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生活・お金・借金|悩み相談掲示板 > キリ…スト教

キリ…スト教

日時: 2016/08/16 12:49 (enabler)
名前: ガラシャ

今までスレが立てられなかったので、いしまるさん、ききさん、その他の方よろしくお願いします。

イエローページ

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Re: キリ…スト教 ( No.1 )
日時: 2016/08/16 15:59 (au-net)
名前: x

大丈夫ですか?
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.2 )
日時: 2016/08/16 16:19 (enabler)
名前: ガラシャ

何がですか?
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.3 )
日時: 2016/08/16 22:32 (odn)
名前: いしまる

ガラシャさん

お久しぶりです。お元気でしたか?
その後、家庭、学校でお変わりなく、過ごされていますか?

私は、相変わらず、仕事に追われている毎日です。

ここでは、あなたの最近の困った事や、悩みを遠慮なく打ち明けてくださいね。

   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.4 )
日時: 2016/08/16 23:54 (enabler)
名前: ガラシャ

今はいろいろと安定していますね。勉強も順調ですし、新しい彼氏もできて、ある意味受験生らしくなく、ほんわかした感じです。またいろいろお話聞いてくださいね。
   メンテ
No.4に対する返信 ( No.5 )
日時: 2016/08/17 16:14 (odn)
名前: いしまる

それは、良かったです^^

キリスト教についてはどうですか?

この前、私と母と親戚とで「母と暮せば」という山田洋次監督の映画を見に行きました。その映画は、原爆で壊滅的な被害を受けた長崎を舞台に、あるキリスト教を信仰する家族の物語です。

ストーリーは、母親のもとに、原爆で死んだはずの息子がふらりと姿を見せるようになります。

私が、「これはキリストの“復活”をモチーフにしているんじゃないか」と言ったら、私の母が嫌がって・・「そんなの、関係ないやろ」と、母は、キリスト教について、たいへん嫌がっていたようでした。

たぶん、母は、宗教の救世主や、神の国、福音、十字架など嫌悪していると思います。

私がキリスト教に興味があり、今、信仰の対象としているなど、母には告げることができません・・

あと、「キリスト」と全角で入力すると禁止ワードとなるので、
半角で入力してみてください。

キリスト教と入れてから、上のボタンで“F8”を押すと半角になります。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.6 )
日時: 2016/08/17 20:09 (enabler)
名前: ガラシャ

ここ最近だけではないのですが、きりすと教は悪いみたいなことを言っている人がいますが、そうなんでしょうか…
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.7 )
日時: 2016/08/17 21:52 (plala)
名前: きー

ダイジョブデスカ(・・?)
   メンテ
No.6に対する返信 ( No.8 )
日時: 2016/08/17 23:55 (odn)
名前: いしまる

ガラシャさん。

たぶん「キリスト教は悪い!」とは教科書には出ていませんよね。

私は、キリスト教が悪いというより、悪者にされている、と思いますね。キリスト教というのはユダヤ教が母体になっていますが・・

そのユダヤ教には、ハザール系ユダヤ教というのがあって、ハザールというのは遊牧民族の国家で、「バール神」という“悪魔”を崇め、人間を家畜のように奴隷化し、ナチスのような狂気の殺人勢力を生み出しました。

ナチスは現代でも、9・11のテロとか、イスラム国のような犯罪をやらかしていますね。

そして、イエス・キリストは、ユダヤの悪の真相を暴露し、徹底糾弾して、ユダヤによって十字架刑に処せられました。

キリスト教というのは、ユダヤ教が母体になっているがゆえに、「ユダヤ・キリスト教」と呼ばれ、過去の宗教戦争などをとらえて「悪だ! 殺人宗教だ」と言う人がいるのです。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.9 )
日時: 2016/08/18 21:26 (enabler)
名前: ガラシャ

そうなんですね…。祈りについてなんですが、朝起きた時、夜寝る前の特別な祈りの言葉ってあるんでしょうか?あるのなら教えてもらえませんか?
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.10 )
日時: 2016/08/19 00:20 (ocn)
名前: 黒苺

祈り方って聖書に書かれてなかったっけ?
学生の頃、プロテスタント系の中高一貫校だったから漠然と覚えてるだけだけど。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.11 )
日時: 2016/08/19 13:10 (odn)
名前: いしまる

カトリック司祭で神学者の百瀬文晃という人が、誰にでもできる、ごく簡単な祈りの方法を紹介されています。

まず、朝、目覚めたとき、床の上で・・
「主よ、今日一日をあなたにおささげします」と祈ります。
そしてクリスチャンであれば、十字を切ります。(プロテスタントは切りません)

夜、眠りに就くとき、床の上で、
「今日一日を感謝します」と祈ります。
一日の自分の働き、人々との交わり、成功、失敗にかかわらず、父なる神の前に思い起こし感謝します。そして、十字を切り、眠りに就きます。

また、黒苺さんが言われたのは、「主の祈り」のことではないでしょうか。

この、お祈りは、イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくださったお祈りです。主イエス様が教えてくださったお祈りなので、「主の祈り(しゅのいのり)」と呼ばれています。新約聖書マタイによる福音書6章9節〜13節に書いてあります。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.12 )
日時: 2016/08/19 23:28 (spmode)
名前: kaz

ガラシャさん、こんばんは
以前から気になっていたんですが、ひとつ聞いて良いですか?
あなたは信仰がしたいのですか?
それとも単にキリスト教という宗教がしたいだけですか?

   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.13 )
日時: 2016/08/20 19:06 (enabler)
名前: ガラシャ

わ、わたしはキリスト教を信仰したい、です。あの、何か気に障ることをしましたでしょうか。それでしたらお詫びします。申し訳ありません。
   メンテ
No.13に対する返信 ( No.14 )
日時: 2016/08/20 22:39 (spmode)
名前: kaz

こんばんは
別に怒っている訳ではないんですけど、あなたの質問の内容が
一年前と変わらず形式や作法ばかりなので質問しました。
何も考えず誰かが作ったマニュアル通りにするのが信仰だと思っていますか?
過去ログを見てみましょう。
ガラシャさんの「朝や夜の祈りの言葉を教えてください」の質問に対して
ききさんは何と答えられましたか?

キリスト教に限らず信仰というのは、文章に書かれた不確かな言葉や「やり方」ではなく、その「あり方」に重きを置くべきものだと思いますよ。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.15 )
日時: 2016/08/20 23:58 (odn)
名前: いしまる

そうですね・・

過去ログには、1年以上前から、ききさんを始め、いろんなクリスチャンの方から祈りの生活について、レスが寄せられました。

あなたは、今、勉強も順調で、彼氏もできて、生活も安定しているようなので、本来的な意味での宗教の信仰に縋る必要がないのかもしれない・・

私がNo.8で述べたように、キリスト教にも暗い部分がたくさんあります。宗教というものは社会とは異なる価値体系をもっています。だから、ときには反社会的行動にもつながるのですね。

現代のキリスト教のような伝統的宗教では、教会の神父さんの導きや伝承などで、そういった反社会的行動や運動に発展しないように制御され、指導の施しがされています。

それに・・1年前と同じ質問をしてもらっても、ぜんぜん問題なしですよ^^

私も実は、キリスト教の名のもとに行われた戦争や、迫害など暗い歴史もあり、教会やキリスト教団体に対する懐疑も膨らんでいって、教会には足を運んでいません・・

私が唯一、信仰を寄せているのは、イエス・キリストその人の教えそのものです。

そしてその教えを伝える、初期キリスト教の形式を残した、「東方正教会」について今、勉強中です。

ガラシャさんが、「キリスト教を信仰したい」と言われるその気持ち・・何か、こころに宗教心を懐きたい感情はよく分かります・・これからいっしょに学び、信仰していきましょう。
   メンテ
Re: キリスト教 ( No.16 )
日時: 2016/08/21 21:43 (spmode)
名前: kaz

いしまるさん
ところで、いしまるさんはキリスト教の何処に心引かれたのですか?

(モバイル版からだとNGワードが機能しないみたいです。)
   メンテ
No.16に対する返信 ( No.17 )
日時: 2016/08/23 00:35 (odn)
名前: いしまる

話せば長くなりますので、簡単に言います・・

「宗教」というのは、一言でいえば、神・仏などの超越的存在など、聖なるものにかかわる人間の営みですね。

たとえば、釈迦の説かれた仏教そのものの、本来の姿は、「修行」です。誠実に勤め励み、日々努力し、智慧の裏づけがされた修行である、精神集中を行う“瞑想”を実践します。

瞑想によって智慧を生み出し、それによって自己の心を改善していくのが、仏教修行というものです。その修行のための仏教の教義は、きわめて論理的、合理的に構成されていますね。

しかし、究極の宗教的真理は、その論理を超えたところにあると思います・・たとえば、科学時代の今日でも、科学的にはありえない、イエス・キリストの復活を信じている科学者は大勢いますね。

キリスト教の本質は、論理性の精神集中の瞑想に加えて、究極の宗教的真理を説き明かしている・・その神秘の力があるキリスト教に心引かれたのです。
   メンテ
No.17に対する返信 ( No.18 )
日時: 2016/08/23 01:54 (spmode)
名前: kaz

こんばんは
不躾な質問にかかわらず、回答ありがとうございます。
私自身はあまりキリスト教には馴染みがなくて、
聖書なども書いてある内容が分かりづらいので読む気にならなかったんですよね。(ノ´∀`*)
で、わりと仏教系なら同じアジア系だからか理解しやすい事もあって、ソッチ系の書籍に目を通すことが多かったです。
ところで究極の宗教的真理って神秘的なものなんですか?
真理って、エネルギー保存の法則みたいな定まった宇宙の法則を指すものだと私は思ってました。

   メンテ
No.18に対する返信 ( No.19 )
日時: 2016/08/23 15:30 (odn)
名前: いしまる

> ところで究極の宗教的真理って神秘的なものなんですか?
これも、私なりに簡単にまとめてみたいと思います。

エネルギー保存の法則は、電気や熱、光エネルギーや化学エネルギーなど、いろんなエネルギーが相互に変換されるときの、宇宙全体にあるエネルギーの総量は変化しないという物理現象ですね。

イエス・キリストは、「私は道であり、真理であり、命である」と言いました。
使徒のヨハネは、そのイエスの言葉について「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのです」と言っています。イエスが言った、私は道であり・・という“私”はすべての人類を指しています。

そして、この光というのは、人間一人ひとりの中にある、覚醒された自己が道であり、真理であり、命であるという意味ですね。

しかし、その“真理”というのは、三次元の物質世界、世俗的な私たちが今生きている世界では、真理を明らかにするのは不可能であるそうです。

私たちは「原因と結果の法則」といった世界に入り、信仰による悔い改めや償いによって、いくつもの転生(初期のキリスト教の教えです)に渡って、三次元の物質界を超えて真理に近づき、初めて真実の生命を見つけられるのですね。
   メンテ
No.19に対する返信 ( No.20 )
日時: 2016/08/24 00:05 (spmode)
名前: kaz

こんばんは
せっかく回答いただいたのにごめんなさい
残念ですが話がかみ合わないようです。
ありがとうございました。
   メンテ
No.20に対する返信 ( No.21 )
日時: 2016/08/24 00:51 (odn)
名前: いしまる

ごめんなさい・・話がかみ合わないのは当然です。
これはキリスト教の神秘主義の話が含まれますから、一般の人には不明の内容でしたね。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.22 )
日時: 2016/08/24 11:26 (ppp)
名前: 黒苺

神も仏も信じていない一般人ですが、いしまるさんの信仰はお話からだけでも神秘主義的だと感じましたけどねw


さて、横入りですが…
「宗教的真理とは定まった法則を指すと思っていた」と言う話については、恐らく違うでしょうとだけ。

現在、皆さんが学んでいる学問の多くは、西欧諸国が作り、育て上げたモノの延長線上にあります。そして西欧の学問の多くは、歴史的にもキリスト教と言う宗教に極めて大きな影響を受けています。

近代において、日本では学問を大まかに分ける場合は「理系」と「文系」とに分けますが、キリスト教国の欧米においては「神学」と「近代科学」に分けるのが普通なのです。

そして、数学は神学から派生した学問です。数学とは、神の存在証明を行う為に出現し、育った学問なのです。ですから、数学は神学のカテゴリーに入ります。

神学と近代科学は本来相容れないものですが、数学と言う「誰から見ても納得出来る答えに辿り着かせると言う方法」、つまり「定理」を用いるという手法は近代科学の分野においても盛んに取り入れられたのです。

リンゴが落ちた事から重力の存在に気付いた古代物理学が、数式を用いて誰にでも理解が出来るようになった近代物理学に変遷したのと同じ流れです。

つまり数学、定理というものはあくまで証明の道具として用いられてきたものだと言う事です。
ですのでそれ自身が「究極の真理」にはなりえない。少なくとも、キリスト教国の欧米科学者達はそう考えるでしょう。


ただ、「神秘的か?」という話に関しては、そうらしいですね。
フェルマーの最終定理を解いたワイルズ博士もそうですが、多くの数学者は、数式の美しさに心から感動し、人智を超えた何かの存在を感じざるを得ないと、言うのだそうですよ。
   メンテ
No.22に対する返信 ( No.23 )
日時: 2016/08/25 15:09 (odn)
名前: いしまる

黒苺さんが数学と“神”について、興味深い問題提起をして下さったので、私もそれについて少し意見を述べたいと思います。

数学の歴史の中で、画期的な大変革があって、古代ギリシャで「無理数」という、√2、√3やπなど、どうしても分数の形で表すことのできない数の発見があります。

しかし、無理数の登場は、当時の数学に大打撃を与え、神聖な“数”そのものが汚されました。

当時の神秘宗教教団だったピタゴラス学派の教義は・・自然数の美しい調和によって宇宙は成り立っていて、その調和の妙により魂が清められ、幸せな来世を迎えられるというものでしたから、無理数という彼らにとって不吉な存在は絶対に認められませんでした。

それでも、無理数というものが論理的思考として、事実として確認されてしまったので、それを認め、口外した学派の人間が教団によって虐殺されたという事件も起こっています。

つまり、√2のような無理数の発見というのは、人間が神の視点を否定して・・世界観の合理化という論理思考に入り、科学を人間化してしまう、原動力のようなものがあることを示しているようです。

カオス理論やフラクタル数学など新生科学も、それらの法則は、宗教的真理などではなく、あくまでも人間が、人間の規則を用いて作り上げる、人間独自の構造体系を構築させるものと考えていいでしょう。

しかし、数学の重要定理というものは、発見時、学者の精神の内なる神秘の道を通って、フワリと頭の中に現れてくる現象があるそうで・・その真理の天啓というものは、間違いなく神秘的なものですね。
   メンテ
No.9に対する返信 ( No.24 )
日時: 2016/08/28 17:04 (dip0)
名前: きき

> そうなんですね…。祈りについてなんですが、朝起きた時、夜寝る前の特別な祈りの言葉ってあるんでしょうか?あるのなら教えてもらえませんか?

お久しぶりですお元気でしたか。
家庭生活、学校生活など、充実していますか^^

特別な祈り 決まったお祈りというよりは
神様との特別な関係(親子関係)
自分を愛してくださっている方に対する
お祈り(対話)をすると考えるといいですよ。

おはようございます。神様 
今日もいちにち、あなたの恵みと守りがあることに
感謝します。

夜寝る時も 主の祈りのように
神様を崇め(神様の権威を認め)、感謝する
祈りと共に、いちにちを省みるのもいいでしょう。

お祈りとともに聖書を通読されるのもいいです。
教会に行く事が難しい場合でも、神様との関係を
深めるためにも、いちにち2〜3章読む習慣を身につけられるといいですよ。

旧約聖書は内容が難しいと思いますので、例えば。。
平日に1〜2章新約聖書 1章旧約聖書から読むのも
いいです。
または、平日に新約聖書を読んで、
土日などに旧約を読むというのもいいですね。

旧約はまずは、創世記、出エジプト、申命、詩篇
イザヤ書、箴言。。あたりが読みやすいですし
オススメです。
それが終わったら、他の書物も読まれるといいと
思いますよ。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.25 )
日時: 2016/08/28 18:01 (dip0)
名前: きき

いしまるさん お久しぶりです
kazさんもお久しぶりです。
黒苺さん、初めまして。

聖書は、新約聖書は特に、福音書は比較的読みやすいですが、旧約聖書は読みづらいと感じる方も多いでしょうね。

旧約聖書は人の罪の歴史が書いてありますので、重おもしく感じることもありますね。
ただ救いの約束(救世主が来ること、罪から救われる
道)も書いてありますので、<希望>があります。
人類の初めから、今に至っても人が犯す罪や
愚かな傾向というのは、変わっていないですよね。

箴言 1章7節にも
<主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。>
神様を信じるというのは、宗教(行為)をするのではなくて、<神様の権威(主権は神にあるということ)を認めて生きる>とも言えるでしょう。
敬虔な畏れを持つことはとても大切です。

人が、過ちや罪を犯すとき、必ずと言って
神の権威や教えや見方よりも、自分の考えや都合や
この世の教えや権威を優先してしまうことがあります。 

旧約でも、神に従うより自分の知識に頼ってしまったり人を恐れてしまう人もいました。
一見、自分の目や人の目や考えからは正しく思える
ことでも罪(的外れの、正しくない判断)であることがあります。

高慢、自己中心、責任転嫁。。自分が担うべき責任(自分の言動や選択に責任を持つこと)を放棄することや、自分が担うべきでない権威(神のように善悪の正しい判断ができると勘違いする、裁くなど)を求めてしまう(高慢からくる強欲)ため、多くの過ちや悲しみが起こっていると言えると思います。

明らかな犯罪行為や倫理、道徳に反する行為に対しては
気をつけたり犯さずに済んでいても、
自分の責任や権威の範囲を見誤るという罪(的外れ、思い違い、高慢)は、神様の権威(主権)を認めてないと気がつきにくいものです。

箴言 1章29〜32
<彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、
自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
思慮のない者の不従順はおのれを殺し、愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。>

聖書は何度読んでも、常に新しい発見があります。
最初はわかりにくいと思いますが、神様との信頼関係が深まるごとに、(信仰を持つことで聖霊を受けるので)聖霊によってたくさんの気づきも与えられますよ。^^
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.26 )
日時: 2016/08/30 01:35 (odn)
名前: いしまる

ききさん お久しぶりです。

最近、時間がないので、簡単にまとめて返信したいと思います・・

私も最近になって、ようやく聖書を買いました。
新共同訳の、中型引照つきの聖書で、旧約続編つきのものです。

確かに、旧約聖書は人の罪と、律法に縛られ、重々しく神の奴隷となった物語が綿々と書かれているようですね。

まず、創世記22章・・神がアブラハムに、愛する一人息子のイサクを生贄として焼き捧げるのを命じる、くだりです。

神はアブラハムの信仰心を試し、神の僕としての自分と、父親としての自分との葛藤を描いているようにも見えますが・・聖書を読むと、アブラハムが神からの命令と、息子への愛情の板ばさみで苦しんだ様子は書かれていません。ただ、淡々と神に命じられたまま、刃物をとって息子を屠ろうとしましたね。

これは、まず、「信仰」というものが、どういうものか考えさせられました。

神からの啓示や指令を受け取ったら、人はためらわず、家族も殺す。そしてそれが、人間の倫理や社会性などを超えてしまう場合があるのでしょう。アブラハムは「信仰の父」と言われますが、信仰というものの本質がここにあると思います。

そして、士師記、エフタのアンモン人に勝てたら、家で最初に出迎えた者を、生贄として神に捧げる話です。エフタが戦いに勝って家に帰ると、最愛の一人娘が踊りながら迎えに出てきました。

エフタは衣を引き裂いて、嘆き悲しみましたが、彼がなぜこのような愚かな誓いを神と交わしたのか疑問ですし、ここに出てくる神も、私にとって邪神にしか見えません・・

エフタの一人娘の最期は、ぼかされているようですが、聖書には「エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた」とあるように、娘は焼き尽くす主の献げ物となったのでしょう。
   メンテ
No.26に対する返信 ( No.27 )
日時: 2016/08/30 03:16 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
共同訳の聖書を購入されたのですね^^

イサクを捧げるという行為は、他の異教の偶像礼拝で行われるような人身御供ではなくて、預言(メッセージ)でも
ありますね。

アブラハムの子孫であるモーセの時代から
預言者を通じて書かれた律法に従うことにより神への信仰や愛を示すようになりましたね。

神様は、イサクの代わりに、オスの羊を捧げるように
用意してくださってましたね。
人類の罪(イサクの代わり)のために、捧げられる罪のない、神の小羊(キリスト)を表したものです。

人は、肉の命とその終わり(死)の悲劇に注意を
向けすぎてしまいますが、神は、人が永遠の滅び(地獄)へ行くことを防ぐことを考えています。

主イエスが、当時のユダヤ人が切望した
ローマからの解放とイスラエルの国ができて
イエスが王様になること。。ではなくて
人類の罪を贖って、天国への道を備えられた
(地獄行きから救われた)ということを
考えると、わかりやすいかと思います。

主イエスご自身も、ゲッセマネにて、
私の願い通りでなく、御心のままに。。
と従順を示されましたね。

人の考えや善悪の感覚、正しいことと
正しくないことの感覚というのは、
本人とその世代の都合に合うことという
<限定的なもの>になりがちです。

もちろん、この世において(神が支配しているのでなく
サタンや人間が自分で支配、管理する)社会において
一定の秩序が保たれるには法律や道徳や倫理などの考えや、警察などの権威は必要です。
ある程度、良い機能を果たしますし、その存在価値は
ありますが。。それは完全ではないですよね。

イザヤ 55章8〜9節
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.28 )
日時: 2016/08/30 04:40 (dip0)
名前: きき

長くなってしまったので分けますね^^

信仰というのは、神への従順ですよね。
多くの人の感覚からすれば、家族の<肉の命>を犠牲に
することは考えられないことですが、
アブラハムが高齢になってイサクを授かったのも神の奇跡によってであり<命>は自分の所有物ではなく、神から
授かっているもの(預かり受けたもの)という
<前提>が理解されれば、理解できると思います。

命は神からのプレゼントであり、それを大切に扱い
<管理>するという責任を負っているといったほうがいいかもしれません。
命は大切なもの、しかし命は絶対視(偶像視)
されるものではありません。

エフタの誓願は、最初に出てきたもの(人)を神に捧げる(献身させる)というだけにしておけば、
サムエルのように神殿で仕えるということに
できたでしょうが、全焼のいけにえにするなどと
誓ってしまったわけですよね。

一説にはエフタの娘はサムエルのように、神殿などでつかえたのではないかとも言われますが。
(一人娘であるので、彼女が独身で仕えれば
エフタは子孫を残せないことになります。)
もしかすると、実際に生贄となった可能性もあるかも
しれませんが。。断定はできません。

旧約時代においても、牛や羊やヤギや穀物などの
犠牲などであり、人を捧げるなどという規定は
ありませんし、そのようなことは異教の
風習としてありましたが、神が忌み嫌うものでした。

神の子羊であるイエス様が十字架上で犠牲になられた、
そのことだけが、人(人であり神である方)の
犠牲と言えます。
ただそれは、<神が備えてくださったこと>であって、
人間が捧げるものではありません。
そして、主は復活されて天国に戻られました。

エフタの誓願の記述の参照聖句として民数記30章2節
詩篇15篇4節がありますが。。
(参照付きの聖書というのは、本当に良いものです^^)
誓願というのは、軽々しくするものではなく
必ず守られるべきものだとされてます。

エフタの娘の犠牲と引き換えに勝利が
あったのではなくて、バアルなど異教の神に
つかえたイスラエル人が、神への不従順や裏切りの
報いとして異教徒たちの支配に置かれることを許されたものの、悔い改めて、主に仕えるようになったので憐れみを示されて、勝利をもたらされたとも言えます。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.29 )
日時: 2016/08/30 09:31 (spmode)
名前: kaz

おはようございます。
黒苺さんはじめまして。
ききさんお久しぶりです。お元気でしたか?

