのままに受け入れて愛するべきであると説き、どんな苦しみをもありのままに受け入れる人間を「超人」と名づけ、逆恨みすることなく、「力への意志」を素直に発動する超人に満ちた世界になることを望んだのです。彼は人が困難や苦しみにうちかち、それを乗りこえる存在として、人間がその可能的極限にまで到達した存在・・人間の理想的典型をキリスト教的神の復活として望んだのでしょう。

どんな人でも人生を生きていくなかで、イエスの十字架の死のように、自分を死なせなければならない場面に出くわして、そこから立ち上がる力こそが、超人であり真の洗礼であるとイエスやニーチェは言われたのだと思います。

だから、キリスト教の信者になったところで、洗礼を受けたところで、人間性がいきなり運命愛に目覚めたり、回心し、罪のゆるしと洗礼によってひきおこされる、心の大きな転換はすぐに起きないのですよね。

逆に、信者になり、洗礼を受けたことで、人としての大切な感性をゆがめたり、場合によってはなくしてしまう場合もある、と本田神父は言われます。つまり、「自分は洗礼を受けているから特別な人間だ」という思い違いのようなものです。

これは、“宗教”という団体の持つ怖さだと、私は思います。キリスト教に限らず、信心=団体行動、教団としてまとまっているからこそ、教会が存続し維持していくのでしょうが、一人ひとりが人の痛みに敏感になる感性など、人間らしさというものを、どこまでも失ってはならないと私は思います。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.30 )
日時: 2016/01/08 15:28 (s820)
名前: モリゾー

はじめまして、失礼します。
私は、無宗教なのですが、エホバの証人が勧誘に家によくきます。
あまりよい噂は聞かない団体ですが
母が長話して、話を聞いてます。
何かキリスト教と関係がある団体なのでしょうか?
   メンテ
No.29に対する返信 ( No.31 )
日時: 2016/01/08 16:01 (dip0)
名前: きき

こんにちは
いしまるさん
ふうさんは、見ておられるかわかりませんが。。

> それは、彼が神の子であり、イエスという人間性をとって、神の最高の人格が宿っていたからと考えられると思いますね。人の「智慧」というものは、知識や学の有無ではなく、その人間の“人格”に宿るものなのかも知れません。 

イエス様はこの地においては
当時の最高学問を学ばれていたわけでは
ありませんが、神の子どもとして、
神の教え(旧約聖書)を熟知していたと言えますね。

そして、天におられた時は神でしたので、この世の誰よりも知恵ある方だったことでしょう。

この世では、いわゆる肉のパンの学問
(生きるため、生計を立てるための学問)が
高く評価されていて、霊的な、魂を養う
パンの学問は、就職や生計を立てるのにあまり
結びつかないため、軽く見られてしまいますよね。

大学教育(高等教育)で最古のものは、
医学や法学、そして、神学(魂の学問)や
哲学が古くからある学問です。
しかし、日本で、神学部や仏教学部というのは
少ないですよね。(思想哲学がある大学もありますが
経済や経営や、文学というこの世の知恵や知識に
とって変わってます)

イエス様は30歳までは人として謙虚に、つつましく生きられ。。石工、大工の仕事をして生計を立てており、
神の子であるからといって、金や食べ物を、奇跡で出して、楽をしていたわけではありません。^^
奇跡をなされたのは、(信徒たちの見本として)
洗礼を受けられて悪魔の試みを受けられた後だと言われます。

イエスがなされる奇跡は、この世で楽をするためでは
なく、魔法のようなものではなくて、神様の栄光を現し
神の国(天国)を示すものであったと言えますね。

人は、肉的なパン(一般的な学問、学識)だけでは生きてはいけないものです。
どんなに学歴があっても、その人に人格(イエスのように完全でなくても、思いやり、謙虚さのある人格)が備わってないと、どの社会(家庭、親戚関係、学校、仕事場)でも、苦労をしてしまいます。
人は、一人だけでは生きてはいけませんし、相互依存の
関係にあるからですね。

<知識>を得ることと、人格が形成されること<知恵を
つけること>は違います。
この世では、学校や家庭ですらも、<知識偏重>に
なりがちですよね。

箴言15章2節にもあるように
<知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。>

知恵のあるものは、知識をよく用いる。。
つまり、知識をよく(正しく、効果的に)用いるには
知恵がいるということです。

知恵をどうすればつけられるか?というと
箴言1章7節
<主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。>

神を畏れること、つまり人間よりも
ずっと上の権威を認め、敬意を持つこと、
敬虔な畏れを持つことが、知恵の始めです。

神様を信じてない人でも、(儒教など神を認めない
哲学や思想でも)親、先生、年配者などに敬意を
持つという礼儀を教えていますよね。
または、法律や、倫理、社会的なルールを守ることなど
、生きる上で欠かせない知恵であると言えます。
無知なものは、知恵をも諭しをも侮る。

無知な人、謙虚さを知らない人(高慢なもの)は
知恵も権威を認めることも、注意も聞きません。

この言葉を聞いて、心に響いて、反省できるのか
うるさい説教だなと思って、退けるかは、その人
次第です。

   メンテ
No.30に対する返信 ( No.32 )
日時: 2016/01/08 16:41 (dip0)
名前: きき

初めまして^^
モリゾーさん 

> はじめまして、失礼します。
> 私は、無宗教なのですが、エホバの証人が勧誘に家によくきます。

彼らは家庭伝道を熱心にされていますよね。
一般のキリスト教会は、あまりしませんが
たまに、路傍伝道をしていることはありますね。

> あまりよい噂は聞かない団体ですが
> 母が長話して、話を聞いてます。
> 何かキリスト教と関係がある団体なのでしょうか?

彼らは、聖書とその神様(エホバ)(ヤーウェですね)
を信じているのですが。
三位一体は受け入れていなく、キリストを
神の子ではあるものの神ではない。。という
認識を持っています。
また、独自の聖書を用いています。(新世界訳聖書)

キリスト教会においては、
エホバの証人や、モルモン教や統一教会などは
異端と捉えています。

マラナサ グレイス のホームページに 
一般のキリスト教会と、上記の3つの団体の
大まかな違いが書かれているので参考までに。

www.mgf-jc.com/kirisuto-kyou-san-dai-itan-no-tokuchou--the-characteristics-of-the-three-major-cults

もちろん、エホバの証人<個人>を
非難するものではないですし、
彼らの多くは、真面目で誠実な方が多いと言えます。

エホバの証人は、彼らこそが真実のクリスチャンと思っています。
カトリックやプロテスタントの主流派の
教会は、偽りのキリスト教という認識を持っています。
確かに、彼らの主張する部分には、あっている
部分もあるのですが、合っていない部分もあります。

過去のキリスト教世界や、組織などの誤りや問題を
認めている、カトリック、プロテスタントの
司祭、牧師、信徒もいます。
個人レベルでは、できるだけ、聖書に従って
いきたいと考える信徒もいますからね。^^

エホバの証人は<律法主義的>な部分があるのも問題です。
伝道も、もちろん自主的に喜んでするのであれば
いいのですが。ほぼ半強制(義務)のように
なっていると言えるでしょう。

一般のキリスト教会では、
牧師、伝道師などがいて、一般信徒は
あまり伝道活動はしません。
どちらかというと<種まき>として、
まずは教会に気軽に来ていただけるように
お声かけをするくらいですね。

教会は、一般の方が気軽に来て下さらないことが
多いですからね。^^
イメージとして、敷居が高いとか
マザーテレサのような、貧しい人への奉仕ができるような愛の溢れた人間でないときてはいけないのでは? という
誤解、勘違い?などもありますからね。

教会でのクリスマス会やバザー、コンサートにご招待したり、子ども会に誘ったり。。
トラクト(パンフレット)を渡すくらいというのが多いですね。
きちんとした教会であれば、信仰を強制など
しないので、気軽に訪ねてみてくださいね。

   メンテ
No.29に対する返信 ( No.33 )
日時: 2016/01/08 17:30 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
また長くなってしまったので
分けて お返事しますね。

> 「洗礼」というのは、全身を水にひたすとか、頭部に水を注ぐことによって罪を洗い清め、キリスト教徒になるために教会が執行する儀式とありますが・・実際にも、現在の教会でこのような儀式が行われているのでしょうか? また、キリスト教についての正しい理解が問われたりするのでしょうか。

はい
宗派によっても違うのですが、
滴礼(頭部に水を注ぐ、つける)、浸礼(全身をつける)があります。
主に、プロテスタントの福音派、バプテスト派では
全身を浸すというのが多いですね。^^
私も浸礼でした。
もちろん、宗派でもケースによっては(病気などで
浸礼ができない場合)滴礼ですますこともあります。

> イエスの最期の近く、ヤコブとヨハネが、彼の側近にしてくれという前約束を取り付けようとしたそうですが。イエスは「これから、わたしが身を沈める、『沈めの式』(洗礼式)であなたたちも身を沈める覚悟はあるのか」と言われたそうです。

洗礼というのは、罪を悔い改めて
(神を無視して生きてきたことも、罪ですし
実際に神の教えに従わず、罪を犯して生きてきたことも
含まれていますね。)神と和解して、神の子どもとなる
ということですからね。

神を信じ、復活の命によって聖霊(命)を
いただき生きることを決意することですね。
自分中心から、神中心に生きること
神に(自分の命や人生を)ゆだねていくということと言えます。

> ニーチェが「運命愛」として、この世界をありのままに受け入れて愛するべきであると説き、どんな苦しみをもありのままに受け入れる人間を「超人」と名づけ、逆恨みすることなく、「力への意志」を素直に発動する超人に満ちた世界になることを望んだのです。

神の国を待ち望みつつも(神への愛、信仰、希望を
持ちつつ)、この世界を、ありのまま受容すること。
キリストと共に、この世において罪の奴隷でなく
神の子どもとして生きていくことが、
この世の苦しみの中で、生き生きと生きるためには
不可欠なのだと思います。

> どんな人でも人生を生きていくなかで、イエスの十字架の死のように、自分を死なせなければならない場面に出くわして、そこから立ち上がる力こそが、超人であり真の洗礼であるとイエスやニーチェは言われたのだと思います。

そうですね
自分において、死なないといけない。
自分の欲望、願望において、時にあきらめないと
いけないことがありますよね。
立ち上がるためには、希望が必要であり
支えてくださる方が必要だと思います。
(聖霊のサポート、神との交わり)

> だから、キリスト教の信者になったところで、洗礼を受けたところで、人間性がいきなり運命愛に目覚めたり、回心し、罪のゆるしと洗礼によってひきおこされる、心の大きな転換はすぐに起きないのですよね。

信仰というのは、神との信頼関係であり、
個人差があります。
もちろん、大改心によって、前科のある方が
神学を学んで牧師になるというケースもありますが
(進藤牧師など)
そこまでの変化がない人も多くいます。
なんとなく、クリスチャンになる人も
いるかもしれません。。

洗礼を受ける、クリスチャンになるというのは
いわば、<神の子になる><キリストの花嫁になる>
という決断ですからね。^^

なんとなく、結婚するというのと、しっかりと
覚悟して結婚するのでは。。その後の歩みも
違ってきますよね。

> 逆に、信者になり、洗礼を受けたことで、人としての大切な感性をゆがめたり、場合によってはなくしてしまう場合もある、と本田神父は言われます。つまり、「自分は洗礼を受けているから特別な人間だ」という思い違いのようなものです。

イスラエルの民にしても、律法学者やパリサイ派の
人でも<選民>という間違った意識を持っている人もいたでしょう。
イエスラエル(ユダヤ人)が選ばれたのは
<アブラハムとの約束>であって、アブラハムの信仰ゆえに、選ばれるという恵みを受けたにすぎないんですよね。

クリスチャンも、神に信仰を持つように
選ばれていると言っても、それは<神の恵み>であって
私たちが、偉いわけでもありません。^^

特別に愛されるといっても、神の愛と憐れみゆえに特別に愛されているだけですからね。
そこを間違ってはいけませんね。

> 一人ひとりが人の痛みに敏感になる感性など、人間らしさというものを、どこまでも失ってはならないと私は思います。

人は自己中心の気持ちがあり、どうしても、自己防衛に
走って、周りに対する愛や配慮が欠けてしまうことも
あります。。

自分を愛し尊重し、知恵と感性を身につけることによって、相手を尊重し愛することができますね。
余裕が生まれることで思いやりを持てると思います。
この世は厳しく、余裕がない人が多いですよね。

エペソ5章 10〜12節
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、
神の武具で身を固めなさい。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

(悪魔は、私たちが神の愛から離れて
不信を持ったり、高慢になり、憎しみ合うことを
望んでいます。
目に見える、人間同士の争いだけに目を向けるのでなく
それを喜んでいる悪の存在がいることを
思うと、自分の中にある、肉の思いと戦い、神の
思いに満たされたいと願うことができると思います。)

エペソ5章14〜20
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

(聖書を読み、真理(知恵)を身につけること
信仰を持ち、祈って、神のことばに従うことで
悪魔や肉の思いと戦うことができると言えます。
この世の方法では、罪がもたらす悲しみや苦しみの悪循環は断ち切れませんからね。)

新約聖書では、福音書はもちろんの事
ローマ書、エペソも非常にお勧めの聖書箇所です^^
ぜひ読んでみてくださいね。
   メンテ
ちょっと質問 ( No.34 )
日時: 2016/01/08 23:20 (docomo)
名前:

遠隔操作だの携帯の中を覗かれていると、バグの様に言い続ける[名無し(女)]についてどう思うね?
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.35 )
日時: 2016/01/09 05:41 (dip0)
名前: きき

。さん

本当にその教会の、牧師に問題があるのであれば、処分が下るでしょうし。
(ネットで誰か、同じ教会の人が見るはずですからね)
そうでなければ、その方が特定できなければ、しばらく
続くのかもしれませんね。

それ以上は
私はなんとも。。申し上げられないです。


   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.36 )
日時: 2016/01/09 12:49 (spmode)
名前: モリゾー

いきなりの質問に丁寧に答えていただきありがとうございました。
母は最近、王国会館というところに出入りしているみたいです。
それに、神の世界を信じているようでした。このまま入信しないか心配です。
一部カルトという噂もあるので

三位一体ですか、たしか、父と子と精霊でしたね。父と子は分かりますが、精霊がよくわかりません。
   メンテ
No.36に対する返信 ( No.37 )
日時: 2016/01/09 19:20 (dip0)
名前: きき

モリゾーさん
こんにちは

> 母は最近、王国会館というところに出入りしているみたいです。
そうなのですか。

> それに、神の世界を信じているようでした。このまま入信しないか心配です。
神様を信じることは、決しておかしいことでも
危ないことでもありません^^
問題は、組織に過度の依存や期待を
することなんです。

私自身、クリスチャンで、プロテスタントの
自由福音系の教会に属しています。
本来は、<信仰>というのは神とその人の
<信頼関係の回復>です。

バランスのある考えとしては
神と聖書の教え>自分と神の関係、自分と
周りの人の関係>教会などの組織 です。
こういう場合ですと、<信仰生活>ができます。

もちろん、これでも神仏への信仰を
持たない人には、心配されたり
理解されないこともあるでしょうが^^

でも、神と聖書の教え=組織>自分と神の関係と
周りの人の関係
こうなると、<宗教生活><宗教組織生活>
になりがちです。

エホバの証人に限らず、教会の権威が高すぎる
ところもあるので、教会選びも、結構重要です^^

> 一部カルトという噂もあるので

<組織>を過大評価しすぎているところが問題ですね。

神と聖書に従う保守的な教会や信徒も
(一部の人や、自由主義な教派からは)カルトや原理主義者と否定的に呼ばれてしまうこともあるので
カルトの位置付けは難しいです。。^^

まず、エホバの証人は、一般のキリスト教会で
異端と呼ばれていることについて
情報を少し、入れるといいでしょう。

聖書や神様に惹かれているのであれば、
まずは、一般的なキリスト教会と比較したほうが
いいと思いますよ^^

FEBC (キリスト教放送局)オンラインでも
最寄りの(一般的な)教会が探せます。
キリスト教を名乗る団体でお困りの方へ
というページもあります。

www.febcjp.com/cult/

> 三位一体ですか、たしか、父と子と精霊でしたね。父と子は分かりますが、精霊がよくわかりません。

聖霊というのは、知らない方が多いんですよね^^

まず、父なる神(ヤーウェ)、子なる神(イエス。
ロゴスと呼ばれる方ですね)
イエスが十字架上で、人類の罪を贖って死んでくださり
復活されて、天に昇られた。。
イエスがキリスト(自分の救い主)だと信じて、
自分の罪を悔い改め、神から人間への罪の許しを受け
とることで、神様と和解して。。天国に行ける。
それが<福音>でここまでは知っている方も多いですよね。

聖霊というのは、<助け手>と呼ばれていて、
イエス様が天に昇った後に、クリスチャン
(イエスを救い主と信じる人)に
与えられた(送られた)かたです。
内在してくださる神とも言われます。

わかりやすく言うと、メンターのようなかた
神からの<新しい良心>と言えます。

クリスチャンは、信仰を持った時に
過去の自分に、象徴的な意味で<死>にます。
イエスが罪を贖って死なれたように、
イエスと共に、罪の状態の過去に死んで
イエスの復活と共に、<神様の子どもとして>新生する
のです。

生まれ変わる、と言ったら分かるでしょうか。
信仰を持って生きるとは、古い自分(罪の奴隷であった
自分)において死んで、神様と共に生きるということです。

人が赤ちゃんから成長する際にお母さんなど周りの人に支えてもらったり、家族や学校でたくさんのことを教わるように。
クリスチャンは神の恵みの中で聖書を読みつつ、聖霊という(最初は)お母さんのような養育者であり、自分の
人格的な成長を助け、励ましてくれるメンター(新しい良心)に支えられて成長をすると言えます。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.38 )
日時: 2016/01/10 02:40 (megaegg)
名前: 美紗季♪

こんばんわ。はじめまして。
質問してよろしいでしょうか?

問1)
キリスト教では、輪廻については、どのように解釈されていますか?
問2)
キリスト教が伝搬していない過去の世界の人達や、他宗教の人達に対する救いについて、どのように考えられますか?
問3)
創世記の一日とは象徴的な期間だと考えていますが、それでいいのでしょうか?
問4)
カインの妻は誰でしょうか?
また、誰に殺されると恐れたのでしょうか?

突然、いくつも質問してしまい、失礼な事とは思いますが、教えて下さい。


   メンテ
No.38に対する返信 ( No.39 )
日時: 2016/01/10 16:33 (dip0)
名前: きき

初めまして
美紗季♪さん

まず最初に、私は牧師でも、神学生でもなく
一般信徒ですが。。、
聖書を読んだり、様々な礼拝説教で学んだことから
できる範囲で、お話させていただいています。

必ずしも、私の答えにすべての牧師さんや
信徒さんが同意されるかは。。わかりませんが、
参考までに。。

> 問1)
> キリスト教では、輪廻については、どのように解釈されていますか?

以前、いしまるさんと輪廻についても話していたのですが
簡単に言うと、輪廻は聖書の教えではないです。

聖書でいう 新しく生まれる(再生)というのは、
人が肉において死に(アダムからの罪を受け継いだ自分に
おいて死に) 霊の命において生き返る、
(霊的に生まれる)ことを指しています。

参照聖句として
ヨハネ3章3〜7が挙げられます。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』

人は、生きていても(肉体としては生きていても)
罪を受け継いでいるため、神様の目から見れば霊において死んだ状態にあると言えるのです。

アダムとエバは、肉的にはすぐには死にませんでしたが
罪によって、神からの断絶したことよって、
霊的には死んだと言えるでしょう。

ヘブル人への手紙 9章27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

一度死ぬことというのは、肉体的に死ぬという意味です
死後の裁きというのは、最後の審判のことですね。
<一度死ぬ>のであって、何度も死んで生き返るとは
書いてありません。
人は、自分の罪を、善行で、自力で贖うことは
できない。 イエス(神であり人である方)の
贖いによってのみ、罪から救われるというのが
聖書の教えです。

> 問2)
> キリスト教が伝搬していない過去の世界の人達や、他宗教の人達に対する救いについて、どのように考えられますか?

