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 ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ
日時: 2016/02/29 19:37 kd036012049217.au-net.ne.jp
名前: よしこちゃん

バクサイの静岡雑談でしずちゃん管理人の中傷してるキリスト教徒が遠隔操作で盗撮盗撮してるよ

主張掲示板

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やりました!ゴキブリがブチギレました! ( No.6 )
日時: 2016/03/01 17:36 openmobile
名前: よしこちゃん

しゃあっ!!!
   メンテ
ゴキブリブーム♪(≧口≦)ノ ( No.7 )
日時: 2016/03/01 20:33 openmobile
名前: よしこちゃん

ゴッキ〜ヾ(≧∀≦*)ノ〃
   メンテ
〜嫌われたゴキブリ〜 ( No.8 )
日時: 2016/03/02 00:29 openmobile
名前: よしこちゃん

バクサイ運営者に嫌われたゴキブリ〜ヾ(≧∀≦*)ノ〃
   メンテ
ゴッキ〜ヾ(≧∀≦*)ノ〃 ( No.9 )
日時: 2016/03/02 15:50 openmobile
名前: よしこちゃん

ゴキブリブリブリ〜
   メンテ
ゴッキ〜ヾ(≧∀≦*)ノ〃 ( No.10 )
日時: 2016/03/02 16:25 openmobile
名前: よしこちゃん

ゴキブリブ〜リブリ♪
   メンテ
ゴッキ〜ヾ(≧∀≦*)ノ〃 ( No.11 )
日時: 2016/03/02 16:52 openmobile
名前: よしこちゃん

ゴキゴキブ〜リブリ!
   メンテ
ゴッキ〜 ( No.12 )
日時: 2016/03/03 01:39 openmobile
名前: よしこちゃん

ゴッキ〜
   メンテ
ゴキブリ♪ ( No.13 )
日時: 2016/03/04 16:45 openmobile
名前: よしこちゃん

遠隔操作してるやつはゴキブリ
   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.14 )
日時: 2016/03/04 20:16 ocn
名前: わたしです

  臨死体験の話


臨死体験とは、事故や病気で仮死状態になった人が、死後の世界とおぼしき光景をかいま見るといった体験のことをいう。

たとえば心が体から離脱して、自分が横たわっている姿を上から見下ろすとか、暗い洞窟をぬけて明るい光の世界に入っていくとか、美しい花園に遊ぶとか、かって味わったことのない至福の体験をするとか、すでに亡くなった人や自分をいつも見守ってくれている霊的な存在に出会うとか、この世とあの世の境にある三途の川を見る、などの体験である。

そして自分がまだ死ぬ時ではないと告げられ、この世に戻ってきて意識を取りもどす、という結末になることが多い。アメリカでの調査によると、臨死体験は普通に考えられているよりも、はるかに多くの人が体験しているという。

立花隆氏はこの臨死体験をあらゆる角度からを取材し、「臨死体験」という上下二冊の本にしている。この本をもとに臨死体験の概略を説明したい。

まず一つの例を挙げてみる。これはペニシリンの副作用で危うく死にかけた前東大医学部教授・豊倉康夫氏の体験である。

「いま意識を失ったらこのまま死んでしまう。なんとしても頑張らなくては駄目だと自分に言い聞かせながら、それはもう死の恐怖にたいする必死の格闘であった。ついに刀おれ矢つき、ああこれで我が一生は終わる。それにしても短い一生だったなと一瞬おもった。それから先が問題である!

なだらかな坂を下るように、地面に吸い込まれるように意識がなくなったのだが、問題はその短いあいだに味わった何ともいえない恍惚感のことだ。まず頭に浮かんだのはお茶の水の聖橋のあたりの光景、結婚後まもなかった河田町のせまい借家の様子、そのあとは、ただ極楽の花園をさまよい、天上の光を浴びるといったような恍惚の境地だけである。

もはや呼吸停止の苦しみも死の恐怖も、一切感ずることはなかった。もし死んでいれば伝えることのできなかった不思議な体験である。倒れてからここまでの時間がどれほどであったのか、その記憶も実感もまったくない」

     死は苦しみか

私たちは最後の最後まで、苦痛と恐怖におそわれながら死を迎えるのかというと、そうでもないらしい。臨死体験の内容から判断すれば、実際にはある地点を通過してしまうと苦痛はなくなり、かって体験したことのない快さと満ち足りた安らかさを感ずるようになる。