黒苺さん
私が言いたかったのは「宗教的真理」ではなくそのままの意味の「真理」です。

ききさん
聖書や聖典や経典に書かれた事そのままを、神や佛の意思だと盲信する宗教は好きになれません。
それを通して神や佛の心を知り、受け入れ、寄り添う事が信仰だと思っています。
神の意思が人には計り知れないものならば、それを言葉や文字にして表そうとした物を絶対視するのは間違いだと私は思います。

2ちゃんねるというSNSで有名な「言葉の意味を取り違えると会話が成り立たない」と言う話。
店員「当店のポイントカードはお餅でしょうか」
ぼく「えっ?」
店員「当店のポイントカードはお餅ですか」
ぼく「いえ、知りません」
店員「えっ?」
ぼく「えっ?」
店員「まだお餅になってないということでしょうか」
ぼく「えっ?」
店員「えっ?」
ぼく「変化するってことですか?」
店員「なにがですか?」
ぼく「カードが」
店員「ああ、使い続けていただければランクが上がってカードが変わりますよ」
ぼく「そうなんだすごい」
店員「ではお作りしましょうか無料ですよ」
ぼく「腐ったりしませんか?」
店員「えっ?」
ぼく「えっ?」
店員「ああ期限のことなら最後に使ってから一年間使わないときれます」
ぼく「なにそれこわい」
店員「ちょくちょく来ていただければ無期限とおなじです」
ぼく「なにそれもこわい」
店員「えっ?」
ぼく「えっ?」
   メンテ
No.29に対する返信 ( No.30 )
日時: 2016/08/30 11:27 (odn)
名前: いしまる

こんにちは。
宗教的真理というか・・キリスト教の信仰の真理について話します・・。神秘主義の話ではありませんw

前にも言いましたが、「私は道であり、真理であり、命である」というヨハネ福音書にある、イエスを通じてのみ、真の神を知るというのが、キリスト教の絶対的な主張です。

私たちはイエスを通して神と出会うことができ、イエスを信じることによって、神がイエスを愛され、同じ愛で私たちも愛される・・そう信じるのがキリスト教の信仰ですね。

聖書というものは、徹頭徹尾、人間が書いたものです。人間が書いたものだから人間の醜さがぎっちり詰まっている。その古代人が書いたものを、神の言葉としてどれだけ、受け入れられるかが信仰というものです・・

「パッション」というメル・ギブソン監督の、イエス・キリストの受難と磔刑を描いた映画を見られたことがありますか?

さまざまな器具を使った拷問シーンや、手足に釘を刺す十字架への張り付けは、目を覆いたくなるほどの生々しさで、アメリカではこの映画を鑑賞していた女性が心臓発作を起こして死亡する事故が起きています。

この映画を単に、グロい残酷な映画と捉えるか、新約聖書の受難・・キリストの磔刑がキリスト教の信条であると捉えて映画を観られるか・・これが、宗教的真理というものを理解できるかどうかの違いです。
   メンテ
No.29に対する返信 ( No.31 )
日時: 2016/08/30 14:51 (dip0)
名前: きき

kazさん

> 聖書や聖典や経典に書かれた事そのままを、神や佛の意思だと盲信する宗教は好きになれません。

人は不完全ですから、人を絶対視するのは盲信でしょうが、良識ある言動をしている人には<ある程度の信頼>はできるでしょう。
神は人と違い完全で、愛と公正のお方です。
どうしても人は、人間(個人の経験や価値観からくる)
の基準や、人間と比較(同列視して)神様や、神の言葉である聖書を捉えてしまうこともあると思います。

神や聖書(聖典)を絶対的なものだと考えるのは
危険、盲信だから神やその教えを信じない、拒む
という人もいるでしょう。
しかし、<自分の判断が絶対的に正しい>という保証は
ないですよね。

創世記には、罪の始まりとその結果について
書かれています。
人はサタンにそそのかされ、善悪の知識の実を食べることで、神に従うよりも、<自分で>善悪の判断をすることを選びました。 

最初、ノアやアブラハムなどの時代は
信仰によって義とされた人が神と直接対話するという形が取られていましたね。
そしてそれを、民に伝える(口頭)方法がとられてましたがモーセの時代、民が多くなり(アブラハム、そして
イスラエル(ヤコブ)の子孫に対して神のことばや律法を知らせるために、書物(巻物)という形が取られました。

この世でも書物だけでなくて、新聞、広告、現代であればテレビ、ラジオ、ネットなどを利用して情報を得ることもできますよね。
この世の情報は、必ずしも全て<真実>とは限りませんから、その自分の実体験や主観から、聖書(書かれた書物)が神からの霊感で書かれてない可能性があるのでは?と疑ってしまうこともあるかもしれません。

<書物を絶対視>するというのではなくて
神が存在し、聖書が神の言葉であるということを信じています。
そして、この世界も生き物も神の創造物だと信じてます。

ヘブル 11章1〜3
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

聖書という書物だけでなくて、この世界が神の言葉(主イエス)によりつくられていることや、今目に見えるこの世界や自然の法則人間や動物の完全な仕組みを見ることでも、信仰によって、神がおられることを知る(悟る)
ことができます。

目に見えるものと、信仰によって見えるものがあると思います。
目に見えていても、不信によって、見えなくなることもあります。

人に対する信頼もそうですよね。
相手に不信感を持ってる時は、不信のメガネ(視野)からの
情報しか入ってきませんから、相手や状況が見えなくなることもあります。

関連聖句として、
ローマ書1章18〜23(したは19〜20節です)
神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界がつくられたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地はありません。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.32 )
日時: 2016/08/30 15:16 (dip0)
名前: きき

kazさん
長くなってしまったので分けますね。

モーセやダニエル、エゼキエル、その他の預言者が神様の霊感により書いたものであることを私も多くのクリスチャンも信じています。

例えば、古代の作家や記者が、当時の歴史や
出来事を記したことが信憑性があると
いう前提(信頼)があって参考文献にしますよね。
ある程度の信頼(信仰)がない限り、人は過去について
語ることはできないものです。

> それを通して神や佛の心を知り、受け入れ、寄り添う事が信仰だと思っています。

神の心を知り、受け入れるためにはその言葉(聖書)が神の言葉であることをまず信じる必要がありますね。

> 神の意思が人には計り知れないものならば、それを言葉や文字にして表そうとした物を絶対視するのは間違いだと私は思います。

神の意志は(全て)人に計り知れない。。という
考えを持つ人はいますね。
そのため、書かれたものを絶対視する(信じる)
のは、間違いだと思うのですね。

私は神の意志やご計画について計りしえない<部分>があるにしても、それは<神様の領域>である部分であると思います。
全てがわからない、知らされてないのではなくて、
人間に知らせている部分もたくさんあります。

聖書は、単なる<宗教書>やよい人として人生を
生きるための律法書ではなくて、<預言の書>であり、
神様の人間への<救いの計画>が書かれた書物でもあります。

罪の贖い主である、キリストが来ること、救いがもたらされる
ということは、すでに成就して福音が2000年間
全世界に告げられています。
これから成就する預言というのが、患難の後の
キリストの再臨と裁きです。
いつ起こるかは、天の神のみが知るとされます。

神様は、ご自身のご計画やご意志の多くを教えてくださってますし、救いのために、<私たちに必要な情報>
良い知らせ(福音)は与えてくださっていると
私は信じていますよ^^

   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.33 )
日時: 2016/08/30 17:09 (spmode)
名前: kaz

ききさん、こんにちは

聖書に書いてある事が全て間違いとは言ってないし
思ってませんよ。
でもそれを書いて訳して編集したのは神ではない人間です。
書き間違え、解釈(意訳)ミス、編集ミスも当然あるとは思いませんか?
エフタの娘も神殿に送られたのでしょう。
生け贄を嫌う神に生け贄を捧げる筈がありません。
ただそこは聖書には書かれていません。
それを「神との誓約を果す為に娘を殺す事も厭わないのが神を信じる事です。」なんて言われたら普通引きますよね?
神の名のもとに行われた殺し合いは、そういう解釈をする人が居るからあるのでしょう。
><自分の判断が絶対に正しい>という保証はないですよね。
今の聖書の<解釈が絶対に正しい>という保証もないですよね。
聖書を信じる事と<誰かが正しいと判断した聖書の解釈>を無条件に信じる事は、同じではないですよね?

ほんと文字で気持ちを伝えるのって難しい。
同じ時代の日本人同士でもこの有り様。ましてや…
え?私の残念な文章力のせいデスカ?(|| ゜Д゜)
   メンテ
No.33に対する返信 ( No.34 )
日時: 2016/08/31 03:38 (dip0)
名前: きき

kazさん

聖書に書いてあることが全部間違いとは思ってないのですね。
創造論、ノアの洪水、旧約、新約を通じての
奇跡などは。。信じてますか?
それとも、ただの寓話(たとえ話)と捉えてますか。

言葉で伝えるというのは、本当に難しいと
私も思います。

聖書の無謬説のことですね。
内容が全て間違いというのではなくて、訳し方に
ミス(間違い)があるということですね。
訳し方の違いがあるのは事実でしょうね。
ただ、大切な部分はそこまで変わってはないと思います。

エフタの娘に関しては
もちろん、全焼のいけにえなどを<神が望まない>のは
事実ですが。^^
問題は、<神が望む通りに人間が行ったかどうかは
別の問題>というところでしょう。

士師記の11章39節には、<全焼のいけにえ>
として捧げたとは書いてませんが、<誓願通りに行った>と書いてあるので、何とも言えませんよね。

もしエフタの娘が(何かしらの方法で)死んだ場合。。人が死ぬのを<神が>どうとも思わないのか?と
クリスチャンでない人は、神の愛や公正への不信を持って
神が介入をしなかったとした場合、引いてしまう人がいるのも、もちろん理解はできます。

神のご性質(愛と公正)とその律法からすれば、
神は全焼のいけにえなど望まないから、
誓願の不適切性を考慮し、長老と話し合い、牛や羊などを捧げたのでは?そして、娘は神殿で神に仕えたという考えもあるでしょう。ただ、絶対そうだとも言えません。

わからない部分もありますが、
神様の目的は、私たちが罪を悔い改め
(神の主権を認めず、神から離れて生きていること。)
救いを受けることだと思います。

わからないことは(推測しかできないことは)
、天国で、尋ねるしかないです。

聖書の言ってること(例えばイエスの教え)は
間違いではないと(良い教え、でも神の子とは
信じてなくて、預言者や教師に過ぎない)思っている
けれども、旧約は。。理解が難しいという場合
でしたら。。まずは新約聖書を読まれた方が
良いかと思います。^^
   メンテ
No.34に対する返信 ( No.35 )
日時: 2016/08/31 06:04 (spmode)
名前: kaz

おはようございます。
今そちらは深夜だからこんばんはかな?
> 聖書に書いてあることが全部間違いとは思ってないのですね。
> 創造論、ノアの洪水、旧約、新約を通じての
> 奇跡などは。。信じてますか?
> それとも、ただの寓話(たとえ話)と捉えてますか。
その当時の人達にとって(人として)奇蹟や人ならざるわざと思える事があったのは事実だと思っていますよ。
ただし幾つかは寓話がいつの間にか事実あった事の様に伝わってしまったものも有るでしょうね。
> 言葉で伝えるというのは、本当に難しいとあ
> 私も思います。
>
> 聖書の無謬説のことですね。
> 内容が全て間違いというのではなくて、訳し方に
> ミス(間違い)があるということですね。
> 訳し方の違いがあるのは事実でしょうね。
> ただ、大切な部分はそこまで変わってはないと思います。
本当に大切な部分は残っているでしょう。
でも残っているものが全て事実で一言一句間違いは無い。なんて事はあり得ないとも思ってます。
> エフタの娘に関しては
> もちろん、全焼のいけにえなどを<神が望まない>のは
> 事実ですが。^^
> 問題は、<神が望む通りに人間が行ったかどうかは
> 別の問題>というところでしょう。
>
> 士師記の11章39節には、<全焼のいけにえ>
> として捧げたとは書いてませんが、<誓願通りに行った>と書いてあるので、何とも言えませんよね。
>
> もしエフタの娘が(何かしらの方法で)死んだ場合。。人が死ぬのを<神が>どうとも思わないのか?と
> クリスチャンでない人は、神の愛や公正への不信を持って
> 神が介入をしなかったとした場合、引いてしまう人がいるのも、もちろん理解はできます。
>
> 神のご性質(愛と公正)とその律法からすれば、
> 神は全焼のいけにえなど望まないから、
> 誓願の不適切性を考慮し、長老と話し合い、牛や羊などを捧げたのでは?そして、娘は神殿で神に仕えたという考えもあるでしょう。ただ、絶対そうだとも言えません。
神の直接的な介入はそれこそあり得ないと私は思ってますし、引く事もありません。
神なら人の愚かな行為さえその自主性を尊重して見守って下さるでしょうから。

> わからない部分もありますが、
> 神様の目的は、私たちが罪を悔い改め
> (神の主権を認めず、神から離れて生きていること。)
> 救いを受けることだと思います。
>
> わからないことは(推測しかできないことは)
> 、天国で、尋ねるしかないです。
>
> 聖書の言ってること(例えばイエスの教え)は
> 間違いではないと(良い教え、でも神の子とは
> 信じてなくて、預言者や教師に過ぎない)思っている
> けれども、旧約は。。理解が難しいという場合
> でしたら。。まずは新約聖書を読まれた方が
> 良いかと思います。^^
ん〜、読む必要がある時期になれば読む事もあるかも知れませんが今はその予定はありません。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.36 )
日時: 2016/08/31 15:03 (dip0)
名前: きき

分けて送信しますね。

>神の名のもとに行われた殺し合いは、そういう解釈をする人が居るからあるのでしょう。

神の名の下に行われた殺し合いは、解釈によるという
よりは。。 罪により、利己的な動機や願望で
戦争を起こすからでしょう。

解釈自体に問題があるわけではありません。
自己都合の、自分の願望(野望)を満たすために、
拡大解釈や、曲解することに問題があると思います。

聖書の解釈だけでなくて、この世で起こる出来事に関して
解釈が違ったり、間違うのは、<着眼点>が違うのと
あとは<自分の置かれている立場>をどのように
理解しているか。。によります。

イスラエルというのは<罪を受け継ぐ人間の縮図>で
ある。ということ、つまりイスラエルは、<私たち自身でもある>と考えるのがクリスチャンです。

イスラエルの民が、選民<選ばれた民>というのを、
アブラハムの信仰により、神の恵みによって選ばれた民と
とるのか、何か特別の偉い(優秀な?優遇されるべき)
民族と、曲解するかによってまた違ってきますよね。

戦争を神の名の下に行う人は、後者のような
勘違い(思いちがい)をしていると思います。

神を信じてるから、神が(どんな時も)守ってくれる。
神の御意志に沿ったことでなくて、自分の願望が中心になっていても
神が味方してくれると。。勘違いをしているのでしょう。

自分(人類)の置かれている(いた)立場=罪の奴隷ですよね。
しかし、イエスの贖いによって、罪の奴隷からの解放が
なされました。
罪の奴隷から、神の奴隷(僕)神の子供になることが
でき、天国への道が開かれるというのが、福音ですよね。

> 今の聖書の<解釈が絶対に正しい>という保証もないですよね。

聖書解釈というのは、ある部分では、多くの神学者や
牧師や信徒が同じ解釈(理解)をする事もあれば、ある部分では、異なる解釈をする場合もありますね。

> 聖書を信じる事と<誰かが正しいと判断した聖書の解釈>を無条件に信じる事は、同じではないですよね?

誰かが正しいと判断したのを<無条件>に信じるのでは
ないですよ。

信仰を持つと、<聖霊>を与えられます。
内在する神と言われる方ですが、聖霊と云う
導き手を受けます。
よく例として言われるのは、<ナビゲーター>です。
ナビは、行く道を教えてくれます。でも
それを聞くかどうかは、運転手次第ですよね。
違う道を選んだとしても、ナビはまた
その地点から、また目的地へのナビを続けてくれます。

神学者や牧師(人)の解釈を鵜呑みにするというのではなくて、聖霊を通して、ここはあってるなとか、ここはどうだろう?どうも違うような。。というような、判断を助けてくれます。

牧師もいろいろです。聖霊の助けを借り、
神の愛と公正を考慮して、聖書解釈をする方もいれば、
人間的な解釈や自己都合や、価値観や情が
入ってしまうこともありえます。

私は、牧師や神学者という、尊い働き手には感謝しますが、絶対視をするべきではないと思っています。 
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.37 )
日時: 2016/09/01 14:44 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

イサクとエフタの娘の人身御供についての解説、ありがとうございました。
仕事の都合上、すぐに返信できない場合が多々ありますが、必ず返答はしますのでよろしくお願いします。

創世記では、結局、ヤハウェは人身御供ではなく、代わりに雄羊を求めましたね・・人身供犠を求める他の異教の神とは違うヤハウェの神は、人身供犠を喜ばれない(つまり、人の命の方が重要と考えられている)、という内容をこの「イサクの奉献」で明らかにしたのではないでしょうか。

一方の、エフタの一人娘の最期も、ぼかされていることにより、焼いて捧げられたのではなく、幕屋で一生のあいだ神に奉仕したという解釈もありますからね。

旧約聖書は特に「ヨブ記」など、過去、ききさんとお話ししたように、よく分からない話がありますね。しかも、神に対する信仰の大切さとか、そんな簡単な話でもありません。そもそも、ヨブ記は原文が理解し辛いらしくて、翻訳によって違う物語になっている箇所もあるらしいのです。

さて、東方正教会では、正教会訳の聖書を使用されますが、文語訳聖書ですから、文語の聖書を私たちがそのまま読むのは難しいらしいです。しかし、この聖書は奉神礼で、祈祷書として使われますから、物語一つ一つの細かい意味を追うよりも、祈りの“音”そのものが重要になってくるのでしょう。

私は「般若心経」のお経を毎日唱えますが、その一文一文に意味など、あってないようなものです。一文一文は訳がわからない、人の理解可能な範疇の外にあるものでも、その音そのものに神秘性があり、お経全体として成り立っています。だから、長い年月を通してしっかり読み継がれ、価値のあるものになっているのです。

だから、聖書の無謬説というのは、キリストを信仰するものにとって、意味のないものだと私は思います。聖書の一節一節は、訳がわからない、意味不明でおかしなものであっても、それは、聖書が神の言葉であると信じて読むだけで、それで十分価値のあるものなのでしょうね。

そもそも、神の言葉や、神の意志、神の存在について、この物質界で、人間の理解力において確認できるのは、非常に限られています。聖書は、その神の存在について知る手掛かりとなるものでしょう。

ところで、話は変わりますが・・私がNo.30 で言った「パッション」という、イエス・キリストの受難と磔刑を描いた映画を見られたことがありますか?

当時のヨハネ・パウロ2世も試写を視聴し、「忠実に描いている、全て真実だ」とコメントがあったくらいのリアルさでした。とにかくユダヤ人が悪者に描かれていて、監督のメル・ギブソンは熱心なカトリック教徒ですが、反ユダヤ主義であり、私も、この映画の影響を受けて、反ユダヤ的志向に陥りそうなのですが・・やはり改めた方がいいのでしょうか?
   メンテ
No.37に対する返信 ( No.38 )
日時: 2016/09/01 16:04 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

神様は、人間の命をとても大切に思っていますね。
命は大事ですが、命というのもが神が与えられたものであり、神とつながることで維持できるものという前提の考えがないと、わかりにくいですよね。

旧約は、ヨブ記なども含め、わからない部分が
ありますね。
わかる部分から、そこから何を学ぶのか。
神に対する敬虔な態度をとること、
人の罪の深さ、人の知識や知恵の限界など
様々なことを考えさせられます。

パッションは私も一度みました。^^
十字架刑、その前のムチ打ちなどの映像は
本当に残酷で、目を背けたくなるものですよね。

イエスは、姦淫の場で捉えられた女性に対して
今後は罪を犯さないように、そして罪を赦すとおっしゃいましたね。
単にイエス様が寛大な方だから憐れみで赦す(大目にみる)のではなくて彼女の罪、そして私たちの罪を完全な贖い主(神の子羊)として贖ってくださるからこそ、そのように仰ったのでしょう。
罪の報いを受け贖ってくださり、私たちのために
とりなしてくださり、神と共に生きる(再生して生きる)チャンスを与えてくださってます。

メルギブソンは、反ユダヤ的なのですね。
イエス様は人としてはダビデの家系に生まれ、ユダヤ人でしたね。使徒たちも、その他の初期クリスチャンは
ユダヤ人でした。(元ユダヤ教徒)

ユダヤ教徒だけでなく、クリスチャンであっても、
特に信仰がない人でも、神様を愛し従うことよりも、
この世の教えや哲学や、人間の教えや都合などを
優先したり、取り入れたりしてしまうことがありますね。

神への愛や<信仰>や従順のために律法を守る
のではなくて、自己義認のためであったり、宗教的な
行いや善行を重要視しすぎて、自分に栄誉を求めて
しまうこともありますね。
善行はいいことですが、罪の軽減のためにするのでは
なくて、神への愛や感謝、隣人への愛や思いやり、
協力し合いたいという気持ちが動機であるというのが好ましいことだと思います。

ローマ9章 30〜32節
義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、<信仰による義>です。 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。<信仰>によって追い求めることをしないで、<行ない>によるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

神様は、すべての人類のために、イエス様を
捧げてくださいました。
私も多くのクリスチャンもまだ、信じていない
家族や友人などの救いを願いますが、なかなか
難しく、その人の信仰が芽生える<時>ではないこともあります。 
もどかしく感じたり、がっかりしたり悲しく思うこともありますが、神様が自分のことも忍耐を持って待っていてくださったことに目を向けると、少し心に余裕や平静を取り戻せると思います。

ユダヤ人の中でも、イエスを主と認める人も
出てきています。
終わりの日には、ユダヤ人の中からも目が開かれ、
イエスを主と認めるとも書かれていますね。
(ローマ9章4〜29節)
ユダヤ人の中からも、そして異邦人の中からも
世界中から、神様に従いたいと思う方<約束の
子供 (ローマ9章8節)>がたくさん出てくることを祈りましょう。^^
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.39 )
日時: 2016/09/01 19:37 (spmode)
名前: kaz

ききさん
>神を信じてるから、神が(どんな時も)守ってくれる。
>神の御意志に沿ったことでなくて、自分の願望が中心になっていても
>神が味方してくれると。。勘違いをしているのでしょう。
そうですね。信じてるから、教徒だから、マニュアル通りにしているから
必ず神は自分の味方をしてくれる。というのは大きな勘違いですね。

>自分(人類)の置かれている(いた)立場=罪の奴隷ですよね。
>しかし、イエスの贖いによって、罪の奴隷からの解放が
>なされました。
>罪の奴隷から、神の奴隷(僕)神の子供になることが
>でき、天国への道が開かれるというのが、福音ですよね。
罪の奴隷は分かりますが「神の奴隷」という表現が反発を招きます。
このあたりが一般的日本人が馴染めない原因のひとつではないでしょうか。