これもよく聞かれることですよね^^
そして、このことに関しては、牧師さんなどの
いろいろな解釈(推察)や回答があると思いますが。。

まず、お話しておきたいのは、
聖書は、人間の神への<疑問や関心>に応えるための
書物ではなくて、神様からの人間へのメッセージ、
<救いの道>(約束)が書かれているものです。
救いのための、十分な知識、知恵、情報は
聖書に書かれています。

簡単に答えれば、神は、愛と義と公正のお方です。
それは、最初から(旧約の時代からであり)
<主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富む> 方です。
このこと信じているので、私は神は不当な裁きはされないと信じています。

ヨハネ福音書14章6節にあるように
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」

罪を許され、神と和解して、天国に行く道は
イエスを救い主として受け入れ、罪を悔い改め、
再生し(信仰を持ち、洗礼を受け)
神と共に生きる事を 選択する。。これが
唯一の方法だと聖書にはありますね。

(キリスト以後の)福音を信じたクリスチャンは、信仰によって肉体の死後に、天国に行くことが可能になります。
それでは、それ以外の人、クリスチャンでない人は
どこに行くのか? ということですよね。

まず、宗教の違う人や、福音を知らない人。。
という以前に
<罪>の問題について、触れないといけません。
アダムから受け継ぐ<原罪>の問題と
それぞれの人間が犯す<罪>があります。
罪を受け継がない人間は、一人もいません。
そして、罪を犯さない人間も一人もいません。
赤ん坊であれば、別ですが、幼児期からすでに
人は、少しずつ<自己正当化、責任転嫁、嘘をつく>
などをしてしまいますよね。^^

宗教が違うだけで裁く、違う神を信じているから裁く
または福音を知らないから裁くという 
見方をすると不公平だと思う方も多いと思います。
多くの人間の視点と、神(聖書)の視点はまず違います。

人が天国に行けないのは<罪>があるからです。
神から離れていて、神を無視したり、神の教えに従おうという選択をしなければ、裁かれるのです。

ローマ人への手紙 6章23節
罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

罪の報酬が死であり、罪の許しを受けとら
なければ、天国にはいけない。

これは、わかりやすく言えば
原因(罪がある)と結果(死ぬ、天国にいけない)
としての説明ですね。

多くの人は、仏教的な因果応報には不満を
持ちませんが、(具体的な神が仏教には本来
いないため、ニュートラルな気持ちで
受け取れるのでしょう)
聖書の神は愛と公正の神であるということから、
なぜ?と疑問を持ちますね。

神は不公平な方ではありません。
長くなってしまったので続きを書きますね^^

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.40 )
日時: 2016/01/10 17:10 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん
続きです。

福音を知らずに死んだ人
他の宗教を持っている人。。
と言っても、いろいろな人がいますよね^^

人は死後、神の前に立ち申し開きを
しなければいけません。
他の宗教をしていた、福音を知らなかった
ということで裁かれるというよりは、
その人の<行い>と<心>も当然見られるでしょう。

まず、新約聖書だけでなく、旧約聖書すら
できてない時代。。
モーセ以前の時代、聖書(モーセ五書)すらない
時代にも、神様を信じ忠実であった方もいましたね。
神様は人の言動だけでなくて<心>をしっかりと
見ておられます。
ノアにしても、エノクやアブラハムにしても、
神に忠実な人は神に見出されていました。
アブラハムは、<信仰によって義と認められました。>

イエスが地上に来られてない時代には、イスラエルの民は神様からモーセなど預言者に与えられた律法や助言を守り尊ぶことによって神に対する、愛や忠実を示すことができました。

ヘブル1章1〜2節
神は、むかし父祖達に、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、わたし達に語られました。

イスラエルの民は、律法に基づいて、自分たちの罪の
代価(贖い)として動物の犠牲を捧げていました。
それは仮のものであって、罪のゆるし(罪からの解放)には、救い主(贖い主)が必要だということも知っており、待ち望んでいました。

イスラエルの民以外にも、彼らと関わった
異国民の中にも異教から改宗などをした人も、救いにあずかっていましたので。。神を求める人には、
救いの道があったとも読み取れます。

キリストの救い以前は、イスラエルの民(神を
信じて従った人)は、<キリストを待ち望みつつ>
死後は黄泉に下りました。

黄泉には慰めの場所(天国ではないです)と、苦しみの場所があったと書かれています。 
おそらく彼らは、キリストの再臨ののち、
最後の審判のさいに復活して、新しい新天新地に
(天国)に招き入れられると思われます。

原則は、福音(クリスチャンによって、
福音を知らされたり、聖書を読むこと)
によって救われます。
ただ、旧約時代でも、現代でも超自然的な
形で、神を知り、信仰を持つ人もいます。
(イスラム教徒の方が、幻でイエスに会い、
命の危険があるにもかかわらず改宗をする人もいます。)

神を心から求める人、神を愛する人、
真理を求める人は、必ず神に出会うと
私は信じています。

信仰すらも、神からの恵みです。
ひょっとすると、死の間際で、神の福音を
知らされることもあるかもしれません。
(イエスと共に、十字架の刑についた
犯罪人のように、死の間際に心から悔い改め
神の赦しと恵みを望む人もいるでしょう。
死の間際でも、悔い改めない人はいるでしょう)

キリスト再臨ののちの最後の審判の際に、
<死人の復活>があります。
この時に、他の宗教の人や、福音を知らずに
死んだ人たちも裁かれるのでは?という
説もあります。

ただ誰が天国に入るかは、私たちには
わからないというのが事実です。
しかし、神は不公正な方ではないですので
<正しい裁き>をされると思いますよ。^^


   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.41 )
日時: 2016/01/10 17:32 (dip0)
名前: きき

まだ続きます
短く答えられなくて申し訳ないです。

> 問3)
> 創世記の一日とは象徴的な期間だと考えていますが、それでいいのでしょうか?

これも、いろいろな解釈がありますよね。
一日が千年のような言い方もあるので、
今の感覚(時間軸でいう)の24時間ではないのでは?
という考え方もあれば、文字どおり
24時間という説もあります。

ただ人間の感覚では不可能なことでも、
神には可能であるので、一日でも可能だったのでは
とも考えられます。

> 問4)
> カインの妻は誰でしょうか?

創世記 5章4節
アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ

アダムとエバには、カインとアベル以外にも
セツという子供がいました。
昔も今も、十人以上子供をもうける
人もいますからね^^

人類が生まれてから、最初の頃は
兄弟姉妹などで、婚姻関係があったと言えます。
今は、近親婚は禁じられていますが。。

罪の影響は、どんどん深刻になってしまうと
言えるでしょう。
仮説ですが、遺伝子に置いては、まだ初期の段階(洪水前)では、それ以後より問題が少なかったという
考えがあります。

洪水前は、何百歳と生きている人も
いましたからね^^罪の影響と、気候の変化などの理由があると考えられます。

> また、誰に殺されると恐れたのでしょうか?
セツなど、その他の親族だと思います

アダムとエバには、他にも息子や娘がいましたし
彼らの子供もいたことでしょう。


   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.42 )
日時: 2016/01/10 17:56 (megaegg)
名前: 美紗季♪


以前、ご縁があり、聖書を学んでいました。

しばらく経過して、ある霊能者と出会いました。真言密教系の方です。
私は、アレルギー性の喘息があって、苦しんでいました。
その方に、一年だけ、喘息を何とかして欲しいとお願いしました。
彼は念をおくり、一年間、発作が出なくなりました。一年後、再発。
私にとっては奇跡の一年間でした。
現在、彼とは交流が途絶えており、連絡方法もわかりません。

その出来事があって、聖書から離れました。

仏教も、キリスト教も、神道も、同じ真実を、それぞれ違う方向から見て、それぞれの解釈をしているのではないか?
と、考えるようになりました。

また、私自身は、バイセクシャルです。

今は単純な考え方をしています。

宗教的な事には悩まずに、人を愛し、自分や人の悪い部分を受け入れて、これを愛して、楽しく生きれれば、それでいいのでは?

っと。


前置きが長くなりすぎました。

問1&2 の、詳しいご説明、ありがとうございます。


   メンテ
No.42に対する返信 ( No.43 )
日時: 2016/01/10 18:54 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん
> 以前、ご縁があり、聖書を学んでいました。
そうでしたか^^

> しばらく経過して、ある霊能者と出会いました。真言密教系の方です。
> 私は、アレルギー性の喘息があって、苦しんでいました。

アレルギー生の喘息で苦しまれていたのですね。
持病があるのは、辛いですよね。

> 彼は念をおくり、一年間、発作が出なくなりました。一年後、再発。
> 私にとっては奇跡の一年間でした。
> 現在、彼とは交流が途絶えており、連絡方法もわかりません。

真言密教というのは、様々な宗教の影響があると
言われていますね。
キリスト教(景教)の影響もあるといいますね。

癒しを認めない教会もありますが、
一部の教会においても、癒しの祈りをしてくださる
牧師さんや伝道師さんもいます。
(変な教会に当たらないことも大切ですが)

聖書には、イエス様や弟子や預言者が
奇跡を行ったことが書かれていますね。

ただクリスチャンでも、全員が病気の癒しを
受け取れないこともあるので、
重い病気にある人などの中には、
非常に苦しむ方もいますね。
(幾つかの癒しを受け取った経験のある
方もいますが。。)

体の癒しはもちろん素晴らしいのですが、
福音によって、霊的に救われていて
天国への約束があるのは、さらに素晴らしいこと
と言えます。

どうしても、人は、今の苦しみ、今の問題に
目がいってしまいますが、
病気がもし治っても、永遠の命がなければ
苦しみが永遠となってしまいます。

> その出来事があって、聖書から離れました。
教会で、健康上の救いや癒しがなかったので
離れてしまったということでしょうか。

> 仏教も、キリスト教も、神道も、同じ真実を、それぞれ違う方向から見て、それぞれの解釈をしているのではないか?
> と、考えるようになりました。

そう考える人もいますね。
私は、聖書の神と教えは<人間が作った宗教>
ではなくて、聖書の神は真実の神だと信じています。

聖書を読んでみると、一般的な宗教の教えと
似通っていると思える部分もありますが、
だいぶ違う部分もあります。

聖書の救いは、天国への希望があることと
罪の最終的な解決(キリストの再臨、
神の裁き)があるということですね。
このことは、他の宗教書には書かれていません。

> また、私自身は、バイセクシャルです。
そうなのですか。
成人になられてから、なられたのですか。

クリスチャンのなかにも以前、
犯罪を犯していた人、淫行や姦淫の罪にあった人
(不倫、離婚、再婚)、同性愛の傾向が
あった人など、様々な人がいます。

神様は(聖書の教えでは)殺人や姦淫、同性愛は罪だと
仰っています。
ただ、私たちクリスチャンは、何かしらの
罪を数多く犯してきた人間ですし、
クリスチャンになっても、小さな罪を犯してしまい
(罪に気がつかされ)悔い改め、成長する過程にいます。
(罪はゆるされて救われてはいますが、
罪を一つも犯さなくなるわけではないですからね^^)

今、罪を犯してしまう人を、おもむろに攻撃する
つもりはありません。
(犯罪を犯す人は、法的に拘束される
必要がありますが。。^^)

> 今は単純な考え方をしています。

> 宗教的な事には悩まずに、人を愛し、自分や人の悪い部分を受け入れて、これを愛して、楽しく生きれれば、それでいいのでは?
そういう考えの方もいますよね。

でも、それでも私はたくさんの人が
天国で過ごせれば嬉しいと思っていますよ^^
病気や苦しみがない世界は、そのことで今
苦しんでいる人にとっても、希望と言えます。
(必ずしも奇跡で病気が治るばかりでは
ないですし、戦争や、迫害でなくなる
クリスチャンもいますからね)

そして、神様もそう望んでいると思います。

ヨハネ3章16〜17
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

> 問1&2 の、詳しいご説明、ありがとうございます。

少しでも、役立てれば幸いです。

   メンテ
No.33に対する返信 ( No.44 )
日時: 2016/01/10 19:08 (odn)
名前: いしまる

こんばんは。
仕事が落ち着いたので返信します。

> イエス様は30歳までは人として謙虚に、つつましく生きられ。。石工、大工の仕事をして生計を立てており、
> 神の子であるからといって、金や食べ物を、奇跡で出して、楽をしていたわけではありません。^^
> 奇跡をなされたのは、(信徒たちの見本として)
> 洗礼を受けられて悪魔の試みを受けられた後だと言われます。
>
> イエスがなされる奇跡は、この世で楽をするためでは
> なく、魔法のようなものではなくて、神様の栄光を現し
> 神の国(天国)を示すものであったと言えますね。
福音書には、イエスが起こした数々の奇跡の物語が記されているのでしょうね。

聖書が書かれた時代、多くの人々は人間を超えた存在であれば、奇跡を起こすことができると信じていたでしょうし、イエスの偉大さを示すためにも、奇跡について記すのが一番わかりやすく、奇跡を起こすほどの偉大なイエスが存在したという事実を示していますよね。

イエスは、人々の心を支配する暗闇を消し去り、真理や生命に導く“道”を教えるために、この世界に現れ・・奇跡を起こしたのは、真理を探究し理解するために不可欠な前提条件である、人々の霊的な力を活性化させるのが目的だったと、ダスカロスは言われています。

つまり、イエスの奇跡を起こす“力”というのは、「エーテル・バイタリティー」といって、生命の働きをあらわす気や、生命力のことです。

このエーテル・バイタリティーは太陽からも地球に注がれていて、地球をすっぽり包み込んでいるそうです。そもそも、すべての生き物を生かす、地球を包み込んでいる太陽からの恵みの力の存在が、すでに奇跡であることに間違いはありません。

> 神を畏れること、つまり人間よりも
> ずっと上の権威を認め、敬意を持つこと、
> 敬虔な畏れを持つことが、知恵の始めです。
そうですね。そうすることで、はじめて信仰が生まれるのでしょう。人が一粒の種ほどの信仰を持っていれば、求めるものは与えられるように、新約聖書の福音書などには無限の霊的な智恵が遺されているのでしょうね。

> (悪魔は、私たちが神の愛から離れて
> 不信を持ったり、高慢になり、憎しみ合うことを
> 望んでいます。
> 目に見える、人間同士の争いだけに目を向けるのでなく
> それを喜んでいる悪の存在がいることを
> 思うと、自分の中にある、肉の思いと戦い、神の
> 思いに満たされたいと願うことができると思います。)
たとえば、名無しさんのスレで・・牧師が、勝手に人の携帯を遠隔操作するなど、これが本当だったらえらいことですよ。携帯電話のマルウェア(悪意のある不正ソフトウェア)というのは、個人情報を盗み出そうとして、金銭的利益を得るなどの行為ですね。

実は、日本が受けたマルウェアによるサイバー攻撃は、個人や企業、さらには国家の中枢機関までもが標的となっていて、社会の基盤を揺るがしかねない危機的状況にあるのです。こういった日本を潰しかねないサイバー攻撃の片棒を、この牧師は担いでいるのでしょうか。(そんなわけないか?)

しかしながら、修道士で神学教授でもあったマルティン・ルターはプロテスタントを起こしましたが、積極的に魔女狩りを行い、数多くの無実の人々を殺した男でもありました。

ルターによる宗教改革はカトリックとプロテスタントの宗教戦争となり、ルターによるユダヤ人迫害をナチス・ドイツが見習い、「ホロコースト」を生み出したのです。

宗教は万人を救うという信仰心から、一つ間違えば大変な悲劇を生むという側面もあります。キリスト教は残虐な行為を正統化する、絶好の大義名分となるでしょう。

戦争や暴力行為は、キリスト教の名を語っていても、本来のキリスト教とは遠く隔たったものであり、私たちはそういった戦争行為を決して許してはいけません。
   メンテ
No.44に対する返信 ( No.45 )
日時: 2016/01/10 20:56 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは。
お体には十分気をつけてください。

奇跡は、神の国の片鱗を表すものでもありますね。
神の国には、病気もなく、悲しみや苦しみも
ありませんからね。

人は、本来神様との密接な交わりにありましたよね。
アダムとエバも、エデンのそので神様とお話しすることが
できたのも、霊的な存在であったからだと思います。

<聖霊>、信仰がなければ、聖書を理解することが
難しいものです。
霊のめ、霊の心を持たないとわからないことがあります。
(3Dメガネでないと、見れない映画みたいですね。
裸眼だと、ぼやけてしまいます。)

聖書を読んだからといって、クリスチャンに
なるわけでも、改宗させられることは。。ないのです。
良い教えだなとか、感銘は受けても<自分が救いが必要>
と思ってなければ。。<真理を求めていなければ>
聖書の言葉、イエス様の言葉に本当の意味で出会う。。ということが難しいこともあるでしょう。

人は、自分が関心のあることに注意を向けます。
関心ごと以外(意識していること以外)のことが起こっても、見逃してしまいがちです。(心理学的にも、そういう
実験はありますね。^^)

ヨハネ9章39〜41
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

> たとえば、名無しさんのスレで・・牧師が、勝手に人の携帯を遠隔操作するなど、これが本当だったらえらいことですよ。

これが事実であれば、大変な問題ですね。
もちろん、名無しさんが、何か精神的な病気があるのか、特に無くてただ、キリスト教会や、その牧師に恨みがあるのかは、私にもわかりませんが。。

ヤコブ書にもありますが
<私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。>

もし不正なことが行われていたら、この世でも牧師も
きちんとした処罰を受けるべきだと思いますが、
たとえ、不正がもみ消されたとしても
神の裁きからは、絶対に逃れられません。

> しかしながら、修道士で神学教授でもあったマルティン・ルターはプロテスタントを起こしましたが、積極的に魔女狩りを行い、数多くの無実の人々を殺した男でもありました。

ルターの働きは、もちろん良い部分もあれば
よくない部分もありましたね。
もちろん、ルターの考えを、曲解したり、一部だけを
大きく取り上げて、扇動した人もいるとは思いますが。。
中世では特に、そして近代においても冤罪や
無実の罪などで殺さる人はたくさんいますね。

> ルターによる宗教改革はカトリックとプロテスタントの宗教戦争となり、ルターによるユダヤ人迫害をナチス・ドイツが見習い、「ホロコースト」を生み出したのです。

集団ヒステリー状態と言いますか、
宗教改革にしても、他の政治改革にしても
行き過ぎてしまうことも多々ありますよね。
人は、集団になると、良心や冷静な判断力を
見失うことがあります。

カトリック(組織)のプロテスタントなど、他の宗派への弾圧という人間的な事情(権威争い)が
宗教戦争を生んだと言えますね。

ナチスの問題は、複雑ですね。
もちろん古くからあるキリスト教世界の(聖書的でない)ユダヤ人迫害(差別)の影響もありますね。
人種差別、民族差別思考のようなものもあるでしょう。

本来、聖書にはユダヤ人を迫害することを勧めては
いません。
イエスも弟子も、初期クリスチャンも、パウロなども
ユダヤ人でしたし、旧約聖書を尊ぶ人たちでした。

最終的に、ユダヤ人も福音を受け入れるようになる(すくわれる)と言うことも聖書に書かれていますし、
迫害するというのは、聖書的ではないですからね。

ローマ書 11節23〜26 (11節全体を
読まれることをお勧めします)
私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

ユダヤ教徒の中にも、(ユダヤ人の中にも)
メシアニックジューという、キリストを受け入れる
方々もいます。

終末の印として、ユダヤ人が救われるということも
あるので、時は近いと考える人もいます。

> 宗教は万人を救うという信仰心から、一つ間違えば大変な悲劇を生むという側面もあります。キリスト教は残虐な行為を正統化する、絶好の大義名分となるでしょう。

聖書の教え自体は、素晴らしいものですが
人が、勝手な解釈を施し、組織(宗教組織)や
国やその他の人の都合のために用いることが
ありますよね。

> 戦争や暴力行為は、キリスト教の名を語っていても、本来のキリスト教とは遠く隔たったものであり、私たちはそういった戦争行為を決して許してはいけません。

出エジプト 20章7節
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

神の名を、戦争行為や蛮行のために、汚すようなことをする宗教組織や国や指導者の裁きは。。重いでしょう。

黙示録17章なども参考に
読まれることもお勧めします。
キリストの血によう、バビロンの大淫婦は
偽のキリスト教世界、組織とも言えます。

この点に関しては、エホバの証人の主張を
否定しませんが^^ 何もそれに気がついているのは
彼らだけでなくて、ルターの時代から、カトリック(法王や組織の権限)の問題は言われていますし、ルターも法王のことを反キリストと呼んでいました。
(かなりルターは過激ですね。)

牧師や信徒でも、黙示録研究や解釈について、ネットで公開している人もたくさんいます。
興味がありましたら、読んでみてくださいね。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.46 )
日時: 2016/01/10 23:31 (megaegg)
名前: 美紗季♪


同性愛は罪だとしても、
それを辞める気はありません。
そもそも、私は、それを罪だと思ってはいません。

それを否定する神なら、私は、その神を否定しなければなりません。

なぜなら、結果として、自分自身を否定しなければなりませんし、自分自身を愛せなくなり、軽蔑してしまい、絶望するしかありません。
人を憎み、妬み、愛せなくなります。

そういう状態に陥ったとして、それでも、神は救い給うと云われるのなら、それは、もはや偽善です。

もし、神が救うのだとしたら、それは、私が同性愛者である事を、変更して、異性愛者にされるのですか?

それは、もはや、私が私である事を辞めるという意味になります。
私には、聖書では救われません。

私は、バイセクシャルである私自身を、愛せる信仰を求めます。

   メンテ
No.46に対する返信 ( No.47 )
日時: 2016/01/11 00:39 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん

> 同性愛は罪だとしても、
> それを辞める気はありません。
> そもそも、私は、それを罪だと思ってはいません。
聖書では罪とされていることを
この世では、または現代においては
罪ではないと考える方はたくさんいますね。

> それを否定する神なら、私は、その神を否定しなければなりません。
そういう方もいることは、私も
理解しています。

> なぜなら、結果として、自分自身を否定しなければなりませんし、自分自身を愛せなくなり、軽蔑してしまい、絶望するしかありません。
> 人を憎み、妬み、愛せなくなります。
自分を否定するのと、自分の罪を否定するのは
違います。
アイデンティティーについても、
人の捉え方(認知)の違いがありますよね。

異性だけを愛したら自分でなくなると
<思う>のでしょうか。

人のアイデンティティー、個性に関して
非常に重要視している場合、変わること
失うことを恐れる方もいると思います。

もちろん、強制的に変えるものではないですし、
その人が、変わりたいと思わなければ、変えられ
ません。。

> そういう状態に陥ったとして、それでも、神は救い給うと云われるのなら、それは、もはや偽善です。
神様は、愛ではありますが、義なる方なので
<不公正><偽善>はされませんね。
悔い改める人は、豊かに許されます。
たとえ、殺人を犯した人でも、心から
悔い改めていれば、(この世で法に基づいて
裁きを受けても)ゆるされて、天国に迎えいれ
られるでしょう。

> もし、神が救うのだとしたら、それは、私が同性愛者である事を、変更して、異性愛者にされるのですか?
同性愛の傾向があっても、
それを罪だと思う人と思わない人がいます。

罪だと思い悩み悲しむ人もいます。
人生の中で、何かしらのきっかけで
同性愛やバイセクシャルの傾向になる人もいます。

神様が、強制的に、無理やり変えるというわけではなくて
神への愛や感謝や信頼によって、罪の傾向から救われて
異性愛者になるのだと思います。

実際に、同性愛の方が異性愛者になったケースも
ありますし、元犯罪を犯した人が更生をされたことも、
依存症(アルコールや麻薬など)の人が、
癒されて、解放されるということもあります。

> それは、もはや、私が私である事を辞めるという意味になります。
> 私には、聖書では救われません。
あなたにとっての救いというのは
どういうものでしょうか。。
人によって、どのような<救い>を
求めているかによっては、
聖書でいう<永遠の命><罪からの救い>は
価値があるように思えないのかもしれません。

> 私は、バイセクシャルである私自身を、愛せる信仰を求めます。
神様は愛し合うようにおっしゃっています。

神様は、殺人を犯した人でも、姦淫を犯した人でも
同性愛者でも、愛しています。
ただ、殺人や姦淫や同性愛行為は、罪であると
されています。
悔い改めることと、<本物の愛に満たされること>
を望まれています。

神様の愛は、アガペーという愛です。
友愛(フィレオー)や恋愛(エロス)よりも、
もっと深い愛です。

神様のアガペーの愛、本物の愛に満たされた時
他の愛に対する、依存や、執着がなくなると思います。

依存症の方が解放される場合、
神への正しい依存(信頼関係)によって
他のものへの依存がなくなると言えます。


   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.48 )
日時: 2016/01/11 22:49 (megaegg)
名前: 美紗季♪


>神への愛や感謝や信頼によって、罪の傾向から救われて異性愛者になるのだと思います。


同性愛そのものを、罪と捉える考え方そのものが、間違えていると思います。
決して肉欲に溺れているわけではありません。そういう今の私が好きです。

生まれつき同性しか愛せない人達がいます。それを罪だとか、異端、病気扱いする信仰に違和感を感じます。


ところで、私の質問

問3)創世記の1日
問4)カインの妻と、カインが恐れた相手?