人によっては、神々しい光にあふれた、筆舌に尽くしがたいほど美しい、永遠の真理に満ちあふれた世界を体験し、それこそが死後の世界にまちがいないと断言している。だから体験者のほとんどは、この世に戻りたくなかったと言っている。

そのため臨死体験をすると死を恐れなくなる。それは必ずしもあの世の存在を信じるようになったからではなく、臨死体験は幻覚だと思っている人でも死を恐れなくなる。全体ではないにしろ死を体験することで、死は決して苦痛と恐怖に充ちたものではないことを知るからである。

だから来世を信じている人の場合には、安らぎにみちた死後の世界をかいま見ることで完全に死の恐怖から解放される。

さらにその影響は研究者にまで及び、立花隆氏もその一人であるが、臨死体験の話を聞いているうちに死ぬのが恐くなくなったという人が少なからずいる。中には自分はどのような臨死体験をするのかと、死ぬのを楽しみにしているという人さえいる。

ただし不安や恐怖などを体験する人も極めて少数存在するが、そのほとんどは浅い臨死体験の人だという。

人が亡くなる時の表情を調査した記録によると、七割をこえる人が安らかな表情で亡くなっており、苦痛がつづく末期ガンでもこの値はほとんど変化せず、苦しみの表情で死ぬ人は一割程度だという。

     臨死体験とは何か

臨死体験はなぜおきるのだろう。臨死体験の正体は何なのか。

臨死体験がおきる理由としては、死後の世界を本当に見てきたという説と、断末魔における幻覚に過ぎないという説の二つが考えられ、立花隆氏は幻覚説に傾いているがどちらとも結論は下していない。どちらからでも説明できるし、どちらにしても矛盾は残るからという。

ただし最近の研究によると、人間の脳には臨死体験をする機能が備わっており、それが脳のどの部分にあるのかも特定されつつあるという。つまり、臨終時には脳に組みこまれた臨死体験機能が作動することで、苦痛や恐怖心から完全に解放され、安らかに死を迎えられるようになっている。だから死を恐れる必要はない、ということらしい。

人が死を恐れる理由として、立花隆氏は次の三つをあげている。それは、断末魔の苦痛に対する恐怖、自分の存在が無くなることに対する恐怖、死後どうなるのかという死後の世界に対する恐怖、の三つである。

人は未知のことや初めてのことに対しては本能的に恐怖心を抱くもので、一人旅をするのでも初めてのときはかなり不安を感じる。ましてや誰にとっても未知の世界である死の世界に旅立つのだから、恐怖心を抱くのは当然である。

もっとも仏教では、すべての生き物は始めも分からない過去の過去から、生まれ変わり死に変わりの輪廻を続けて来たとされるから、無限に繰り返してきた死を記憶していないだけということになる。

臨死体験にはこうした恐怖心のすべてを解決する力があるらしい。

    臨死体験の事後効果

それではそうした体験をした人は、死ぬことに憧れを持つようになるのかというと、決してそうではなく、反対にほとんどの人は生きることに対して積極的になる。それは死の過程を体験し、死を理解することで、生きていることの本質が理解できるからであり、死を恐れなくなったとき生の本当の意味が見えてくるからという。

私たちは生きることに慣れすぎているため、自分がいつか必ず死ぬことを、頭では分かっていても実感できなくなっている。しかし臨死体験をすると、命には限りがあって遠からずまちがいなく死が訪れることを、切実に感じられるようになるのである。

そして自分は本当は何をやりたいのか、何をやらねばならないのか、何が人生でいちばん大切なことなのか、といったことを真剣に考えるようになり、生きてる間にできるだけ多くのことを知りたい、多くのことを体験をしたい、多くの人と会いたい、という積極的な人生観を持つようになる。

臨死体験をした八十一歳の老人が、猛烈な知識欲に目覚めて大学に入学し博士号をとった例もあるというから、臨死体験は植物の種のごとき力を持っているらしい。地に落ちた種が芽を出して大きく成長するように、臨死体験も時間とともに成長していくのである。

臨死体験により人生観が激変したという人は多く、しかもみんないい方向に変化している。つまり、求めるものが物質的なものから精神的なものへと変化し、お金や物よりも心を大切にするようになり、他人への愛情にめざめ利己的な生き方を改めるようになるのである。

さらに頭が良くなるとともに感覚も鋭くなり、他人の思惑が気にならなくなって毎日の生活が充実し、体内の活力が増大して病気が治る、というような力が身につく人もある。

だから臨死体験は人類進化の方向を示しているのではないか、という説もあるぐらいで、そういう素晴らしいものなら私も一度体験してみたいと思う。まちがって死ぬ心配がなければ。