いしまるさん
「パッション」は私は見た事がありません。
>私は「般若心経」のお経を毎日唱えますが、その一文一文に意味など、あってないようなものです。一文一文は訳がわからない、人の理解可能な範疇の外にあるものでも、その音そのものに神秘性があり、お経全体として成り立っています。だから、長い年月を通してしっかり読み継がれ、価値のあるものになっているのです。
般若心経にはちゃんと意味がありますよ?
お経を唱えた事はありませんがその内容の意味は知っています。
真理をその時代の人達(弟子たち)に理解しやすい表現で説こうとしている
説法場面が書いてあるだけで、唱えるだけで何か功徳があるなどと思うのは
勘違いでしょう。

動画に日本語の訳が出ますから、よかったらご覧ください。
般若心経/Heart Sutra(サンスクリット語Version)
歌っているのは世界的に有名なボーカロイドの初音ミクです。
YouTube 動画ポップアップ再生
   メンテ
No.39に対する返信 ( No.40 )
日時: 2016/09/02 18:08 (dip0)
名前: きき

kazさん 
こんにちは(日本はこんばんはでしょうか)

クリスチャンも含め、自分が信じてるから
なんとかしてくれるはず。。という
自分中心の思いが出てきてしまうことがあるのが
問題だと思います^^

世の宗教、ご利益宗教など人が作った宗教や神々は
人の願いを叶えるという、人間中心の傾向がありますが。
聖書においては、人間が神様の御心に沿って生きるというのが私たちの役割である。という<神中心>ですね。

> 罪の奴隷は分かりますが「神の奴隷」という表現が反発を招きます。
> このあたりが一般的日本人が馴染めない原因のひとつではないでしょうか。

神の奴隷、僕というと、<今の時代の>日本人や
他の人にも馴染みがないこともあるでしょう。

権威に従うというより、自分の権利を優先し主張する
傾向が助長されていますからね。

神の奴隷になるということは罪の奴隷の反対であり
<義の奴隷、義の支配下>に住むということを表すものでもあります。

ローマ書 6章などを参照ください。
17〜18節 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

神の奴隷ということは、神の権威を認め
神の性質(愛と公正と義)を尊び、喜んで服従すると
いうことだと思われます。

奴隷の立場というのは、<支配者(所有者)に仕える身分>であるということがこの奴隷という言葉の意味するとことだと思います。

この世の奴隷(僕)のイメージは、圧制者などの元で、
苦しみ、基本的な人権や尊厳も制限される不幸で
惨めで悲惨な状態というものですよね。
しかし、それは罪の影響下に置いて愛や公正のない
支配者の元で起こることと言えます。

しかし、この世でも、有名な先生と呼ばれる人の
元の弟子(僕)になったり、サポートすることを
光栄だと思う人もいますよね。

神の奴隷というのは、どちらかというと
惨めなことではなくて、光栄なことであり
喜ばしいことであると思います。
(捉え方次第、仕える方次第で、奴隷(僕)という
立場も変わります)

ガラテア4章1〜7節を読むと
神の子としての身分を受けるために主が贖ってくれたとあります。
神子の御霊(聖霊)を心に遣わしてくださったため
奴隷でなくて、相続人(子供)とされました。

相続人というものは、子供のうちは奴隷とすこしも違わず、後見人や管理者の下にあるものとあります。
私たちはこの世の教えや、(イスラエルの民などは)
神の律法の下にあるものでした。
<主の贖い>によって、律法の奴隷ではなくて、神の子供とされたとあります。

子供と言っても、神様の国を相続して管理するものであり
親から譲り受けた土地や家を管理する、会社を管理する、
のと同じように、責任感を持って、神の僕として
管理者の役割を果たすという意味合いもあります。
そのため、神の子供でありつつも、神の僕、キリストの僕という言い方をすることがあります。
   メンテ
No.39に対する返信 ( No.41 )
日時: 2016/09/02 20:53 (odn)
名前: いしまる

kazさん

私が、般若心経に意味など、あってないようなものだ、と言ったのは・・
「色即是空 空即是色」という、もっとも有名なフレーズですが、その意味を簡単に言うと・・

しき(色)、という人間の感覚も含めた物質世界は流転の場にあり、固定的な実体をもたず(空)、その、実体がない状態があらゆる物質要素となる・・という意味になると思います。

つまり、般若心経には、意味などあってないようなもので・・無いようで有る、と言った方がいいかもしれません^^

般若心経の本当の働きは、“呪文”です。『怪談』に出てくる「耳なし芳一」で、芳一の全身に般若心経の経文を墨で書き、魔霊退散のありがたい呪文として描かれているのは有名ですね。

般若心経の文字に意味があろうが、なかろうが、呪文として口に出して唱えることが大切です。たとえ、意味が分からなくても、重要なのは読経によって心に安らぎを得られるかどうかです。昔は「絵心経」という、字の読めなかった庶民のために、般若心経の文言を“絵”で表現したものがあったくらいですからね。

このお経を唱えるだけで何か功徳があるなどと思うのは、はっきり言って間違いです。このお経は読経や写経によって気持ちを落ち着かせ、安心感を得るために、そして古来からの不思議な強い力を心に感じるために唱えるのです。

初音ミクの般若心経も、おもしろいですね。こういう新しいメディアで般若心経の世界を表現していくというのも、次の世代にお経を遺していく新たな方法でしょう。
   メンテ
No.38に対する返信 ( No.42 )
日時: 2016/09/02 21:03 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。
パッションを一度、観られたのですね。

あの映画のイエスの描写についての凄惨さについては、根強く賛否がありますね。

しかし、あの十字架刑の凄惨さは本当にリアルに映像化していて、イエスの鞭打ちにしても、ローマの鞭が鉤つきで皮膚を引き裂く程のむごたらしさは史実で、この拷問だけで命を落とした人はかなりいたそうですね。

十字架刑にしても、聖画に見られるようなイメージではなく、実際に十字架刑とは、あのような目を覆いたくなるような残酷極まりないものだったのでしょう。

キリスト教の信仰の中では、イエスが十字架にかかって人類の罪の身代わりとなり、人類を救った・・そのテーマに絞った映像は私にとって感動的でした。

この映画の中で、イエスが十字架にかけられるときに、母マリアに「すべてが新しくなるのです」と告げましたが、その記述は聖書にはありませんよね? このセリフが感動的かつ印象的に私の頭に残っているのですが・・

ユダヤ人の中でも、イエスを主と認める人も出てきているんですね・・
しかし、メル・ギブソンのような「反ユダヤ」というのは、根が深いです。キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教から発生した宗教です。それは唯一絶対神ヤハウェを信仰しているという、つながりだけですね。

ユダヤ教にとってのイエスの存在は、ただの人間で、十字架刑に処せられた、ナザレの罪人という扱いのまま現在に至っている・・というのは大筋正しいのでしょう。イスラム教でさえ、イエスを預言者として尊重しています。現在まで、世界中でユダヤだけが、キリストのメッセージに頑として耳を傾けなかったのではないでしょうか。

しかし、ユダヤ人であるアドラーのような心理学者は、成人してキリスト教に改宗しました・・・。アドラーの言う共同体感覚など、すべての人は対等な関係にあり、すべての人が他者を仲間と見なして、互いに協力しあう世界の実現という理想は、人種や宗教の問題を超えていますよね。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.43 )
日時: 2016/09/02 22:18 (spmode)
名前: kaz

ききさん、こんばんは(こんにちは)
> クリスチャンも含め、自分が信じてるから
> なんとかしてくれるはず。。という
> 自分中心の思いが出てきてしまうことがあるのが
> 問題だと思います^^
>
> 世の宗教、ご利益宗教など人が作った宗教や神々は
> 人の願いを叶えるという、人間中心の傾向がありますが。
> 聖書においては、人間が神様の御心に沿って生きるというのが私たちの役割である。という<神中心>ですね。
人間はどうしても自分中心の思いが出てきてしまいますね。
仏教的には煩悩や業といいキリ スト教的にはそれを罪と呼ぶのでしょうね。
「心のやすらぎ」も、それを求めてしまえば欲やご利益を求める事
と同じだと私は思ってます。
心のやすらぎを求めるために信仰するのではなく、信仰する事で心のやすらぎは
得られると。


いしまるさん、こんばんは
>しき(色)、という人間の感覚も含めた物質世界は流転の場にあり、固定的な実体をもたず(空)、その、実体がない状態があらゆる物質要素となる・・という意味になると思います。
なるほど。訳は合ってはいますが「空」の理解がされてないから
「無いようで有る」なんて事になっちゃったんですね。
「空」は実相(真実の姿)で「色」こそ仮相(仮の姿)なんです。
「空」をキリ スト教的に言うと、全宇宙に遍く絶対的存在であり真相(真実の姿)であり不変のもの。というところでしょうか。

   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.44 )
日時: 2016/09/03 00:25 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

十字架の犠牲は本当に、
残酷で、目を背けたくなるようなものですよね。
しかし、私たちの罪も神の目から見ると、
本当に無残でひどいものなのでしょうね。

パッションの中の新しくするというのは、
おそらくイザヤ書 43章9節
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

もしくは
ヨハネの黙示録21章5節の
「見よ、私はすべてを新しくする」
から来ているかもしれませんね。

ユダヤ人がイエスを認めるというのは、
ユダヤ教から、メシアニックジューになるか
クリスチャンになるか。。ということになりますね。

まだ少数派であり、ユダヤ人(ユダヤ教徒)から
よく思われないこともあったりするようですね。

アドラーの心理学も興味深いですよね^^
彼の親御さんは寛容な方で、子供が14〜15歳
になったら自分の信仰を決めていいと言われて
プロテスタントに改宗したのですね。

ユダヤ教では12〜13歳になってバルミツバと言われる成人式が行われますね。
ヨーロッパでも、14〜15歳になると成人のような儀式があったり堅信礼(信仰告白)などをします。
そのくらいになれば、律法に対して理解も十分に
できて、自分の意思によって従うことができる
ので信仰者としての義務(責任)を担うように
なるということですね。

フランクル、アドラーなどの本は
とても興味深いですよね。^^。
すべての苦難(トラウマ)がその人の人生を支配したり、
悪い影響を与えるのではなくて、自分の考え目的が、起きた悲劇や苦難(トラウマと呼ばれるもの)に
意味づけを与える。 
フランクルの言葉で言えば、
人生に意味があるというより、人生が自分に問いかけて
いる、どのような<意味づけ>をするかは
その人の捉え方や<態度>次第であるということですね。

共同体感覚を身につけるには、(神のもと)対等であるという気持ちも必要ですね。
友好的であり、社会や周りの人に貢献をしたいという
気持ちを持つことは大切ですね。

エフェソ 2章14〜16節も好きな聖句です。
隔ての壁を取り除いてくださる方、
神と和解させてくださる方が、主イエスであることに
感謝します。
   メンテ
No.44に対する返信 ( No.45 )
日時: 2016/09/04 01:41 (odn)
名前: いしまる

ききさん。

なるほど・・「すべてが新しくなる」というのは、預言書や黙示録に出ていたんですね。

イザヤ書 43章の、「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている」というのは、イスラエルをバビロンから解放するということをいっているのでしょう。

しかし、これはイスラエルをバビロンから解放するということばかりではなく、もっと大きな神の業の預言でもあったのですね。

つまり、全人類にもたらされた罪の呪いを断ち切るために、神はひとり子を世に送り、私たちの罪のために、十字架にかかって死んでくださり、私たち全人類を救い出される・・その預言ですね。

キリストによって全人類が罪から救われる・・これが「新しい事」なんですね。この映画は、痛ましく残酷なシーンばかりの映画ですが、こういったキリスト教の教えの本質をついているため、観終わった後は不思議に清々しい気分になりました。(復活の場面が驚くほどアッサリしてますね)

ヨハネの黙示録、21章と22章は、聖書全巻を締めくくる箇所ですね。そこには、救いの歴史の結論であり、救いの完成を指し示す、全く新しい世界の始まりがあるのでしょう。

さて、ヴィクトール・フランクルは、ウィーン大学在学中よりアドラーに師事しましたね。この二人に共通するのは、ユーモアがあって、快活で明るい性格の人物だったようです。

「夜と霧」の中の一節で、<人間の生命は常に如何なる事情の下でも意味をもつ>とあり、「どれだけ人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望することはない」とフランクルは言いました。

大切なのは、人生の意味や、何のために生きているのか、と問い、苦悩するのではなく・・人は常に“人生”から問いかけられて、行動していかねばならない存在であるのでしょう。

そして、“苦しみ”にも意味があり、その苦悩が、何のため、誰のための苦しさなのか見出すことができれば、大きな救いとなるようです。そして、苦悩を受容することで苦しみを通り抜け、そこから超越できるとフランクルは言います。

アドラーや、こういったフランクルの思想に、ずいぶんと私たちは助けられます。それにもかかわらず、反ユダヤ主義や、「ユダヤ禍」というユダヤ人は災いをもたらす・・という考え方に根深さがあるのは、キリスト教国のユダヤ教そのものに対する、潜在的な敵意や憎悪があるのかもしれません。
   メンテ
No.43に対する返信 ( No.46 )
日時: 2016/09/04 02:57 (odn)
名前: いしまる

> 「空」は実相(真実の姿)で「色」こそ仮相(仮の姿)なんです。
お経の本質としては、それでいいと思いますよ。
江戸川乱歩の“現世は夢 夜の夢こそまこと”という言葉を思い出しましたが。

「色即是空 空即是色」は・・
物質要素(色)が実体がないという状態(空)なのであり、
実体がないという状態が、物質要素なのである。という意味で、間違ってないと思います。

「空」というのは、般若心経では、人知ではとらえがたい、神秘に裏付けされた不可知な世界を表すものですね。そして、般若心経はその意味を問い、考えながら読むものではなく、声に出して唱え、その神秘の力を“心”に感じるために唱えるものです。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.47 )
日時: 2016/09/04 14:34 (spmode)
名前: kaz

こんにちは

いしまるさん
般若心経は意味や考え方を問うものではなく、声に出して唱える事で発生する神秘の力を感じる為に唱えるいわゆる呪文である。
という、いしまるさんの考え方は理解しました。
ありがとうございました。
   メンテ
No.43に対する返信 ( No.48 )
日時: 2016/09/05 06:54 (dip0)
名前: きき

kazさん

仏教では、この世の苦しみの原因が、煩悩(さまざな強欲、執着、愚かさ)のためだとされてますね。

高慢や、自己中心など煩悩と罪は似ている部分も
あるかと思いますが。
聖書でいう罪とは、人が神の命令を守らずに、
善悪の知識の実を食べた事から始まったとされてます。

神への愛の欠如、不敬、不信仰が、高慢や自己中心をさらに助長してしまうとも言えます。
蛇(サタン)にそそのかされ、神の命令に対して疑い(不信感)を持ってしまい、蛇の嘘を信じて、善悪の知識の実を食べてしまいました。

心の平安や真理や、知恵を求めて
聖書を読む方や教会に来る人もいると思います。
聖書を読むことで、神様への愛や信頼が
深まって、罪を認識して悔い改めたり、
聖霊によって思いが変えられることもあると思います。

ヨハネ 14章27節
わたし(キリスト)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

主が与えてくださる平安というのは、
世が与える平安(分かりやすい平安)とは違うので、
中には、期待はずれだと思って失望する方やガッカリする
方もいると思います。
最初は、わからないこともあったり、
特に旧約は疑問に思うことやショックに感じる
こともあると思います。
   メンテ
No.48に対する返信 ( No.49 )
日時: 2016/09/05 08:57 (spmode)
名前: kaz

ききさん、おはようございます。
> 主が与えてくださる平安というのは、
> 世が与える平安(分かりやすい平安)とは違うので、
> 中には、期待はずれだと思って失望する方やガッカリする
> 方もいると思います。
主が与えて下さる平安と世の平安の違いが分かりません。
この世の苦しみの原因に気付き、それを手放してしまえば
この世での平安は得られると思うのですが、それ以外の平安(平安ではない状態)というものに思い至らないんです。
仏教でいう八苦(生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)は
自分の心が作り出した苦しみであるので、心の在り方により手放せるのだと。
愛別離苦:愛する者との別離
怨憎会苦:恨み憎んでる者に会う
求不得苦:求める物が得られない
五蘊盛苦:(人間の、自分の)肉体と精神が思うがままにならない
   メンテ
No.45に対する返信 ( No.50 )
日時: 2016/09/05 18:07 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

新しいことをする。
というのは、人が考えもつかないことを
なさるということですよね。

かつては、神の恵みにいたのは
イスラエルの民(聖書の神を信じ、従っていた場合。。)
でしたね。
もちろん、一部、元異教徒や異民族であっても
神を信じるものは、受け入れられていましたね。

神は、ユダヤ人だけの神ではなく
救いも、ユダヤ人の為だけでなくて、主イエスを通して
全人類に救いをもたらすということですね。

そして、新天新地(神の国)
今の人間の見地からは、想像もできないような
(おとぎ話だと思ってしまうような)
素晴らしい世界があるということでもありますね。

フランクルやアドラーは、積極的な人生観を
持つ人々だったようですね。
彼らの考えを、書物やネットを通して
読むことで、学びがあり、助けになる部分も
たくさんあるかと思います。^^

人が何のために生きているのか?と
考える時、どうしても<自分中心><自己都合>
を考えてしまうものですよね。
だからこそ、信仰がない人であればなおさら、
人生に何を問われているのか?という客観的な視点
(自分を見すぎる事から目をそらす)を持つことが大切なのだと思います。

神を信じる人であれば、神との愛と信頼関係の
もとに、生きるというのが人生の目的と考えるでしょう。
また、神が私たちと共にいるという平安と信頼と、
神が自分に何を望まれているか、神の御心を
考えるのが、苦難などに対応する方法でもあるでしょう。

苦しみも、砥石のように、自分を磨いてくれる
こともあります。
もちろん、無意味に思える苦しみがあるでしょうが、
それでも、将来や神の約束などの希望を持って
しのぐことも可能であると思います。
辛い時は本当に辛く、余裕がなくなって、もうダメかと
思う事もありますけどね。。

ユダヤ人の中にも非常に素晴らしい学者などもいますね。
しかし、ユダヤ人に対して、反感を持つ人もいます。

敵意や憎悪というのは、無知や恐れや嫉妬などから
くることが多いものです。
ある程度、隣り合わせで暮らしていて多少は知っていても、好意がなくて、恐れや嫉妬や偏見があれば
良いところは見過ごし、悪いところだけを
取り上げて敵意や憎悪を増幅させてしまうでしょう。

これは、ユダヤ人(他民族)に限らず、
日本人どうしてあっても、起こり得る事だと
思います。
愛の欠如、自己中心、自分と違う部分や欠点が
ある人を恐れたり、軽視してしまい歩み寄ったり知ろうとしないこと(無関心、高慢)が問題でもあると思います。
   メンテ
No.49に対する返信 ( No.51 )
日時: 2016/09/05 20:33 (dip0)
名前: きき

kazさん
こんにちは(こんばんは)

この世の平安と、主の平安の違いですか。。
簡単にいえば、この世の平安や救いは一時的であり
、主からの救いや平安は永続的なものであることだと思います。

そして、福音を信じ、罪の救いを受ければ、
死後、神様の<裁き>にあった時に、裁かれないと言う
平安でしょう。
私たちは、自分の善行では、罪を無罪放免にはされません。
いくら、5〜10個いいことをしても、(30〜50年も生きてれば)
神に対して人に対して、無意識(無自覚)でも何万〜何千万回も罪を
犯している可能性があります。

もちろん、これも<信仰>ゆえに信じていることですので、聖書や神を信じなければ、盲信や妄想じゃないか?神の裁きなどない。。と思う方もいるだろうというのは、理解はできます。

自分の限界を見極めて、自分のできることに
集中する、人生に前向きに取り組んでいくという
考え方(認知の仕方)も、もちろんこの世で生きる上で必要な知恵や考えです。
それによってある程度の、一時の平安(安心感、平静)は得られると思います。

その安心感で、十分だと思われる人もいれば、
それでも、平安が来ないことがあると思います。

マタイ 11章28〜30
<すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。>

主を受け入れ、主から学び、神とつながることで安らぎが来ます。
<聖霊>が与えられ、聖書を読んだり祈る際に、<霊的>に導かれることでも安らぎが来ます。。
罪の奴隷から、神の奴隷(神の子供)へとなることで
この世のサタンの支配下から、神の支配下に移ります。

この世で不幸や限界があるのは、罪のためであり
この世がサタンの支配下にあるからと聖書では
言われています。 
罪からの救い(十字架の贖い)、死への勝利(復活)、悪魔の支配からの救い(聖霊による力、み言葉の力、神様の子供としての権限)を人類にもたらすために、キリストは約束の君としてこられました。

しかしこの世では神を信じることや、福音の救いよりも
この世の哲学や思想や他のことのほうが価値があるように
思われています。

コリント第二 4章4
<この世の神(悪魔、この世の支配者)が不信者の
思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光に
抱える福音の光を輝かせないようにしているのです。>

この世の独裁政権や、様々な災害からの被害や、
現実的に抱える自分の問題や責任からは
簡単に逃れたり、奇跡的な介入があるとは
限りませんが。。。この世の支配者から逃れて、神の側に立って救われるには<福音を信じるだけ>で可能です。 
それが、主による救いであり平安とも言えます。

言葉で伝えるのには限界があるのですが^^
聖書入門.comの 中川牧師の
3分でわかる聖書もわかりやすくてオススメです。
   メンテ
No.51に対する返信 ( No.52 )
日時: 2016/09/06 00:22 (spmode)
名前: kaz

ききさん、こんばんは(こんにちは)
> 自分の限界を見極めて、自分のできることに
> 集中する、人生に前向きに取り組んでいくという
> 考え方(認知の仕方)も、もちろんこの世で生きる上で必要な知恵や考えです。
> それによってある程度の、一時の平安(安心感、平静)は得られると思います。
>
> その安心感で、十分だと思われる人もいれば、
> それでも、平安が来ないことがあると思います。
私が前のレスで言う「この世の苦しみの原因に気付き、それを手放してしまえばこの世での平安は得られると思う」とは
(精神的な)苦や不安は己れ自身が作り出しているものだから、
それに気付いて苦や不安を作らないようにしさえすれば、
結果的に平安が訪れるという意味で
努力や考え方で一時的な安心感を得ようというものではありません。
上手く伝わってなかったようですね。

   メンテ
No.52に対する返信 ( No.53 )
日時: 2016/09/06 00:52 (dip0)
名前: きき

kazさん

> (精神的な)苦や不安は己れ自信が作り出しているものだから、それに気付いて苦や不安を作らないようにしさえすれば、結果的に平安が訪れるという意味で
> 努力や考え方で一時的な安心感を得ようというものではありません。
> 上手く伝わってなかったようですね。

kazさんの考えでは、適度な(適切な)苦を感じることに収めるというのではなくて、苦や不安も、自分が作り出しているだけで、存在しない? 実際には苦や不安に思う必要すら全くなく、考えないようにして、他のことで
忙しくしたりしてれば、そのうち平安がくる。。ということなのでしょうか。

具体例がないと、いまいちわかりにくいですが。。

例えば、苦しみや不安の中でも、
ただの心配(誤解)からくるもの、つまり
人が作り出している不安もありますね。。
(〜だったらどうしよう。。などという
考えても仕方ない取り越し苦労や、疑心暗鬼に
なっていて、人が自分を嫌ってるのではないかとか。)

しかし明らかな原因があって、悲しい、胸が痛む
と感じたり心配することもありますね。
(自分や家族が病気になったり、事故にあってしまったり
して、そのことで悲しんだり心配するなど。)
その悲しい事実を、ありのままに受け入れて
適度に悲しみつつも、過度に心配しすぎたり、不安感情を膨らませて不安をさらに大きくするのでなく、今できることに目を向けるようにする。ということではないですか。