A.3) 1000日
A.4a) カインの妻は、後に生まれた妹。

A.4b) 不明

単純に考えれば、後に生まれる弟&妹

ただし、既に、エデンの園の外側には、霊的では無い人間達がいたと考える学者がいます。
そう考えると、聖書の解釈が異なってきます。



   メンテ
No.48に対する返信 ( No.49 )
日時: 2016/01/12 00:01 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん
> 同性愛そのものを、罪と捉える考え方そのものが、間違えていると思います。

そう考える方もいますよね。
でも私は間違っているとは思いません。

神様は、アガペーの愛で男女ともに
愛してくださっています。

マタイ22章30節
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

家族愛のようにアガペーの愛によって
人々が愛し合うのだと思いますよ^^
それは、決して禁欲ではなくて、より大きな愛によって満たされるのでしょう。

>肉欲に溺れているわけではない。
同性愛の方でも、異性愛の方でも
肉欲に溺れているわけでなくて、誠実なパートナー
がいれば、いいのでは?という倫理観は
最近の世の中の傾向としてありますよね。

ただ、聖書は、神様からの真理や教えであって、
人間が持つ、この世の道徳や、倫理観や常識とは
違います。
人間の道徳や倫理もそれなりに高いものもありますし、聖書の教えと共通する部分も多くあります。
しかし、この世の教えや価値観は、時代によって
変化するものです。
しかし、聖書の教えは変わりません。

マタイ 24章35節
この天地は滅び去ります。
しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

> 生まれつき同性しか愛せない人達がいます。それを罪だとか、異端、病気扱いする信仰に違和感を感じます。

遺伝なのかどうかというのは、
現在でも、まだ不明な部分がありますね。

聖書とその神が罪と定めることを
勝手に人間が変えることはできません。

あなたがそれに同調できないことは
私も尊重します。
違和感を感じる方もいるでしょう。
反感を持つ人もいますね。

病気と言うよりも、罪が入ったがゆえに
様々な問題が入ってきました。
責任転嫁、利己的な傾向が強まったり、
病気や障害なども含めてですが。

病気扱いが嫌ということですが遺伝的にそうなるというのは、<病気><障害>と同じような扱いになります。

病気や障害が罪なのではなくて、罪ゆえに
病気や障害や、様々な肉的な思いも、生まれて
増えたと言えます。

思考、生き方というのは、後天的に
形成されることが多いものです。
人との関わりや心境の変化で変わっていったり、
調整したりコントロールしていくことは可能です。

神様のお考えでは、同性愛や姦淫は罪であるとあります。
異端扱いと言いますが。
多くの無神論者の方は、宗教や信仰に対して、
それこそ<異端>のような扱いをしています。
また今なお、クリスチャンが迫害されている
地域もあります。 殺されることすらもあります。

あなた自身が、同性愛に誇りを持っているのでしたら
聖書とその神に、罪だと言われようと
あまり関係がないのではないですか?

あなたは、聖書の神様のお考えを変えたいと
(変えるべき)だと思っているわけではないですよね。
聖書を書き換えて、同性愛を罪と
する箇所を書き換えることをお望みですか?

同性愛の方は、先進国や一部の国では
権利が認められていますね。
社会的に認められたり、この世の視点からは
罪とは見なさない人も多くいますね。

ただ、聖書においては、神の視点から罪と
見なされています。
その事実は変えられませんし
クリスチャンも、その事実を、世の流れや
世の法律が変わろうとも、勝手に
変えることはできません。^^

> ところで、私の質問
>
> 問3)創世記の1日
> 問4)カインの妻と、カインが恐れた相手?
>
> A.3) 1000日
1000日という説もあれば
1日でも可能という答えでしたね。

> A.4a) カインの妻は、後に生まれた妹。
はい。 そう考えられますね。
または、弟や妹の子供かもしれません。

> A.4b) 不明
> 単純に考えれば、後に生まれる弟&妹
不明とは書いてなくて、弟、妹や
それらの子供たちと書きましたね。

> ただし、既に、エデンの園の外側には、霊的では無い人間達がいたと考える学者がいます。
どなたがそのようなことを仰いましたか?
どのような文献や、資料からそのような説を
言っているのですか。

霊的ではない人間たち?
それはどういう意味ですか。

> そう考えると、聖書の解釈が異なってきます。

聖書の解釈は様々ですね。
共通する解釈もありますが、
全く違う解釈をされる方もいます。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.50 )
日時: 2016/01/12 02:05 (dip0)
名前: きき

アダムとエバは
善悪の知識の実を食べてから
エデンの外に追放されましたね。

エデンの外に追放された後
カインとアベルや、その他の
息子や娘たちを生んだと解釈しています。

あなたがおっしゃる
霊的ではない人間というのは。。
(解釈はいろいろありますが)
ネフィリムのことですか?

神の子らが人の娘と子供を設けたというのを
神の子(今日のクリスチャンのように、
神を信じる人々) と、人の子(信じない人々)
という解釈をする場合と

神の子(堕天使)と、人の娘(人間の娘)との
子供という解釈がありますね。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.51 )
日時: 2016/01/12 20:12 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん

学者さんのお名前を教えていただけると
嬉しいです。
聖書学者ですか。信仰を持っている人なのか
持ってない人なのでしょうか。

おそらく、カインが恐れた人間(私に出会うもの)がすでに存在していたと思ったのでしょうね。

アダムとエバが罪を犯してエデンの園の外に(外であり、エデンの園に近いところ) 追放された後。。
カインやアベルなど、子供を設けたというのが
聖書の記述です。
カインはさらに、遠い土地、ノデというところに
すんだと書いてありますね。

アダムとエバが罪を犯す前に?エデンの園の外で、他の人間や、夫婦が創造されたということは聖書には書いてありません。

創世記5章4節
アダムはセツを生んでのち後
八百年生き、息子、娘たちを産んだ。
(産むのはエバですが、聖書ではアダム、父親が生むという表現を使います。)

今のように寿命は短くなく初期の人間は、数百年生き
ていたと、書かれています。
ノアの洪水前後くらいまでは、おそらく
100〜500歳でも、子供を産めたのでしょう。

アダムが130歳の時にセツが生まれ、その後
息子や娘が生まれ、930年で死んだ。
セツが105歳の時に、エノシュが生まれ
その他の息子、娘を設けて。912歳で死んだ。。
とありますが。

カインが何歳の時に結婚して何歳の時に子供を持って、死んだかは、書いてありません。

目安として、創世記の初期の頃(ノアの洪水前まで)、
60〜100歳前後に、最初の子をもうけている
記述があります。
今ほど、老化現象も著しくなかったのでしょう。
30〜100歳差の結婚も、当時の寿命を考えれば
決しておかしくなかったのでしょう。

今の人間の常識(寿命が100歳くらいまで)で
考えれば、おかしいと思うかもしれませんが^^
聖書を、現代の人の常識や理解だけで当てはめて
解釈することはできません。

カインが、<自分に出会うもの、または
自分を見つけるもの。。が自分を殺すかも
しれない。。>と恐れていましたが、
それは数日後ではなくて、数十年後ということも
あるでしょう。
ナチの犯罪の裁判なども、時効がなく
50年後でも、見つけられ裁かれるように、自分の罪によって今後<自分に出会うもの>からの裁きや報復を恐れていたとも考えられるでしょう。

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.52 )
日時: 2016/01/12 21:40 (megaegg)
名前: 美紗季♪

www
 訂正。1000日じゃなくて、1000年だったw

研究者さんは、とあるプロテスタント系の牧師さんだったかも?ずいぶん前なので忘れました。

カインは妹と結婚したとして、その妹はなぜカインと出会い、むすばれたのでしょうか?

その妹も、聖書には書かれていませんが、同じように重い罪を犯し、親元を離れてカインと出会ったのではないかと思っています。

また、カインが恐れた、殺されると思った相手は、野生の動物たちかな? と。

===========

ところで、私は、一時的ですが、本物の霊能者に出会いました。
彼には喘息の発作を一年間、押さえて頂きました。
彼に教えを貰ったわけではありません。

その後、色々と考えたあげく。

仏教&神道的考えをする様になりました。
輪廻、転生、因果応報など。
また、例えば儒教の様な教条主義を否定します。
愛と知恵、純粋と柔軟、勇気と優しさをを、身につけたいと思っています。
さっぱりですけど。

================

ききさんの文章は、柔和な文章で、優しく包み込むような表現をされていますね。
尊敬します。
あなたは、多くの人達の心を救われることでしょうね。

私は、私の道を歩みながら、未熟ではありますが、同じように関わって行きたいと思っています。






   メンテ
No.52に対する返信 ( No.53 )
日時: 2016/01/12 23:34 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん
>  訂正。1000日じゃなくて、1000年だったw
あ、そうでしたね。 私もつられました。^^
一日は1000年のようとも言いましたね。

> 研究者さんは、とあるプロテスタント系の牧師さんだったかも?ずいぶん前なので忘れました。
そうですか
牧師さんでも、いろいろな方がいますからね。
ネットでも色々な方の礼拝説教や、
聖書解釈などを見ますが、共通する部分が
ある人もいれば、かなり違う方もいますね。

神の子と、人の娘の解釈も、二通りの解釈が
あり、難しいんですね。

> カインは妹と結婚したとして、その妹はなぜカインと出会い、むすばれたのでしょうか?
> その妹も、聖書には書かれていませんが、同じように重い罪を犯し、親元を離れてカインと出会ったのではないかと思っています。

律法がまだ書物としてはなくても、何かしら
神様からの教えなどがあったのでしょうね。
何かしらのきまりを守れる人もいれば、守れずに
土地を離れて暮らす人も、いたかもしれませんね。

> また、カインが恐れた、殺されると思った相手は、野生の動物たちかな? と。
動物との関係も、アダムとエバが
罪を犯した後には、変わっていたかもしれませんね。

友好的な関係であったのが、家畜など一部の
動物以外とは、親密ではなくなったかもしれません。

> ところで、私は、一時的ですが、本物の霊能者に出会いました。
> 彼には喘息の発作を一年間、押さえて頂きました。
> 彼に教えを貰ったわけではありません。
そうですか。
霊能者という方は、たくさんいますね。
喘息は、今でも辛い症状が続いているのでしょうか。
少しでも、軽くなるといいですね。

> その後、色々と考えたあげく。
> 仏教&神道的考えをする様になりました。
> 輪廻、転生、因果応報など。
> また、例えば儒教の様な教条主義を否定します。
> 愛と知恵、純粋と柔軟、勇気と優しさをを、身につけたいと思っています。

仏教、神道でもいろいろありますが
密教系に関心があるのでしょうか。

儒教は、思想として、倫理観や道徳などが
高いですね。 
神仏を信じるというより、祖霊信仰に近い
感じですね。

良い心がけをしたいと願っても、すぐに聖人君子
のようには誰もなれませんからね。
私自身も、成長過程です。

褒めていただいて、恐縮です。
基本的には率直に話すようにしているので、時折、厳しい言い方だったかな。。と思ったりもします。

言葉は難しいですよね。
私のできることは少しだけですが、
その方がよくなりたいという気持ちがあれば
きっと良い方向に行くと信じていますよ

> 私は、私の道を歩みながら、未熟ではありますが、同じように関わって行きたいと思っています。

何かしらの信仰、信心(信念)がある方は
良いもの、愛や知恵を求めているのだなと
共感できます。^^

美紗季♪さんにとって、この一年が
良いものになりますように。
お身体気をつけてくださいね。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.54 )
日時: 2016/01/13 19:15 (megaegg)
名前: 美紗季♪

ん!

儒教は、イエスの時代の教条主義者、パリサイ人と同じです。

なので、儒教に染まった中国や韓国の人達とは、付き合えません。

イエスが、なぜ、パリサイ人を嫌ったのか、理解できます。
   メンテ
No.54に対する返信 ( No.55 )
日時: 2016/01/13 22:51 (odn)
名前: いしまる

こんばんは。

美紗季♪さん、はじめまして。
私はクリスチャンではありませんが、このスレでキリスト教の本当の“教え”を追求したい思っている、おじさんです。仕事がいそがしく、家に帰っても仕事をしているので、なかなか返信できませんが、よろしくお願いしますね。

> イエスが、なぜ、パリサイ人を嫌ったのか、理解できます。
パリサイ人は外国の文化や思想には反対で、律法を重視するあまり本質からそれ、律法を守ることのみに執着したのでしょうね。そこには、人に対する愛が感じられません。

私は聖書をすべて読んでいないので、旧約聖書のあなたのいろいろな疑問には答えられませんが・・今回「同性愛」が、聖書における神の視点から罪と見なされている点についてお話ししたいと思います。

まず、キリスト教で、同性愛を禁止する理由は、キリスト教において“性行為”というのは子孫を残すためにするべきものという考えが根底にあり、自然のままでは子孫を残すことができない同性愛は禁止しなければならないという、キリスト教社会の考えがあったからだと思われます。

「生めよ、増えよ。地に満ちよ」という、神の人に対する祝福の言葉がそれをあらわしていますね。

そして、神は人が増えるにつれて地上に悪がはびこりはじめ、悔い改めない人々への神罰として大洪水を起こしました。しかし、神はその後のノアの敬虔な行ないから、神は人間の新しい営みへの約束をした・・とあります。

つまり、神はすべての生きとし生ける物を絶滅させてしまうようなことは決して起こさないと契約したわけで、人間の方も子孫をしっかり残していくという、その契約に応えなければなりません。

しかし、同性愛者は、神がそのようにつくったのであり、もちろん契約のなかの、すべての生きとし生ける物であり、異性愛者と同じように祝福されるはずですね。

> 生まれつき同性しか愛せない人達がいます。それを罪だとか、異端、病気扱いする信仰に違和感を感じます。
生まれつき同性しか愛せない女性というのは、ユング心理学で・・生まれついて女性の中の男性像であるアニムスの人格が主として動いている、などが考えられます。

つまり、すべての女性には、アニムス(animus)という、男性的な側面の無意識の人格が存在するのですね。

しかも、女性は、男性のアニマ(男性が持つすべての女性的な心理学的性質)が一つしか持たないのと違って、集合的な複数のアニムスを持つとされています。

このような単純ではない人間の“性”について、それをつくったのは神であるならば・・同性愛そのものを罪と捉える考える必要もないと、気持ちの中でも、すっきりするのではないでしょうか。

社会やキリスト教会でも、この問題が完全に解決するには、長い時間がかかりそうですが、差別や偏見は徐々に改められようとしていますね。
   メンテ
No.45に対する返信 ( No.56 )
日時: 2016/01/14 01:17 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんばんは。

> 神の名を、戦争行為や蛮行のために、汚すようなことをする宗教組織や国や指導者の裁きは。。重いでしょう。
キリスト教は、愛と平和の宗教だといわれますね。しかし・・

万軍の主はこう言われる。〜「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」サムエル記上15章2-3

ここで、神は皆殺しの命令を下しているようです。正しい信仰を守るための正義の戦争であれば、肯定し、神の正義に反するものは殺していいという、絶対存在である神の考えが入っているのでしょうか?

マルティン・ルターは「神は乗り越えられる試練しか与えない」と言いましたが。熱心なキリスト教修道士だったルターは、誰よりも異教徒を憎んだ男だったのですね。多神教徒や異教徒は排除していい、神を理解しないような民族も排除し殺してもいい。という思想がうかがわれます。

実際にも、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに失望したルターは、晩年になってパンフレット『ユダヤ人と彼らの嘘について』を著し、後のナチスの反ユダヤ政策に通じる提言をしたのですね。現代のドイツ・ルーテル派(マリア福音姉妹会など)はこれについて悔い改めを表明しているそうです。

しかし、イエス・キリストは・・
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」マタイ5章9
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」マタイ5章44

これらの言葉からも、イエスはたとえ敵であっても、暴力行為を否定していますね。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」マタイ10章34

このイエスの言葉は、本田神父によると、戦争を肯定するものではなく、弱い立場の者にとって、差別迫害の社会が続く状態に対して、「それは違う」と包丁を入れに来た(剣ではなく包丁が正しいらしいです)という、家族や社会制度への批判の言葉ですね。しかも、本当の意味での平和を目指そうという意味でもあると本田氏はいわれます。

同性愛の問題もそうですが、イエスの本当の平和を目指すために、生まれついて弱い立場、傷つけられている人の側に立って見直してみよう、というのが、本田氏やイエスの思想であるのでしょう。
   メンテ
No.55に対する返信 ( No.57 )
日時: 2016/01/14 01:21 (megaegg)
名前: 美紗季♪


ありがとうございます。

私自身は、同性愛の問題は解決しています。

ありのままで生きること。
それが私の答えです。

私の宗教上の今の思想は、

聖書+仏教+神道 となっています。

愛する事、盲目の愛では無く、知恵のある愛です。


理想ですよねー♪ さっぱりですけど^^
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.58 )
日時: 2016/01/14 01:36 (dip0)
名前: きき

こんばんは

儒教も、教えそのものは
悪いものではないのですが、
ユダヤ教の律法学者やキリスト教でも、律法主義の人時は、本来の教え、愛(思いやり)や平和を保つための
礼節やルールを、間違った方向に持って行ってしまいますよね。

神様の律法というのは、愛に基づいたものです。

申命 6章5節
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
レビ19章18節
あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

これら旧約聖書の基本的な
大事な教えがベースとなって律法ができていると
言えます。

律法は、人に何が罪なのか、罪でないか
という知恵(知識)を与えるものです。
神の基準から見れば、<自分>が罪を犯してしまう
という事実を知るためのもの。
<形に見える良心の指針>と言えます。

イスラエルの民以外で、律法のないものは
それぞれの<良心>や<倫理観>に従っていますよね。

単に、<誰かを>裁いたり、責めたりするための
ものではありません
もちろん、律法に基づいて裁かれることはありますが、
律法学者などの誤りは、
<誰かを裁くこと>であって、<自分はまだマシ>
という誤った高慢や、愛のなさが問題と言えるでしょう。

聖霊と言うのは、律法に変わって
人のうちに住んでくださる<良心>であるというのは
この説明でなんとなく理解できるでしょうか。

マタイ5章 17〜18
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく,成就するために来たのです。まことに,あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り,律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

クリスチャンがユダヤ教(旧約聖書)の律法でなくて
神の教えと、聖霊に従って生きるというのは。
律法の本質的な部分には従うということです。

戒律のような食事の制限などはありませんが。。
コリント人への手紙第一 10章31節
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

ともあります。
これは、戒律や禁欲という意味ではなくて、
神への感謝や愛という動機から、
しなさいということです。

愛が一番良い動機ですよね。
徳(理性)として、また義務や責任、礼儀(良識)
または利便性のため。。。というのは、
愛がない時に、何かをする時に
人の動機となります。

結婚というのは、イエスと教会の関係を
表すことが多くあります。

聖書では基本的に、結婚したものの間での
性関係を良しとしています。

結婚間以外の性的関係を禁じているのは、
単に<道徳的観念><禁欲>ではないです。
この世では、キリスト教の教えを聞くと
禁欲的とか、時代遅れ(保守的)と思うかも
しれませんが。 それは、世の人の捉え方です。
(善悪の知識の実を食べて、人は、自分の主観や世の
基準で物事を捉える癖があります。
聖書は、神のものの見方、基準が書いてあります。)

結婚は、神にとって聖なるものであり
<契約><信頼関係>を意味するからと言えます。
軽々しく扱ってはいけないものだからこそ
たとえ異性間でも、結婚以外の性関係は
勧めていないのです。

無責任な性関係は、愛のないことと言えます。
欲を否定していませんが、独身を保てない人であれば
結婚(責任を持って、愛し関係を持つこと)をするように、という教えもありますね。

今は、社会保障もあったり、女性の社会進出も
ありますが、多くの国では今もなお女性の
立場は非常に低いものです。
中東やアジアやアフリカなどの一部では、今も
なお少女が結婚をさせられたり少年少女が
児童労働に出される(奴隷として)こともありますね。

日本でも、以前は、女性は結婚して家族を支えることで
(家業などで働きつつも)生活の保障がありました。

結婚をすることは、単なる子孫繁栄だけではなくて
互いに相互依存しながら、生きるためには
必要なものだと言えます。

   メンテ
No.56に対する返信 ( No.59 )
日時: 2016/01/14 04:42 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんばんは
> 万軍の主はこう言われる。〜「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」サムエル記上15章2-3

旧約聖書 聖絶と言われる戦いの部分ですね。
これは、聖書でも非常に<堅い内容>であり
消化しづらい、<堅い食物>です。

神の愛と公正を信じるには、
神様との信頼関係や、基本的な知識
聖書理解なしには、難しいと思います。

> ここで、神は皆殺しの命令を下しているようです。正しい信仰を守るための正義の戦争であれば、肯定し、神の正義に反するものは殺していいという、絶対存在である神の考えが入っているのでしょうか?