しかし臨死体験の事後効果を知るために、わざわざ死に損なう必要はない。臨死体験は話を聞いたり本を読むだけでも大きな影響があるとされるからである。

だからこうした事後効果は、単に死を実感したことで起こった人生観の変化、と言うことはできない。死にかけた人は世の中に沢山いるが、死にかけても臨死体験をしなければそれほど影響を受けないからである。

自殺をはかって失敗した人は、二度三度と自殺をくり返すことが多い。しかし自殺をはかったとき臨死体験をした人は、二度と自殺をくり返すことはなく、その後の人生観や宗教観にも大きな影響が見られる。また臨死体験の内容を話して聞かせるだけでも自殺予防の効果がある。

夢と臨死体験との違いは、夢はすぐに忘れてしまうが臨死体験は決して忘れないことである。

     臨死体験と宗教体験

臨死体験の中で、非常に深い宗教体験をする人がいる。愛に満ちた聖なる光に包まれて神を実感するとか、神と自分は一体であると体験するとか、真理や正しい生き方をはっきり理解するとか、全ては自分の中にあり自分は全ての中にあるという全一感を体験するとか、の宗教体験である。

そしてそうした宗教体験をした人は、伝統的な特定の宗教に回帰するのではなく、普遍的な宗教心を持つ傾向がある。つまり、すべての宗教の純粋な部分は同じだと考えるようになり、そのため他の宗教に対して寛容になる。

日本と欧米の体験を比べてみたとき気になることが一つある。それはキリスト教文化圏には深い宗教的な臨死体験をする人が多くいるのに、日本にはほとんどいないことで、たとえ神仏に出会ったという人でも宗教体験と呼べるものはほとんどなく、日本人の臨死体験の特徴は無宗教的なことと、お花畑や三途の川を見る人が多いことだという。

その理由として立花隆氏は、「キリスト教の伝統では、神は真理を啓示する者であるとするのに対し、日本の神仏はもっぱら現世における御利益と、来世における極楽往生の面倒を見てくれる存在でしかない、という違いが臨死体験に現れているのではないか」と述べている。

仏教は智慧と慈悲の教えであるから、真理において不足するところは無いと思うが、たしかに当たっている面もあると思う。
   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.15 )
日時: 2016/03/04 20:17 ocn
名前: わたしです

坐禅の話


寒い季節には朝起きるのが辛い。そのため、うつらうつらしながらあと五分寝ていようとか、そのうち誰か起こしてくれるだろうとか、いろいろと妄想をかきながら布団の中で籠城することになる。

朝は誰しも心が弱くなっており、その弱い心に負けてしまうのである。

だから、朝おきるときの姿を見れば修行の程度がたいてい分かる。布団の中でグズグズしている人は、自分に負けている人である。

「眠いのも妄想のうちだ」と先輩から言われたことがあり、「眠いのは生理的な要求だ」とその時は思ったが、「たしかに眠いのも妄想のうちだ。それに打ち勝つことができるのだから」とやがて納得した。

坐禅の道場には接心(せっしん)という修行がある。これは一週間ひたすら坐禅に打ちこむという修行期間で、修行者の中にはこの間ほとんど眠らずに坐り通す人もいる。

睡眠時間が二時間を切ると私は軽い幻覚を見た。まぶたの裏にチラチラと動くものが見えてきて、睡眠時間が短くなる程はっきりしてくる。

そのような極度に少ない睡眠時間でありながらも、接心中にはすぐに起きられる。坐禅に集中していると余計な思いが漏れ出てこないからで、ただし本人ははっきり目が覚めているつもりでも寝ぼけていることがよくあった。

ところが接心が終わると、充分に寝ていても朝起きられない。起きる時は起きる、寝る時に寝る、という当たり前のことが難しい。

心の中に漏れ出してくる迷いのことを煩悩(ぼんのう)という。煩悩は漏(ろ)とも呼ばれるが、それは作りの悪い屋根が雨漏りするように、作りの悪い心に煩悩が漏れ出してくるからである。坐禅は穴をふさいだり、中にたまった水を捨てたりする作業である。

     調身(ちょうしん)

坐禅は「体を調え、呼吸を調え、心を調える」の三段階からなる。これを調身、調息、調心ともいう。

調身には、健康的な生活を送ることで体調を調えることも含まれるが、坐禅の実践においては正しい姿勢を身に付けることである。

「坐相正しければ心これに従う」という言葉があるように、姿勢が正しければ、心もすっきりと正しくなる。逆に姿勢が乱れると心も乱れ、心が乱れると悩みや弱い心につけ込まれるようになり、そしてさらに姿勢が乱れる。