   メンテ
No.53に対する返信 ( No.54 )
日時: 2016/09/06 01:23 (spmode)
名前: kaz

ききさん
> kazさんの考えでは、適度な(適切な)苦を感じることに収めるというのではなくて、苦や不安も、自分が作り出しているだけで、存在しない? 実際には苦や不安に思う必要すら全くなく、考えないようにして、他のことで
> 忙しくしたりしてれば、そのうち平安がくる。。ということなのでしょうか。
いえいえ、誤魔化すとかじゃなく、本当は最初から存在してないんです。それを「人の心が作り出した」だけ。
> 具体例がないと、いまいちわかりにくいですが。。
>
> 例えば、苦しみや不安の中でも、
> ただの心配(誤解)からくるもの、つまり
> 人が作り出している不安もありますね。。
> (〜だったらどうしよう。。などという
> 考えても仕方ない取り越し苦労や、疑心暗鬼に
> なっていて、人が自分を嫌ってるのではないかとか。)
>
> しかし明らかな原因があって、悲しい、胸が痛む
> と感じたり心配することもありますね。
> (自分や家族が病気になったり、事故にあってしまったり
> して、そのことで悲しんだり心配するなど。)
> その悲しい事実を、ありのままに受け入れて
> 適度に悲しみつつも、過度に心配しすぎたり、不安感情を膨らませて不安をさらに大きくするのでなく、今できることに目を向けるようにする。ということではないですか。
>
人が死ぬ事は悲しい事ですか?
人が死ぬのは(事故であれ老衰であれ)生物としては自然な事です。
それを「悲しい」と思うのはその人に対する何らかの縁があるときだけで
知らない人が知らない場所で知らない時に死んだとしても
悲しくなることはありませんよね?
つまり「自分の心が作り出している」という事です。
たとえ肉親の死であっても、この世の法則(人はいつか死ぬ)を受け入れ
いつまでも一緒に居たかったという執着を手放してしまえば
「自分との縁を結んでくれてありがとう」という感謝の気持ちで
お別れすることができるでしょう。
   メンテ
No.54に対する返信 ( No.55 )
日時: 2016/09/06 04:16 (dip0)
名前: きき

kazさん

> 人が死ぬ事は悲しい事ですか?
クリスチャンであれば天国の希望がありますが、、
やはり、身近な存在であれば、悲しみは深く
寂しさや、喪失感はあると思います。

> 人が死ぬのは(事故であれ老衰であれ)生物としては自然な事です。

今の世では、人や動物が死ぬのは<自然>なことと
言えますが、それで割り切れる方もいれば、割り切れない方もいますね。

聖書では、人は死ぬように創られているのではなくて、
本来は永遠に生きるはずだと書かれていますね。
罪を犯したが故に(罪が入って)死ぬようになった
とされています。
人が罪を犯してしまったため、被造物(人間以外の
生き物)たちにも影響が出ていると言われています。

ローマ 8章19〜22節
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

人間や生きものは寿命があって死ぬことが
(本来の)神の法則ではなく、罪が入ったために
(神の法則から外れたために)死ぬようになったと考えられます。

創世記 3章17節
地は、あなたのゆえに呪われてしまったと言われたのである

罪が入り、この地も呪われて産物も限られてしまったため、動物の生活環境も変わってしまい変容してしまったとも考えられます。

主が再臨されて、神の国が来た時には神の法則(秩序)がもたらされて、人間や動物の寿命やライフスタイルも
今の自然法則とは違うものになると信じています。^^

> それを「悲しい」と思うのはその人に対する何らかの縁があるときだけで

縁がある、愛情や信頼関係があれば、
悲しみは特別強いものになるでしょうね。
他人に関しては、家族や友人よりは<ダメージ>
は少ないでしょうね。

亡くなった状況や年齢(子供や若い方)
によって、本人だけでなく家族にとっても、
気の毒だな。。残念だと思うことはあると思います。
どう感じるかは、個人差があると思います。

> つまり「自分の心が作り出している」という事です。
> たとえ肉親の死であっても、この世の法則(人はいつか死ぬ)を受け入れ

人には愛や思いやり、共感や、想像力が
あるので、様々な感情を持ちますし、
愛情(好意)があれば、悲しみも強くなりますね。

人の感情も、脳科学的に説明する(脳内物質など)。
そういう考え方をされる方もいますが
それに近い感じでしょうか。
   メンテ
No.55に対する返信 ( No.56 )
日時: 2016/09/06 13:55 (spmode)
名前: kaz

ききさん

> 人間や生きものは寿命があって死ぬことが
> (本来の)神の法則ではなく、罪が入ったために
> (神の法則から外れたために)死ぬようになったと考えられます。
「死ぬ」ってなんでしょうね。
キリ スト教を信仰していれば「魂」についての忌避感は無いでしょうし
死んだあとに神の国の門をくぐる(くぐれるかも知れない?)のは魂ですよね?
魂は体のどこにあるのでしょうか。脳の活動が魂なのでしょうか
病院で脳死状態で生かされている人は「生きている」とは言わないのでしょうか。
命の本質はその魂だと私は思っています。
それは決して死ぬ事はなく、身体を離れた魂はこの宇宙、仏教でいう「空」という本質に還っていくものだと。
(本来の)神の法則は本質としての魂は死ぬことはなく、物質を基盤とする現象界からの魂の離脱が
この世での「死」と言われているのではないでしょうか。

水(H2O)は雲の中で雨となり、地に降り注いで川となり、
周りの様々なものを溶かし込みながら海へと到達し
水蒸気になって空へ還っていきます。
どんなに形が変わっても何を溶かし込んでも水は水(H2O)です。
(電気分解で酸素と水素に分かれるという突っ込みは置いといてください)
身体は現象界(色界)での借り物に過ぎず、水でいう液体となった「状態を指すもの」に過ぎないと。

感情は肉の身をもつ人間としてこの世に生きるための部品として備わった
情動を根幹となすものなので、それ自体を否定するものではありません。
むしろ愛や慈しみ等の感情は神の心に沿うもので好ましいものです。
問題はそれに振り回されて、心が暴走を始めると
愛や慈しみさえ愛欲や過保護に変わり果ててしまう事です。
この暴走を止めるための釈迦の教えが、感情に流されず
行き過ぎた思考に走らないようにという「中道の教え」と、
日々の生活を正しく生きましょうという「八正道」です。


   メンテ
No.56に対する返信 ( No.57 )
日時: 2016/09/06 16:12 (dip0)
名前: きき

kazさん

死ぬとはどういうことか、
これはいろいろな定義がありますよね、
医学的には、心臓が止まることなのでしょうが。
これは、機能的な死ということですよね。

魂と霊に関してはいろいろな説明がありますが。
肉と言うのは、コンピューターで言えば、本体
魂というのは、ソフト(頭脳、感情、知性)
霊は、それを動かす電気(動力)とも言えるでしょう。

神様は、ちりから人間を作り、魂を備えさせ
霊(神の息吹)を吹き込まれました。
つまり、体も脳もちりからできてますから、
死んだらちりに帰ります。

ただし、魂の記憶というのは霊とともに残る。
これは死んだ時にもチップなどにデータがうつすことが
できるように、魂は霊とともに神の管理下に行く
と言ったらいいかもしれません。

肉は滅びますが、霊と魂というのは神が管理するので、
それを元にいくらでも(新しい体も)再生できるという考えだと思います。

知性、感情(精神の部分)が魂とも言えますが、
知性や心(精神)というのは、頭だけでなくて
腹(はらわた)など神経が張りめぐされている
部分にも関連があると思われます。
最近では、脳と胃腸の関連について言われてますし
腸は第二の脳とも判明してきていますね。

ヨハネ 7章38節
私を信じるものは、聖書が言っているように
その人の心の奥底から、いける水の川が流れ出るように
なる。

心の奥底というのは、<はらわた>という意味合いが
原語にはあるそうです。
参照聖句などが書いてある聖書には、注意書きとして補足してあります。

> 病院で脳死状態で生かされている人は「生きている」とは言わないのでしょうか。

医学的には生きていますし、その人をどのように
扱うかは倫理的側面から考えた方がいいですね。

脳死の判定も困難とも言えますし、
意識の回復する希望を持って、一定の期間
(数年)、延命措置をするなどの決定は
家族などがしなければいけませんね。
(経済的な問題もあるでしょう)

大人であれば健康なうちから、もしくは
病気になって手術を受ける前、正常な判断ができる
時に、尊厳死(例えば、脳死になって自発呼吸が
できないとき、末期状態で回復の見込みがないときの
延命措置など)について家族とも話し合い、
公正証書などにして、残すという方法もありますね。

> 命の本質はその魂だと私は思っています。

そのように考える方もいますね。

聖書からいうと命を持つ体を構成しているものは肉、魂、霊であり、霊(命の源)を神が吹き込み、
人を神に似せたもの、性質にする魂(知性、感情、
想像力、創造力)も備えてくださったと言えます。

霊においては、神から離れたために、
電源元から絶たれたPCのように、人には寿命が
生じて(充電できないので)死ぬようになったと
説明もできるかもしれません。

魂が死ぬことはないと考える人もいますね。

マタイ 10章28節
からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

魂は地獄においては、滅ぼされるとあります。
黄泉(神を信じない人が死後に一時的に置かれる場所)
とは別で、地獄とは最後の審判後の後に
投げ込まれる場所です。

魂が、不滅。。というより、魂が生きる(活きる)死ぬとは
どういうことかを考えると、少し難しいですが。

地獄は苦しみの場所ですので、魂の部分的な機能は
残っていると思われます。
(霊が死んでいても、一定期間 100年ほど生きられるように)
ただ、この地でするように、知性や想像力を用いて
楽しんだり、学んだり、仕事をするように、魂を有効的に用いられないと
言えるでしょう。
魂の機能は残りつつも、<死んでいる>と言えるでしょう。

人間に対して、愛を持ちつつも人間依存や、人間中心にならないことは大切ですね。^^
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.58 )
日時: 2016/09/07 13:34 (spmode)
名前: kaz

ききさん

地獄ってどこにあるんでしょうね。(天国もです)
死んでいないのに(現実に「今」生きているのに)悩みや苦しみで「自分は今、地獄の中で生きている。」と思っている人もいるでしょう。
私はこの世界は「多元宇宙、多重次元世界」だと思っています。
次元の異なる世界がスペクトラム(連続体)的に「重なり合っている」と。
今生きている場所(座標)はそのままで、心の状態により地獄であったり天国であったりするのではないでしょうか。
神の心により近い人は高次側に、遠くなるほど下位の次元に移動していくと。
最下位の次元では魂の活動は、ほぼ停止するでしょう。それこそ「消滅」と言われるくらいに。
ただし本当に消滅することはないと思っています。
聖書では本来は永遠に生きるはずだと書かれているのでしょう?
地獄は魂が罪や妄執を手放せずに、大きく膨れ上がったその重みで堕ちていくその先にあるのでしょう。
前のレスに書いた水の話しで言うなら、汚れて淀みこびりついた執着が
その重み故に沼底に沈み、ヘドロの奥底で身動きも取れなくなった状態ですね。




   メンテ
No.50に対する返信 ( No.59 )
日時: 2016/09/07 14:34 (odn)
名前: いしまる

こんにちは。
まず、私なりに、人間の「死」について言及しておきたいと思います。

神学者や聖書の解説書によると、聖書の中では「死」という言葉が二つの違った意味で、表されているようです。

それは、神からの離反である“罪”の結果である死と、人生の終局としての肉体の死と区別されているようですね。

つまり、ローマの信徒への手紙では、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」「罪が支払う報酬は死」と語っています。罪の力と神の怒りによる不幸ですね。この一人の人というのは、アダムをさしているのでしょうか?

しかし、この死が罪によらず、人生の終局としての死であった場合、聖書では・・
「私たちは、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなると信じます」とあるように、「罪が死によって支配していたように、(キリストによる)恵みも義によって支配しつつ、イエス・キリストを通して永遠の命に導く」と言っています。

イエス・キリストを通して永遠の命に導く・・というその言葉の意味するのは、たとえ、人は肉体に死が訪れても、真の自我である魂は決して滅びないという、“霊性”の存在であるというもの、と私は信じています。

霊的(スピリチュアル)な存在というものは、科学で証明されたわけではありませんが、「死」や、「霊」「魂」が人間の理解に及ばない世界であるとしたら、必要なものは、何を信じるか、信じられるかによってのみ、意味や救いが存在するものだと思います。

さて、ユダヤに対する敵意や憎悪についてですが・・ユダヤ人は、世界で最も高知能だったり、現代の哲学、思想方面のキーパーソンを輩出していたり、音楽業界にもユダヤ人が多いことが知られていますが、彼らに対する憎悪は、そういった表面的な畏怖や嫉妬などからくるものではありません。

「タルムード」という、モーセが伝えたもう一つの律法とされるユダヤ教の聖典があって、ユダヤ教徒の生活・信仰の基となっているものがありますね。

その教えは・・「ユダヤ人以外はゴイム(家畜)であるから、ゴイムのものは奪い取ってもかまわない」というもので、この教えを中心に、ユダヤ人は忠実に行動するといわれています。他にも、イエス・キリストを罵る言葉や悪口、非ユダヤ人を呪詛する定型句などであふれ返っているそうです。

こういったユダヤの真相をキリストは暴露し、徹底的に糾弾しましたね。マタイによる福音書23章の、律法学者とファリサイ派の人々を非難した言葉は有名です。

タルムードのその言葉づかいと内容があまりにも邪悪であるために、非ユダヤ人社会がそれを知ったとき、ユダヤ人に対して立ち上がり、ホロコーストなどの組織的な行動が起きたのかもしれません。

しかし、民族宗教のユダヤ教は救われるのはユダヤ人だけであり、非ユダヤ人は救われないという教えに対し・・キリスト教の神は分け隔てなく、すべての人々を救うという、「愛の宗教」として決定的な違いがありますね。タルムードの呪詛のような教えが、いつの日か、神によって淘汰される時が来るのを願うばかりです。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.60 )
日時: 2016/09/08 10:33 (ppp)
名前: 黒苺

皆さん、色々と面白い話をされておられますね。
横から見ているだけでしたが、また一つ横槍を入れてみようかと。


別の次元の世界が存在しているかもしれない、というkazさんのお話ですが、実は可能性があると言われはじめています。

物理学では、古来から、あらゆる物理現象の主となる、たった一つの理論があるのではないかと言われており、それを求める事はアインシュタインをはじめとした世界中の物理学者達の大きな命題の一つでした。

そして最近になって「超弦理論(超ひも理論)と呼ばれる理論なら、あらゆる物理法則を説明しうる可能性が出て来た」と言う事で注目されています。

その理論においては、人間が認識している4次元(縦・横・高さ+時間)の概念以外に、さらに別の次元の世界が存在している事が理論の大前提になっています。

その別の次元に天国や地獄があるかは分かりません。死んだらそこに行くと言う事もあり得る話かどうかすら分かりません。心の有り様で変わる、というのも分かりません。

ただ、「どうやら別の次元の世界があるようだ」、「世界は多重次元の世界で成り立っているが、我々はその世界を4次元として投影して認識しているに過ぎないのかもしれない」というのは現代の理論物理学における可能性の一つとして強く意識され始めている事は知っておくと良いと思います。

こういった理論物理学なども、死生観や宗教観を考える際に思考に取り入れてみると見方や考え方が変わったり、広がったりする事もありますから面白いのではないでしょうか。

詳しくはYoutubeで超弦理論入門講座と検索されて観られると良いと思います。難しい数式も無いし面白いですが、かなり長いです。

ちなみに、この入門講座を作っている久保氏について調べてみましたが正直略歴がよく分からない人です。胡散臭いような印象も受けますし、大変見識深く知的な印象も受けます。

ただ、この人は仏教関連の動画も出していて、仏教の考え方と超弦理論がリンクしている事を指摘している内容は話としてはとても知的好奇心をかきたてられて興味深かったです。

久保氏の空の論理に関しては、いしまるさんの認識と近いように感じましたけどね。ただ、宗教や価値観は別にしても、単純に考え方として面白い話だったのでオススメです。
   メンテ
No.58に対する返信 ( No.61 )
日時: 2016/09/08 16:18 (dip0)
名前: きき

kazさん

地獄の場所は、どこかはわかりません。
マタイ25章41節
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」

地獄は、本来は悪魔とその使いのために用意された
場所ではありますが、キリストに反するもの、救いを
拒否する場合は、神との関係や恵みから離れることに
なるので、地獄に行くことになると言えます。

天国の場所も、そう遠くないとありますが、
いわゆる可視できないものの、異次元のような
感じであるのかもしれませんね。

この世の地獄、または天国のようだという表現を
することがありますね。
座標はそのままで、心(魂の感覚、感情の部分)の状態によっては地獄ともいえ、天国とも言えるという
考えもありますね。

例えば、クリスチャンは、今はこの肉の
体を身につけて生きていますが、
神様と和解した時に、肉において死に(罪を受け継いだ
自分)霊を受けて、復活をして、聖霊を受けキリストとともに
生きます。

自分の状況がよくても悪くても、自分が平安だ幸せだと自分が思っていなくても(認知)関係なく、天国の領域と恵みにいると言えるでしょう。

自分の<魂、心>次第という、考えとは違う部分が
あります。
心(考え、捉え方)の救いも、信仰によって得られる
こともありますが、霊的救いというのは、もっと
<根源的なもの、自分の立場>とも言えます。

大まかに言えば
霊の救い= 罪の支配から救われ、神様の支配下に
うつること。霊的に復活すること。死後に天国に行くという約束

魂の救い=信仰や、聖霊の助けによる、考えや心の
救いや支え、平安な思い。 聖化など霊的な成長

体の救い=死後、天国に入る際に、栄光の体
完全な体をいただくこと。
と言えます。

多くの人は、<魂の救い>を第一に求めていることが多いですよね。
そのために、この世の哲学や心理学、その他の思想
(仏教)や宗教などいろいろな、救いの道を模索します。
しかしそれは、この世の50〜100年という
肉の体を持っている今の人生においては。。有効的と言えます。

クリスチャンも信仰によって、魂の救い<も>得ることはできるのですが、大事なのは霊的救いであると言えます。

> 聖書では本来は永遠に生きるはずだと書かれているのでしょう?

人間は神様と共にいて(霊において生き(活き)続け)
永遠に、幸せと平安のうちに生きるように
創られていると言えます。

地獄は、神の恵みがない場所、苦しみの場所と言えます。
今のこの世は、サタンが支配はしてますが、
ある程度、活動には制限があると思います。

神様が人間のために創られた、美しい世界と
自然などの秩序がありますし、恵みもあります。
自然の資源を用いていろいろなことができますね。

この世の地獄と思える場所から抜け出すために、ある人は死を選ぶこともあり、ある人は体の衰弱などの結果によりなくなります。
しかし地獄では、どんなに苦しくても死ぬことすらできないとも言えるでしょう。
永遠に生きると言っても、永遠の苦しみとも言えます。

コリント第二 2章1,2
 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

今は<恵みの時>と言われていて、この世で
神様の恩恵(自然や、自分が持つ能力や健康)
を多少受けながらも、救いを受けるかどうか
<選択する>という期間が設けられていると言えます。


   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.62 )
日時: 2016/09/08 17:53 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは。

一人の人によってというのは、アダムを
指しています。
最初に罪を犯したのは、エバではありますが
聖書の文中を読むとアダムもすぐそばにいたと思われます。
アダムが最初に神様によって創られた完全な人間であり、
エバは、アダムの一部をとって創られました。

この世の多くの誠実な人々は、<魂>の救いに目を向けて
仏教(煩悩からの救い)や、哲学や心理学や、他のスピリチャルな教えや、ニューエイジに、知恵を求めます。

自分の魂を精錬する、徳を積むというのは良いことです
が、人間の肉の努力である限り限界があるために、
神(仏)などの恩寵を考える部分がありますね。

霊的な救いというのは、神からの一方的な
恵みであって、人間ができることは
それを受け取るか、受け取らないかという
アクション(選択)とも言えます。

魂の救いも、霊的な救い(神との関係)と
密接に結びついており、聖霊の助けなしでは
限界があると言えるでしょう。
魂は霊という結びつきによって、成長ができる。

健全な魂(精神)を持つには、神や隣人への
愛や信頼(信仰)が必要と言えます。

ユダヤ人に対しての憎悪というのは、
タルムードなど、ユダヤ人の一部の人が
選民思想や、排他的な考えがあるという
ところにもあるということですね。

健全な生き方をしたり信仰を持つためには、
聖書にもあるこの教えが大切です。
申命記10章12−13
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。
ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。

<心、魂を尽くして神を愛して仕える>ことです。
心や魂の中心が、<自分>に成ると自分に都合の良い
教えや考えで 心や魂が満たされてしまいます。
また苦悩のことでいっぱいになりすぎても
神様の希望や、計画への信頼による平安を
失ってしまいます。

世にいながら、世を愛しすぎず、世に倣いすぎない
というのは、イスラエルの民が他民族に支配されていて
寄留者として住んでいた時と同様に、
現在のクリスチャンにとっても大切なことですね。
共存、協力しつつ、信仰を保つということが
大事なことだと思います。

神の救いは、特定の民族の上にあるのではなくて
すべての人の上にあることと、
誰もが、(神の救いを受け取ることを望めば。。)
神様の子どもになることができるのは
恵みですね。

   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.63 )
日時: 2016/09/09 00:34 (spmode)
名前: kaz

いしまるさん
>霊的(スピリチュアル)な存在というものは、科学で証明されたわけではありませんが、「死」や、「霊」「魂」が人間の理解に及ばない世界であるとしたら、
科学はまだ「目に見えるもの」「計測できるもの」でしかその存在を証明することが出来ませんから
この物質界以外を科学的に証明する事は困難だと思います。
これだけ医学が発達しても人の心という一番身近なものでさえ、
その存在を科学的には証明できていないのですから。

黒苺さん
「超弦理論」初めて聞きました。
さっそくググって「サルでもわかる「超ひも理論」の基本だけ NAVERまとめ」というのを読んでみましたが、
・・・・・・・・
良くわかりませんでした。
私はサル未満なのかと少し凹みました・・・ orz

ききさん
この世(物質界)での死は生物としての肉体が死ぬだけで、魂や霊の死ではないというのは共通認識として
では、キリ スト教を信じてさえいれば魂や霊は救われるのか。
キリ スト教を信じていない者は救われる事はないのか。
仏教その他の宗教を信じている者や無神論者は、どんなに清貧に生きて(キリ スト教で言う)愛に満ちた生活を送ったとしても、その魂や霊が救われる事はないとお考えですか?
   メンテ
No.63に対する返信 ( No.64 )
日時: 2016/09/10 05:13 (dip0)
名前: きき

kazさん

キリスト教の信者というより、クリスチャンというのは、
イエスをキリスト(救い主)と信じる人ですね。

クリスチャンでない人は、イエスを
賢人、人間的に素晴らしい人、預言者と
取るだけで、救い主とは受け取らないでしょう。
また、クリスチャンと言われる人の中でも
いろいろな人がいます。

ヨハネ 14章6
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません

キリスト教を信じてないものというよりイエスがキリスト(救い主)と信じないことが問題なのでしょう。

この世において、数十年くらい清貧に生きたとして
人の目からは立派で罪がないように見えても、
生涯を通じて、罪がない人はいないでしょう。
人は神のみ前に罪を犯さずには生きられないものです。
言葉において、心の中において罪を犯さない人はいない
と思います。

ローマ 3章 22〜24節
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる<神の義>です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、<神の恵みにより無償で義とされる>のです。

自分の義を罪に対して<完全な贖いの犠牲>の対価として、果たして十分だと言えるでしょうか。
もちろん、この世には、信仰を持たない人でも
(人の目から見れば)誠実で真面目な人はいます。

しかし、自分の霊や魂を救うことは、自分の義によってはできず、主イエスの義を、着ること(主の贖いによって罪赦されること)以外にはなされないというのが聖書からの
考えと言えます。

エペソ 2章8〜10節
8節あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

良い行いや愛ある生き方ができる方は、もちろん素晴らしいですが ^^ 神様が人間に望んでいるのは<命>を選ぶことです。

申命記 30章19〜20節
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。
確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

主はあなたの命であり。。とあります。
霊、魂、肉(体)全てを与えてくださるのは主であり、
霊や魂や肉の完全な永続的な救いも、神によるものと
私は信じてます。^^

   メンテ
No.62に対する返信 ( No.65 )
日時: 2016/09/10 16:22 (odn)
名前: いしまる

こんにちは。

超弦理論(超ひも理論)を、ざっくり一言でいってしまうと・・
一本のギターの弦を、指で触れることにより、振動モードが変化して音色が変わります。

超ひも理論では、一本はの細い「ひも」が、いろいろな振動モードで振動することにより、異なる素粒子としての性質を示すといっていますね。

つまり、超ひも理論は、たった一本のひもの振動モードの違いによって、200余種の素粒子をすべて説明できるといわれていて、さらに、超ひも理論は、自然界を支える四つの力・・重力、電磁気力、強い核力、弱い核力を統一的に説明できる可能性があるそうです。

そしてまた、この理論は、私たちが常識として持っている、「空間」の概念を、根本から変えてしまう、時間と空間すら存在しないような未知の世界や、別の次元の世界が存在する表現形式として考えられているわけですね。


さて、魂の救いも、霊的な救い(神との関係)と密接に結びついていて、聖霊の助けなしでは限界があるんですね。
ヨハネによる福音書16章に、聖霊の働きが書かれています。

新共同訳では聖霊が「弁護者」となっていますね。聖霊の降下を準備し、聖霊降臨を導きだすのはキリストのはたらきで、聖霊とキリストは、おたがい助け合っているのでしょうか?