神は愛と正義、そして<聖>なるお方です。

旧約時代の聖絶というのは、これから起こる
キリストの再臨と神の裁き、最後の審判の
雛形とも言えます。

まず、時代背景や状況も知る必要がありますよね。
アマレク人は、モレクという異教の神を信仰しており
自分の子供をその神に生贄として捧げていました。。
(いわば、悪魔崇拝のような信仰を持っていました)

ただ、このような歴史的、状況的弁明、説明というのは、あまり意味がないと私は思います。
なぜかというと、神様が私たちに聖書を通して、知ってほしいこと、私たちが知るべきこととは本質的にずれていると思うからです。

罪というのは、<的外れ>とも言います。
神の正義に反しているから<殺していい>ということ
だけではなくて、神は公正であり、義であり、聖なる方なので<罪>と<共存>はできないと言ったら
わかるでしょうか。
罪ある者は、神の前で生きることは不可能だと
言えます。

聖書は、信仰を持って(聖霊によって)
読まなければ、何が大切なことなのか、
何が神様が私たちに知らせたいことなのかが
わかりにくいものです。

コリント第一 2章10〜13 (抜粋です)
同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けましたそして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉を語るのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。

人々は、悪を行う人を、放っておけば
神は何をしているのか、どこにいるのか?と
疑問に思い、神の存在や正義を疑う一方で、
実際に神様が、悪を行う人や罪人を滅ぼされると
神は愛の神ではなかったのか?
それは、本当に正義だったのか?と
また疑問や不信を持つものです。

人は、どうしても、<善悪の知識の実>を食べて
罪が入ってからというもの、自分の主観で
何が正しいのか、間違っているのかを
<決めたり><裁き>たがるものです。

多くの、未信者の方や、神を信じない方は。。
<神様>を知ろうとしたり、求めるのではなくて、
<神様の目的>を知ろうとするのでなくて、
人間中心の見方(視点、判断)で、
神は本当に愛ある方なのか?神が行ったことは
正義なのか?と、
神様の愛と正義を疑って、検証したり、判断(裁く)
したがることがあります。

<善悪の知識の実>を食べた事で、
神中心ではなくて、人間中心になって、
神の判断に不信を持ち、自分の主観や視点で判断しようとする傾向は。。ありますよね。

これは、未信者だけに限らず、神父でも、牧師でも
一般クリスチャンでも、陥ってしまうことがあります。

聖霊を働かせてないと、聖書を読み、祈り
黙想して神との関係を持ってないと
すぐに<人間的な考え>で物事を見ようと
してしまいます。

<聖絶>が正しいか、そうでないか(自分がどう判断するか)ではなくて神は愛のお方であると同時に公正、義のお方であり<裁く方>であることも<聖絶>で知らせていることを知る方が、大切なのだと思います。

神の正義を単に、盲目的に信じるということでは
なくて^^、神は愛ある方であるけど、義のお方であり
聖なる方なので。。<裁かれる方>であるということを
知り、敬虔な畏れを持つべきなのです。

旧約時代の一部のケース以外、
神はその後、戦争には介入はされていないと
思いますが。。
それゆえ、人は神様の裁きを軽んじています。

ペテロ第二 3章3〜7
まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、
当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。

聖書の福音(救い)と、愛の部分を求めている人は
神の裁きに対して、疑問を感じたり、
理解ができないこともあるでしょう。

<救い>が意味することを
深く理解するには、やはり聖書を読む(信仰を持って聖霊を持って読む)しかありません。

救いは、単なる、気休めではありません。
この世での安らぎを得ることが
救いではなくて、<滅び><地獄>からの救いであることを聖書は語っています。

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.60 )
日時: 2016/01/14 06:51 (dip0)
名前: きき

長くなってしまったので
分けますね

>マルティン・ルターは「神は乗り越えられる試練しか与えない」と言いましたが

それは聖書の
コリントの信徒への手紙I 10章13節 ですね^^
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

伝道の書 7章16節
あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。

人は、時に義に過ぎてしまって
過激になり、神の御意志からそれてしまうことが
あります。
自分の主観や思い込み、力に走ってしまわないためにも
祈り、聖書を読む必要がありますね。

> 実際にも、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに失望したルターは、晩年になってパンフレット『ユダヤ人と彼らの嘘について』を著し、後のナチスの反ユダヤ政策に通じる提言をしたのですね。

ルターにせよ、すべての信徒にせよ
キリストの血によって、義とされていますが
人は、<自分中心な考え><肉の思い>に
囚われてしまうことがあります。
人は言葉において、思いにおいて、また行動において
過ちを犯すことがあります。
(できるだけ、前もって避けたいものですが)

神のご計画は、ユダヤ人も救われることでした。
人は、どうしても、焦ってしまうものです。
そして、神の方法でなくて、自分の(人間的な)
知恵や力でなんとかしようとして、間違った方向へ進んで
しまうのです。

それはルターに限らず、旧約でもそのように
人間的見地で、判断して失敗した例が
書かれています。

ユダヤ人の中から、素晴らしい初期クリスチャン(使徒たちやその他の人々)が出てきましたし、
現在、イエスを救い主と信じるユダヤ人もいます。

何事も時があると、伝道の書にも書かれていますね。

> これらの言葉からも、イエスはたとえ敵であっても、暴力行為を否定していますね。
暴力を否定していますね。
罪は犯しませんでしたが、律法学者などに、義憤は感じて
おられましたね。

> 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」マタイ10章34
イエスは罪から私たちを救いだしてくださる方ですが、
再臨の時には、裁く方としてこられますね。

聖書の教えとこの世の基準や考えとは違うので、衝突が起こる事もありますね。

> 同性愛の問題もそうですが、イエスの本当の平和を目指すために、生まれついて弱い立場、傷つけられている人の側に立って見直してみよう、というのが、本田氏やイエスの思想であるのでしょう。

イエス様は、姦淫の現場を捉えられた女性に
あなたの罪は赦されています、今からは決して罪を犯してはなりません。
と言っていますね。

罪を犯してしまう弱さを理解してくださり、
罪を許してくださいます。。が、悔い改めた者と
して罪の奴隷状態から解放されて自由に生きることも
望まれています。

多くの方は、許しや愛のところにフォーカスを
当てすぎて、悔い改めとそれに伴う行動(生き方)を
見過ごしています。

イエス様が来られたのは、私たちを
罪から救うためです。
救われるには、罪を悔い改め、許しを受け取る必要が
あります。

神の愛と恵みである<救い>を受け取らなければ、
神は義のお方なので、私たちを罪によって裁かなければいけないのです。 神は、本来誰一人滅ぼしたく
ありませんが不義を行えない方です。

イエス様が再びこられる時、再臨の際には
<王>としてこられます。

福音書にも、世の終わりの時、再臨についてのことは
書かれています。

ルカ 21章34−36節
「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その日は、地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。

黙示録も有名ですね。

黙示録19章11〜16
11節 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
13節 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
15節 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。

再臨の際のイエス様<神の言、ロゴス>の記述を見れば
旧約聖書の聖絶が、雛形(予告がた)ということが
理解できると思います。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.61 )
日時: 2016/01/14 23:59 (megaegg)
名前: 美紗季♪



神に逆らって滅ばされても、仕方がないと思います。


当然ですが、赤穂浪士討ち入りで、浪士たちが全員切腹になりました。
当時の幕府は、浪士達の処分で大揉めに揉めました。
悩んだ結果、全員切腹の処分になりました。

なぜそういう処分になったのでしょうか?

浪士達は、例え命を失っても・・・覚悟があって討ち入りしました。
討ち入りが成功しようがしまいが、最悪どうなるのかは理解していたハズです。
切腹も彼らの生き様の結果だったの。
彼らの処遇は、武士として、また筋の通った処分として、切腹こそがふさわしいと判断されたの。


これと同じように、神に逆らった人達の生き様を尊重しようとすれば、死しかないの。
これも、その人たちの人間性を尊重し、愛した結果なのだと思います。


   メンテ
No.60に対する返信 ( No.62 )
日時: 2016/01/17 02:20 (odn)
名前: いしまる

こんばんは。
連続勤務も終了し、レスします。

> 旧約聖書 聖絶と言われる戦いの部分ですね。
> これは、聖書でも非常に<堅い内容>であり
> 消化しづらい、<堅い食物>です。
旧約聖書では、「聖絶」の思想が最も解釈が困難な個所の一つだそうですね。

しかも、聖絶というジェノサイド、民族浄化など「皆殺し」を命じる聖書の記述は、ヨシュア記を中心にレビ記、申命記、サムエル記上巻などに多く見られる聖句なのですね。

牧師や教会がネットで聖絶の解釈について公開している内容を見てみましたが、あまりよくわかりませんでした。

「新約の時代においては旧約のごとき聖絶の戦いはありえない」とか・・
「この聖絶は、神の御心に沿ったものであり、現代では許されないことだが当時は正しかった」とか・・
「聖絶とは、神のものを決して人間が自分のものとして横取りしてはならず、完全に神のものとしてささげる行為を暗示している」など・・

なかには、「聖絶とは、神の民が聖を失って、他のすべての国々のようになってしまわないために、神は聖絶によって、ご自身の民がこの世のものと同じくなることを防ごうとされ、神の“聖”を民に守らせる戦いだった」という神による神聖な目的のための“聖戦”だったというものもありました。

> <善悪の知識の実>を食べた事で、
> 神中心ではなくて、人間中心になって、
> 神の判断に不信を持ち、自分の主観や視点で判断しようとする傾向は。。ありますよね。
教会や宗派の立場から、人間的な考えで判断し物事を見ようとするせいなのか、聖絶に対する言い訳のような内容がずいぶん見られましたね。

私自身が考える聖絶というのは・・人間は神によって創造されましたが、<善悪の知識の実>を食べ、自分の意思で神に背き、勝手に生きることを選んでいます。このために、そもそも人間はすべて滅ぼされるべき存在なのです。

つまり、イスラエルに敵対する異民族に対しての聖絶、そして、イスラエル民族そのものにも聖絶は向けられ、神は恐ろしいほど公平に罰をあたえ、人間を滅ぼすと考えていいでしょう。

> 神の正義を単に、盲目的に信じるということでは
> なくて^^、神は愛ある方であるけど、義のお方であり
> 聖なる方なので。。<裁かれる方>であるということを
> 知り、敬虔な畏れを持つべきなのです。
やはり、そうなのですかね・・一方で、聖書によると、ヤハウェは、私たち人間が一人も滅びないことを願ってやまない神であり、いきなり断罪することはなく、「悔い改めなければ滅びる」と、滅ぼす前に猶予を与えてくれるのでしょう。

> 再臨の際のイエス様<神の言、ロゴス>の記述を見れば
> 旧約聖書の聖絶が、雛形(予告がた)ということが
> 理解できると思います。
イエス・キリストによる最後の裁きが最終的な聖絶であるのでしょうか?

黙示録によると、イエス・キリストの十字架により、聖絶が成就され、イエス・キリストの十字架において聖絶を受ける道が備えられ、聖絶の最終的な執行は、栄光の臨在の前の火の池であると・・この“火”というのは、終末的な裁きが来る前の、人々が受ける聖霊であると考えられるでしょうか・・。
   メンテ
No.61に対する返信 ( No.63 )
日時: 2016/01/17 04:12 (odn)
名前: いしまる

美紗季♪さん、こんにちは。

> 浪士達は、例え命を失っても・・・覚悟があって討ち入りしました。
> 討ち入りが成功しようがしまいが、最悪どうなるのかは理解していたハズです。
> 切腹も彼らの生き様の結果だったの。
> 彼らの処遇は、武士として、また筋の通った処分として、切腹こそがふさわしいと判断されたの。
そうですね。赤穂浪士の行動は、喧嘩両成敗という正義が実現されていない以上、「上野介を生かしていては自分の一分が立たない」という武士のやむにやまれぬ感情や、それぞれ浪士達の名誉意識から生まれた行動ですね。

> これと同じように、神に逆らった人達の生き様を尊重しようとすれば、死しかないの。
> これも、その人たちの人間性を尊重し、愛した結果なのだと思います。
幕閣が下した「切腹」も武士としての生き方を貫き、名誉を与えましたね。武士にとって名誉は生命より重たかったのでしょう。

この敵討ちや、切腹が徳目とされるのが「武士道」という道で、仏教、神道、儒教の三つを源泉として、鎌倉時代の初めあたりに武士道は成立しました。

キリスト教の信者だった新渡戸稲造は『武士道』という名著をあらわし、同じく熱心なクリスチャンだった内村鑑三は、こう言われました。「武士道の台木にキリスト教を接いだもの、それは世界で最善の産物だ。それには日本国だけでなく、全世界を救う力がある」と・・

イエスのなかに、武士道の最高の模範を見ることができるようです。そこにこそ、世界を救う日本精神の最高の姿があるのですね。
   メンテ
No.62に対する返信 ( No.64 )
日時: 2016/01/17 17:53 (dip0)
名前: きき

いしまるさん こんにちは

> しかも、聖絶というジェノサイド、民族浄化など「皆殺し」を命じる聖書の記述は、ヨシュア記を中心にレビ記、申命記、サムエル記上巻などに多く見られる聖句なのですね。
そうですね。 時に、兵同士のみの戦いもあれば、一般市民諸々ということもありますね。

> 牧師や教会がネットで聖絶の解釈について公開している内容を見てみましたが、あまりよくわかりませんでした。
> 「新約の時代においては旧約のごとき聖絶の戦いはありえない」とか・・
イエスの救いによって、罪が許されており、
福音(神の救いの道)を知らせることが
望まれているのが、新約時代です。

キリスト教世界が、旧約の聖絶の例を
持ち出して、他民族をむやみに殺すこと(十字軍など)
は正当化できませんからね。

> 「この聖絶は、神の御心に沿ったものであり、現代では許されないことだが当時は正しかった」とか・・

今のように法律を重んじる社会ではなく
絶対王制の時代では、交渉などは決裂して
戦いで解決する。。ということが、常でしたよね。
当時として正しかったという説明もできなくはないですが、簡潔に言えば、<神>は正しいとはっきり言えば
いいことなんですけどね。^^

神の御心やプランがあり、聖絶という方法を
取られ、イスラエルの民を<聖別>された
と言えるでしょう。

イスラエルの民はその後、他民族の元に
共存する時代もありましたね。
ただ、そのデメリットとして、異教の影響を受ける
ということもありました。
偶像礼拝をすれば、神の恵みを失って、イスラエル
民族の滅びを招くということになります。
イスラエルの王国ができたときも、王や民が神から離れて偶像礼拝をした結果他国に責められたり、奴隷状態になりましたね。

> 「聖絶とは、神のものを決して人間が自分のものとして横取りしてはならず、完全に神のものとしてささげる行為を暗示している」など・・

そういう説明もあるのですが、わかりにくいですよね。

<神のもの>とは何か、そして、<人間のもの>というのは、何なのか? 考えてみるといいと思います。

親から子供に家や財産が受け継がれるように、
この地や自由に使える被造物が与えられていると
言えるでしょう。

主権者である神が、誰にこの地を相続させるかを
決める権利は。。当然あるでしょう。

多くの人は、<神様の主権を認めてない>ので、
聖書の教えや裁きに不満や疑問を感じていますが、
一般的に、相続権などについて、親が子供に
受け継がせるのに、不満を持つ人はいないでしょう。

神のものというのは、<神の主権>を
認めることとも言えると思いますよ^^
人は、人間に<主権>があると思い込んでいます。
この世の考えや宗教や思想は、<人間中心主義>
<人間主権>です。

サタンは、神の主権に反抗して、自分が神に
成り代わることを望みました。。
似ていますよね?^^サタンは、まるで
神様が人間の<当然の権利>を神が奪っているかのように、エバを惑わしましたよね。。

人間は、神の主権と恵みの中で、幸せに生きることが
できるのに、神の主権でなく、<自分が主権を持つ>
ことを求めて、善悪の知識の実を食べました。

越権行為、過度の権利、権威を求める。。高ぶり、高慢、反抗。。これがサタンの傾向、この世の考えです。

ヒューマニズム的な考え、一見、<人間的に見て>
間違ってないような教えや考えもありますよね。
キリスト教界の中ですら、世に迎合して、聖書の教えを
曲げて、神の主権を軽んじる人もいます。

> なかには、「聖絶とは、神の民が聖を失って、他のすべての国々のようになってしまわないために、神は聖絶によって、ご自身の民がこの世のものと同じくなることを防ごうとされ、神の“聖”を民に守らせる戦いだった」という神による神聖な目的のための“聖戦”だったというものもありました。

聖絶は、神の正しさ、裁きを示すものでもあり、
神の聖を民に守らせる、もしくは神の命令を尊ぶこと、
<神に従う>ことの大切さを知るための戦いだったとも言えるでしょう。

聖絶は<試金石>とも言えると思います。
しかし、新約のイエスが聖霊によって、生まれたことも
復活されたことも、奇跡を起こしたことも
試金石とも言えるでしょう。

自由主義の司祭や牧師やクリスチャンでも
創造や、奇跡が、お話に過ぎないと
言っている人もいます。
福音の優しい部分には、共感しつつ、裁きの部分を
軽んじていることもあります。
神は愛だから、全員救われると、とんでもない
楽観視、自己都合の解釈をしている人もいます。

ペテロの手紙第2
1〜3章だけと短いので、ぜひ読まれてみてください。
2章1〜2節
かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。
彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。

2章18節
彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。
その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.65 )
日時: 2016/01/17 18:20 (dip0)
名前: きき

続きです。
長くなってしまいましたが。。

> 教会や宗派の立場から、人間的な考えで判断し物事を見ようとするせいなのか、聖絶に対する言い訳のような内容がずいぶん見られましたね。

いろいろな言い訳(人間的説明)もあることはありますが、それだけでは、説明できませんからね。

でも、多くの人が神の存在や主権を認めないのと、
聖書を読んだことがないので、とりあえずは。。
そのような説明を、まずするしかない。という
のも事実ですね。^^

多くの人が納得できないのも、仕方がありません。
説明だけでは、理解できないからです。
しかし、多くの方は聖書も読まずに、わかったつもり
になって(自分の限られた知識や判断で)、神を否定しまいます。。

> 私自身が考える聖絶というのは・・人間は神によって創造されましたが、<善悪の知識の実>を食べ、自分の意思で神に背き、勝手に生きることを選んでいます。このために、そもそも人間はすべて滅ぼされるべき存在なのです。

神は、義でありますが愛ある神なので救済の道を
備えられました。

> つまり、イスラエルに敵対する異民族に対しての聖絶、そして、イスラエル民族そのものにも聖絶は向けられ、神は恐ろしいほど公平に罰をあたえ、人間を滅ぼすと考えていいでしょう。

もう一つ、聖絶の話をする前に忘れていけないこととして
<出エジプト>がありますね^^
聖書は、一つ一つのテーマを取り上げるだけでは
理解できないことがあります。
本も、1章を飛ばして、2章を読んでも
わけがわからないでしょう。

まずは創世記と出エジプトだけは読んでから。。ヨシュア記、レビ記やサムエルを読む必要があるんですよ。^^

神はエジプトに災厄を送られ、イスラエルの民を
奴隷状態から解放されました。
イスラエルの民は、武力で戦う必要はなかったのです。

イスラエルの民は、<聖別>されて
救われた民です。
(クリスチャンはイエスへの信仰によって
罪が赦され、罪の奴隷状態から解放されているのと
同じことです。)

イスラエルの民の歴史というのは、
クリスチャンに対してのメッセージでも
あります。^^

愛と公正との神であり、イスラエルや
クリスチャンを救われますが。。
いつまでも、赤ん坊扱いするわけではありません。

人間も同じですよね。^^
乳幼児のときは、親が守りますが、
小中高と、年齢が上がれば、ある程度
自己責任もありますよね。
(自力では無理なので、親や先生に相談したり、
頼る必要があります。すべて自力で対処しようとして
自分に依り頼みすぎて、自己過信すると。。
失敗することもあるでしょう)

> やはり、そうなのですかね・・一方で、聖書によると、ヤハウェは、私たち人間が一人も滅びないことを願ってやまない神であり、いきなり断罪することはなく、「悔い改めなければ滅びる」と、滅ぼす前に猶予を与えてくれるのでしょう。

聖書の記述によれば、人類の歴史はおよそ7000年ほど
と言われていますね。
キリストが天に戻られてからら2000年ほどが
経ちました。
神様は、人間に十分な猶予を与えているのでしょう。

> 黙示録によると、イエス・キリストの十字架により、聖絶が成就され、イエス・キリストの十字架において聖絶を受ける道が備えられ、聖絶の最終的な執行は、栄光の臨在の前の火の池であると・・この“火”というのは、終末的な裁きが来る前の、人々が受ける聖霊であると考えられるでしょうか・・。