良い姿勢は一生の財産ともなる。「家柄は背筋に現れる」という言葉のように、私たちは人を判断するのに、相手の顔つきや話の内容だけでなく、姿勢も判断材料にしている。姿勢が乱れていると、人に悪印象を与えるだけでなく、精神的にも弱い人間だと思われる。

姿勢を正しくするかなめは腰と首である。人間の背骨は腰と首の部分がよく曲がるようにできているため、この二ヶ所で姿勢がくずれるからである。

坐禅をするときには、頭の先から五円玉を落としたら、お尻の穴からチャリンと出てくるように真っすぐに坐れ、とよく言われるが、これは定規を当てたように真っすぐということではない。

人間の背骨は魚の背骨ように真っすぐではなく、右側から見た場合ゆるやかなS字曲線を描いている。この曲線が理想的な形になるようにすれば、背筋が真っすぐになったように体感する。だから背中を柱に押し当てて一直線に伸ばしても坐禅の姿勢にはならない。

坐相を決める第一は、しっかりと腰を入れることである。腰が少しでも引けると心がゆるむ。腰を入れるには、一度、体を前に倒してから、腰はそのまま残して頭を突き上げるように上げていくとよい。

おヘソの後ろの背中に手を当てたとき、ゴツゴツとした背骨にさわるようだとまだ腰が伸びていない。充分に腰が入れば背骨が中にひっこむ。

つぎに首を真っすぐにする。あごを引き、頭の先を天井にぶつけるように伸ばすと、首の後ろの線が真っすぐになる。

そして肩の力を抜く。心がうわずると自然と肩に力が入る。だから腹を立てたり恐怖におそわれたりしたときには肩に力が入っている。肩の力をぬき重心をお腹の底に落とせば心のお荷物も落ちていく。

眼は一メートルから二メートル前方の床に視線をおとす。すると眼を半分閉じたような感じになるので、これを半眼(はんがん)という。だから故意に薄目を開けた状態にしているわけではない。

そして力を抜いて眼をくつろがせる。眼は全身の神経活動の四分の一を消費しているといわれ、眼がくつろぐと心身ともに楽になり、顔の緊張もとれて自然な表情にもどる。気がつかないうちに、こわばった表情になっていることが多いのである。

眼はつぶってはいけない。眼を閉じると眠くなるし、禅定力も身につかず、また妄想をかきやすくなる。

たとえば眼を閉じて読経すると、雑念が入ってお経をまちがえやすくなる。そのため私は暗唱できるお経でも経本を見るようにしているし、経本がないときは線香の火を見ている。そらでお経を読むと、心もうわの空になりやすいのである。

口はしっかりと閉じ、奥歯を軽くかむように合わせる。寝ているときやボンヤリしているときには上下の歯は少し離れているが、これでは具合が悪い。

「歯を食いしばって頑張る」という言葉のように、奥歯を噛みあわせると心が強くなり、かなりの試練に耐えられる。ただし力を入れすぎると歯がぐらついてくる。私は接心で歯をぐらつかせたことが何度もある。

頭の先からお腹の底へ、そして地球の中心へと、ストンと気が通るように坐らなければいけない。どこかに気が滞ると、眠くなったり、妄想をかいたり、肩がこったりして、坐っているのが嫌になる。

気を通すには姿勢だけでなく重心も大切である。重心は重力によって決まるから、そのため地球の中心に向かって気が通ることになる。ストンと決まるところは一カ所しかない。

また胃のあたりに力が入ると胃を悪くする。私も坐禅が原因の胃炎に苦しめられたことがある。

     調息(ちょうそく)

呼吸は自然に任せておく。短い呼吸よりも長い呼吸のほうが心は落ち着くが、意識して呼吸を長くするとかえっておかしくなる。

慣れてくれば呼吸はしだいに長くなるし、重心がお腹の底に落ちてくれば自然と腹式呼吸になってくる。坐り初めに腹式呼吸を数回大きくおこなうと、腹式呼吸に入りやすくなる。

ほ乳類は、人間でもゾウでもネズミでも、体の大小に関わらず一生のあいだに約五億回の呼吸をするという。ちなみに心拍数は呼吸の四倍なので、約二十億回で寿命が尽きることになる。