また、キリストは、この世が聖霊でみたされるようにと地上に降りてこられ、信徒にとって生きることの目的は、聖霊をうけること。厳密にいうなら、聖霊によって、私たちの心に「神の王国」をきずくことである・・と東方正教会(文庫クセジュ)のテキストにありますが、これはキリスト教全体の考え方として捉えていいのでしょうか?

なるほど、申命記10章12−13に書かれている、神が求められているものとしての教えには、耳を傾けるものがあります。しかし、申命記13章10にあるように、家族や親友が異教を勧めてきたら、このような者は必ず殺さなければならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し・・は酷いですね。

申命記はヤハウェに仕えるための、モーセの口から語られたルール集のようなものでしょうが、このように理解できないものが多々ありますね。

旧約聖書では、サタンは神の敵対者ではなく、むしろ神を促し、人間の罪を慈悲なく罰する存在であるように思います。「バール神」は征服王朝ヒクソスにより崇められ、古代エジプトを支配してから、エジプト神話の最高神「セト」と「バール神」は同一視されました。このセトが「サタン」の名前の由来となっています。

つまり、ユダヤ教のサバタイ派は、ヒクソスがつくり上げた「奴隷の管理」が目的の宗教で、現代に至ってもドイツからアメリカに渡り、サタンの力で世界を支配してきたのでしょう。
   メンテ
No.65に対する返信 ( No.66 )
日時: 2016/09/12 16:56 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

イエス様と、聖霊様は神様の目的(人を救うこと)の
ために助け合う関係と言えるでしょう。
聖霊が降臨するためには、まず<罪の贖い>が
必要でした。 罪がある状態(神様と和解できてない
状態、完全な贖いがない状態)では
聖霊を内に受け取ることができないと言えます。

旧約の時代は、ヨシュアや、ダビデ王、預言者などに聖霊が臨まれることもありましたが、今のように
内に住んでくださるというのとは違うものと言えます。

天国に入れば、聖霊は内在して助ける必要がなくなると
思われます。
例えるなら聖霊は、子宮や胎盤の働きと言えます。
胎児が生まれて外に出れば、子宮の役割は(胎児にとって)終わります。 
天国に行けば神の霊が充満しているので、御霊は
存在はしていても、人に内在する必要がなくなると言えるでしょう。

> 厳密にいうなら、聖霊によって、私たちの心に「神の王国」をきずくことである・・

聖霊によって満たされることにより、肉(体)はここにいて、寿命がある体を持ってはいますが。。
霊的には新生しているので、神様の支配下に移っていますし、神様の王国の市民となっていると言えます。

神の王国はすでにありますが(パラダイス)
キリストの王国(新天新地)はこれから来ます。

心(魂)に築くというと分かりにくいですが、
自分が神様の子どもとなり、その<自覚>を持つと言ったらいいでしょうか。

申命記の13章の記述は、確かに厳しく感じますが、
12章などにもあるように、異教というのは、
今でいう他の宗教というような穏やかなものではなくて
<彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。>
つまり、子供を異教の神の捧げ物とするような
ものであったと考えられます。

他の神々に仕えようと言って、家族や自分の子供を
捧げようなどというものを、野放しにしては
いけないということなのだと思います。

現代であれば、家族や他人に対して虐待や暴行をする人は、警察や精神病院など専門の収容施設に入れられたり、
法律によって処罰されるかもしれません。 
しかし、紀元前の時代(イスラエルの民に限らず)
蛮行を裁いたり抑制するための公の機関がなくて任せられない場合は、家族やその地域の中で対処しなければいけなかったと言えるでしょう。

現在でも、家庭内での暴力や犯罪、問題というのは、
警察ですらも、介入が難しく、病院や医者ですら
どうにできないこともありますので、家族が対処したり
民間の機関が介入したりすることもありますね。


サタンは神の敵対者ではあるものの、
悪魔は神様に勝つことはなく、悪魔の働きも限度があり、神様の計画をそらすほどの力はないと思われます。

創世記 3章15節
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

サタンは何度もアダムとエバの子孫、のちに
ダビデの家系からキリストが生まれることを阻止しようと、イスラエルの民が異教にそれるように誘惑したり、
他の民や王がイスラエルの民を滅ぼすように画策もしましたが。。イエスはダビデの家系に生まれるという預言(神の計画)はそれることはありませんでした。

サタンの攻撃は許容しつつ、世がサタンの支配下に
あっても主権(手綱)は譲らない状態かもしれません。

悪魔は人間が、神の救いを受け取らず、罪の奴隷状態にあることを望み、罪を犯しその結果を刈り取り続けることを
望んでいると言えるでしょう。

ガラテヤ 6章7〜8節
おもい違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

神様は、肉のためにまいて、刈り取るという
罪の奴隷状態の悪循環を<キリストの贖いと聖霊の働き>
という、霊と魂の救いによって断ち切って、
私たちが御霊のためにまいて、命と平安を得るという
好循環へと変わることを望んでいると思います。

奴隷の管理。 
サタン、悪霊やその精神に従う人は、人が福音を
信じて罪の奴隷状態から救われることよりも、
人間を奴隷のように扱うことを(一時的に力を与えたり欲を満たすものの、支配下に置くための飴に過ぎない)望みますね。

一時的な力、名誉、収入。優越感や利己心を満たすことで
安心感を得る人もいますが。。その安心は長くは
続かないことが多いものです。
   メンテ
No.66に対する返信 ( No.67 )
日時: 2016/09/13 02:58 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

なるほど、聖霊は、(神の)子宮や胎盤の働きをするようなものなんですね。

さらに、聖霊について、「東方正教会」(オリヴィエ・クレマンというフランスの神学者が書いた、少し難解ですが良書です)には、

教会の秘跡(サクラメント)で、キリストの栄光ある“からだ”があらわれ、私たちがその“からだ”にあずかれるのは、聖霊のはたらきによると考えられている・・結論的にいうなら、人間が霊をもつもの(神の性にあずかるもの)になるようにと、神は肉体をもつものになられたのである・・

このキリストの霊的な“からだ”、つまり聖霊によってみたされたキリストの“からだ”は、聖霊が永遠に降臨するところである・・洗礼をうけることは、この“からだ”と一体になることである・・

とあります。つまり、洗礼という、キリスト教徒となるために教会が執行する儀式によって、人間が霊をもつものとして、キリストの栄光ある“からだ”に恵みを受けるというわけなのでしょうね。やはり、教会による「洗礼」を受けなければ、聖霊の恩恵には、あずかることができないのでしょうか?

> キリストの王国(新天新地)はこれから来ます。
新天新地・・ヨハネの黙示録に21章に登場する、新しい天と地のことですね。

私の理解では、キリストがキリストを受け入れたすべての人のため(クリスチャン以外の人にも)に用意される、キリストの千年王国の後の、宇宙全体が生まれ変わった、根本的に新しい世界であると理解しています。

しかし、ヨハネの黙示録に描かれているような終末思想というのは、いろいろな無知と誤解があるように思います。世の終わりが近づいているとか、世界が破滅に至るとか・・これは、古代ユダヤ教に流布していた黙示文学の影響です。その断片としての「イザヤ書」や「ダニエル書」が有名ですね。

私の友人も、新興宗教に所属し、世界が破滅し死後に裁きが来るとか言って、入信を勧めてきますが、すべて昔のユダヤ世界の間違った終末思想の影響です。

真にキリストの福音(喜びの知らせ)を信じる者(クリスチャン以外の人も)は、世界のどんな危機的な状況のなかでも、最終的には人間の歴史が破滅に終わるのではなく、神の恵みによる勝利に終わるという・・信頼と楽観主義を貫いていけばいいと私は思っています。(聖書には、サタンも最終的には敗北が描かれていますよね)

また、民数記や申命記など旧約聖書は、もともと、ユダヤの古代人によるユダヤ教の経典で、当時の宗教、民族の基礎にするための文章だったわけで、現代の私たちの価値観に置き換えるから、「理解不能」という思考になってしまうのでしょう。前にも言いましたが、聖書はすべて、物語というよりも、「祈祷書」として読むのが正しいあり方であると私は考えています。
   メンテ
No.67に対する返信 ( No.68 )
日時: 2016/09/13 17:04 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

洗礼を受け、聖霊を受け、満たされることで
主と一体になるといいますね。
聖霊を内にいただくと同時に、クリスチャンはキリストを着るとも言えます。

洗礼も大切なことですが、もっと大事なのは信仰告白をしてから、神様との親しい関係を持つことです。

聖霊によらなければイエスが救い主だとは
告白できないので^^ 聖霊は信仰告白する際に既に
<種>のように受けていると言えます。
しかし信仰を持ち、神様との愛ある関係が築かれる
ことで聖霊にさらに深く満たされて行くといったほうが。。いいと思います。

聖霊により神様と一体になる、つながるというのを理解するために、ヨハネの15章5節は助けになると思います。
<わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです>

<接ぎ木される>と言う例えも有ります。
枝は、木から離れたら枯れて死んでしまいます。
罪を受け継いだ人間、(アダムの子孫)は死にます。
しかし、主によって霊から生まれて(福音を信じて)
主につながるものは死んでも生きるということです。
また聖霊によって、(自力ではなくて)良い行いができるように変えられていく。ということです。

神様をただ(存在を)信じていても、繋がってなければ
(聖霊を受けなければ)葉っぱが出ても実を結べません。
救いとは別ですが^^、クリスチャンでも個人差があって洗礼を受けて何かしらの変化が出たり、実を結ぶ人と結ばない人がいるのはそのためです。
果物も、最初の数年は実がつかないこともありますよね。
だいたい3〜10年くらいで実が出てくるものです。

洗礼というのは、<結婚式>のようなものと考えると
わかりやすいと思います。 
<籍>もしくは<婚約>することが信仰告白(神様との親子の
契約)と考えれば、洗礼を受ける前でも聖霊を
受ける<神様との親しい交流をする>ことはできるでしょう。

結婚をまだしてなくても、特別な好意、信頼関係をそれ以前に持つことは可能ですね。
もちろん、結婚後にさらに一緒に人生を歩むことで
信頼を深めることはできます。

千年王国の後の、新天新地ですね。
ヨハネの黙示録にある、終末の預言については恐る
人もいますね。
サタンの支配や、罪の支配下(影響)から完全に解放される、悪を一掃するための戦い(裁き)であり、
神様の平安と恵みのうちに再び、生きるという喜びの時を迎えるためでもありますね。

旧約聖書は、今の人の感覚(価値観)で読むと、理解しかねることが多いと思います。
今生きている多くの人は、一定の安全が保障されている
状態だからかもしれません。

しかし、現在にもある問題を当てはめて、想像力を
働かせてみると理解できると思います。
ストーカーやDVなどで脅されていて危害を加えられても、警察が動けるのは、実際に何かがあってから(遅い)という事もありますよね。

法の権限も、警察の権限でも、家族内や人間関係の
もつれにたいして介入が難しい事もたくさんあります。
自己防衛にも限界があります。 正当防衛がどこまでできるのか、どこからが過剰防衛なのか?
過剰防衛で裁かれたり、加害者に成る可能性のある人
の人権だとか、周りへの危害や迷惑を避けるために被害者は怯えて暮らし続けたり、不幸なことに
その被害者や家族が殺されたりするケースもあります。

旧約時代で、異教を進める家族や友人を殺すのは残酷
な行為にも見えますが。。もしその人が悪魔崇拝を
していて自分の子供や、可愛がっている姪っ子や甥っ子の命をつけ狙っていたとしたら。
家族や親族の中に、子供や女性を付け狙ったり
暴力(身体的、性的)をする危険性がある者がいたら、
どうするのでしょうか。 

公にするのは家族の恥だと思ってただ隠して被害者に
我慢を強いてスケープゴートにするのか、最悪の被害が出るまで何もしないのか。。そういうケースがこの世の中にはあると思います。

家族や親族の中で大人の男性たちが、危険人物(身内でも)を押さえ込んで拘束することもあり得るでしょう。
警察などに引き渡したり、法に訴えても注意だけされて釈放されて、預かってくれる施設もなく、家で拘束して
管理することも不可能であれば、やむなく殺してしまうこともあるかもしれません。
(もちろん、殺人は罪ですが情状酌量と言える状況もあるでしょう。)
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.69 )
日時: 2016/09/14 17:34 (enabler)
名前: ガラシャ

申し訳ありません。もうここには来られません。今まで本当にありがとうございました。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.70 )
日時: 2016/09/14 23:56 (dip0)
名前: きき

ガラシャさん
ここには、これないのですか。

これからも、ご家族や学校の友人や
その他、周りの人たちと良い関係が
続きますように。
中学生のうちに教会に行く機会があると
いいですが、高校からでも試しに、3〜4の
信頼できそうな教会を見学されるのもいいでしょう。

聖書も時々読んでくださいね。^^
お祈りも大切ですが、聖書を読み神様の
お考えや、私たちへのメッセージを読んで
ください。
(聖書は持ってますか。。口語訳であれば
確か無料のアプリで、ダウンロードできるものも
ありますね。)

ネットが見られる機会があれば
聖書入門.com  
カトリックでしたら
片柳神父のブログ道の途中で 
ラウダーテ 女子パウロ会 などのブログやHPを
見られるのも良いと思います。

渡辺和子氏などの本も図書館などにもあるので
読まれるのもお勧めしますよ。

ガラシャさんの上に、神様の恵みと
聖霊の導きと、支えがありますようにお祈り
します。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.71 )
日時: 2016/09/15 17:12 (odn)
名前: いしまる

ガラシャさん。

もうここには来られないんですね・・スレ主である、あなたが来ないのであれば、このスレもこれで終わってしまいますね。

もしかして、私たちがキリスト教について話をしていて・・その内容が、あなたが思い描いていたキリスト教のイメージから、どんどんかけ離れていってしまったのではないでしょうか?

残念ながら、「宗教」というのはキリスト教に限らず、すべて“劇薬”のようなものであると私は思います。少量でも激しい作用をもたらし、使い方を間違えると、命を危険にさらしてしまうかもしれないものであるのです。

だからこそ、キリスト教に興味や関心があるのなら、とことんその宗教について調べなければなりません。例えば、ユダヤ人だった心理学者のアドラーは、ユダヤ教信者でしたが、「多くの人が信じる神を信じたい」と言ってキリスト教に改宗しました。

キリスト教のように、世界の人に広く行き渡って、極めて多くの物事にあてはまるような宗教は他にありません。それはつまり、すべての人は対等の関係にあり、人はみな神の子であり、等しく神の子として愛されている・・という教えが根底にあるからですね。

それについて心底、ガラシャさんの心に感じられたとき、もう一度、キリスト教の教えについて触れてみるようにしてください。

ききさん。

洗礼についてですが、私はキリスト教の“劇薬”の部分をまだ、完全に払拭できていません。それは、キリスト教の・・ユダヤ教が母体になっている「ユダヤ・キリスト教」の部分が疑心暗鬼になっていて、旧約のエピソードが恐ろしく感じられたり、疑わしく思えたりするわけですね。

しかし、キリスト教の勉強をしていくうちに、イエス・キリストから召されていると感じられ、何かを与えて下さるようになると思い、それ以外に幸せはないという憧れが強くなったそのとき、私は自然な想いで洗礼を志願するでしょう。

さて、申命記13章10の、家族や親友が異教を勧めてきたら、このような者は必ず殺さなければならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し、次に、民が皆それに続く・・のその理由として、聖書には、

「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主から離して迷わせようとしたのだから、」とあります。

主はその家族をエジプトの地、奴隷の家から解放してくださった神だから、その救い主を捨てるようなことがあるとしたら、それこそ家族とともに、救い主をないがしろにするのであって、許されない行為であると・・。つまり、家族や友人、仕事を超えた、もっと強い堅く結びついた神との関係を、第一にしなければならないと言っているのでしょう。

「宗教殺人」というのは、ききさんが言われる、現在の社会問題を当てはめて、想像力を働かせられないくらいの残虐な戦闘行為、迫害で満ちています。(ユダヤ人迫害、アメリカ先住民虐殺、異端審問など・・)

宗教殺人の本質は、キリスト教が「敵をも愛せ」という愛の宗教であっても、その殺人が神の命令によってなされるときは「正しい殺人」であると見なされる、という事実にあります。したがって、信仰者にとって、神の殺人命令が善となるのは論理的必然ですね。神の命令で、カナン人(悪魔を拝む民族)への略奪と殺害を実行したモーセやヨシュアなどがそうでしょう。

神の殺人命令には、人間にはわからない深い神の理由があったに違いない、と正当化し、「神の名のもとに殺人を行なう」のは旧約聖書では当然なのでしょう。「聖戦」思想は旧約を一貫して流れています。イスラムの世界では現在でもそうですね。しかし、新約聖書では、これらに対して厳しい歯止めがかけられているようです。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.72 )
日時: 2016/09/16 22:14 (spmode)
名前: kaz

こんばんは
先週末から風邪を引いてしまい、やっと復調できました。

ききさん
自分の固定観念と言葉の意味の受け取り方が原因で
なかなかききさんの言われる事に納得がいきませんでしたが
時間をかけた事でやっとの事、意味がつかめた気がします。
キリ スト=救世主、霊的指導者なんですね。

あ、それから先日、対話カテゴリーにスレッドを立てましたので
こちらで話し足りないようでしたら、ご利用下さい。
歓迎します。
http://wailing.org/taiwa/read.cgi?no=1552

ちなみにスレ主のガラシャさんに、このスレッドの残りは使って良いと言うことを
確認してきました。
   メンテ
No.71に対する返信 ( No.73 )
日時: 2016/09/17 01:44 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

聖書の劇薬の部分(聖絶と言われる戦争や、
厳しい律法や裁き)が
どうしても最初は理解できない。。というより
消化不良を起こすこともあると思います。

例えば、魚や肉を食べる時、普通は食べやすい身の部分を食べます。
しかし、調理方法によっては、内臓や骨までも上手に生かすこともできますね。

霊的にまだ生まれてない人(信仰がまだ芽が出てない人)
信仰を持って間もない人(霊的に幼子)である場合は、
最初は乳が必要です。
神の愛や赦しなどの部分ですね。

大人であっても最初から、旧約聖書の戦いや、預言書、
新約聖書の終末の預言や裁きについては。。
受け入れ難いでしょう。

神様への愛や公正について、まだ疑問がある時に
旧約聖書の難解な部分を読んでしまうと、その
部分に焦点を合わせて読んでしまうので。。さらに不安や疑問ばかりが出てくるかもしれません。

旧約を読む前に、まずは新約を読むといいですよ。
辛いものや苦いものを食べる時には、パンやご飯など
中和するものが必要です。
旧約を通読する時は、ゆっくり読んだり参照聖句を読んだり、解説を参考にしたり新約聖書も平行して読むと、いいと思います。

自分を愛し、良いものを与えてくださっている
ということを信頼できた時、
そして、自分の罪のために主が十字架にかかって
くださったと信じるときに、福音(神様の愛、
赦しと和解の恵み)を受け入れられると思います。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.74 )
日時: 2016/09/17 01:55 (dip0)
名前: きき

kazさん

風邪をひいていたのですね。
少し良くなられたということですね。
季節の変わり目は、体調を崩しやすいですよね。
どうか気をつけてくださいね。^^

ガラシャさんに、どこか他のところで
確認してくださったのですか。
ありがとうございます。

人それぞれ、いろいろな固定観念(価値観や
捉え方)があるので、
思わぬところで、受け取り方のズレが
生じてしまいますよね。

しかし、ズレがあることを伝えて
いただいたので助かりました。^^

キリスト とは、救い主 という意味合いがありますね。
イエスを、救い主(罪の贖い主)、教師でもあり友でもある方として受け入れるのか
イエスを、預言者や立派な教師として受け入れるのか。
それが、クリスチャンとそうでない人の
違いだと思います。

   メンテ
No.73に対する返信 ( No.75 )
日時: 2016/09/17 14:06 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

> 聖書の劇薬の部分(聖絶と言われる戦争や、
> 厳しい律法や裁き)が
> どうしても最初は理解できない。。というより
> 消化不良を起こすこともあると思います。
申命記や、ヨシュア記に出てくる聖絶を見ると、その捉え方によって、内容の中身がぜんぜん違ったものになってきますね。

申命記の7章では、モーセによる、カナン人を必ず皆殺し(聖絶)にし、相手と契約を結ばず、情けをかけず、婚姻関係を築かず、相手の宗教施設を破壊しつくせ、という軍事指針が与えられます。そしてヨシュア記では、そのカナン侵攻作戦に乗り出し、カナン人の街を次々と滅ぼしていきました。

この「カナン人」に対して、この民族を滅ぼす神の命令がくだった理由は、・・優れた文化を持つ民族だったが、宗教的に堕落し、腐敗した悪魔崇拝の異教民族で、すべての人が“罪”のために滅ぼされて当然だからであり、神は選民を守るために、彼らを滅ぼすように命じられたのだと受けとめられているようですね。

堕落し、腐敗した異教民族の文化からの決別という意味で、キリスト教神学においては、イエス・キリストによる救いと神の愛が聖絶によって示されているそうで、ヨシュア記のヨシュアは「旧約聖書のイエス」と呼ばれるそうですね。

しかし、キリストを否定する宗教や、批判的な視点からは・・この聖絶という行いは、現代風に言えば「民族浄化」。本来の意味で「ホロコースト」に他ならないもので、「ジェノサイド」や「絶滅」として解釈しているのでしょう。

そのあたりの厳しい律法や聖絶の意味を、現代に履き違えてしまうと、現在の、イスラム教徒のジハードによるテロや、オウム真理教が殺人を正当化した「ポア」などと類似した、恐ろしい殺人行為と混同されかねませんね。