イエスの十字架と贖いによって、救いが完成されていて
イエスを信じることで、聖絶(罪によって
滅ぼされること)から守られると言えるでしょう。

キリストの再臨(その際に火の池に投げ込まれる人も
いる?)、1000年王国、最後の審判があり、最終的に火の池(地獄)があると言われます。

火の池というのがいわゆる、本当の地獄だと言われて
います。
いわゆる<第二の死>と言われるものがあり、
第一の死は、肉体の死ですが、第二の死は、最後の審判で裁かれて火の池に投げ込まれることです。
おそらく、この最後の審判のために
神の前に立つ人というのは、キリストの再臨以前に
死んだ人たちと言えるでしょう。

いわゆる、黄泉(天国ではない場所)は
地獄(監獄)ではなくて、留置所(一時的に留め置かれる場所、裁きを待つ場所)とも言われています。
   メンテ
No.65に対する返信 ( No.66 )
日時: 2016/01/18 03:26 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんばんは。

> でも、多くの人が神の存在や主権を認めないのと、
> 聖書を読んだことがないので、とりあえずは。。
> そのような説明を、まずするしかない。という
> のも事実ですね。^^

> 多くの人が納得できないのも、仕方がありません。
> 説明だけでは、理解できないからです。
> しかし、多くの方は聖書も読まずに、わかったつもり
> になって(自分の限られた知識や判断で)、神を否定しまいます。。
たとえば、ある人が聖書を読み、信仰に目覚めたとしても、聖書の神に選ばれた古代のユダヤ民族の歴史や、「神の言葉」の記録、神と人との関係や、人が置かれている条件などの思索、儀式や、詩、ことわざなど、・・さまざまな文章などからくる想像によって神を推量しなければならず、人間にとって、神の概念を統一化することは困難でしょう。

神とはいったいどのようなものか、と人に問えば、人それぞれに神についての観念が表明されることでしょう。人々は皆、想像力を以って漠然と神について考えているのであり、神を明確に定義することはできないと思います。

つまり、神のありようというものは、人間が理解できる範囲を超えていて、新約聖書、ヨハネの手紙1-4章12節に「未だかつて神を見た者はいない」とあるように、その究極の根源は、はかり知れない神聖にして深遠の領域にあり、言語による表現を超えたところにあるのでしょう。

中世ドイツのキリスト教神学者で神秘主義者のマイスター・エックハルトが、神の意志は「あれ」とか「これ」とかいうように、指し示せる特定の事柄として現われるのではないそうで。「これが神の意志だ」と言う人は被造物たる己の意志を語っているに過ぎないそうです。

まず、エックハルトによると、神からロゴス(言葉)が発し、被造物が創造されることによってはじめて、神は被造物において自分自身を存在として認識されます。この時の被造物に対する神は唯一の存在であり、それに対する被造物は無に過ぎない。被造物は神に生み出されることによって存在を持つのであって、被造物はそれ自体では存在すらできない純粋な無であるそうです。

神は生むもの、被造物は生みだされたもの。この両者はアナロギア関係にあるといわれます。たとえば、被造物における「善き者」などもそれ自体が善いのではなく、「善性」の神がそれを生み出したから善いといわれるのです。

神が生み出したから被造物は善き者であることができ、知性を持つことができ、生きることができ、存在することができる。だから被造物において絶対的に義なるものはありえないと、エックハルトは言います。

さらに、善い意志を持とうとする被造物の側からの努力も、エックハルトにとっては空しい試みであると言われます。では、被造物にできる最高のこととは何か・・それは“無”に徹することだそうです。やはり、あるがままにすべてを受け入れ、美紗季♪さんが言われるように、「ありのままで生きること」が一番いいのかもしれません。

「あれ」「これ」といった特定の存在や条件、欲望などが消え去る純粋な“無”の中にこそ、純粋な存在たる神の最大の受容がなされるのでしょう。「我の無」は、すなわち「神の有」ですね。

神は充溢し、満ちあふれた存在そのものであるから、その本性からして無に存在を注ぎ込まずにいられない。神は被造物と気まぐれな関係をもつのではなく、本質的に被造物と関わっているわけです。神はその本性から、人間(被造物)を愛さずにはいられないというわけですね。

> キリストの再臨(その際に火の池に投げ込まれる人も
> いる?)、1000年王国、最後の審判があり、最終的に火の池(地獄)があると言われます。
やはり、この“火”というのは、人々が受ける聖霊ではなく、最後の審判で裁かれて火の池に投げ込まれる、本当の地獄なのですね。

> いわゆる、黄泉(天国ではない場所)は
> 地獄(監獄)ではなくて、留置所(一時的に留め置かれる場所、裁きを待つ場所)とも言われています。
聖アウグスティヌスは、人々は最後の審判を待つまでは、個人の裁きを受けたあとにそれぞれにふさわしい境遇で待つと考えたのですね。そして彼は「煉獄」の存在を初めて指摘しましたね。
   メンテ
No.66に対する返信 ( No.67 )
日時: 2016/01/18 17:37 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

> たとえば、ある人が聖書を読み、信仰に目覚めたとしても、聖書の神に選ばれた古代のユダヤ民族の歴史や、「神の言葉」の記録、神と人との関係や、人が置かれている条件などの思索、儀式や、詩、ことわざなど、・・さまざまな文章などからくる想像によって神を推量しなければならず、人間にとって、神の概念を統一化することは困難でしょう。

もちろん、聖書を全巻読んで、神様の人間に対しての
メッセージ(愛ある教え、知恵)とプランを
知ることも大切です。
クリスチャンになってから、教会の聖書研究などに参加したり、自分で解説書を読んだり、ネットの礼拝を読んだりして学べるでしょう。

しかし、キリストを受け入れ、福音を理解することが大切です^^
聖書全巻読んでないからといって、救われない
わけではないですからね^^
罪を悔い改めて、神と和解するためにイエスの十字架の贖いを信じるということが大切です。
神の概念に関しても、は愛であり、公正と義のお方である。 これだけでも十分なのです。

結婚も同じですよね。
結婚してから互いに、発見もあるでしょう。

> 神とはいったいどのようなものか、と人に問えば、人それぞれに神についての観念が表明されることでしょう。人々は皆、想像力を以って漠然と神について考えているのであり、神を明確に定義することはできないと思います。

聖書は、神の霊感によって書かれた書物であり、
神ご自身が(使途や預言者やその他の人を用いられて)、
どういうお方なのかについて説明されています。

人は単に、自分勝手な推量で、神を
明確に定義することができないというのは、
事実ですが、神ご自身が明らかにされていますので、
それを、信じるか、信じないかの問題だと思います。

そして、聖霊の働きがなければ、理解できないでしょう。

> つまり、神のありようというものは、人間が理解できる範囲を超えていて、新約聖書、ヨハネの手紙1-4章12節に「未だかつて神を見た者はいない」とあるように、その究極の根源は、はかり知れない神聖にして深遠の領域にあり、言語による表現を超えたところにあるのでしょう。

そのようにいう方もいますね。
人間が理解できない部分(知る必要のない領域)が
あっても、全く理解できないわけではありません。

聖書は、部分的に読むのではなくて前後や全体を通して読まなければ、そこだけを引用して、様々な人が自分の考えにあった解釈をしてしまします。
(輪廻に関しても、聖書の句の一部、再び生まれる。。
という部分だけを取り出して、都合のいい解釈をする方もいますよね。)

神の事や神のお考えは知ることはできない。という主張を
信じている人が、それを立証するために、
ヨハネ1 4章12節の句だけを持ち出すことは
あるでしょうね。

ヨハネの手紙1 4章には続きがあります。
13節
神は私たちに御霊を与えてくださいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちの
うちにおられることがわかります。
(御霊、聖霊を伴って聖書を読むことによって私たちは神のお考えや計画を多少なりとも理解はできます。)
14節
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを
見て、今その証をしています。
15
誰でも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人の
うちにおられ、その人も神のうちいます。
(聖霊を持つには、イエスを神の子だと告白し
受け入れう必要があります。)

そして、
ヨハネの福音書 1章18節(新約聖書であれば福音書は全部読まれてみてください。)
いまだかつて、神を見たものはいない。
父のふところにおられるひとり子の神が
神を説き明かされたのである。

とはっきりと書いてあります。
父なる神を見たことがなくても(見れなくても)
、イエスが父なる神を現しているのです。

ヨハネ14章9節
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」

神の事を理解などできるわけない。。という人は、、
イエスが神の子であり、神であることを認めてない、
否定しているのでしょう。

> 中世ドイツのキリスト教神学者で神秘主義者のマイスター・エックハルトが、神の意志は「あれ」とか「これ」とかいうように、指し示せる特定の事柄として現われるのではないそうで。「これが神の意志だ」と言う人は被造物たる己の意志を語っているに過ぎないそうです。

通常、牧師や神学者クリスチャンは、聖書を読み、
聖霊によって、理解します。

> 神が生み出したから被造物は善き者であることができ、知性を持つことができ、生きることができ、存在することができる。だから被造物において絶対的に義なるものはありえないと、エックハルトは言います。

神が生み出したからというだけでなくて、
神の聖霊がとどまっているうちは(神との信頼関係)
よきものになれるでしょう。

しかし、サタンや、堕天使や、また神の教えに
背く人間もいます。
人は、神との関係(聖霊)によって、イエスの贖いによって(罪がないものとみなされることで)義となることが
できます。

> さらに、善い意志を持とうとする被造物の側からの努力も、エックハルトにとっては空しい試みであると言われます。では、被造物にできる最高のこととは何か・・それは“無”に徹することだそうです。やはり、あるがままにすべてを受け入れ、美紗季♪さんが言われるように、「ありのままで生きること」が一番いいのかもしれません。

無に徹するというのは、神秘主義的な考えですね。
クリスチャンがする黙想というのは、<無>に
なることではなくて、神のことを思い巡らすこと、神の
霊に満たされることです。

ありのままで生きるのではなくて、
神と結びついて、神との関係の中で生きると
いったほうがいいでしょう。

罪を受け継いだ人間が、神と和解せずに、ありのままでいるというのは、罪の奴隷のまま生きることになります。

> 「あれ」「これ」といった特定の存在や条件、欲望などが消え去る純粋な“無”の中にこそ、純粋な存在たる神の最大の受容がなされるのでしょう。「我の無」は、すなわち「神の有」ですね。

我を無くすというのは、努力によって
無くすもの、無くせるものではないですね。

神の愛に包まれることで、自分の欲や我というものが
取るに足らないもの(価値のないもの)だと
思えるのだと思います。

> やはり、この“火”というのは、人々が受ける聖霊ではなく、最後の審判で裁かれて火の池に投げ込まれる、本当の地獄なのですね。
はい、そのように解釈することがほとんどです。

> 聖アウグスティヌスは、人々は最後の審判を待つまでは、個人の裁きを受けたあとにそれぞれにふさわしい境遇で待つと考えたのですね。そして彼は「煉獄」の存在を初めて指摘しましたね。

煉獄と、黄泉は違います。
煉獄というのは、中途半端なクリスチャンが
罪をきよめられてからいくところ。。というような感じですよね。
イエスの十字架以外に、罪を清めることは
できません。

煉獄にいる人のために、教皇や司祭が祈ったり、
信徒が、特別な祈りを、100回唱えるとか。。
まさに<宗教的行為>ですよね。
祈祷してもらうために、お金を払うのは、
仏教やその他で、供養のためにお金を
渡していのってもらうのと同じですね。

代わりに功徳を積んで、天国行きを早めるなど
と言う考えは。。。人間的な考えです。
これらは言ってしまえば、<人間が納得するための
思想や儀式や祈祷>であって、神に対する信頼や
感謝の祈りとは、まったく違うものでしょう。

クリスチャンは、宗教をするのではなくて
神を信頼し、神と共に歩むことを望むものです。

(死んだ人の)霊の領域は、神の領域です。
それに対して、人間には権限はありません。

イエスの十字架以外に、救いはないです。
誰かが<死ぬ前>であれば、執り成しの祈りはできますが。。最終的には、その人と神との関係ですからね。

他の宗教、密教、祖霊信仰では霊の領域とこの世を、人間が行き来できるように考えていますが。

創世記ではサタンが、エバに善悪の知識の実を食べても<死なない>といいましたね。
実際、罪を犯すことで、肉においてはしばらく生きても、
霊において死んだのです。

神との関係なしに、霊は生きられません。
なぜなら、神から<霊>を吹き込まれて人は、生きるようになったからです。

創世記2章7節
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(生きた魂になった)

霊的に死んでも、肉においてしばらく生きられるのは
イメージで言えば。。
携帯やノートパソコンが<充電>されていれば、しばらく機能するのと同じでしょう。
でも、充電されなければ、使えなくなります。

霊魂不滅という考えは、神が命(霊)を人に与えてくださる方であることを否定する教えと言えます。
神につながってなくても、生きられるということです。

それゆえ、クリスチャンは、霊魂不滅などの、祖霊信仰や
密教的な教えに同調はできないのです。

   メンテ
No.63に対する返信 ( No.68 )
日時: 2016/01/19 23:07 (megaegg)
名前: 美紗季♪

いしまるさん 初めまして。

赤穂浪士の話をレスした後、これに対するレスってどうするの?

私、KYなコメントをしちゃったなぁ〜って思っちゃいました。

レスありがと♪
   メンテ
No.67に対する返信 ( No.69 )
日時: 2016/01/21 15:42 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

> 人は単に、自分勝手な推量で、神を
> 明確に定義することができないというのは、
> 事実ですが、神ご自身が明らかにされていますので、
> それを、信じるか、信じないかの問題だと思います。

> そして、聖霊の働きがなければ、理解できないでしょう。
やはり、人は聖霊の働きによって、神の計り知れない知恵や、奇跡的な神の存在が理解できるのですね。

聖霊というのは、ダスカロスによると、(彼の教えも東方キリスト教の神学で、神秘主義的なのですが・・)絶対存在である神が全能であることを表現し、宇宙の創造と維持を可能にしている「非人格的な超意識」のことであるといわれます。

そして、全なる智恵、全なる力としての神の、動的な活動する側面が顕れた存在であるらしいです。聖霊とは、主である神であり、私たち人間は聖霊を神の完全なる豊かさの中に“権威”の状態として、キリスト・ロゴスと共に見出すことができるらしいですね。

キリスト・ロゴスであり聖霊である神によって宇宙は創られ、聖霊はあらゆるところにゆきわたって存在し、生命と生命現象の供給者でもあるそうですね。さらに、聖霊は生命の絶対的な本質と生命現象をコントロールしているとダスカロスは言われます。

だから、聖霊は当然、私たち一人ひとりに働きかけていて、美と調和や善を明示しようとする「意志」であり、本能的な「智恵」であるのでしょうか。

つまり、キリスト教は、神を信頼し、神と共に歩み願うことにより、聖霊の力をいただき、神とイエス・キリストによって、あらゆる恵みと救いを受容する信仰であるといえるでしょうか。

> 無に徹するというのは、神秘主義的な考えですね。
> クリスチャンがする黙想というのは、<無>に
> なることではなくて、神のことを思い巡らすこと、神の
> 霊に満たされることです。
クリスチャンが黙想をするのは、神を思い巡らし、神の霊に満たされることなのでしょうが・・ここでいう<無>というのは、その神の霊に満たされるには、私たち人間の心はどういう状態が一番いいのかという意味だと思います。

つまり、“無”とは、自分の本性である心は、善い意志を持とうとか、きれいな心を持とうなど、と考えず、汚れず、きれいにもならず、増えず、減りもしない状態が「無」であり、そこには比較や対立などの考えはありません。

いわば、神の霊に満たされるための心の準備運動のようなものですね。神を受け入れる自分の心の状態を「無」にしておくというわけです。

> ありのままで生きるのではなくて、
> 神と結びついて、神との関係の中で生きると
> いったほうがいいでしょう。
ありのままで生きるというのは、ありのままの自分を受け入れるという境地で生きるということですね。仏教用語で「真如」といいます。

この真如というのは、人によってはたいへん難しく、生まれながらの障害や病気など、苦悩を持っている人にとっては、ありのままの自分を受け入れるのは困難なものです。

そこは、神と向き合いながら、神と結びついて、神との関係の中で生きる生き方によって、自分を受け入れる境地となり救われることもあるでしょうね。

> 霊魂不滅という考えは、神が命(霊)を人に与えてくださる方であることを否定する教えと言えます。
> 神につながってなくても、生きられるということです。

> それゆえ、クリスチャンは、霊魂不滅などの、祖霊信仰や
> 密教的な教えに同調はできないのです。
「霊魂不滅」は、聖書やキリスト教の信仰の中にはないのですね。

ブッダの教えにも“霊魂”のようなものは存在しません。人間には、我(アートマン)といわれる霊的中心はそこには存在せず、アートマンや霊魂のようなものは無いにもかかわらず、人はそれをあるとして執着するから、苦が生じると言われます。

「霊魂不滅」という考え方は、ギリシャ哲学の、特にプラトンなどの哲学思想、そして神秘主義の思想や素朴な民俗論、民俗学に由来するものでしょう。
   メンテ
No.68に対する返信 ( No.70 )
日時: 2016/01/21 15:51 (odn)
名前: いしまる

美紗季♪さん、こんにちは。

KYなコメントをしたなんて、そんなこと気にしなくていいと思うよ・・

> これと同じように、神に逆らった人達の生き様を尊重しようとすれば、死しかないの。
> これも、その人たちの人間性を尊重し、愛した結果なのだと思います。
と、いうように、あなたの神に対する感情と“死”への思いをそのまま書けばいいのです。

新渡戸稲造は、この浪士達の敵討=復讐を「人間が持って生まれた正確な平衡感覚と、平等な正義感」として肯定し、共感していたのです。

キリスト教の“殉教”が自らの信仰のために生命をささげることであるように、キリスト教の教義には武士道と共通するものがあるのですよ。

しかし、新渡戸は赤穂浪士の武士道精神を賞賛しながら、武士道は滅びつつあるという認識に立っていたのですね。

けれども、同時に新渡戸は、武士道は、滅びた後にもその灰のなかから甦る不死鳥のように、日本の将来を照らすだろうと予言しました。そのキーワードがキリスト教の「愛」である、と言われたのです。
   メンテ
No.70に対する返信 ( No.71 )
日時: 2016/01/21 22:33 (megaegg)
名前: 美紗季♪


いしまるさん、こんばんは。

新渡戸稲造さんが登場されるとは^^

ところで、もともと、赤穂浪士の事を例に挙げたのは、
神の裁きについて、神が愛なら、なぜ助けないのか?
と、いう疑問に対しての自分なりの答えが、赤穂浪士への処罰でした。

愛と正義の両立です^^

   メンテ
No.71に対する返信 ( No.72 )
日時: 2016/01/22 00:26 (odn)
名前: いしまる

こんばんは。

> 新渡戸稲造さんが登場されるとは^^
新渡戸稲造さんが登場したのは、もちろん、彼が赤穂浪士の敵討ちが武士道精神として、平等な正義であると共鳴し、そして史上初めて、「武士道」とは何かという問題に正面から理論的に取り組み、その全体像を描こうとしたからですよ。

さらに彼は『武士道』という書物で広く欧米人に紹介し、その武士道に対して、理解を示し高い評価を与えたのがクリスチャンだったんですね。

イエス・キリストが十字架の上で死に、その死を通じて、神が罪の力に縛られた人間の悲惨を担ってくださるという信心を、赤穂浪士のような武士道にも見たのでしょうね。
   メンテ
No.69に対する返信 ( No.73 )
日時: 2016/01/22 05:39 (dip0)
名前: きき


こんばんは
いしまるさん
> やはり、人は聖霊の働きによって、神の計り知れない知恵や、奇跡的な神の存在が理解できるのですね。
信頼(信仰)によって、聖霊が与えられると
言えますね。
いわば、神様の言葉をキャッチするための
アンテナや周波数のようなものとも言えますね。

> キリスト・ロゴスであり聖霊である神によって宇宙は創られ、聖霊はあらゆるところにゆきわたって存在し、生命と生命現象の供給者でもあるそうですね。
聖霊(霊)である神は、あらゆるところに
偏在すると言いますね。

> つまり、キリスト教は、神を信頼し、神と共に歩み願うことにより、聖霊の力をいただき、神とイエス・キリストによって、あらゆる恵みと救いを受容する信仰であるといえるでしょうか。

人が親の元で育つことと同じように、自然に
神と共に生き、神によって生かされ(養われ)
霊的に成長していくと言えるかもしれません。
(この世の親子関係は、罪が入ったため
利己的になったり、愛が欠けている事も多く、
すべての親子関係が、幸せとは言えないと言えますが
天の父は、愛と公正と義であり、憐れみ深い方だと
私は信じています。)

> いわば、神の霊に満たされるための心の準備運動のようなものですね。神を受け入れる自分の心の状態を「無」にしておくというわけです。

心の状態を整える、聖霊を働かせて(無)謙虚で従順な姿勢になることは大切ですね。

感情や思考を無くす(ロボットのようになる)というよりも、神の前にいる時は、自分のありのまま、と言いますか<本来の立場を弁える>のだと思います。 

自分たちの、肉の努力や、知恵に頼るのではなくて、
ただ<委ねる>ことが大切とも言いますが。
これが難しいのですよね^^

イエスが示された<従順>はマルコの福音書にも
ありますが。。イエスは生涯にわたって、
神への従順と愛、そして隣人愛を示されました。

『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」

> ありのままで生きるというのは、ありのままの自分を受け入れるという境地で生きるということですね。仏教用語で「真如」といいます。
事実を受け入れる、受容ということですね。

> そこは、神と向き合いながら、神と結びついて、神との関係の中で生きる生き方によって、自分を受け入れる境地となり救われることもあるでしょうね。
人間の医療技術も、社会保障でも限界があり
人にも社会にも、絶望を感じる方もいますね。

この世で、改善や解決が見込まれない時、最後の希望と言えるのが、天の国でありすべての苦しみが消える国が来るという約束でもあるでしょう。
医療や心理学では、どうにもできない分野というのが
死後の世界であり、そこを支えるのが
信仰(宗教や思想)だと言えるでしょう。