> 旧約を読む前に、まずは新約を読むといいですよ。
新約ももちろん、読んでいます。

ヨハネによる福音書13章34節・・あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい・・

「新しい掟」というのは、古い掟・・つまりモーセからの律法を中心とした、旧約聖書の教えを指すのでしょう。つまり、イエスは、旧約聖書の律法の呪縛を乗り越え、新しい掟を説きに地上に来られ、その真実の教えを知るためにも、律法や旧約についての疑問点を納得しなければならないものと思います。
   メンテ
No.75に対する返信 ( No.76 )
日時: 2016/09/17 16:57 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

カナン人に対する聖絶は、終末の神の戦い
(神の悪魔への裁き)を、表しているとも思われます。
もちろん、終末時代クリスチャンは、<肉的>に
戦うことはせずに、<霊的>な戦いをするわけですが。

霊的武具についても記述がありますが
(エペソ6章13〜17節)
聖書の言葉や福音への信仰、聖霊によって
クリスチャンは、この世とその霊(悪霊)に武装する
必要があります。

> イエス・キリストによる救いと神の愛が聖絶によって示されているそうで、ヨシュア記のヨシュアは「旧約聖書のイエス」と呼ばれるそうですね。

そうですね。
キリストの再臨の時に、イエスは 最初の時のように
慎ましい愛の方としてくるのではなくて、王として、
公正と裁きという権威を持って、この世を裁かれます。
黙示録19章11−16

この部分をあまり理解せずに、イエスを愛の人
隣人愛を説いてる、寛大な人とだけ思ってしまう人が
多いですが、それは部分的にしか見てないと言えます。。

神の愛の部分だけでなくて、公正と裁きの部分を
理解するためにも、旧約において、神の裁きや
聖絶について記述をされて、神の公正と裁きの
面も、包み隠さず伝えられていると考えられます。

愛の部分だけ見せていたら、誰でも受け入れやすいですが
公正や裁きの面を見せた上で、神様への愛や信頼が
揺らがないか? 愛や赦しだけを受けるのではなくて、
神の義の道に従いたいか?ということを
私たちは問われています。

神との関係を、結婚(婚姻)関係や親子関係に例えるのは
そのためです。
神との関係を、取引(ビジネス)関係のような損得勘定で
従う関係でもなく。。恋人のように、自分が相手を好きな時(利己的な愛)だけ付き合って、気に入らなかったら
別れるという無責任なものでもない。。
愛と信頼によって協力し、責任を担うという関係を
望まれていると言えます。

聖書は、神の人間に対する計画(救いの計画)と、神の特質(愛、公正、裁き聖なる方である事)を知らせているものです。
民族浄化や、ジェノサイドや、宗教戦争をするために、<悪用>したり<正当化>するためのものではないです。

神は愛と公正のお方ですから、神の行いを
正当化する必要はないですし。。神が正しいかどうかを
判断する立場でもないですし、判断もできないですから。。
正しい方であるということを、(盲信ではなく)信頼し認識する
と考えてます。

旧約の出来事を、自己都合の判断で履き違えてしまうのが怖いですよね。 誤解が起こるのは、この世の<宗教>というものがほとんど<人間中心>であるからだと思います。
聖書は宗教ではなくて<真理>であり<神中心>です。

人間中心の宗教の観点や視点で聖書やその中の出来事を
読むと。。的外れの解釈をしてしまいます。

> ヨハネによる福音書13章34節・・あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい・・

律法を廃すのでなくて、成就するために
イエスは来られました。
律法は<この世>において、その人を守るものですが、
神との関係の回復と、新しい律法(神との愛ある関係、隣人愛)によって、<永遠に>霊においても救われて
守られるといえるでしょう。

律法による守りから、神との関係による守りへの変化とも言えます。
忠実な僕の立場から、子供とされたと言ってもいいかもしれません。
家族、子供であれば、愛し合いなさい。。という言葉で十分だと言えるのでしょう。
愛しているのであれば、律法を義務ではなくて
<愛、思いやり>という動機によって守りますからね。^^
   メンテ
No.76に対する返信 ( No.77 )
日時: 2016/09/19 15:19 (odn)
名前: いしまる

ききさん。

> 霊的武具についても記述がありますが
> (エペソ6章13〜17節)
> 聖書の言葉や福音への信仰、聖霊によって
> クリスチャンは、この世とその霊(悪霊)に武装する
> 必要があります。
エペソ6章17節に、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」とありますね。
“霊の剣”とは、神の武具の中で唯一、攻撃用の武器であるという意味なのでしょうか。

聖書には、
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい・・支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
とありますね。そして、霊の剣である「神の言葉」とは何でしょう・・

私の勝手な解釈ですが、映画の『天使と悪魔』と『エクソシスト』を観れば、本当の“霊の剣”が何であるか分かると思います。

『天使と悪魔』では、最も神に近い立場である、聖職者が殺人という悪魔の行為により堕落していきます。
一方、『エクソシスト』では、神父が少女に憑依した悪魔を追い払うために儀式を行い、神父自らの命を賭して戦いました。

私は偽善的なことを言いたくありませんが、今の現実の社会のなかでも、これは良くない・・道理に外れ、思いやりにも欠けている行為を平気でする人たちがいますが、“霊の剣”とは、そういった状況を一喝し、是正していこうとする行動の力の源のようなものだと思いますね。

そして、その心構えとして・・
マタイによる福音書10章34節にあるように、イエスの言葉・・
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」は重要です。

イエスは、戒律の宗教である、ユダヤ教との対立を恐れなかったのだろうと思います。そして旧約聖書を神の言葉として、その意味や内容を解きほぐして明らかにされたのでしょう。

これがつまり、イエスは律法を成就するために来られた、という意味合いになるのでしょうか?
   メンテ
No.77に対する返信 ( No.78 )
日時: 2016/09/19 17:55 (dip0)
名前: きき

いしまるさん

> “霊の剣”とは、神の武具の中で唯一、攻撃用の武器であるという意味なのでしょうか。

霊の剣でいう神の言葉とは、聖書の言葉です。
イエス様が、悪魔の試みにあった時の記述
マタイ4章1−11節を例に見るとわかりやすいと
思います。
イエス様は、悪魔の誘惑に対して、聖書に〜と
書いてあると答えて、対抗しています。

悪魔は、あなたが神の子なら。。と
イエスの権威を試みる誘惑をしますが。。
人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る
一つ一つの言葉による
と書いてある。
あなたは神である主を試みてはならない。。
と書いてある。
と述べました。
そして、もしイエスがひれ伏して悪魔を
拝むなら(サタンの支配下のこの世の栄華)全部差し上げましょう。
などとも言いますが、
あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよと
書いてある。
と答えて抵抗しました。

神の言葉、聖書にある神の命令(律法)を
剣として用います。
自分の言葉で、弁護したり抵抗するのでなくて
神の言葉には<権威>がありますからそれを
有効に用いているのです。

わかりやすく言えば、この世で言えば<法律の
権威>と言えます。
〜法の〜条に、このように書いてあると言って
弁護士や検事は、さばいたり弁護士たり権利を主張し守ることができます。

もちろん、この世では法律から逃れるような
手段を取ったり、他の権力で法律に従わない人や、裁きから逃れる人もいますが。。
神様の言葉、み言葉の剣というのは、霊的な敵である悪魔に対して
絶対的な力を持っています。

イエスは、律法を廃止するのではなく
成就するために来た。。

律法は、罪の奴隷下にある人間のための、
教育係のようなものであったとあります。
罪の影響かでも、ある程度の平安と秩序を保つための
助けとして、律法が与えられたと言えます。

律法時代は、律法(正邪、善悪の基準)によって裁かれていましたが、主イエスが贖いをされたので、私たちは罪を赦され、律法の下で(古い肉の人間として)裁かれない。。ということになります。
(もちろん、この世で犯罪を犯せば、法律にのっとて裁かれますが)

ローマ7章6節で
わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである

律法が無価値という意味ではなくて、
肉の自分(古い自分)において死んだものである
クリスチャンは、霊において生きているので
律法の支配からから神の支配下に移ったという
ことになります。^^

神の支配下であれば、裁くのは律法でなくて
神であり、神と和解をしていれば(主の救いを
受けているものは)裁かれないということです。

人間は、罪を受け継いでいるので
律法を100%守ることはできません。
十戒ですら、誰も完全に守れないでしょう。
旧約時代は、自分の罪を悔い改め悲しみ。。生贄として羊や牛など動物を捧げていました。
自分の判断でなくて<律法>により神に対する罪を認識することができましたし、救いが(贖い主)が必要であることを知ることができました。
聖書の律法、約束とも言える預言(救い主が来るという預言)があり、アブラハムもモーセもヨブも。。
救い主が来ることを信じ、待ち望んでました。

イエスが<律法を成就>したのは、自ら贖い主となり
聖書と律法を成就(完成)させたとも言えます。
神様の御計画を成就(遂行)したと言えます。
   メンテ
No.78に対する返信 ( No.79 )
日時: 2016/09/20 14:13 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」というのは、聖書の言葉であるというのは、大まかに理解はしていました。

なぜ、私が霊の剣について、『エクソシスト』のような映画の例を出したのかというと、現在「国際エクソシスト協会」として、カトリック団体によってエクソシスムが公認されていて、現実にも、悪霊払いがおこなわれているからです。

もちろん、その細かな方法について、知る由もありませんが、聖書または祈祷書を使うのは間違いないでしょう。映画の中でも、悪魔祓いの最初で「主の祈り」を唱えられていたようですね。

聖書に出てくる人々に施された、イエスの治癒の多くはエクソシスムに捧げられた、“悪魔祓い”であるのでしょう。

映画でもそうでしたが、現実の世界でも、悪魔祓いの祈祷をしても失敗し、さらに、霊の剣である神の言葉を熟知しているはずの聖職者が、同性愛者であったり、児童に対して性的虐待にかかわったり、その他の悪行に手を染めてしまう場合もあるでしょう。悪魔はどこまでも、たちが悪く、あくどいわけです。

ローマ人への手紙16章20節
平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう・・
とあります。

つまり、特別な訓練を受けた神父だけが、悪魔や悪霊と戦うのではなくて、すべてのクリスチャンが悪魔の策略に対抗できるために、聖書の神の言葉による信仰が勧められているのですね。

しかし、私のような正式なクリスチャンではない人間は、悪魔の策略に対抗できないのか・・目に見えない霊の三分の一は、この悪魔の手下である「悪霊」と考えられているそうです。生きている人が皆等しく、悪魔、悪霊の影響下の中で縛られ、不自由で、生・老・病・死の苦しみが決定付けられている状態にあるのでしょう。

ヤコブの手紙4章に・・だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。

この言葉を信じて、イエス・キリストを信じてキリストに従う人生を送れば、悪魔、悪霊はもはや恐れる存在ではなくなるのでしょう。

悪魔はイエスの十字架と復活によって打ち破られ、敗北が決定付けられている。そして、その贖いにより、イエスは聖書と律法を完成させ、神様の計画を遂行したというわけですね。
   メンテ
No.79に対する返信 ( No.80 )
日時: 2016/09/20 16:54 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
カトリックにおいてのエクソシスム、
また、プロテスタントやその他の牧師などでも、悪霊追い出しのための祈りをしている人もいますね。

悪霊追い出しにしても、奇跡的な病気などの
癒しにしても、それを施す人の中には
不誠実な生き方をしている(もしくは途中から
堕落してしまう)ケースもありますね。

基本的に、神の側についているクリスチャンに悪魔は
直接的な手出しはできないですが、
悪霊というのは、人の罪の傾向、肉の思いに働きかけて
思考を<惑わす>ことがあると言われます。

神との信頼関係がしっかりある場合、徳など良いことを愛していて心身ともに健康であれば、悪い思いは
惑わしの罠や嘘としてふり払えますが、不安定な状態にあるときは、悪い思いを引きずってしまったり、従ってしまうこともあるでしょう。

悪魔は、人間の罪の思いや欲求をひきだすよう<思い>を。。入れ込んでくることがあると言えます。
サタンは嘘つきで、巧妙な詐欺師とも言えます。

霊が救われているクリスチャンであっても、魂(思考、思い)が神の方に目が向いてないと、惑わしをちらつかされるとそれに注意を寄せてしまいます。
(アダムでなくて、まだ神様との関係において年月が
少ないと思われるエバが騙されたように。。)

神(イエス)は、サタンを打ち砕いているので
神父や牧師でなくても、悪魔の策略に抵抗するための
霊的武具は備えることはできます。
大まかに言えば神との関係、聖書、聖霊、祈りですね。

ただ悪霊追い出しに関しては、不用意に一般信徒は手出しはしないほうがいいのでは。。と思います。
(神との信頼関係を築き、自分の魂(心と思い)を守ることがまず必要ですし、家族や身近な人の霊的救いや、病気などの癒しなどを祈ることも大切です。
しかし、あえて危険な地帯、悪霊の支配が強いと思われる
場所や人の所に行く必要はないということです。
イスラム圏や共産圏のような場所で働く宣教師や信徒が、迫害に会う
こともありますが、すべての人がそのような場所に派遣される召し(働き)に呼ばれるわけではないので、自分の置かれた場所において、
役目を果たしつつ<執り成しの祈り>をすることは可能です。)

神に近づきなさい、そうすれば
神は近づいてくださる。。

神に従い、悪魔に反抗する。。悪魔と肉的に戦う
のでなく、霊的に戦う(悪魔に反抗する)。

悪魔崇拝者や、元オカルトなどに関わっていた人でも
そこからの解放を望めば、解放されると思います。
でも、本人が望んでない時に、神父や牧師や信徒が
祈っても。。どうにもならないとも言えます。

悪霊追い出しの時に、悪霊との関係を断ち切ると云う祈りをするだけでは無理な場合があるとも言いますね。
オカルトに関わることをやめるだけでなく、
神様に従うことを選ばないと、断ち切れない場合は本人がそれを決断しないといけません。
ただその場しのぎで<悪い結果や影響の辛さ>だけから解放されるのを願っても無理と言えます。
   メンテ
No.80に対する返信 ( No.81 )
日時: 2016/09/21 18:16 (odn)
名前: いしまる

ききさん。

悪霊や悪魔というのは、私たちの意識に、むさぼりの欲望や、怒り、よこしまな考えを引き起こすようにして働きかけ、その仕掛けた“罠”によって、犯した罪を慈悲なく罰する存在と考えていいのかもしれません。まさに、始末に負えない、悪の権化といっていいでしょう。

マタイによる福音書4章の、イエスが四十日間の断食後の、悪魔の誘惑は有名ですね。
もし、イエスが悪魔の誘惑に負けて、石がパンになるように命じたら・・洗礼後の断食修行は失敗し、世の中に神の国の福音も宣べ伝えられることはなかったかもしれません。

さらに、仏教においても、悪魔はブッダが菩提樹下で覚りを開いたとき、入滅(釈迦の死)を勧めました。三十五歳で覚りを開いて即座に、悪魔はブッダに対して“死“を迫ってきたのです。

聖書に出てくる人々に施された、イエスの治癒の多くはエクソシスムに捧げられた、“悪魔祓い”だと私は言いましたが・・新約聖書のイエスによる治癒の奇跡の対象として、ハンセン病、中風、熱病、盲目、聾唖、精神異常、麻痺、脊柱の湾曲、水腫、婦人病の各種症状について治癒を施したそうです。

しかも、群衆が多数の病人を連れてきたケースが多いので、イエスが治癒したのはかなりの大人数になるでしょう。死者の蘇生は、三例がイエス・キリストの行為として記録されているそうですね。イエスが行なった治癒行為は、「治癒対象者が自分(イエス)を信じない場合」を例外として、ことごとく成功したそうです。

現在も、その奇跡のしくみは謎に満ちていますが、人智学で知られるルドルフ・シュタイナーや、ダスカロスは、「エーテル」という生命体、生命力体である、その素材のエーテル・バイタリティー(活力)によって生命現象を成り立たせ、悪霊や悪魔を祓うヒーリングや奇跡をおこなうと述べています。しかも、このエーテル・バイタリティーは無限に地球を覆っているそうですね・・

そして、矢作直樹という医学者によると・・重病人や、生死の狭間にある患者は、医学的な疾患だけではない何かが憑いた状態になっているそうです。「別人の霊に乗り移られた」ような患者を何人も診てきたと言われますね。

霊魂や霊性というものは一種の波動のようなものであり、目に見えないけれども、確実に在るもので、悪霊が憑依するのは・・良くない霊や他人の霊が、乗り移られた人間の波動と一致した時に起こるものだそうです。悪霊追い出しを不用意に一般信徒が手を出したり、用事も無いのに危険な場所や、悪霊の支配が強いと思われる場所には行かない事が賢明ですね。
   メンテ
Re: キリ…スト教 ( No.82 )
日時: 2016/09/23 23:37 (spmode)
名前: kaz

ききさん、こんばんは。
> 風邪をひいていたのですね。
はい、ありがとうございます。
そちらも朝晩はかなり冷えてきていると思いますので
風邪などひかぬようお気をつけください。

> ガラシャさんに、どこか他のところで
> 確認してくださったのですか。
雑談のスレッドに彼女のスレッドがありましたので
そちらで了承をいただきました。

> 人それぞれ、いろいろな固定観念(価値観や
> 捉え方)があるので、
> 思わぬところで、受け取り方のズレが
> 生じてしまいますよね。
コミュニケーションに齟齬が生まれるのは殆どの場合それが原因ですね。

> キリスト とは、救い主 という意味合いがありますね。
> イエスを、救い主(罪の贖い主)、教師でもあり友でもある方として受け入れるのか
> イエスを、預言者や立派な教師として受け入れるのか。
> それが、クリスチャンとそうでない人の
> 違いだと思います。
クリスチャンと言っても、それぞれの個人の固定観念から抜け出せず
救い主や罪という意味についても、その固定観念に囚われた範囲での理解
(や勘違い)に留まる恐れはあるのではないでしょうか?
キリ ストからのメッセージさえも、言葉や文字になった時点でこの固定観念に
阻まれて正しく伝わっていない可能性は十分にあると思います。
   メンテ
No.81に対する返信 ( No.83 )
日時: 2016/09/25 16:28 (dip0)
名前: きき 

いしまるさん

悪魔や悪霊は、人間が罪を犯して、神様から
離れるようにすることを望んでいるとも言えますね。
罪を犯せば、罪悪感から神様から距離を置いたり
(アダムとエバが隠れようとしたように)
自己正当化したり、責任転嫁したり。。と
なってしまいますね。

悪魔は罠をかけて人が罪を犯すと罪悪感を起こさせたり、絶望を与えて、希望を持ったり神様と和解をする気持ちを阻害してしまいますね。

イエスの治癒は、当時の医学(今日の医学でも)
では治癒できない病気を癒しましたね。
医学的に病気の原因が説明されるものも
ありますが、今も精神的な病の中には脳などの問題
以外にも(説明につかないもの)悪霊による影響
も、あるでしょうね。

奇跡の力として、霊的な世界における対処による
ものがあるのでしょうね。
医学的には証明できないものの、死の間際、臨死体験などで不思議が現象を見たり体験することがありますね。

良くない霊(霊性)と、波動が一致した時に
入り込んでしまう。
これは死の間際以外にも、生きている時にも
自分の思いや欲(どんな思いに囚われているか、
何を優先しているか)その波動(思い)にあった悪いものを引き寄せるということがあるでしょうね。
霊的な病(霊障)と思われることもあるでしょうね。
医学や心理学でも対処不可能な領域もあると
思われます。

ヤコブ1:14〜15
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

ユダの裏切りも、悪魔が入ったと書かれてますが、
ユダ自身に欲や、イエスに対する疑問があったからこそ、悪魔が入る隙があった(波動があいはいりこめた)とも言えますね。

またペテロでさえも、イエスに死ぬことがあってはならないと言いましたね。
イエスはペテロにサタンよ退けと強く言われたのも、
ペテロにも人間的な思いや欲があり
<悪魔思い>が入り込んだと言えるでしょう。

ペテロはユダとは違い、お金への欲や名誉心などはあまりなかったと思われるものの、人間的な弱さがあり
自分の見地や願望に焦点がいってしまい(的外れ=
罪でもあります)、聖書の目的(神様の人間の救いの計画)という的を見過ごしていました。
悪魔のささやきや、誘惑というのは、ユダのような
あからさまな裏切りだけでなくて、時にペテロのような
人間的な的外れの思いからくる愛や正義(悪意がないが的外れ)、という形でも来ると言えるでしょう。

神の約束と知恵を信じて従うよりも、自分の思いや
知恵に頼ってしまうという。。ミスを犯してしまうのも
(悪魔は巧妙な罠を仕掛けてきて、いかにも真っ当な疑問と思わせるように見せます)高慢と神への不信という罠でもあります。

神様を信じていて、愛と公正を望み、イエスを愛している人ですら陥りやすい、罠と言えます。
(神を信頼して委ねるのでなく、自分の善悪や物事の判断を信じるのは、不信であり、神様の権威を侮ることに
なりかねません。)

<霊的な救い>の重要さを理解してなかったのは、
まだ<聖霊>が下ってなかったためとも言えるでしょう。
イエスがそばにいたにも関わらず、霊の思いよりも
自分の肉の思いに引き寄せられてしまう。。それが
肉の弱さでもあると思います。

使徒たちでさえもそうですから。。現代のクリスチャンにおいても霊的な戦い、つまり自分の心や魂を神様に向けることがいかに大切か。。神に近づき目を向けることが
サタンや悪霊の誘惑や罠を退ける、霊的武具である
ことが理解できると思います。
   メンテ
No.82に対する返信 ( No.84 )
日時: 2016/09/25 18:33 (dip0)
名前: きき 

kazさん

こんにちは。
日本はまだ暑い日があったり涼しくなったりと
気温の差がありますね。
こちらはだいぶ涼しくなってきて、秋らしく
なってきました。

受け取り方のズレも、相手に対して、基本的な
信頼があれば悪意を感じずに済んで、多少は修正
できますが。。不信や不安が強い場合(人間不信で
ある場合)悪意を感じてしまうと、
どんどん亀裂が生じてしまいますよね。

罪の認識と、罪の悔い改めに関しては
原罪(アダムとエバが犯した罪)
神と神の命令に対する不従順、反逆。

そして、自分の罪(過去、現在、未来)
神と離れて神を無視して生きてきたこと。。または罪の行いや思い。。

固定観念というのは、ほとんどの場合
自分の見識や価値観、個人の都合や感情などに基づくものですよね。
そのほとんどは、自分中心、人間中心の考えや視点から
くるものだと思います。

マタイ 15章8〜9
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

聖書やイエスの言葉の一部。。を尊敬しているという人でも心は神様から心は離れていて、人間の教えとして教えることがありますよね。
人間の教えからすれば、神に従うことよりも、良いことを行うことを優先事項だとしてしまうこともあるでしょう。

第一に神を心から精神を尽くして愛することであって
第二に、自分と同様に隣人を愛することです。
人間は、神の恩恵がなければ生きることも(神に似せられて造られた)知性や良心によって善を行うことも、
愛することもできない。。と考えるのがクリスチャン
だと思います。。

罪の認識にしても、聖書の言葉を律法や戒律のように
受け止める人は、罪に焦点を合わせすぎて疲れてしまうでしょう。
罪を犯さないことに焦点がいってしまい、自分や他人の罪ばかりが気になって、神との愛ある信頼関係を築く事がおろそかになってしまいます。 
一見敬虔にも見えますが、親子関係というより、主人と僕の関係のようであり平安や喜びが欠けてしまいますね。

赦しを重要視しすぎる教会や信徒は、なんでも赦されると思ったりこの世的な寛容さの基準と同一視してしまうこともあるでしょう。神が公正と義なる方であることを忘れてしまうのも問題ですね。
   メンテ
No.83に対する返信 ( No.85 )
日時: 2016/09/28 15:20 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。
外国にお住まいなんですね。日本との時差はどのくらいでしょうか?

さて、ヨハネによる福音書10章20節に・・
多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」とあります。

当時のユダヤ人にとっては、イエスは悪霊に取り憑かれていると思われていたようですね。

イエスは「わたしより、以前に民を導いた者は皆、盗人であり、強盗である・・わたしは信者のために命を捨てる・・わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、神はわたしを愛してくださる・・わたしは復活し、これはわたしが神から受けた掟である」と聖書では、磔刑から復活についての話を自らイエスが語っているようです。

キリストの復活、そして、それが神からの命令であるなどと、この話をめぐって、ユダヤ人たちの間で、いろいろ良くない噂が流れたのでしょう。しかし、21節にあるイエスを信じる者の言葉が重要です。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか」とありますね。

イエスは人々の前でさまざまな奇跡を行ないましたが、それは、神の恵みの力であるエーテル・バイタリティー(活力)を無償で分け与えるために施し、決して、悪霊によるものや、人々を盲従させるためのものではなかったと思います。

ユダの裏切りについてですが、たしかに、ユダ自身の欲や、イエスに対する疑問により悪魔が入ったと考えられますが、映画『パッション』を見ても、ユダも実はユダヤによる悲惨な被害者だったという気もします。

「ユダの福音書」というのをご存知ですか?
キリスト教の新約聖書の外典の一つとされていて、しばらく前に発見された初期キリスト教の資料ですね。

その記述は・・イエスを裏切ったユダが実はイエスの弟子の中の誰よりも真理を授かっていて、最も信頼した弟子だった。そして、「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が、十字架の死を実現するために、ユダへ指示したものであるそうです。

カトリック教会にしてみると、絶対に認められない福音書であるのでしょう。「裏切り」について、裏でユダと相談していたら、そもそも裏切りではなくなってしまい、十字架・復活のストーリーがつぶれてしまいますね。

しかし、そのことについての真偽は、私はどうでもいいと思います・・

キリスト教の場合大事なのは、「全ての人の罪をイエスが十字架の死と復活によって贖い、無効としてくださった事」を信じるかどうかの一点にかかってくるのですからね。そしてその、神秘の力、イエス・キリストの力を与えてくださることを信じた多くの人々の、素晴らしい行ないや生き方によって、信仰の大切さが証明されてきたのですからね。
   メンテ
No.85に対する返信 ( No.86 )
日時: 2016/10/02 14:11 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

時差は8時間ほどあります。
こちらはだいぶ涼しくなってきました。

イエスは奇跡を起こされましたが、
ユダヤ人の一部はそれを悪霊のものと
思ったのですね。(奇跡を信じたくなかったと言えます)
もちろん、イエスが聖書に描かれている救い主と
信じるもの(使徒たちや一部の癒された病者)や、
神の預言者と信じて、癒しを求めた人々もいましたね。

霊というのは、確かに、神からのものと
悪霊からのものがあるのは事実です。

エジプト、パロの時代でもその前でも
呪術者などはいましたし、不思議なことを
行うことは(今でもありますが)ありました。
旧約聖書にもモーセ、エリヤなど
預言者なども、(神からの)奇跡を行った事実もあります
ので、彼ら(ユダヤ人の律法学者など)は、
イエスを、救い主や、神の預言者と認めたくなかったと
言えるでしょう。

マルコ12章1〜12節のぶどう園の悪い農夫
(王や指導者、律法学者)の例えがあるように、かつてのイスラエルの悪い王たちや、またユダヤ人の指導者も
神からの預言者(僕)を迫害してきました。
そして、息子(イエス)を今度は送ったけれども
ぶどう園(イスラエルの民)を自分のものとするために
イエスを神の子と認めず、退けました。

彼らが望んでいたのは、神の国が到来すること
(神の御心がなされること)ではなくて
自分たちの望むようになること、自分が王様に
なること(神の主権を認めない)でした。
律法を守っていても、そこに神や隣人への愛はなく
利己的な目的だった(自分の徳を誇り、信仰による
義ではなくて、自己義認(自己判断の義)を優先
)と言えるでしょう。

福音を告げるため、そして、神様の国が到来したこと
(福音を信じて、霊により生まれ(生き返る、再生する)、神の国の住民(神に属するもの)としてこの世でも、生きることができる)を告げるために、
イエスは来られ、奇跡をしるしとして行われたと
言えますね。
(神の国では、死や病気はないということ
死や病気など罪の結果もたらされたものから
解放されることを、証明されたのでしょう。)

ユダは、裏切りをしてしまった後
自殺をしてしまったのが、非常に残念ですね。
使徒たちも、ユダとは違いますが、イエスを知らないと
行ったり逃げ出してしまいましたよね。
深く悔やんで、悔い改める。。それを神様は
望んおられると思います。

パウロもかつては、初期クリスチャンを
迫害(ステパノの石打ちの場にもいましたね)
するものでしたが、悔い改めに導かれて
大宣教をしました。
今でも、以前はキリスト教を嫌っていたり迫害していた
元イスラム教徒やユダヤ教徒の人も、信仰を
持つように不思議な導きを得ることもありますね。

ユダの福音書などいろいろなものはありますね。
裏切りをしたというのは、事実だと思います。
ただ、ペテロもイエスを否認するという過ち(裏切り)
をしていますし、<使徒ですら>も。。。人間的弱さが
あり、(神様の見方より、人間の見方や願望を優先する
という自己中心的な考えの傾向があり)
サタンが付け入る隙間があったということと、
聖霊の助けやみ言葉など<霊的武具>が十分にそなわって
おらず、有効的に活用できてない状態であったと
言えます。

> キリスト教の場合大事なのは、「全ての人の罪をイエスが十字架の死と復活によって贖い、無効としてくださった事」を信じるかどうかの一点にかかってくるのですからね。

そうですね。^^
原罪(アダムから受け継いだ罪)、全ての人そして、
自分自身の罪を贖ってくださったことを
信じるかどうかが、大切なことだと思います。

   メンテ
No.86に対する返信 ( No.87 )
日時: 2016/10/04 15:41 (odn)
名前: いしまる

ききさん、おはようございます。
時差が8時間ということは、ヨーロッパの方にお住まいなんですね^^

イエスが悪霊に取り憑かれていると思われていた件ですが・・
マルコによる福音書3章22節にあるように、律法学者たちがイエスに対して「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った中傷をしていたことが記されていますね。ベルゼブルとは、「悪霊の頭」を意味する言葉だそうです。

当時、人を社会的に徹底的に抹殺するためには、「この人はおかしい。精神異常だ」というレッテルを貼るのが早道だったようで、抹殺のためには一番効果的な方法なのでしょう。今日の社会でも、似たような行為が行なわれているようです・・

悪霊の力は、私たちを支配し、私たちの主体性を奪おうとします。そして私たちを不自由な状態にして、人としての尊厳をないがしろにする状態に陥れます。(私自身も子供のころから、この悪霊の強い力を感じましたし、今でも悪霊の呪縛を感じるときがあるのです)

しかし、イエスの言動は、悪霊の力とはまったく真逆の力に基づいているものでしょう。28節で、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」という言葉。そして 29節・・「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と仰いました。

つまり、すべての罪は赦される。ただし、ただ一つゆるされないのは・・それは、聖霊の働きを否定することなんですね。私たちは、他者の尊厳や主体性など、互いの立場の尊重を否定したりすることだけは、決してゆるされていないのでしょう。

マルコ12章の「ぶどう園と農夫」のたとえでは、イエスに過ちを明白に指摘された、ユダヤの指導者や律法学者が、明らかにされたその過ちを受け入れるのではなく、むしろ憤ってそれを否定し、主イエスを捕らえようとしたのですね。「過ちを過ちと認めない」のは、それがいかに神と隣人との関係を破壊して、聖霊の働きを無視し、利己的な欲望が膨らんでいくかが示されています。

福音を告げるため、そして、神様の国が到来したこと・・神の国では、死や病気はないということ、を“象徴”として表すために、イエスは来られ、奇跡をしるしとして行われたのでしょうね。

そして、マルコ4章で、「成長する種」のたとえ、などでイエスは神の国について語っているようですが、それは、「神の国は、人間の思惑や関与などとは関係なしに、神によって必ず実現されるのだ」という神と自然に対する、イエスの楽天的な信頼感が表明されたようなものですかね。

神の国は、これまでの地上の、政治や富などの秩序が無効になり、世界が正しくつくり直されるところであるようですね。洗礼者ヨハネも、イエスも「神の国が近づいた」と言い、パウロのような回心による信仰の境地の中に、神の国の本当の素晴らしさの存在があるのでしょう。
   メンテ
No.87に対する返信 ( No.88 )
日時: 2016/10/05 18:18 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは^^

悪霊のかしらの力により、悪霊を追い出していると
言っていましたね。
悪霊の中でも、より悪い霊、より強い(凶悪)な
霊などはいるようですね。

使徒たちが癒しの祈りをしても、改善しなかった時、イエスが祈ると悪霊が出て行ったこともありましたね。
強い霊の場合、一回〜数回の祈りではすんなりとは出て行かず牧師や司祭などが、祈りや断食など徹底的に祈らないといけないこともあると思います。
時には、他の信徒たちにサポートとして祈ってもらいながら悪霊追い出しをすることもあるようです。
本人がイエスを主と告白する事が、救いには最も強力で必要な事です。 主と認めず、悪霊の症状だけを
なくすというのは。。難しいでしょう。
心臓移植などのように、代わりの健康なもの(霊)を
受け入れないと、霊的に(社会的に、人間性において)
死んでしまうのと同じだと思います。

いしまるさんは、子供の頃から悪霊の力を
感じていたのですね。
特に、ご家族で、何かの新興宗教を持っていたり
神棚のようなものを持ってますか。。

もし、今でも悪霊の力を感じる場合はイエスがわたしの主(救い主)であることを告白すること(家で小声でもいいので祈る)をお勧めします。
エペソ1章を、声に出して読むのもオススメです。
神様の子供としての、新しい自分の立場、自己認識を
しっかり持って、みことばの剣によって、悪霊の影響を
払い退ける方法もあります。
もしそれでも影響があるのであれば、牧師さんにお祈りしてもらってサポートを受けられるのも良いでしょう。

親御さんのものは別として、ご自身のもので魔よけやお札、お守り系のものがあれば神社に持って行って処分したり、オカルト系の書物があれば手放したほうがいいと
思います。
私も実家に仏壇はありますが、親があまり信仰心や
思い入れがないせいか?特に問題はないです。
しかし霊の影響がある場合は、自分の出来る範囲での
対応はしたほうがいいですね。

聖霊を冒涜してはいけないですね。
悪魔は神様の真似をし、悪霊は聖霊の真似をしますが、その<性質>と
<実>結果は全く違いますね。
悪魔と悪霊は、利己的な願望により人を支配したり、
不安にさせ、嘘や欺きや非難により罪と肉の思いの奴隷状態にさせ、滅びに導きます。
神とその聖霊は、愛と公正と平安により私たちを支配(保護、管理)し、真理によって私たちを自由を与え、命に
導いてくださいます。

過ちを認める事、罪を認め悔い改める事は
本当に大切な事ですよね。

神様の国は、人間の思惑とは関係なく来ると信じます。
サタンや悪霊は神様を恐れていますし悪あがきで
神のプランを邪魔したり変更させようとする動きはある
でしょうが、遂行されるでしょう。

キリスト教や既存の宗教に対する憎しみや不信、そして<背信>の問題は起こりますが、神にたちかえる人は現代においても、あらゆる国民(民族)から出てきています。
終末自体〜艱難の預言は詳しい年月や日時は書いていませんが、起こることは書いてあるので。。そう遠くない状況だと思います。
イザヤ書 17章 エゼキエル書38章の預言が今は注目
されています。
クリスチャンで週末の預言を信じている人だけでなくて
他のニューエイジ系?アセンション系の人も
聖書預言には注目をしていますね。

シリアの内戦(ダマスカスがどうなるか)、
ロシア(ゴグ)、イラン(ペルシャ)、エチオピア(クシュ)リビア(プテ)、トルコ(ベテ トガルマ)
ゴメルはトルコ北部、東欧かドイツという説があります。
そしてイスラエルと、対イスラエルへの動向がどうなるか気になります。
   メンテ
No.88に対する返信 ( No.89 )
日時: 2016/10/07 02:35 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんばんは。

> いしまるさんは、子供の頃から悪霊の力を
> 感じていたのですね。
> 特に、ご家族で、何かの新興宗教を持っていたり
> 神棚のようなものを持ってますか。。
そうですね・・実家は曹洞宗の仏壇があるだけで、家族も熱心な信者ではありません。
しかし、想えば私の子供の頃は、家の近くに古い鬱蒼とした小さな墓場があり、そこが遊び場になったりして・・近所でもいわく付きの良くない場所でしたので、二度ほど夜中に強い金縛りにあったことがあり、その頃から運勢の下降を感じる気配がありました。

そして、大学時代には、なぜか、新興宗教の勧誘にあうことが多く、その時分、意志も弱かったせいもあって、挙句の果て、信仰心もないのに小さな仏壇と題目が書いてある本尊を貰ってしまいました。しかし、その宗教組織の体質の嫌悪感もあり、そして、悪魔が心に入りこんだように、自暴自棄にもなり、行動を誤って小さな仏壇と本尊を捨ててしまいました。

その後、学業も仕事もうまくいかず、最後には頻繁に希死念慮がわくようになりました。しかし、その当時私を救ってくれたのは、友人からの勧めである、心理学に基づく瞑想や、「自律訓練法」というリラクセーションでした。自律訓練法は心療内科や精神科などでも使われる一種の自己催眠法です。この方法は、本来はコントロールできない自律神経系を、言葉(言語公式)とイメージ(集中)によって自己をコントロールし、自律神経系のバランスを回復させるものでした。

つまり、瞑想や自律訓練法により、昔の古い墓場からの悪い影響や、本尊を破棄したことによる(新興宗教の守り本尊などは、すべてプリントアウトされたコピーであり、単なる量産品であるというのが事実です・・)不吉な呪縛からの精神を解き放し、過去の悪い“意味づけ”を捨て去ることができたわけです。

しかし・・私に巣くう悪霊は、完全に消え去ったわけではありません。希死念慮にしてもそうです。
生来の宗教体質なのか、仕事仲間にも新興宗教の信者(大学時代とは違う宗教団体です)がいて、よく、悪魔や死について話し合うことも多いですしね。エペソ1章ですか・・「キリストにある霊的祝福」ですね。数々の、みことばの剣によって、悪霊の影響を払い退ける方法も、これから試してみる心構えはできています。

シリアでは、北部アレッポでアサド政権軍とロシア軍による反体制派地域への空爆が激化し、子供を含む多くの死者が出ているそうです。米露が主導した停戦合意も完全に破綻しました・・。そして、ある調査によると、アメリカ人の3人に1人が、シリア紛争は世界の終末の兆候であると考えているそうですね。

シリア情勢と世界の終末を関連づけるものとして、よく引用されるのが、イザヤ書17章1で・・ダマスコ(ダマスカス)についての託宣。「見よ、ダマスコは都の面影を失い瓦礫の山となる・・」
私の新興宗教の信者の仕事仲間も、「終末は近い」と言っています。新興宗教などの終末論の恐ろしさは、(全てが終わる事に帰結して)すべてのロジックや冷静な理性を放棄してしまうところにあるのでしょう。

聖書と、現在の混迷した世界情勢を結びつける理由は、よく分かります、つまり、キリストを信仰する者にとって、世界の終わりは絶望ではなく・・終わりは新たな始まりを意味するのですよね。
   メンテ
No.89に対する返信 ( No.90 )
日時: 2016/10/08 18:57 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

子供の頃からの霊の影響は、墓場(いわくつき)の影響もあるかもしれないのですね。
お祈りを通して、過去の新興宗教や偶像礼拝などの罪(過ち)の悔い改めと、断ち切りの祈りをされるといいと思います。

ニールアンダーソン氏の、<鎖を解き放つ主>という
本に、いろいろな霊的な問題や罪の鎖の断ち切り方の
アドバイスがあるのですが紹介しますね。
ニールアンダーソン博士のメッセージはyoutubeでも
見られます。
霊の戦いについて という題名です。

(お祈りは引用です)
主なる神様、私は( 新興宗教の名前 )
と関わりを持っていたことを言い表します。
私はあなたの赦しを願い、( )との縁を断ち切ります。

すでに処分をして肉(形、行動)心(気持ち、信仰は
ない)としては縁を切っていても、神様は赦してくださっているにしても、声に出して改めて告白、宣言すると、<霊>の領域に対しても影響力があると思います。
悪魔はイエスの名前、そしてみ言葉の剣によってダメージを受けます。
信仰も実際に言葉に出して告白することが
大切ですよね。(教会に行ってなくても、洗礼を
受けてなくても神様のみ前で、信仰告白はできます^^)

霊的な影響が、肉(生活)や心(魂)などにも
影響を及ぼしていたのですね。
自律訓練法により、心(魂)が穏やかになり、
過去の悪い影響が、幾分が解放されているのですね。
ただ完全に消え去ってなく、まだ霊の影響が残っているのか、希死念慮があるということですね。

自殺を考えてしまう時に祈りもあります。
(これもアンダーソン氏の本の引用です)
私は自分自身の命を断つことによって、平安と自由を見出すことができるという<偽り>との縁を切ります。
悪魔は盗み、殺し、滅ぼすためにやってくる盗人です。
私は私に命を与えそれを豊かに保つことができるように
するために来てくださったキリストにある命を選びます。

エペソ1章にある、<神の子であるということと、
その祝福を自覚する>ことが必要です。
人はつい自分の見える状況を見て、自分が祝福されてないように感じてしまうこともあります。
しかし、自分の見地や主観判断=絶対的な自分の立場や事実ではなく、<部分的なもの>であるということを知り、
神様の約束を信じるようにするのが大切です。

この世の罪や肉の影響があるのは、罪から救われてないということではありません。
悪魔の影響が0になるのではなくて、悪魔の影響に対して、無力で丸腰なのではなく、神の領域に移り、霊的武具がある状態に変わったということです。(人の立場が罪の奴隷状態から
神の子供という祝福ある立場へと変わったのです。)
悪魔は、霊的武具を持ってすれば、無力に等しいですが
人間にウソをついて騙すことで力を得ると言えます。

いらないセールスの電話や宗教の勧誘も、未然に
防げなくても、いりません!間に合ってます。と断ることができれば問題がないですよね。
悪霊に対しても、嘘や偽り、恐れ非難の言葉が来ても、
私は神様の子供であり(ヨハネ1章12節)、キリストの血潮により義とされている(ローマ5章1節)と突っぱねて仕舞えばいいということです。

終末に関して、多くの新興宗教では
希望がないですよね。
本来の神様の愛と平安の中に生きるという、
喜びに目を向けられるといいですね。
   メンテ
No.90に対する返信 ( No.91 )
日時: 2016/10/10 09:41 (odn)
名前: いしまる

ききさん、おはようございます。
こちらもだいぶ涼しくなってきました。

私の場合は、(悪霊による?)悪い影響が出始めたときに、しっかりとした心理学に基づく自律訓練法や、その他の瞑想で、精神を安定させ心を穏やかにするという、はっきりした目的を持って行なったので、まだ救いがあったのだと思います。強い意志と目的を持たずに瞑想などを行なえば、かえって悪霊が憑依をしてくるそうです。

ニールアンダーソン氏の、「鎖を解き放つ主」のブックレビューを見てみました。
この本の内容は、クリスチャンがわきまえていなければならない、「対悪霊戦の基礎」が述べられているそうですね。

たとえば、ノンクリスチャンの方で悪霊問題を抱えている人は、創造主にして父なる神と御子・主イエス・キリストを信じ、祈りと、原罪(今日までの、自己中心の生き方をしてきたこと)を悔い改め、信仰告白によって悪霊を追い出すなどが可能なんでしょうか? それについての方法がこの本に書かれているのでしょうかね。

「鎖を解き放つ主」のブックレビューを見ていると、「断食」をすると、より悪霊が出て行きやすくなるようだ、とありました。
マタイによる福音書17章21節ですが、聖書の正誤表のようなものでしょうか・・聖書には、<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>とあり、「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない」と記されています。

たちの悪い悪霊を追い出すためには、やはり断食は有効なのでしょうね。私の仕事仲間の知り合いに、末期がんで、抗がん剤治療なども諦めた人がいて、最後の望みを、「断食」に託して、断食治療によって末期がんを完治させた人がいます。病気の原因のほとんどが、過食や偏食ですから、断食の効用に、内臓が元気になり、有害物質が排泄され、免疫力が高まるなどの効果があるのです。

イエスが、荒野で40日間断食されたのは、黙想のための時間となり、サタンとの対決に備える意味もあったのでしょう。イエスは断食の後、宣教を開始されましたね。

私の希死念慮については、未だいろいろな「恐れ」が、拭い去られていないものと思われます。老いて体に自由がきかなくなり、やがて動かなくなる恐れ。周りから親しい人が、次第にいなくなってしまう孤独の恐れ。さまざまな恐れが自殺を考えてしまう原因になっているような気がします。恐れによって人が支配されているならば、悪魔が優勢になってしまっていて・・神の御霊に支配されていない(神の愛に包まれていない)のでしょうね。
   メンテ
No.91に対する返信 ( No.92 )
日時: 2016/10/12 16:46 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

瞑想に関しても、目的をしっかり持って行うのは
よかったですね。
無の状態というのは、確かにかえって
危険であるとも言えますね。
クリスチャンが行う瞑想(黙想)というのも
神様の御心を知りたい、添いたいという願いや、御霊(聖霊)に導かれたいという意思や目的もあった上で、聖書のみ言葉や約束を思い巡らす。。というものですね。

アンダーソン氏の本にはクリスチャン、もしくはまだクリスチャンでない方で、悪霊の影響や肉の思いや傾向に悩む人へのアドバイスがあります。
聖書のみ言葉を通しての祈り、断ち切りの祈りの方法などが書いてあります。
信仰を持って、神様に近づくこと、つながることが
悪魔や悪霊から離れるのに最適です。

クリスチャンであっても、悪霊やもしくは
肉の傾向(罪の影響、肉の思いなど過去の古い
生き方の影響)で苦しみ、悩む人はたくさんいます。

特別な祈りをする際に、断食をする方もいますね。
断食もしくは、食事を質素なものにすることの効用も確かにありますね。
ただ断食によって悪霊が追い出されるというよりは
(断食自体が効果があるというより)その人の決意を表し、神様と向かい合うための準備のようなものであると思います。

手術前には食事を抜かないといけないこともありますね。
また病気や療養中のとき、妊娠中には食べてはいけないもの飲んではいけないもの薬などもありますね。
自分の欲求よりも、もっと大切なもの(自分や家族の
心身の健康や安全)、真剣に向かい合うとき、断食や嗜好品を断つことが必要ですよね。。

例えば、復活祭の前の40日間の間
<部分断食>をするクリスチャンも中にはいます。
肉を食べない、お酒コーヒーや甘いものなどの
嗜好品を食べなかったり、かなり減らすなどする人も
います。
サタンやこの世の霊や、肉の思いとの戦いのためだけでなく、断食(部分断食)というのは、神様との関係というもっとも大切な事<本質的なこと>に集中するためにも助けになるかもしれません。

恐れというものを払拭するには、神様の愛や支えへの信仰(信頼)を深めることが必要ですよね。

神様を信じたら、神様の領域にいて御霊に<すでに>
支配されている(満たされる)ということを
信じることが大切だと思います。
たとえ(感情や感覚では)不安があるときでも、神様の
支配下にいるということには変わりません。