> 「霊魂不滅」という考え方は、ギリシャ哲学の、特にプラトンなどの哲学思想、そして神秘主義の思想や素朴な民俗論、民俗学に由来するものでしょう。

仏教も、他の宗教や哲学から影響を受けて、輪廻思想が入ったり、極楽浄土の思想なども入りましたね。
ギリシャや、その前の旧約時代。。エジプト、バビロン
の時代から神秘主義的な教えや、祖霊信仰のようなものは
ありましたね。

人は、死を恐れます。
この世では、一時的に、部分的に人間の権威が通用しますが、あの世(死後の黄泉の世界)では人の権威(知識、能力)が一切機能しない世界だと言えるでしょう。

自分の権威というのは、あってないもの。
。。とも言えるでしょうね。
それが<無>ということかもしれません
何も持たずに生まれて、(しばし、何かを
持ったような気になりつつも)何も持たずに死ぬ。
それが、人間ですよね。
もちろん、向上心を持ったり、小さな喜びや
楽しみを持つこともいいことですが。

テモテ第一 6章6〜8
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。

足りるということを知る、謙虚な気持ちも
大切ですね。
決して禁欲をするわけではないですが。^^
欲が多ければ、不満や嫉妬や失望など、余分な
不利益(負債)がついてくるものですね。
適切な希望を持てば、喜びと満足という、
おまけ(利子)がついてくるとも言えます。
   メンテ
No.71に対する返信 ( No.74 )
日時: 2016/01/22 06:17 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん

> ところで、もともと、赤穂浪士の事を例に挙げたのは、
> 神の裁きについて、神が愛なら、なぜ助けないのか?
> と、いう疑問に対しての自分なりの答えが、赤穂浪士への処罰でした。
>
> 愛と正義の両立です^^

愛と正義が両立することを、説明してくださったのは、
なんとなくわかりました。

神のように完全でない(不当な)専制君主であっても
その国の法律の元に裁きはきちんと受けるように。
神の国が来た時は、神の愛と正義の元で、
裁かれ、許されるということですよね。

人は誰でも、ある国で、恩恵を受けて生きる限り、
国の法律など上位の権威を尊びますよね。
よほどひどい場合は、革命や暴動やデモが起きますが。。
ある程度、秩序が守られたり、利点があれば
よしとする人も多いでしょう。

新渡戸稲造の、武士道は
私も持っています。^^

武士道の教えも、義や礼、仁なども
ただ<伝統><習慣><自分の立場やプライド>など
狭義に縛られるのでなくて、根本的、本質的な教えに目を向けることが大切なのだと思いますね。
何が忠義なのか、何に対して、礼を尽くすのか。

私は吉田松陰が好きですね。 
藩のことだけでなく、日本の未来まで見据えて
思い切った行動(命をかけた行動)をするのは
。。勇気があるものだと思います。
彼も斬首刑になりましたが。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.75 )
日時: 2016/01/23 23:39 (megaegg)
名前: 美紗季♪


ところで私は今、輪廻とかを信じちゃっているので。

私、私の頭の中で考えている事で、誰にも話した事がありませんが。
一度、整理する意味でカキコしちゃいます。
キリスト教のスレに、場違いですが。

=================
地獄や天国、あの世について、たぶん、クリスチャンとか、普通の仏教や神道の人達とは違う考え方をしています。

あの世は、光で包まれた魂の世界があって、その世界は何百、何千といった、いくつもの小世界に別れています。
地獄も天国も、そうやって別れた小世界のひとつに過ぎません。

人は死ねば、その魂の性質に合った小世界に、自ら進んでいきます。
最後の審判とかではなく、自ら、地獄や天国に進んでいくの。
地獄の閻魔とかいませんし、地獄の責め苦もありません。
地獄の方が住みやすい魂もいるの。

その小世界で、同じ性質の魂同士で生活する事で自分自身の欠点を見つめ直して、他の小さな世界に移動したり、この世に生れて試験を受けるの。

切腹や自殺した魂は、その試験を自ら放棄した事になり、次に生まれ変わる時、すぐに死ぬ運命になります。
=================

こんな感じのイメージです。

誰とも相談や議論もした事がありませんが、色々な本を読んだりして、こんなイメージになりました。

地獄や天国の解釈が、世間とは違い過ぎるのw

私の考え方に合った宗教って、どこでしょう??

   メンテ
No.73に対する返信 ( No.76 )
日時: 2016/01/24 17:51 (odn)
名前: いしまる

こんにちは、
仕事がようやく落ち着きレスします。

> この世で、改善や解決が見込まれない時、最後の希望と言えるのが、天の国でありすべての苦しみが消える国が来るという約束でもあるでしょう。
> 医療や心理学では、どうにもできない分野というのが
> 死後の世界であり、そこを支えるのが
> 信仰(宗教や思想)だと言えるでしょう。
イエス・キリストは、マタイ福音書の「山上の説教」で、「天の国」に招き入れられる人はどのような人かを語られたのでしたね。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と・・
この、心の貧しい人々というのは、だれに向かっていわれているのか?

それは精神的、内面的に貧しい状態の人たちをいっているのではなく、聖書を読んでいるクリスチャンや、教会のメンバーに向かっていっているのでもないと、本田神父は言われます。

なぜなら、イエスの前に集まってきたのは、さまざまな病気や苦しみをかかえる人、悪霊につかれた人、発作になやまされる人、具合が悪いあらゆる人たち大勢の民衆がイエスについてきた。そしてイエスはこの民衆を見て、山の方にのぼって行き、人々に説きあかしたわけですね。

イエスの前に集まってきたのは、貧しく小さくされた民衆だったのです。つまり、神とコミュニケーションができる、または試みようとしている、かけがえのない被造物である人間が、心底貧しく小さくされた状態におかれてしまった・・その人たちに向かって、「“神の力”が裏打ちされているから願いの実現のために日々行動し、そして天の国はあなたたちのものですよ」と・・まさしく神の“希望”の言葉ですね。

これは、すべての苦しみが消える国である死後の世界を想う以前に、この希望の言葉は、私たちのすべての願いを集め、清め、天の国へと方向付け、失望することから守り、幸せへと導いてくれるものです。

希望はまた、この世での戦いのときの「武器」とも言えるものですね。さらに、試練のときには、この希望は喜びともなっていきます。私たちの希望は、祈り・・特に「主の祈り」の中に表現されていると思います。

「われらの日毎の食糧を今日も与えたまえ」と、こういうことが根本だと「主の祈り」はあらわしていて、正しい意味での現世利益を目指し、この世が幸せであるべきと表現しているのでしょう。ダスカロスは、この食糧である“糧”を「マインド」のことであり、そのマインドのある状態が、イエスの奇跡を起こす“力”など、生命の働きをあらわす“気”や“生命力”を意味しているといわれます。

> 人は、死を恐れます。
> この世では、一時的に、部分的に人間の権威が通用しますが、あの世(死後の黄泉の世界)では人の権威(知識、能力)が一切機能しない世界だと言えるでしょう。
たしかに、その通りですが、この世では、たとえ貧しくても、権威など皆無であっても、禅など仏教の世界では「もう、これで死んでもいい」という瞬間を手に入れることが可能であり、「生死一如」という生と死は一体であるという境地にもなれるといいますね。
   メンテ
No.75に対する返信 ( No.77 )
日時: 2016/01/24 18:07 (odn)
名前: いしまる

こんにちは。

> 人は死ねば、その魂の性質に合った小世界に、自ら進んでいきます。
> 最後の審判とかではなく、自ら、地獄や天国に進んでいくの。
> 地獄の閻魔とかいませんし、地獄の責め苦もありません。
> 地獄の方が住みやすい魂もいるの。
なるほど・・

でも、キリスト教でも最後の審判の前に、個人の審判があって、それぞれの人にふさわしい境遇で待つとされていますね。その死んだ後の魂が、住みやすい適した世界でそれぞれが待機しているわけです。

世界一のヒーラーで、「20世紀における最も偉大な霊性の教師」とよばれるダスカロスは、実際に“死”というものはないと述べていますね。唯一起こる変化は、肉体を捨て去っていくだけのようです。

ですから、多くの人は、死の過程で起こっている情況に気づいていられず、この世とあの世の区別がつかずに、同じ感情と思考を持ってサイコ・ノエティック界という、感情と思考の世界に存在し続けることになるそうです。

もっともブッダは、死んだ後はどうなるのか、極楽は、地獄はあるのか・・? その問いには「語る意味はない」と言われています。つまり、現在生きている私たちは誰も死んだことがないので、延々と論じたり考えても意味がないと・・。

大事なのは、「生きている今、どう生きるべきか」だけで、理性を働かせて、今をしっかり生きていれば、何も心配することなどはないとブッダは言われます。

> 地獄や天国の解釈が、世間とは違い過ぎるのw
>
> 私の考え方に合った宗教って、どこでしょう??
だから・・人それぞれの死生観があっていいと思いますよ。

私もキリストの信仰者ではありますが、輪廻転生を考えますね・・

このスレでも以前書きましたが、私の死生観、とりわけ死については・・人は火葬にされ、煙になって、分子や原子レベルに還元され、やがて、原子と原子がまた結びつき、新たな物質の一部になっていきます。

骨なども一部は土に還って、また新たな何かになるでしょう。いつか生き物として、動物の一部になるかもしれません。

このようにして、原子分子のレベルでは何かに姿を変え、感情と思考の世界にいる自分が肉体の分子と結びつき、人は輪廻転生し永遠に残っていくものと考えます。
   メンテ
No.76に対する返信 ( No.78 )
日時: 2016/01/24 19:06 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
お仕事お疲れ様です。
体調に気をつけてくださいね。

> イエスの前に集まってきたのは、貧しく小さくされた民衆だったのです。つまり、神とコミュニケーションができる、または試みようとしている、かけがえのない被造物である人間が、心底貧しく小さくされた状態におかれてしまった・・その人たちに向かって、「“神の力”が裏打ちされているから願いの実現のために日々行動し、そして天の国はあなたたちのものですよ」と・・まさしく神の“希望”の言葉ですね。

この世では、小さくされたもの、軽んじられている人を
神様は決して軽んじはしませんね。
その人たちの心を見られ、苦しみを理解されていると
思います。

キリストがこの地で、天国の片鱗を見せてくれた
こと(病気の癒し、精神的、霊的解放)で
天国への希望を持つことができますね。

神様は、聖霊を通して、そして、人の手(福音)
聖書を通して、救いの道を知らせています。。

人の手が届かないところでも、聖霊という手段が
あります。(旧約の人や預言者などは、旧約聖書など
書物がない時代にも神と交わっていましたね。)
多くの人に対しては、人の手<福音>、聖書によって、
神様の事を知らされています。

> これは、すべての苦しみが消える国である死後の世界を想う以前に、この希望の言葉は、私たちのすべての願いを集め、清め、天の国へと方向付け、失望することから守り、幸せへと導いてくれるものです。

多くの病にある方、この世で解決不能の問題を
抱えているクリスチャンにとっても、、
(現実逃避ではなくて)現実を受容して、
絶望せずにこの世の生を全うするためにも、
天国の希望を持つこと、信頼することが
鍵だと言えるでしょう。

よく神様を信じる人は、弱い人と言われますが^^
人は、本来弱いものですよね。
弱くても、この世で生きていくためには、
希望と信頼と愛(思いやり)が必要です。

第二コリント 12章9〜10
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

負け惜しみや、強がりや、現実逃避ではなくて、
弱さを受け入れ、前向きに、天国への希望を
持って生きることが、クリスチャンの生き方だと
思います。^^

> 希望はまた、この世での戦いのときの「武器」とも言えるものですね。さらに、試練のときには、この希望は喜びともなっていきます。私たちの希望は、祈り・・特に「主
の祈り」の中に表現されていると思います。

はい、愛、希望、信仰は大切ですね。

正しい意味での現生の利益^^
そうですね、過剰な欲を満たすものではなくて、
必要なものを満たし、霊(魂、精神)を
満たすことが、大切ですね。

> たしかに、その通りですが、この世では、たとえ貧しくても、権威など皆無であっても、禅など仏教の世界では「もう、これで死んでもいい」という瞬間を手に入れることが可能であり、「生死一如」という生と死は一体であるという境地にもなれるといいますね。

生に対する執着や恐れを捨てるという境地ですね。
それも、安らぎともなると思いますが、
それは、死後の世界がない、神など全能の方はいない
という考えが前提にありますね。

聖書では、欲や執着を捨てるというより、
正しい欲求や、正しい愛着(神への愛や、正しい依存、
属性)を認めています。

罪というのは、<的外れ>という意味合いがありますので
人が、罪により、的外れの利己的な欲求を
求めてしまうところに、苦しみが生じるとも
言えますね。

箴言 17章3節
銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主

それぞれが、神に心を見られ、試され
成長することが望まれていると思います。

それぞれの賜物、能力や背景は違いますから、
人と比べるのでなく、自分を神との関係を
見て、純度を高めていけることを願っていると思います。

   メンテ
No.75に対する返信 ( No.79 )
日時: 2016/01/24 19:16 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん
寒い日が続いてますが、喘息は大丈夫ですか。
呼吸器系は苦しいですよね。

私は以前(子供の頃から20代前半くらいまで)
アレルギー性鼻炎と蓄膿症があって、
鼻風邪を引くと、非常に寝るときにも息苦しく、
鼻をかみすぎて、鼻の皮がむけ TT
憂鬱なことがありました。
幸い20代から、だいぶ改善しました。

> ところで私は今、輪廻とかを信じちゃっているので。
そうでしたね。
輪廻を信じている方は、多くいらっしゃいますね。

> 地獄や天国、あの世について、たぶん、クリスチャンとか、普通の仏教や神道の人達とは違う考え方をしています。
いろいろな、考え方がありますね。

> 人は死ねば、その魂の性質に合った小世界に、自ら進んでいきます。
> 最後の審判とかではなく、自ら、地獄や天国に進んでいくの。
> 地獄の閻魔とかいませんし、地獄の責め苦もありません。

なるほど。

> 誰とも相談や議論もした事がありませんが、色々な本を読んだりして、こんなイメージになりました。
神秘系のものや、スピリチャル系、ニューエイジ系の
ものでしょうか。

> 地獄や天国の解釈が、世間とは違い過ぎるのw
> 私の考え方に合った宗教って、どこでしょう??

いわゆる既存のキリスト教や仏教などよりも、
スピリチャル系、ニューエイジ系になるのかもしれ
ないですね。

どこかの宗教(組織)、または具体的にそういう
団体があるかどうかは。。私はわかりません^^

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.80 )
日時: 2016/01/24 21:31 (megaegg)
名前: 美紗季♪


アレルギー性喘息の改善の為、
100%の黒豆茶を常飲しています。
よく鼻水が出ていたのですが、すっかり改善してしまいました。

↓黒豆茶は、色々なメーカーを試しましたが、これを常飲しています。他は効果があまり無いw
 http://www.soukai.com/P8345667/p.html?utm_source=pla&utm_medium=google_productad


スピリチャル系、ニューエージ系なのですね。
そうかも〜 そういうの好きなの。

もっとも、あの世とか地獄の解釈とかについて、そういう分野の人達は、説明していませんがw

今、深入りは辞めておきます^^


   メンテ
No.80に対する返信 ( No.81 )
日時: 2016/01/24 22:49 (megaegg)
名前: 美紗季♪


>
> スピリチャル系
>

ググっただけで、地獄の解釈がw

ニューエイジ系が、日本に来て、日本独自のスピリチャル系が発展したみたいw


仏教の様な地獄/天国を披露している処がいっぱいw


あまり関わりを持たないほうがよさそうです^^;


   メンテ
No.43に対する返信 ( No.82 )
日時: 2016/01/25 11:08 (ocn)
名前: よそもの

> > また、私自身は、バイセクシャルです。
> そうなのですか。
> 成人になられてから、なられたのですか。
>
> クリスチャンのなかにも以前、
> 犯罪を犯していた人、淫行や姦淫の罪にあった人
> (不倫、離婚、再婚)、同性愛の傾向が
> あった人など、様々な人がいます。
>
> 神様は(聖書の教えでは)殺人や姦淫、同性愛は罪だと
> 仰っています。
> ただ、私たちクリスチャンは、何かしらの
> 罪を数多く犯してきた人間ですし、
> クリスチャンになっても、小さな罪を犯してしまい
> (罪に気がつかされ)悔い改め、成長する過程にいます。
> (罪はゆるされて救われてはいますが、
> 罪を一つも犯さなくなるわけではないですからね^^)
>
> 今、罪を犯してしまう人を、おもむろに攻撃する
> つもりはありません。
> (犯罪を犯す人は、法的に拘束される
> 必要がありますが。。^^)
きき様、皆さま、はじめまして。

横からのレスですみません。
ちょっと思ったことを言わせていただきたいのですが。
多少、古い話題に対してのものになりますが。


現ローマ法王フランシスコは同性愛者への理解を以前から示していて「同性愛者を裁く立場にない」と言われています。

カトリックの中でも少なからず同性愛者に対して「擁護派」もいることも現実のようです。
バチカン内でも意見が多かれ少なかれ割れるのですから、ききさんのおっしゃっていることはあくまで、ききさんのキリスト教、聖書、に対しての「個人的意思に基づいた」解釈、信仰なのかなと思うのと、キリスト教徒が皆ききさんと同じ宗教観、解釈ではないのでは?というふうにも捉えています。(カトリック、プロテスタントなど、他様々な教派があるように)

なので、美紗季さんが「ききさんの発言=キリスト教全体の意思」と受け取ることは必要ないように思います。
もう、解決されているというので蛇足かもしれませんが。

-------------------------------------

これは決してききさんを非難しているわけではないということをご理解くださいね。あくまで、私個人の主観です。
   メンテ
No.82に対する返信 ( No.83 )
日時: 2016/01/25 16:58 (dip0)
名前: きき

よそものさん
初めまして

> 現ローマ法王フランシスコは同性愛者への理解を以前から示していて「同性愛者を裁く立場にない」と言われています。
ローマ法王の発言は、多くの福音主義的な
保守的な教会の牧師や信徒は、疑問視してます。

そもそも、ローマ法皇が、キリスト教の
代表者とは、プロテスタントの多くのクリスチャンは
は認めていません。^^
教会、そしてクリスチャンの主は、キリストであって、ローマ法王ではないからです。

コロサイ一章8節
<また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。>

神が罪と定めたことを、変更する権利は法皇にはありません。 それは越権行為です。
<裁くのは神>であって、法皇でもクリスチャンでも
ないという、基本的な聖書の教えすら無視しています。

第二テサロニケ 2章3〜4節
 <だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。>

神の権威や教えより、自分の権威の方が上だというのは、<反キリスト>の精神と言えるでしょう。
自分が神に成り代わり、神の権威を軽んじ、
善悪を決める知識や権限を持てると、高慢な考えを持つことはサタンの特徴(願望)であり、人間の罪の根源でもあります。

カトリックでも、プロテスタントでも同性愛以外にも、聖書では罪とされていることに対して、擁護をしたり、許容しているところもあるのは事実です。

もちろん、完璧で絶対に正しい教会(組織)も、完璧な信徒もいませんが、できるだけ、神様に忠実でありたいと
願う人はいます。

> バチカン内でも意見が多かれ少なかれ割れるのですから、ききさんのおっしゃっていることはあくまで、ききさんのキリスト教、聖書、に対しての「個人的意思に基づいた」解釈、信仰なのかなと思うのと、キリスト教徒が皆ききさんと同じ宗教観、解釈ではないのでは?というふうにも捉えています。(カトリック、プロテスタントなど、他様々な教派があるように)

はい、その通りです。
私は、プロテスタント系、自由福音系の教会に通っておりますが、基本的な傾向としては<福音系>と言われる教会は、ヴァチカンや教会<組織>ではなくて、神の教えである<聖書>を重んじており、この世の傾向に流されずに、神様の基準を尊びたいと願う傾向にあります。

そういう保守的なクリスチャンは最近では、<原理主義的><偏狭>などと誤解され、非難されることも
あるほどです^^
(誤解のないように、多くの保守的なクリスチャンは
同性愛の方や、他の宗教を信じる人、個人に攻撃的ではありません。ただ神の権威を認め、従いたいと思っているだけです。
一部の、過激な人もいて、それを取り出されることも
ありますが。)

> なので、美紗季さんが「ききさんの発言=キリスト教全体の意思」と受け取ることは必要ないように思います。
> もう、解決されているというので蛇足かもしれませんが。

多分、それは、ご理解されていると思います。
一部、同性愛の方の洗礼を受け入れたり
同性愛を罪と意識しないまま牧師になっている人もいますが、それはそれで、おそらく美紗季さんも、偽善(欺瞞)だとご理解されていると思います。

罪を憎んで人を愛さず、罪は許容されませんが、
人は愛し、赦されるのが神です。
そのために<赦し>と<悔い改め>があるのです。

> これは決してききさんを非難しているわけではないということをご理解くださいね。

もちろん、それは理解してますよ^^
私のような保守系は、クリスチャンでも
<多数派>ではないと理解してます。

キリスト教世界で、背教が起こることは
すでに聖書に預言されていますし、
神を愛するより、この世を愛し、この世から好かれることを(寛大だと思われること)望む、キリスト教会(組織)や、信徒もいることも事実です。

ヨハネ第一 2章15
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

隣人愛は大切ですが、この世を過度に愛して
神から離れることは、好ましくないと思います。

マタイ22章37〜39
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


   メンテ
ききさんへ ( No.84 )
日時: 2016/01/25 17:50 (ocn)
名前: よそもの

ききさん、早速のご返答ありがとうございます。
どういうお考えなのかなあと思い質問させていただきましたが・・・。
良くわかりました。ありがとうございました。
   メンテ
No.83に対する返信 ( No.85 )
日時: 2016/01/26 20:05 (megaegg)
名前: 美紗季♪