不安や恐れに<注目する>ことによって、不安は大きく
なってしまい、喜びや平安を感じにくくなりますよね。
悪霊の影響だけでなく、罪をゆるされていても、
善悪の知識のみを食べた人間は、人は神様に従うよりも<自分の判断を頼る>という、罪の傾向(思いの習慣)
の影響があります。

(自分が意識的に)恐れないようにする、というよりは
神様の支配下に移ったのだから恐れる必要がないと
いうことを信じる事が大切とも言えます。

手術などを受けるときは、医者に任せて受けますよね。
麻酔をして、全てをお任せしますよね。
同じように、<自分の人生や命>については、神に
委ねて信頼を持つことが、信仰だと思います^^

ニーバーの祈りにもありますが。
自分で何もしない、考えないのではなくて、
自分にはどうにもできない領域のことや、
自分ではコントロールできないことに関しては認めて、
神様にお任せします。。と明け渡すことが平安をもたらすと思います。

神様を<主>とするのでなく、
自分が自分や自分の人生の<主><支配者>だと
思ったり、コントロールしたい。。という気持ちを
強く持ちすぎると自分の限界や無力さに絶望したり、不安が生じます。
主である神から頂いた命と人生を<管理する>という
役目を頂いているくらいに思えるといいと思います。

主権を神様にお返しする、お任せして、<委ねる>ことができると
神様の支配(統治)の恵みを受けることができると
思います。
クリスチャンになってからも、委ねきれてないところ、
神様に明け渡してない領域を(自分でなんとかしようとしたり、自分の
知恵ややり方でできると思っていても、神の方法で行う方が、より良い結果や報いがあることがあります。)委ねるという課題が出てきます^^

何度もエゴ(自分中心や高慢)を砕かれ、銀のように精錬されていく必要があります。

人間が果たせる責任や、管理能力(支配の領域)は
限られていますが、自分の分を果たすことと
神様を信頼することで、平安は来ると思いますよ。^^

   メンテ
No.92に対する返信 ( No.93 )
日時: 2016/10/14 01:10 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんばんは。

アンダーソン氏の「鎖を解き放つ主」は、信者に対する悪霊の攻撃の本質を明らかにした、ベストセラーだそうですね。
この本には悪霊や悪魔・・つまり、この世の悪や偽物、嘘やエゴイズムをしっかり見分けて、その呪縛から解き放つために、聖書を通しての祈りの方法などが書いてあるのですね。

この本のブックレビューの中に、「間違って買ってしまったような。手に取ったとき、こわい。と感じた・・威圧的な存在感があります」と書いている人がいました。この人はアンダーソン氏の本を、ほとんど読んでいないのに、「怖い、威圧的」と感じたようです。つまり、悪霊の仕業による、わけの分からない感情や、否定的な思い、そして習慣的な罪を、見て見ぬふりをしている人なのでしょう。本当は、誰でも無意識層に巣くう、恐怖や不安感などから避けたいものですからね。

キリスト教の霊的知識の思想によると、「悪」というモンスターの根底には人間の意志以上の力がはたらいているそうで・・人間以上の力が人間に悪を犯させ、その魔の力に取り憑かれるというのは、心理学的に解釈すると、自覚的な理性や自我意識の支配をこえた無意識領域の影の力が、人間を動かし振りまわすということを意味します。

だから、普通の人は魔の力を「意識」の責任にしてしまい、それが解決できないために自我が壊れていってしまうのでしょう。やはり、祈りや瞑想による、無意識層への解決法(しかも安全で確実な方法)が必要となるようです。

ダスカロス氏によると、人に憑く悪魔は人によって異なり、その質を調べ出す必要があり、その悪魔は非常に賢くて、狡猾で本人と争ってくるそうです。決して許してはならず、しかし、一度つくり出された悪魔のエレメンタルは殺すことはできないそうです。しなければならないのは、自分の中で悪魔のエレメンタル(ネガティブな想念形態)を非活性化し、自己の中で変容させていけば良いらしいですね。このやり方は、アンダーソン氏とは違った方法論になるのでしょうか?

ニーバーの祈りの、自分にはどうにもできない領域や、自分ではコントロールできないことに関しては認めて、神様にお任せします・・と明け渡し、「変えることの出来る事柄」に関しては、それを変える勇気を与えてください・・と、また神に祈るのですね。

たしかに「勇気」というのは、対人関係の中に入ったり、物事を達成するのにも、幸せになるためにも必要なものです。
アドラーは、「自分に価値があると思える時だけ、勇気を持てる」と言っています。自分を受け入れるように変わる、勇気がでるように、神が“後押し”して下されば素晴らしいですね。
   メンテ
No.93に対する返信 ( No.94 )
日時: 2016/10/14 16:23 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

鎖を解き放つ主のカバー(表紙)のイメージで少し怖い。。と感じた人もいるのでしょうね。

人間の自由意志を、神に従うために用いるか
不従順を選ぶために用いるのか。。
人間の意志というのは、理性だけでなくて欲求(無自覚なものも含む)というものにも影響を受けるものですよね。

自分の必要を満たすことは、悪いことではないですが
度を越してしまうと神様の主権や、隣人への
愛や尊重を侵害することになりますね。

自分の意思(思考の仕方)にも、もちろん責任や影響力
もありますが、それだけではない。。ということも
認めないといけませんね。
神との関係(聖霊との交わり、助け)祈りによって、
自分の意思や力だけではどうにもならない部分に、
メスを入れることに<同意して>、神様の癒しを
浸透させる必要があると思います。

罪を犯しても、罪に囚われているわけではないという意識や認識をすることがが必要だと思います。
悪魔の存在や影響が完全になくなるのは、再臨の後
になりますが、主の贖いによって罪からは解放されて
いて、悪魔や罪の結果でもある死にも勝利をしているということを受け止めることが必要です。

悪霊の存在をなくす必要があるのではなくて、
悪魔に隙を与えないようにしたり、霊的戦いをすることは必要です。
無菌状態(悪魔や悪霊の影響力が0になること)
は望めませんが、非活性化させる、つまり存在しても効力を無いも同然にすることは可能でしょう。

最後の晩餐の時に、主は弟子たちの足を洗いましたね。
ヨハネ13章1〜13
主の謙遜さや、主に習うことを学べるだけでなくて。。主を信じたものは、罪を許されすでに清められ罪から解放されているということを理解するのに助けになります。
罪を赦されていて、キリストの義の衣をいただいていても、
足は汚れることがあります^^
日々歩いていれば、足が汚れるようにこの世で
生きていれば悪魔の試みや、自分の罪の傾向や欲求、誘惑に従ってしまって罪を犯すことがあるでしょう。

家族や友達、お客さんの足が汚れていても、靴を脱いだり
足を綺麗にできるようにタオルを用意して
家にあげるように、神様も私たちを義なるものとして
神様の国に子供として受け入れてくださっています。
(他人は玄関先で話して家には入れませんね。)

自分の足や他人の足が汚れていることを認めつつ(罪を
犯してしまうことを認める)、神に自分の罪を言い
あらわし悔い改めの祈りをすることができますし、
互いの弱い部分に対して愛や赦しの思いを持つことも
できます。

自分に価値がある。。と自分で言い聞かせても
どこか不安になることもありますよね。
自分の目から(主観)ではなくて、神の目から
自分(他の人も)は価値ある存在なのだという、認知(意識)を持つことが大切ですね。

   メンテ
No.94に対する返信 ( No.95 )
日時: 2016/10/15 23:15 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんばんは。
そちらはまだ、日が高いでしょうか。

> 自分の意思(思考の仕方)にも、もちろん責任や影響力
> もありますが、それだけではない。。ということも
> 認めないといけませんね。
そうですね。まず、私たちは自らの自由意志で行動を決定して、日常生活を送っているようにも思っていますが、それは錯覚なのでしょう。

悪霊や悪魔が攻撃してくる領域は、常に無意識のレベルです・・つまり、性欲を中心とした生命の衝動や、恐怖感、不安感、自己否定、劣等感、トラウマ、シャドー(否定的な自分自身の影の存在)など、さまざまな怪物が住みつき、さかんに激しい衝動を突き上げています。

フロイトが無意識を発見してから、多くの心理学者の探究により、無意識には、たくさんの悪霊や悪魔のようなモンスターが住みついていることが明らかになりました。そして、ユングは、フロイトとともに深層心理学を開拓した心理学者ですが、無意識の領域には悪霊などの怪物だけでなく、絶対的肯定を基本にした、聖なる層があるという説をユングは唱えます。それをユングは「神々の萌芽」(めばえ)と呼びました。これは、仏教の世界では“無分別智”といって、ものごとを認識したり分析する分別を超えた絶対的な智で、窮極の真理を把握する智慧の世界です。

つまり、神との関係(聖霊との交わり、助け)祈りによって、自分の意思や力だけではどうにもならない部分に、メスを入れることに<同意して>、神様の癒しを浸透させる・・というのは、無意識層の奥で眠っている、神々の萌芽をいかに(信仰による祈りなどで)表舞台に引き出すかが、勝負になるのでしょう。いつまでも、わけの分からない恐怖感、不安感など、自我意識のレベルで怯えている必要はありませんよね。

そして、悪魔に隙を与えないようにしたり、霊的戦いをすることは必要なんですね。個人的な悪魔のエレメンタルとは、意識のレベルで無為無策のまま戦ってはいけませんよね。そこは理性を使って霊的な戦いをして、悪魔へのエネルギ−の供給を止め、非活性化するのが必要でしょう。

「再臨」の後、悪魔の存在や影響が完全になくなるのですか・・
プロテスタントの福音派では、再臨の結果として、現在の自然や社会などあらゆる秩序が壊滅的な影響を受けて、創造主である神によって新しい秩序が世界に導入される、という聖書の記述を信仰されているのですね。(ペトロの手紙二3章10)(黙示録21章1)など。

私は前にも言いましたが・・クリスチャンもクリスチャン以外の人も、世界のどんな危機的な状況のなかでも、最終的には人間の歴史が破滅に終わるのではなく、神の恵みによる勝利に終わる。そして、サタンも最終的には敗北が決定付けられている、という・・信頼と楽観主義を貫いていけばいいというのが私の考え方です。

マタイによる福音書24章には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子もしらない。ただ、父だけがご存じである」とありますね。しかし、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とあります。つまり“再臨”は、近いというのは確かではあるが、その時を予言したり予測することはできない。しかし再臨のために、心や体を用意し目を覚ましていなさい・・ということを言われているのでしょうね。

> 最後の晩餐の時に、主は弟子たちの足を洗いましたね。
これは初耳でした。やはり、主イエスご自身が弟子たちの足を洗ったように、神様の愛は私達と同じ目線、しかも、しもべの姿としてなされる愛がありますね。最も愛と信頼にあふれた行為を、主イエス・キリストを通して神様が自らなされ、キリストとの深い関わりをもった弟子たちと同じ信仰者として、怖れずまっすぐ歩んでいける自信にもなるでしょう。
   メンテ
No.95に対する返信 ( No.96 )
日時: 2016/10/18 18:30 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは

自分の意思で行動を決定はしていますが、
はっきりと意識(自覚)してない部分、
悟ってない部分があると思います。

意識をあまりしてなくても、それぞれの罪の傾向、弱い部分がありますよね。
まずは、自分がどの部分に弱点があるか
隙があるかを知ることも必要です。
悟るには聖霊の導きが必要です。
聖霊は、正しい良心とも言えるでしょう。

罪(肉)があるままの良心や考えでは、罪を罪と
意識(知覚、認識)できないことがあります。
善悪など何が罪かそうでないのか、この世の感覚や自分の判断で決めてしまい、罪ではない!と正当化したり、大した罪ではない、仕方ないことだと自己弁護(罪の矮小化)をしてしまうでしょう。

再臨の後、悪魔が1000年の間縛られるとありますね。
そのあと一時的に解放され、最後の審判があり、最終的に悪魔や悪霊は地獄に落ちるとあります。

今は患難前の時代と言われていますね。
患難時代は7年間(1週=7日、7年)あるとされ
、その時に獣(反キリスト)の支配があり、その後
再臨があるとされます。
(ダニエル、エゼキエル、マタイの福音書、第一テサロニケ、黙示録など。。患難前の前兆と患難時代についての預言があります)

マタイ24章の その時は。。というのは
キリストの再臨(裁きの時)のことではなくて
その前の携挙(クリスチャンの救い)のことを指しているという解釈があります。
なぜならばキリストの地上再臨(悪魔と悪霊に従うものへの裁き)は、7年の患難の後だとすでに書いてあるので、
誰も天使も知らない。。とは言えないからです。

<今>は再臨がいつかわからなくても、患難が来たら
いつかはわかってしまいます。

携挙についても患難前携挙、患難中携挙(3年半ののち、反キリストが本性を表してから空中再臨)、患難後の再臨の時の地上再臨のみという。大まかに3つの解釈があります。

主流と言われるのは、患難前携挙説です。
その根拠として、ユダヤの婚礼の習慣があります。
主と教会の関係は時に夫婦や、
結婚と例えられることがあります。

再臨や携挙については、
牧師の書斎の、<キリストの再臨と終末預言>という
項目の、キリストの空中再臨と教会の携挙の項目で
詳しい説明があります。
また サザエのお裾分けというブログの
<携挙 患難時代、再臨、復活>という
項目にも詳しい説明があります。
   メンテ
No.96に対する返信 ( No.97 )
日時: 2016/10/21 18:37 (odn)
名前: いしまる

ききさん、こんにちは。

アメリカのある、神経科学者が行った実験によると・・人は(運命のみではない)自由意志の存在を信じることによって、悪事をはたらかないなどの、倫理観が高まるという結果になったそうです。逆に自由意志を否定することによって、倫理観を損ねてしまい、罪の知覚、認識ができず、生きる活力や意志の力を弱めてしまう結果となったようです。

つまり、物事の真の意味を知り、理解する。そして、隠されているものや、自分の本来の存在について気づくには、他(悪霊など)から強制、拘束、妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志が必要なのでしょう。そのための“悟り”には聖霊の導きが必要なのですね。

“携挙”というのは、ニコラス・ケイジ主演の映画『レフト・ビハインド』でモチーフになっていますね。(私は観てませんが・・)
原作のアメリカの小説は全米でベストセラーとなったそうですが、映画では批評家から酷評されているようです。人間の消失について、全てが不自然で、うわべだけのものに思えるそうで、この映画の中で起こる“携挙”という啓示に、高尚な意味が見い出せない・・というのが酷評の理由で、聖書に記されている描写としても、宗教的にも映画的にも中途半端な出来というわけなのでしょう。

映画のレビューも、パニック・スリラー映画ではあるが、映画の内容の意味が解らない人が観ると、意味不明な映画になってばかばかしくなる・・という意見も多かったようです。私としては、『パッション』のような視覚的にも、宗教的に真実性や迫真性がないと、こういう映画はダメだと思いました。

携挙は、神の怒りによる大患難から救われるものだったのですね。患難が始まる前に携挙が起こり、これにより真のクリスチャンは患難を避けることが出来るという、これが患難前携挙説ですね。マタイによる福音書24章の、「その日、その時は、だれも知らない・・」というのが携挙であるとすれば、患難前の携挙というのは、映画や小説のようにやがて現実となってくるのでしょうか?

その携挙、そして、その後の天変地異や疫病・戦争・飢饉など、とてつもない困難が人類に降りかかるとされる、患難時代もやはり近いのでしょうか・・
   メンテ
No.97に対する返信 ( No.98 )
日時: 2016/10/22 17:03 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは
自由意志を持っていること、自分の責任についても
認識することは大切ですね。

自発的に決定するためにも自由意志が必要と言えますね。
意志が強い弱い、信仰が強い弱いなど
私たちがどうあるか?だけではなく
神様がどのような方であるか?ということを
正しく理解し、悟ることが大切とも言えます。

携挙については、レフトビハインドなどで
有名ですね。聖書に携挙という文字があるわけでは
ないのですが、その元となっているのは
テサロニケや、その他、預言などの描写による
考察ですね。

携挙の時期についても、様々な解釈があり
再臨の時のみで、携挙はないと考える人もいます。

Got Question.org というサイトでも
<携挙と再臨の違いはなんですか>という
項目にも簡潔に書かれています。

どうなるか細かい部分は、これもまた最終的には神様のみが知る。。と言えますが。

黙示録7章14節の <大きな患難から抜け出てきたもの>をどう解釈するかにもよります。
クリスチャンの携挙と考えて患難中期に携挙があるとする考えもあれば、携挙は患難の前に終わっていて、患難が始まってから主に立ち返り迫害によって殉教した人々、もしくは携挙されるという解釈もあります。

昔から戦争や天変地異はありますが、最近になって
さらにその規模が拡大しているとも言われていますね。
一部の人は、日本の安全に関しても非常に危惧したり
心配をしていますね。
神への信仰や、聖書の預言(計画)を知らない人で、
終末を信じている人は、自分の国(自分に直接関わること)の行く末や将来を案じて、不安や恐れを感じてしまうと思います。 投票する、何かしらの署名運動に参加する
など、できることをすると言っても権威や力がない
一般市民が、権力者や闇の勢力に<肉的に>対抗するには限界がありますよね。 
一時的、部分的に優勢になっても(優勢になることを、許容されても)全体的には劣勢になることもあるでしょう。

神様がこの世に対して、どのようなご計画を持っているか
ということにも目を向けるならば、自分の力に限界が
あっても、人事を尽くして天命を待つ。。ではないですが、希望を持つことが可能と言えるでしょう。

具体的な預言、エゼキエル38章の預言の成就も患難の前兆のしるしとして注目できると言えます。
戦争が起こり、一般市民が巻き込まれることは
望ましくないですが、戦争はそれぞれの国や組織などの
思惑や利害関係が複雑に絡んでいて避けられないこともありますね。
   メンテ
No.98に対する返信 ( No.99 )
日時: 2016/10/24 14:55 (odn)
名前: いしまる

ききさん、おはようございます。

携挙と再臨の違いはよくわかりますよ。
携挙は神の怒りである患難の前に地上から、すべての信者を救い出すのですね。そして、再臨はキリストが地上に帰って来られ、患難の時代に終止符を打ち、反キリストと悪の帝国が打ち負かされ、そして、来たるべき神の国である新天新地に入っていくのでしょう。

まず、エゼキエル書38章は、患難の前兆のしるしとして注目できるのですね・・ここには、ゴグという「北からの敵」についての預言が書かれていますね。イスラエルの民が祖国に帰り、平和に暮らしているときに、ゴグが諸民族の大連合軍を率いてイスラエルに攻め入り・・主はゴグとその大連合軍を、ことごとく滅ぼされるという内容のようです。

ゴグの地はどこかという問題がありますね。イスラエルから見て、「北の果ての国」のようですから、北方のロシアや、アラブ諸国ではシリア、イランなど。IS(イスラム国)と考える人たちもいます。いずれにしても、世界的な規模で、豊かになって平穏に暮らしているイスラエルに対して、総攻撃するのではないかという預言の解釈です。現在のシリア紛争なども、世界の終末戦争の兆候が現れていますね。

あのヒトラーも、聖書とほとんど同じ最終戦争を予言していたそうです。ただし・・「キリスト(再臨)というものは来ない。ユダヤやキリスト教の幻想だ。わたしははっきり言うが、そんな救世主はほんとに来ないのだ」と語ったそうです。代わりに、突然変異で救いの超人や、神に近い人類の“神人”が地球、そして宇宙を支配するのだそうです。そして、その神人が現れるのが2039年だそうですね。

携挙についても、様々な解釈があって、患難中期に携挙があるとする考えもあれば、再臨の時のみで、携挙はないと考える人もいるのですね。ヒトラー予言にしてもそうですが、ききさんが仰る通り、最終的には神様のみが知るというわけなのでしょう。

マタイ福音書6章34節、「明日のことまで思い悩むな。 明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」というイエスの言葉を胸に刻みたいと思います。

さて、終末論が出たところで、この私のスレも最後になりました。後半から私自身の悩みまで答えていただいて、ありがとうございました。また機会があれば、どこかでお話ししましょう。
   メンテ
No.99に対する返信 ( No.100 )
日時: 2016/10/25 18:41 (dip0)
名前: きき

いしまるさん
こんにちは
このスレも最後になりましたね。

患難前のしるしとしてのエゼキエル書の
預言があるので、一部の(終末の預言も信じる)
クリスチャンや、他の終末時代を信じる人々が
注目をししているという状態ですね。

ゴグは、解釈としてロシアとされることが
多いですね。
イスラエルは建国ごの数十年間よりは、今は
(表面的には、軍事力や外交の努力もあり)
平和にくらしている状態ですよね。
ただ、近年ゴラン高原に油田が見つかってますので
それを 狙っている、諸外国(ロシア、中東)などから
狙われるとも言えるでしょう。

戦争は、多くの場合利権、覇権争いのことが
多いですよね。
日本の近隣諸国との問題や心配をあげる人もいますが、
油田などと地下資源などがない国ですから、
(脅しや、覇権争いはあるにしても)
あまりメリットはないと言えます。
油田、水、食物。。これらの資源がなければ
人は生活したり生産ができなくなりますからね。


ヒトラーの予言ですか。
聖書以外の人や文書の予言というのは、
希望がないですよね。
聖書の預言を、ユダヤやキリスト教の幻想だとして
救世主(キリスト)を否定する。
彼も反キリストの精神を持った人だったと言えますね。

神の代わりの人が支配する。。つまり神に成り代わるもの
聖書で言えば、反キリスト、獣が支配するとありますね。
ただその支配は7年間(7週の間)と言われています。

神や救い主を否定する人は、悪魔や悪霊の精神を持っていると言えますね。
神の預言、プランを阻止しようと働いて、もがいているのが悪魔と言えます。
旧約の時代にも人の子(イエス)が生まれないように、イスラエルの民(ユダヤ人)を何度も殺したり、迫害してきました。
クリスチャンへの迫害も未だにあります。
救われる人が減るように、福音が伝わることを
邪魔したり福音を受け入れるための心の土壌が整わないように霊的な攻撃をしたり罠を掛けてきます。

わかりやすい迫害や反対だけでなくて、悪魔は
欺きや嘘や惑わしによって、人間が神様の救いと
恵みを受けるのを邪魔しようとします。
現代では、多くの国では宗教や信仰はある程度
尊重されているようであっても、
イエスをキリストとして受け入れないようにするために、
様々なこの世の哲学や世の考えによって、
霊的な目が曇ってしまっていますね。。

多くの誠実な人ですら、宗教への不信や
自分に依り頼みすぎるという、罠によって
神の恵みや救いを受けることに対して、抵抗感を
感じたり、必要性を感じないようになっていると
言えます。

またお話ができるといいですね。
教会なども、3〜4箇所見学されてみて
もし牧師や信徒の雰囲気のよいところが見つかると
いいですね。
完璧な教会はないですが、賛美する時間や
互いに励まし合ったり、執り成しの祈りを
し合えることは心強いと思います。

聖書入門.comと
牧師の書斎
サザエのお裾分け 
神さんの言う通り(英語の礼拝説教を
訳してくださっていて、オススメです)
God question 
これらは私も時々めを通すのですが、オススメです。
比べてみると、少し解釈が違う部分もありますが
参考になると思います。

ガラシャさんも、(見てないかもしれませんが)
聖書と祈り、あとは聖書入門.comなどネットなどの
助けを通して、神様の愛と恵み、そして聖書の約束
について知り、神様への愛や信頼を育てていけることを
願います。
   メンテ

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この度、テーマを『生きること、そうでなければ、死ぬことについて』としまして、皆様の死生観や現実の生活における知恵など、自由な視点からの寄稿をお願い申し上げております。

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