>
> > なので、美紗季さんが「ききさんの発言=キリスト教全体の意思」と受け取ることは必要ないように思います。
> > もう、解決されているというので蛇足かもしれませんが。
>
> 多分、それは、ご理解されていると思います。

私自身、それなりに勉強していました。
もちろん理解しています。

> 一部、同性愛の方の洗礼を受け入れたり
> 同性愛を罪と意識しないまま牧師になっている人もいますが、それはそれで、おそらく美紗季さんも、偽善(欺瞞)だとご理解されていると思います。
>

私自身は、同性愛者が牧師になってもいいとは思います。
(もちろん矛盾は感じます)
例えば政治家は、清廉潔白であるけど、国家運営が苦手な人より、
上手く国家を運営する人であるなら、汚職まみれでもかまいません^^

たしか、聖書に、売春婦を使って予言を成就させる話があったかと。




   メンテ
No.85に対する返信 ( No.86 )
日時: 2016/01/26 23:11 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん
こんばんは

> 私自身は、同性愛者が牧師になってもいいとは思います。
> (もちろん矛盾は感じます)
> 例えば政治家は、清廉潔白であるけど、国家運営が苦手な人より、
> 上手く国家を運営する人であるなら、汚職まみれでもかまいません^^

牧師というのは、教師の立場だけでなくて、
信徒を教え、霊的に養うという立場です。
この世の政治家や経営者とは、またちょっと違います^^

教える能力も必要ですが、信頼される人
(信頼関係を築きやすい人)である人で
あったほうがいいでしょう。
教師と言っても、塾講師ではなくて、
生徒の生活など、精神面にも気を配る
小中学校の先生のような感じと言えるでしょう。

聖書にも 監督者としての
資質、牧師のあり方として、このような章があります。

第一テモテ 3章2〜5節
ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし
教える能力があり酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、
自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。
(多くの教会では、結婚している人が、牧師としての
職についています。 独身がダメなわけではないですが
家庭を収めることを知っているのと、知らないのでは
やはり信徒の扱いも違ってくるでしょう。
信徒は、従業員ではなく、兄弟姉妹ですからね。)

牧師の仕事は(自営業の人など同様)責任も重く、精神的なプレッシャーもありますので、配偶者など家族のサポートも必要と言えます。
牧師婦人などが率先して奉仕の仕事などに
つくこともありますからね。

2章6〜7節
また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
(教会をまとめる人ですから、信仰がしっかりと
した人であり、教会外の人にも良い評判を得る人、
信頼される方が良いと言えます。)

テトス1:9
教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。

神が罪だと定めていることを、罪と認めてない
状態で洗礼は受けれないですし、牧師になるのは
勧められません。
信徒や求道者に、罪を悔い改めて、神の許しを受け取りましょうとは言えませんからね。。

ただ、神は罪を赦されます、神は愛です。。
では、聖書の教えの<やわらかい部分>だけを
切り売りすることになります。
神の言葉の、ミルクのような部分だけを、
取り入れる人が、教師(牧師)になるのは、
危険です。 硬い食物も理解し、受け入れられる
人でないと、教師にはならないほうがいいものです。

教師(牧師、司祭、長老)というのは、
特に厳しい神の裁きを受けると書かれています。
牧師は、信徒への責任以前に、神に対して
信徒以上に責任がある立場にあります。

ヤコブ3:1
私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

> たしか、聖書に、売春婦を使って予言を成就させる話があったかと。

それは、私にはわかりません。^^
ミリアム(モーセの姉)
デボラ、フルダは、ある人の妻でしたし、
また、イエスの時代のアンナ(やもめ)などは
いましたね。

娼婦であった人というと、
エリコの町で、イスラエルの兵士をかくまって
神を信じて助けられた、ラハブなどはいますね。

もしくは、サウロが、神の教えに反して
口寄せ(霊媒)の女性を呼んだという
記述がありましたね。
死者の霊を呼ぼうとした(預言者サムエル)
こともありますね。
預言者が神のことばを伝えるのは、預言ですが
霊媒の人(霊能者など)がいうことや、その他の場合は
予言になりますね。

予言というのは、当たらないこともあれば
時にあたることもありますね。
(悪霊も、いつも嘘をつくのでなく、
本当のことを、言うこともあります。
人の未来を、限定的に知っていることもあるでしょう。)

   メンテ
No.78に対する返信 ( No.87 )
日時: 2016/01/27 16:19 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

> 多くの病にある方、この世で解決不能の問題を
> 抱えているクリスチャンにとっても、、
> (現実逃避ではなくて)現実を受容して、
> 絶望せずにこの世の生を全うするためにも、
> 天国の希望を持つこと、信頼することが
> 鍵だと言えるでしょう。
クリスチャンにとって、天国というものは実在するものなのでしょう・・

“死”とは、ちょうど、さなぎが蝶になる時のようなもので、さなぎの殻を脱ぎ捨てて蝶が飛び立つように、肉体という殻を脱ぎ捨てて、天国へ飛び立っていく・・というイメージなのでしょうね。

では、その天国とはどこにあるのでしょう?

まず、神は、私たちの中に、そして他のあらゆるところに、存在するのだそうです。そして、天の王国は、人々ひとりひとりの内側にあるといわれます。

ブッダも「何年もの間、私は神を探してきたが、ついに彼を発見した・・それは、私たちの中におられる」と弟子に同じ内容を答えていますね。

そして、天国は、私たちはすべては一つであるという状態、すべてが一つに繋がっている状態である「ワンネス」の中にあると・・そして、誰でもこの「ワンネス」の世界に入らなければ、自分の「霊-魂-存在」「本当の自分」の中にある天の国に到達することはできない。キリストもこのことを教えているそうです。

これらの天国については、ダスカロスの言葉ですが、ミケランジェロによる絵画『最後の審判』や、日本では地獄設定の元になった源信の『往生要集』、さらに、ダンテの『神曲』など、「天国」や「地獄」の存在というものは、絵画や文学によって想像の誇張されたイメージだけのものではないことは確かなようです。

> 生に対する執着や恐れを捨てるという境地ですね。
> それも、安らぎともなると思いますが、
> それは、死後の世界がない、神など全能の方はいない
> という考えが前提にありますね。
「もう、これで死んでもいい」という瞬間というのは、生に対する執着や恐れを捨てるというよりも、生の苦しみに打ち勝ち、さらに、生きている喜びに満ちて至福の状態にもなれるわけですね。

たしかに、ブッダは神など全能の方など絶対者の存在を認めなかったから、そこには信仰の対象というものがありません。

絶対存在に救いを求めるキリスト教でも、死後の世界があると信じるからこそ、今の生命を、なおさら大切にし、死後に天国が用意されているからこそ、今生きているうちにも喜びに満たされる生き方ができるのでしょう。

最後に・・同性愛は、聖書の教えに反するとか、一方で、同性愛を肯定的にとらえるキリスト教徒もおられるようですが、これは、教会や教派による立場としての考えではなく、あくまでも個人のクリスチャンとしての立場で同性愛をどう捉えるかが重要ですね。

私としては、前にも言ったとおり、同性愛者は神がそのようにつくったのであるから、異性愛者と同じように祝福されていると考え、教会が同性愛者を受け入れるのはもちろん、同性愛者の聖職者がいても、むしろ自然であると私は思いますね。
   メンテ
No.87に対する返信 ( No.88 )
日時: 2016/01/27 17:44 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは
> クリスチャンにとって、天国というものは実在するものなのでしょう・・
そうですね。
単なる妄想ではないです^^

> “死”とは、ちょうど、さなぎが蝶になる時のようなもので、さなぎの殻を脱ぎ捨てて蝶が飛び立つように、肉体という殻を脱ぎ捨てて、天国へ飛び立っていく・・というイメージなのでしょうね。
はい、そういう説明もありますね^^

> では、その天国とはどこにあるのでしょう?
天国は、今の私たちの目では、見えませんが
それほど遠くにあるわけではないと言えます。
人間の<目>に見えるものは、限られていますよね。^^

> まず、神は、私たちの中に、そして他のあらゆるところに、存在するのだそうです。そして、天の王国は、人々ひとりひとりの内側にあるといわれます。

天の国が到来するまで、この地上においても、
神の愛と信頼による<平安>という意味で、
、内側(内面)にもありますし
愛あるところに、神がいるとも言いますので、
現実にも、一部分として天国の<影><さわり>のような
ものを体験はできます。

しかし、本物の天国は実際にあり、また天の国が
到来した時には、そのような<部分的な天国>
はなくなるといえます。

神様につながらなければ、神と和解しなければ
霊によって生きることができない、天国にはいけない。
とも言えますね。

> 「もう、これで死んでもいい」という瞬間というのは、生に対する執着や恐れを捨てるというよりも、生の苦しみに打ち勝ち、さらに、生きている喜びに満ちて至福の状態にもなれるわけですね。

生きることに対して、苦しみだけでなくて
喜びを見出すことができる。
それは、過度の執着をなくして、本当の必要や
満足を満たした時だと言えますね。

> 最後に・・同性愛は、聖書の教えに反するとか、一方で、同性愛を肯定的にとらえるキリスト教徒もおられるようですが、これは、教会や教派による立場としての考えではなく、あくまでも個人のクリスチャンとしての立場で同性愛をどう捉えるかが重要ですね。

教派でも、必ずしも、個々人の牧師や信徒の
考えが同じわけではないですね。
人がどう解釈するかよりも、最も大切なのは、<神が罪とされるかどうか>ですからね。

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.89 )
日時: 2016/01/27 18:33 (dip0)
名前: きき


> 私としては、前にも言ったとおり、同性愛者は神がそのようにつくったのであるから、異性愛者と同じように祝福されていると考え、教会が同性愛者を受け入れるのはもちろん、同性愛者の聖職者がいても、むしろ自然であると私は思いますね。

いしまるさんが そのように捉えているのは
尊重します。

時には、神父や牧師や信徒の中にも、
神がそのように作ったという考えを持っている
人もいますが、私や、その他の牧師や信徒は
そうは考えていません。

神が人間を造られた時は罪がありませんでした。
病気もなく、障害もなかったわけです。
(天国では、病気や死は無くなるとあります)

人の命は、確かに神からの授かり物です。
牧師や信徒の中には、病気や障害を神から頂いたものと
言われる方もいますが、それは少し違うと思います。
その説明では、かえって、神様に対して、怒りや
疑問を感じる方もいると思います。

神様は、罪の結果として、病気や障害が
生じることを、今は<許しておられる>と言えます。
なぜなら、それが人が神の恵みと支配から離れたことで
生じたことであり、罪の結果だからです。

しかし、そのまま因果応報だと放置するのではなくて、
神は愛のあるお方ですので、イエス様を通して、罪からの救い、天国の道を備えてくださいました。

神様は、障害や病気があっても、それを<受け入れ>
その中でも、希望や喜びを見出すという道を
備えてくださいます。
(必ずしも、奇跡によって癒されるとも限りません)

盲目の人に対して、イエス様が癒された時、
彼は、なぜ盲目なのか?と弟子に聞かれた時に。
ヨハネ9章3節
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
とおっしゃいました。

病気や障害の癒しがあるときもあれば
ないときも(現在は)ありますが。

しかし、たとえ障害や病気があっても神の業が現れ
(神の愛、神への愛と信頼)その中で、希望を持って生きることも可能です。

同様に、異性への愛の過度の依存により、
姦淫や淫交をする人や、同性愛の傾向があっても神の業が現れ(自分や人間への利己的な愛より、神への愛が強くなり)、異性への愛への依存や、同性愛の傾向から救われることも可能なのです。

それを、<不可能>だと思ったり(信じたり)、
それらの傾向を神や聖書が<罪>だと言っても
自分は<罪>だと認めたくなかったり
罪と言われていることを、正当化(罪ではないと
自分が判断したい)したい場合は、
<変わりたい>とも、<変わるべき>とも。。思わないのでしょう。

そして、神様がそういう風に作ったのだという
<責任転嫁>の論調になります。
最初にイブが蛇のせいにし、アダムがイブのせいにし
はたまた、イブを与えてくださった神様を
責めたように。。
人は、自分の罪(犯した間違い、判断の誤り)を
正当化するために、責任を転嫁するという傾向が
始めの時からあります。

罪は、<的外れ>とも言います。
的外れの、言い訳、自己弁護、罪の正当化。。
をするのは、聖書を読まない人だけでなく、
聖書を読んで神を信じているはずの。。
神父や、牧師、信徒の中にもいます。

第二テモテ4:3〜4
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

人は、耳に心地よいメッセージを聞きたがります。
でも、聖書の教えや、神の愛や義は、そのような
ものではないです。

教会が同性愛者を受け入れるというのは、
礼拝に参加することは、もちろん歓迎します^^
離婚歴がある人、未婚の母や父も同様です。

例えば、異性愛者の場合でも、<異性に関心がある>
性的な欲求も、人間ですからある。。ということがあるのは、当たり前のことですよね。
しかし聖書では淫交や姦淫を、罪とされていますから、
その教えを受け入れられない場合は。。
やはり、クリスチャンになることに、戸惑いを
感じるものです。
若い方は特に、クリスチャンになる決心がつかないこともあるでしょう。
いわば、神への献身とは、神への愛を誓うことでもあり
<結婚>と考えられます。
責任のない、自分の欲求を満たす恋愛だけをしたい人は、結婚はしたがらないものですよね。
洗礼を受けるにも、<時>があります。

同じように、同性愛の傾向(思考)がある人も
教会に受け入れられることは可能ですが、
同性愛行為を、罪と受け入れない場合は、
クリスチャンになることは、本人も葛藤や
迷いがあるでしょうから、できないでしょう。

同性愛者の聖職者がいることが<自然>というのは、
いしまるさんや、聖書を<神のことば>であると
信じてない方が思われることだと思います。

またはクリスチャンでも、神の愛と、
人間の世の愛<ヒューマニズム>とを混同している人の
主張と言えるでしょう。
神が愛だけでなく、義、公正、聖なる方であることを
忘れてはいけません。

コリント第一 6章9〜10
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。
不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

神様が、偶像礼拝者や姦淫をするように、人を
つくったわけないように、同性愛者を作ったわけではないのです。
人は、それぞれ、自分の罪の傾向(利己愛、神より
自分を愛する、利己的な目的で宗教や神々を
つくって拝む。)によって、罪を犯します。
それを、神がそのようにつくったというのは、
責任転嫁であり、冒涜とも言えるでしょう。

ローマ人への手紙第1章26−27節
「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」。

自然の関係を、不自然なものにかえ。。とあります。
神から見て、同性愛は、<自然>ではなく、
神様が、同性愛者を作られたとは、考えることは
無理があります。

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.90 )
日時: 2016/01/28 00:39 (megaegg)
名前: 美紗季♪

ききさんへ

聖職者の同性愛者の問題で、反発されておられますが。
当然と言えば、当然ですが^^

そもそも、私の個人的な見解として、述べただけです。

聖職者は、確かに、みんなの見本となる様な人物がなるべきです。


ところで、政治家を引き合いに出して、比較したのは、聖職者を貶めようと思ったわけではりません。

聖職者も、政治家も、皆の支持が得られてこそ、その地位に就いています。実力が無ければ、皆の支持を失い、皆、離れていくでしょう。

人間の世俗的な社会においては、聖書にそぐわなくても、実力があり、支持されるなら、その地位に就く事が出来ます。

その事に対して、聖書的な見解として否定しているききさんと、世俗的な価値観としての肯定をしている私とでは、平行線になるだけです。

このスレは、キリスト教ですので、世俗的な見解を述べたのは、間違っているのかもしれませんが。







   メンテ
No.90に対する返信 ( No.91 )
日時: 2016/01/28 05:40 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん

> 聖職者の同性愛者の問題で、反発されておられますが。
> 当然と言えば、当然ですが^^
> そもそも、私の個人的な見解として、述べただけです。
神父や、牧師やクリスチャンの中でも
肯定派、擁護派の方もいますので、そのような
意見があることは私も理解しています。

ただ、私や、保守派の<主に福音系>は、反対意見、
懐疑的な意見もある事をお伝えしようと思いました。

もちろん、それに対して、やっぱり不寛容だな、と
多くの方は感じることも承知ですし、でもごまかしは
いけないと思いましたからね^^

> 聖職者は、確かに、みんなの見本となる様な人物がなるべきです。
完璧な人はもちろんいませんができるだけ、表立った罪のうちにいない人を、牧師や伝道師にした方が良いとは思います。

> ところで、政治家を引き合いに出して、比較したのは、聖職者を貶めようと思ったわけではりません。
> 聖職者も、政治家も、皆の支持が得られてこそ、その地位に就いています。実力が無ければ、皆の支持を失い、皆、離れていくでしょう。

聖書にもあるように、
実力、と言いますか、信頼を得られるような
人柄、物腰、言動、態度を身につけている
ことは、必要ですね。

謙虚さを持ちつつも、尊敬され、慕われる
牧師になるのは。。大変なことですよね。

信徒側も、牧師をある程度尊重する態度や
協力も必要だとは思います。

> 人間の世俗的な社会においては、聖書にそぐわなくても、実力があり、支持されるなら、その地位に就く事が出来ます。
キリスト教の世界でも、いわゆる、有名な牧師や
伝道師などもいますね。
いわゆる<カリスマ>のある牧師や、
何万人規模の礼拝をするところもありますね。

また、そういう牧師や伝道師でも天狗になってしまって
道を外してしまう人もいれば、誠実な
活動を続ける人もいますね。

私もネット礼拝などや、解説は読んだりして
参考にはします。
例えば、聖書入門ドットコムの、中川牧師
聖書と福音の、高原牧師
牧師の書斎の 銘形牧師などですね。

> このスレは、キリスト教ですので、世俗的な見解を述べたのは、間違っているのかもしれませんが。

そんなことはないですよ。^^
キリスト教の世界でも、福音系の保守派は、
カトリックの一部の方や自由主義神学クリスチャン
から見れば、<寛容でない>と思われることもあります。

ですから、クリスチャン以外の方から
疑問があるのは、当然のことですし、見解の違いがあるのは当たり前のことでありおかしいことではありません。

いろいろな違いを知ることも、
大切でしょう。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.92 )
日時: 2016/01/30 00:06 (megaegg)
名前: 美紗季♪


ふ〜〜ん、るんるん♪
ちょっとうれしいかも^^

ききさん、気が付いてるかな?
あなたの今回のレス、聖書からの引用がないの^^


ところであなたは、(No.86では)個人的な意見としてと言いながら、聖書から引用していたよね。
言葉の裏付けとしてとしての威力はあるけど、聖書から引用した時点で、個人的な意見では無くなっているの。

学術的な裏付けはあるけど、公的な意見になるし、きつい感じにもなります。

熱心なクリスチャンの方との会話の時、人によりますが、個人的な会話の時ですら聖書からの引用をされるので、疲れちゃいます。と、いうか引いちゃいますw

あなたの生の本音を喋ってよ〜!!


って、心の中で叫んじゃていましたw
そういう人、一人だけじゃ無かったのよね〜
で、絶対、こういう人間にはなりたくは無いと。そうなるぐらいなら死んだ方がマシって思うぐらいw

で、とりあえず、今回のレス、引用がなかったし、他のレスでも引用が無いので、ホッとしています^^

   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.93 )
日時: 2016/01/30 04:19 (dip0)
名前: きき

美紗季♪さん

ここでは、聖書とその解釈について、お話をしているので
私という一クリスチャンの聖書の解釈を
述べる際にも、聖書の言葉を言うのは、
どうしても必要です。

ほとんどの人が思っている、<個人の考え>というのも
何かしら、誰かの影響を受けているものですよね。

私にとって(または他のクリスチャンでも
同じような方もいると思いますが)は、神様の言葉というのは、ただの<本><宗教書の言葉>ではなくて、
言わば、霊的な父であり、友であり、人生のメンターや
カウンセラー(癒し主)のような存在でもある方の、
愛ある言葉や励まし、戒めなのです。

多分、聖書の言葉を引用すると<私個人の言葉>に
聞こえない。。という意味合いなのでしょうが^^
私の本音を言ってないわけではありません。
自分の価値観の元として、それを
説明するときに、どうしても引用するのは、
やはりクリスチャンだからでしょうね。。^^
言わば、クリスチャン独自(特有)の<表現方法>
とも言えます。

例えるなら、スポーツの好きな人は
スポーツ用語を使うことがあったりしますよね。
(スポーツに興味がない人は、ピンとこない
でしょう。)
または、2チャンネルや、ネットをよく利用する人は
独特の言葉を使う人もいますよね。
(中傷的な言葉も多いので、好きでない人も多いでしょうし、私自身よくわからないネット用語もありますが。)

言葉は、人とその人の考えや価値観を表すものであり、
その人にとって何が大切なことなのか、
どこからの影響が強いのかが分かるものです。
その人の考えを知るためにも、言葉は参考になります。

聖書の言葉を引用すると、<自分の考えではない>と思われたり<きつい>と思うこともあるのは、
それは、信仰を持っている人にたいして
自分の考えがない(宗教の教義を鵜呑みにしているのでは?)という、思い込み、誤解があるから
なのではないでしょうか?

例えば、家族がいる<会社、国でもいいですが>
場合、自分の考え(主観、願望)があっても、家族<会社、国>の全体の幸せや、長期的な視野で考えて
この方がいいと思えば(納得すれば)、
自分の考えを<調整>して、<主体的>に、自分の
欲求や願望ではないことでも、受け入れることが
ありますよね?
<自分の考えがない>のではなくて、あるけれども
自分の考えが、<正しいわけではない><賢明とは言えない>と納得すれば、考えを改めるものです。

そういう思考の<過程>があるわけであって、
単に神様の教えに<受け身>でいるとか、何も
考えずに<言いなり>になっているのでは
ないのです^^
積極的従順であって、盲信や盲従ではないのです。

また、聖書は特に<罪>に関して述べているので、
あまり好まない方もいることでしょう。
隣人愛、赦しなど、優しい部分は好きでも、
罪や裁きなど、厳しい部分については、受け入れられないこともあるでしょう。

例えばそれを聖書から説明するときには
(聖書の言葉を使うのは、お好きではないようですが)
ヘブル 4章12節
<神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。>

とも、言えるわけです^^
クリスチャンに取っても、必ずしも最初からすべての言葉が甘いわけでも、耳に心地よいわけではありません。
赤ちゃんがミルクを飲み、離乳食になり
少しずつ、硬い食物や、大人になれば、辛さや苦さや
渋みのある食物も食べられるようになるように
神様との信頼関係が育って、自分も成長するうちに、
硬い霊的食物(聖書の教え)ものや、最初は耳に痛いものも。。受け入れられるようになるんです。^^

いつも聖書の言葉を用いるわけではないですよ^^
聖書やキリスト教についてのお話をするとき、
くらいです。
クリスチャン同士で、または、信徒でない方と
このような聖書についての話し合いの時に
使うものです。

個人的な会話(内容によりますが)で聖書の言葉をいうのはクリスチャン同士でも、ないと思うのですが。。色々な方がいますからね。

聖書の言葉を会話に引用する人間になりたくない。
そのように考えるのも個人の自由だと思います。

人にはそれぞれ、自分が大切にする
考えや生き方、価値観がありますからね。^^
   メンテ
No.89に対する返信 ( No.94 )
日時: 2016/01/30 16:07 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

> 神様は、罪の結果として、病気や障害が
> 生じることを、今は<許しておられる>と言えます。
> なぜなら、それが人が神の恵みと支配から離れたことで
> 生じたことであり、罪の結果だからです。
まず、同性愛というのは、はっきりと「罪」だと聖書は語っているのですね。

聖書によれば、旧約ばかりでなくて、新約聖書にも、同性愛は「恥ずべきこと」だとして断罪されているのでしょう。そこで、人はその罪をしっかり認め、受け入れ、悔い改めることにより罪が赦されるのですね。

しかし、まず、すべての同性愛は後天性で、人の生育歴の中で形成されたものであり、先天性の同性愛はありえない、という十分な科学的データはないように思います。

「先天性の同性愛はありうる」という可能性は想定すべきだという考えから・・No.55で、すべての女性には、アニムス(animus)という、男性的な側面の無意識の人格が存在するという心理学の例を出しました。

私たちの肉体は、聖霊と創造主によって最も賢明に創り上げられたものですが、それとは逆に、私たちは彼らの創造的作業を妨げ、現在のパーソナリティーとしてエゴイズムに満ちた生活を送ることで肉体に病や障害を招いています。

私たちは生命が何であるか、肉体と霊的存在で生きるのがどのようなことなのかを理解せず、(私自身も理解できていないところが多いです)人生に不満足で、多くの自殺者を出し、極まりない悲惨や痛みや病となって現れています。

これらはすべて、「われらの日毎の食糧を今日も与えたまえ」の、正しい意味での現世利益を誤用し、この“糧”をあらわす、“力”など、生命の働きをあらわす“気”や“生命力”の使い方を間違えているからだとダスカロスは言われます。

> 同性愛者の聖職者がいることが<自然>というのは、
> いしまるさんや、聖書を<神のことば>であると
> 信じてない方が思われることだと思います。
そうですね、私はまだ、聖書の神のことばに対して、底が浅いですね。

ただ、私が、同性愛者の聖職者がいても、<自然>であると言ったのは、自然は“じねん”ともいって、人の力ではどうにもならない人為を離れた法則がはたらき、ものごとは人の考えが及ばない因果応報がはたらくものだと感じたからですよ。

でも、キリスト教がすごいと思うのは・・こういった原因と結果の法則は、イエスを通して、悔い改めや償いによって罪からの救いなどで、カルマという結果としての“業”といったものを超越することも可能であることですね。
   メンテ
No.94に対する返信 ( No.95 )
日時: 2016/01/30 21:00 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

> 「先天性の同性愛はありうる」という可能性は想定すべきだという考えから・・No.55で、すべての女性には、アニムス(animus)という、男性的な側面の無意識の人格が存在するという心理学の例を出しました。

先天性というのは、いわゆる
病気や障害のように捉えるということですね。

人間の考える、女性的な側面男性的な側面、人格というのも、人が神様の形として作られているので、存在するものだと言えるでしょう。

いわゆる(人間のイメージする)父性的な愛
厳しさもある愛(公正や義など理性の強い愛)と、
母性的な愛、憐れみの愛(感情、同情の強い愛)が
ありますよね。

神がもし父性的な愛だけであれば、罪を犯した
人間が、因果応報で地獄に行こうが、仕方ない。。で
終わっていたことでしょう。
しかし、母性的な憐れみがあるために、
罪の赦しと救いの道を備えられたと言えるでしょう。^^

本来、神様が人間に望まれたのは
親子や家族、友人の中では、アガペー、フィレオーの
愛があり、
結婚関係の中において、アガペー、フィレオーだけでなく
エロスの愛が、<特権として>認められることだった
と言えるでしょう。

同性愛に関して、または、異性間でも結婚以外の
関係を<罪>ということ、<自然でない>ということは、人間が考える自然<常識>とは違うものであって、
自然というのは、神が造られており、必ず<法則>があるものだと言えます。

<自然>の捉え方ですら、神がこの世界を創られたか、この世界が自然に(自ずと?奇跡的に)生じたか、どちらかを信じるかによって、全く違ってくるものです。
 
りんごの木からはりんごができるように、創られています。 勝手に、リンゴの木が、ぶどうを作ることはできないですよね^^
神の法則に従っているからこそ、自然界がなりたっているのであって、私達も恩恵をいただいていると言えます。

つまり、神様の法則に従うこと
それが<自然>であると言えます。
クリスチャンにとっても、神に従うのは
<自然>なことであって、何か特別の宗教をするという
感じではないのです。^^

しかし、サタンは神様の法則、教えに従うことに
反抗をしました。
むしろ自分が神に成り代わりたいと願ったのです。
神に従うことが<自然>ではなくて、神の恩恵の
元で生きることが、不自由なこと、人間の権利を
侵害する<制限している>ことだと、
神への反抗の思いを正当化して、人間にも
信じこませたいと思い、惑わしたと言えます。

性関係というのは、夫婦という責任ある関係の中でゆるされるもの、つまり<特権>であったことですが、
人間の罪のために、それ以外の関係でも
満たすようになったと言えるでしょう。

同性愛にしても、異性間の淫交や姦淫にしても、
単なる倫理的な罪というよりは、愛の欠けたことであり
<利己愛><盗み><越権行為>といったほうがいいのだと思います。

罪というのは、いわゆる原罪と言われる(アダムから
受け継ぐ)先天的なものと、
自分自身が犯す罪である、後天的な罪があります。
(赤ちゃんや幼児は、罪の意識はほとんどないので
神様からの憐れみを受けると、思われます。)

神様の罪の赦し、罪から解放というのは、原罪と、
その人が犯す後天的な罪、両方を、含むものです。

同性愛の方でも、信仰によって、同性愛の傾向から
解放された人もいます。
それは、同性愛であった過去の自分を否定することでは
なくて、罪の影響にいたことを受け入れ、悔い改め
神様の愛につながることで。。
罪から解放され(原罪と、自分の罪の傾向)
<本来の自分の姿に変えられていく>といったほうが
いいと思うのです。

神の国では、障害も、病気も、同性愛もありません。
今のこの世では、霊、魂の救いは可能ですが
体の救いは、<限定的>です。
先天的な病気や障害を持って生まれる方もいます。

> 私たちの肉体は、聖霊と創造主によって最も賢明に創り上げられたものですが、それとは逆に、私たちは彼らの創造的作業を妨げ、現在のパーソナリティーとしてエゴイズムに満ちた生活を送ることで肉体に病や障害を招いています。

人は、エゴ(利己的な愛、欲求)によって
様々な問題を招いていますよね。
良心(神がくださったもの)も、罪の影響や
この世の考えの影響と、利己的な思いで、鈍っています。
それゆえに、新しい良心である<聖霊>が
必要だと言えます。

> 私たちは生命が何であるか、肉体と霊的存在で生きるのがどのようなことなのかを理解せず、(私自身も理解できていないところが多いです)人生に不満足で、多くの自殺者を出し、極まりない悲惨や痛みや病となって現れています。

私たちは、本来は霊的な存在として、生きるために
創られていますが。。 罪の影響があるために、
この世で生活をする際に、様々な悩みを抱えますよね。

学歴、肩書き、お金など。または人の評価や評判などに
左右されることが多いものです。

> ただ、私が、同性愛者の聖職者がいても、<自然>であると言ったのは、自然は“じねん”ともいって、人の力ではどうにもならない人為を離れた法則がはたらき、ものごとは人の考えが及ばない因果応報がはたらくものだと感じたからですよ。

人の力を超えた力が働くというのは、理解できます。

> でも、キリスト教がすごいと思うのは・・こういった原因と結果の法則は、イエスを通して、悔い改めや償いによって罪からの救いなどで、カルマという結果としての“業”といったものを超越することも可能であることですね。

そこが、他の教えと違うところと言えますね。
例えば、奇跡においてもキリストの時代、また現代でも
<先天的な障害や病気>を持った人が
癒されることがあります。
(発展途上国と違って、日本や先進国では病気の癒しの
奇跡はあることもある。。のですが、障害があっても、福祉があり生活が保障されたり、可能であるからかもしれません。 
途上国であれば、障害のある方は物乞いとして
生きるしかない人もいますからね。)

人知を超えた、神の奇跡は、時に
病気や障害の癒しもあれば、
病気や障害を持ったまま、明るく生きるという
<信仰の力><奇跡>もありますね。

   メンテ
No.95に対する返信 ( No.96 )
日時: 2016/02/01 15:35 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

今日はイエスが語った愛、そして神聖な愛というものを考えてみました・・
彼が語った隣人愛というものは、イエスは十字架上で自分を殺そうとするローマ兵士に、「父よ、彼らをお許し下さい」と祈りましたね。その祈りである愛の中身についてです。

> 性関係というのは、夫婦という責任ある関係の中でゆるされるもの、つまり<特権>であったことですが、
> 人間の罪のために、それ以外の関係でも
> 満たすようになったと言えるでしょう。
>
> 同性愛にしても、異性間の淫交や姦淫にしても、
> 単なる倫理的な罪というよりは、愛の欠けたことであり
> <利己愛><盗み><越権行為>といったほうがいいのだと思います。
まず、私がこれまで学んできた、キリスト教の神学テキストや、特にダスカロスのようなキリストの教えに基づく神秘主義者による、「愛」というものの概念は・・愛には、私たちの世俗的な愛と、神聖な愛があって、その二つには大きな隔たりがあるということです。

私たちの愛というのは見返りを求め、与えたものよりもっと大きな見返りを要求するものです。一方、神聖な愛というのは、絶対存在としての神そのものであり、愛は無限に与えられ見返りを何も求めていません。

友情や親子の愛、男女の愛や同性愛にしても、すべて何か見返りを求めますよね・・絶対存在による愛は絶え間なく与えられ、さらに、それが命である生命現象をもたらします。

しかし、イエスの隣人愛や、絶対存在による“愛”を理解することは容易なものではありません。なぜなら、私たちは今まで、友だちに対してとか、異性に対してとか、同性に対しての愛とか・・すべて自分中心として回っていて、それらの現象を通して、私たちが愛と呼んでいる満足を得ているためですね。

それだけに、自分中心の愛の向こう側へ行くこと自体がかなり困難ですが、現在のパーソナリティーを忘れ去り、パーソナリティーを超えた自己認識性(魂)の領域に入っていき、神聖な愛の光によって、私たちの目が開かれるようになるそうです。

つまり、男女の愛や、同性愛というものは単なる性的欲望の表現としての、魅力や熱情をあらわす「幻想」以上の何ものでもありません。そこで、異性の恋愛に悩み、同性愛といった愛の妄執に悩むことになるわけです。

『ダンマパダ』というブッダのことばを集めた経典があります。
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生じる・・」とあります、愛するものとは“妄執”迷いによる執着でもあると言われます。

恐れでもない妄執でもない、確かな“愛”をいつか感じ取れるようになりたいと思いますね。
   メンテ
No.96に対する返信 ( No.97 )
日時: 2016/02/03 19:31 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

イエスの愛、神様の愛を表した神聖な愛ですね。^^
罪人である人類と、無知や誤解、または
単に命令に従う(この世の権威への服従、盲従)
など、人の弱さへの哀れみがありますね。

イエスが来られた目的は、神様の目的である
<福音>をもたらすこと。神の愛と赦しの計画を
実行することでしたね。
十字架にかかり人類の罪を背負って死に、復活することで、人を罪から解放することが可能となりました。

マルコの福音書の1章14〜15節にありますが、
<時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。>
イエスの十字架を信じ、悔い改めることで
神の国に入れるようになる。。ということですね。

今は<恵みの時>と言われていて、イエスを信じることで、罪の許しを受け取り悔い改めて、神様との関係を取り戻すチャンスの期間とも言えます。
(ノアの洪水の前も100年ほど、猶予期間があり
カナン人の聖絶も、400年の猶予期間(悔い改めを
するチャンス)があったように。。全世界の人への
悔い改めの期間は。。2000年の猶予が過ぎようと
しています。 福音は全世界に伝わっています。)

> まず、私がこれまで学んできた、キリスト教の神学テキストや、特にダスカロスのようなキリストの教えに基づく神秘主義者による、「愛」というものの概念は・・愛には、私たちの世俗的な愛と、神聖な愛があって、その二つには大きな隔たりがあるということです。

アガペーの愛というのが、神の愛であって
人間の愛というのは、罪が入ったために
<的外れ>な愛になっていますよね。

フィレオーやエロスの愛は、<基本>は
見返りを求める愛、対等な愛とも言えますよね。
それでも、全く愛がないよりは<まし>ですが^^
人は<アガペーの愛>を求め、必要としている
のだと思います。

> 友情や親子の愛、男女の愛や同性愛にしても、すべて何か見返りを求めますよね・・絶対存在による愛は絶え間なく与えられ、さらに、それが命である生命現象をもたらします。

親子や夫婦や親友の愛情も、<部分的に>は無償の愛も
ありますが、人は神と違って、体力、知力、愛においても<限界>があるのでやはり、ずっと与え続ける事は難しいと言えるでしょう。

家族、友人、恋人関係や、仕事など自己実現でも、
本当の意味での平安が得られないため、ある人々は
、神仏への信仰、真理、思想など、何かしらの教えやつながりを求めるのだと思います。
(パスカルが、パンセの中で)
人間には神にしか埋められない空洞がある。。
と言っていましたね。

> しかし、イエスの隣人愛や、絶対存在による“愛”を理解することは容易なものではありません。なぜなら、私たちは今まで、友だちに対してとか、異性に対してとか、同性に対しての愛とか・・すべて自分中心として回っていて、それらの現象を通して、私たちが愛と呼んでいる満足を得ているためですね。

経験してないことを理解するにはやはり
<信じる事>しかないものですよね。

ヘブル 11章1〜3
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

神様を信じることを、盲信という方もいますが
多くの人は、教科書やメディアで言われることを
信じますよね^^
自分で経験してなくても、自分で発見した科学の
法則でなくても、そう教えられること(読むこと
、聞くこと)で信じます。(進化論もそうですが)

神様を信じるというのも、神のことばを真実として
読み、聞く(心を傾けて聴くこと)と言えます。

自己中心の愛 それが<的外れの愛>なんですね。
他人中心の愛でも、自分を見失うので、幸せや平安は
ないですし、うまくいきません。
対等な愛情、友情でないと、うまく機能しないのは
罪を受け継いでいるからとも言えますね。

しかし、神中心であれば、(宗教中心ではなくて
神の愛の中で満たされることを望むこと)
自分も隣人も愛が満たされるのでしょう。

> 恐れでもない妄執でもない、確かな“愛”をいつか感じ取れるようになりたいと思いますね。

敬虔な畏れであって、恐れ(単なる恐怖心)ではない
神様との関係。。それが、父なる神との関係と
言えますね。
この世では、愛も権威も、的外れになっていたり
悪用されてしまうことがありますね。

正しい意味での<権威>への畏れがあり
深い愛情のあるお方であるという<安心>に
委ねられることを、私も願います。
   メンテ
No.97に対する返信 ( No.98 )
日時: 2016/02/04 04:09 (odn)
名前: いしまる

ききさん、
このスレも残り少なくなってしまいました。

> 今は<恵みの時>と言われていて、イエスを信じることで、罪の許しを受け取り悔い改めて、神様との関係を取り戻すチャンスの期間とも言えます。
> (ノアの洪水の前も100年ほど、猶予期間があり
> カナン人の聖絶も、400年の猶予期間(悔い改めを
> するチャンス)があったように。。全世界の人への
> 悔い改めの期間は。。2000年の猶予が過ぎようと
> しています。 福音は全世界に伝わっています。)
福音は全世界に伝わっていますか・・それにしても、日本のキリスト教徒は人口の1%にも満たない、世界最大の非一神教国であるといわれますね。

なぜ、キリスト教が日本で広まらなかったのでしょう?

宗教学者の島田裕巳氏によると・・世界の傾向として経済発展の著しい国では、プロテスタントの信者を増やしていく方向にあるそうです。日本も、戦後には高度経済成長という形で、驚異的な経済発展を経験していて、その時代に、キリスト教が勢力を拡大していても不思議ではありませんでした。

ところが、戦後その勢力を拡大したのは、創価学会や立正佼成会、霊友会といった日蓮系の新宗教で、とくに創価学会は驚異的な伸びを見せ、現在では、実数で国民全体の3%程度を会員にしているそうです。創価学会だけで、キリスト教徒の4倍程度の信者数がいるわけですね。

そして、明治以降など、特に若い世代がキリスト教に入信しても、彼らは自らは信仰を得ても、それを家族にまで伝えていくことができなかったようですね。彼らが家庭をもち、冠婚葬祭にかかわるようになれば、昔からの檀家制度による葬式仏教にもどっていってしまいます。宗教、信仰が伝わるというのは、個人単位では広がらないもので、家庭や地域でまるごと信者になることで、拡大していくものなのでしょう。

> 家族、友人、恋人関係や、仕事など自己実現でも、
> 本当の意味での平安が得られないため、ある人々は
> 、神仏への信仰、真理、思想など、何かしらの教えやつながりを求めるのだと思います。
> (パスカルが、パンセの中で)
> 人間には神にしか埋められない空洞がある。。
> と言っていましたね。
パスカルは、哲学者で、キリスト教神学者でもあったんですね。

パスカルは、同時代のデカルトが行った証明などを含め、哲学的な神の存在証明の方法論を否定し、神の存在は哲学的に(論理学的に)証明できる次元のものではないと考えたのですね。神は理屈で説明される存在ではないというわけです。

神の存在は証明できなくても、神を信仰することが神を信仰しないことより優位であり、神というものは「繊細の精神」によって理解できるもので、神の愛の秩序の前では、理性の秩序はむなしいと説きました。

> 敬虔な畏れであって、恐れ(単なる恐怖心)ではない
> 神様との関係。。それが、父なる神との関係と
> 言えますね。
> この世では、愛も権威も、的外れになっていたり
> 悪用されてしまうことがありますね。
同性愛について・・同性愛は聖書によれば罪であり、<的外れ>な愛であるのでしょう。

一番の問題は、その、宗教的な考えに左右されて、その同性愛者本人が、苦しみ、さらに他人や自分自身を憎んだり呪ったりすることなど、本来の人間として正しくないですね。

“同性愛”というものは性的指向といって、人間の根本的な性傾向の一つです。性的指向には、大きく分けて「異性愛」、「同性愛」、「両性愛」に分類され、性的指向を持たない場合は「無性愛」となります。

その同性愛者の性的指向を決定したのが神ならば・・同性愛が罪で悪いことであるというパラドックスに陥ってしまいます。聖書の内容にも疑いを持ち、信仰を捨てたくなりもします。(神はそんな性的指向を決定しないのかもしれませんが、その人にとってはそれが現実です)

つまり、キリスト教が同性愛者にかぎらず、罪とされている状態にある人に対して、罪悪感や差別を助長したりするような内容の教えは良くないと思います。そのような人たちにも、何か救いの道が存在し、幸せになる方法があることを多くの場で示さなければなりませんね。
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.99 )
日時: 2016/02/06 00:32 (enabler)
名前: ガラシャ

こんばんは。とてもお久しぶりですね。最近忙しかったりしてこのスレに来れなくてごめんなさい。いつの間にか、美紗希♪さんという方も加わり、このスレで皆さんが色々なことについて深く学んでらっしゃっていて、私の浅さを感じています。
美紗希♪さんとは初めてですね。はじめまして、スレ主のガラシャと申します。喘息持ちなんですね、私も同じです
。今後ともよろしくお願いします。
そして、ききさん、いしまるさん、いつも温かい言葉をかけてくださってありがとうございます。
皆さん、まだまだ話すことがありそうなので私は新しいスレを作ります。ぜひ、そちらにも足を運んでいただけると嬉しいです。



   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.100 )
日時: 2016/02/06 02:12 (nkno)
名前: ERROR

うめるよ
   メンテ
Re: キリスト教 3 ( No.101 )
日時: 2016/02/06 02:15 (nkno)
名前: ERROR

うめるぞ
   メンテ

Page: 1 |

この度、テーマを『生きること、そうでなければ、死ぬことについて』としまして、皆様の死生観や現実の生活における知恵など、自由な視点からの寄稿をお願い申し上げております。

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