小さな動物はたいてい呼吸が短く、寿命も短い。大きな動物はたいてい呼吸が長く、寿命も長い。つまり小さい動物は短い呼吸で早く寿命を使い果たすことになる。だから長息(ながいき)は長生きに通じるという言葉は理屈に合っている。

坐禅のときの呼吸数は、熟練した人は普通の人の半分から三分の一に減っており、坐禅をしていないときも少ない。だから坐禅をすれば長生きするという言葉も、必ずしも誇大広告ではない。

坐禅中の体の代謝量は、人間が生きていくのに最低限必要とされる基礎代謝よりも、さらに二割も少なくなっているという。これは脳がくつろいだ状態にあるからで、意識ははっきりしているが脳は休息しているのである。

体を動かした直後に坐禅をすると、体が酸素を必要としているため、呼吸が調うのに時間がかかる。タバコを吸っても呼吸は短くなり、この場合はさらに時間がかかる。これは一酸化炭素の影響だと思う。だから愛煙家といえど少なくとも二時間前から禁煙しなければいけない。

それと呼吸の音で周囲に迷惑をかけないように気をつけてほしい。風や雨の音とちがって人間の出す音は耳障りなものである。

「ひと息坐禅」という気分転換法を大森曹玄老師に教えてもらったことがある。仕事の合間などに、しっかりと腹式呼吸を一回すると、心の中がカラッポになり新たな気分で仕事ができる。

     調心(ちょうしん)

心が調えば、すべてが解決する。だから調心は人生の最重要問題である。

心の調える方法として、初めて坐禅をする人に対しては数息観(すうそくかん)を勧めることが多い。これは吐く息と吸う息を、目で追うようにしながら数える方法である。

呼吸の数え方にはいくつかあるが、吐きながら「ひとつ」、吸いながら「ふたつ」、と数えるのがやりやすいと思う。十(とお)まできたら一つに戻り、途中で分からなくなったときも一つに戻る。ただこれだけのことだが、一から十までよそ見せずに数えるのは難しい。

数えるのが嫌になったり、数える必要がないほど心が安定してきたら、数えるのを止めてただ呼吸を目で追うようにする。これを随息観(ずいそくかん)という。

さらに呼吸を目で追うのもやめて、ただ坐るのを只管打坐(しかんたざ)という。只管打坐は「ただ坐る。それでおしまい」などと言う人もあり、単純で良さそうに思えるし、道元禅師も勧めている。

たしかに「それでおしまい」になって「ただ坐る」ことができれば、只管打坐は究極の坐禅であるが、坐るときの手掛かりがないため妄想に負けてしまう人が多く、初心者にはあまり勧められない方法である。

坐禅修行では、よそ見をしないことが大切である。桜が咲こうが、月が出ようが、雪が降ろうが、いっさい相手にしてはいけない。だから気分転換は不要である。心が散乱して困るという人は、よそ見をすることと、食事の量に問題がある。つまり食べ過ぎもよくない。

また緊張感も大切である。ボンヤリしていては坐禅は妄想の巣になってしまうから、気迫に満ちた坐禅をしなければいけないが、力みすぎると今度は心が空回りしてしまうから、ちょうどいい所を自得しなければいけない。

坐禅は微かな心の動きまではっきりと自覚できるすぐれた修行方法である。ところが繊細なだけに強烈な妄想が出ている時には対処できないことがある。

たとえば人と言い争いなどをして心が強く乱れているときには、坐禅の方が負けてしまうから、そういう時は写経とか読経などの方がよい。思いっきり体を動かすのも効果大である。

最後にもう一つの大切なこと、それはよい指導者を見つけることである。「正師を得ざれば、学ばざるが如し」と道元禅師は言っているし、「三年学ばずして正師を求めよ」という言葉もある。

坐禅修行を志す人は、三年かけて慎重に指導者を探さなければいけないのである。

   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.16 )
日時: 2016/03/04 20:19 ocn
名前: わたしです

お経の話


葬儀や法事のときなぜお経を読むのだろうか。「何のためにお経を読むのか」と質問された事はこれまで一度もないが、納得している人は意外と少ないかもしれない。

仏教ではたとえ一言半句であっても、お経を読んだり、人に読んで聞かせたりすることはたいへん功徳のあることとされている。その功徳を亡くなった人に回向するのが読経の目的である。

これは仏教が広まっている国ではどこでも行われていることだと思う。読経によって本当にご先祖さまが救われるのかと聞かれると困るが、お経にはそうした功徳があるとされる。そのため私は法事で読経するときには、経本を配りみんなで一緒に読経している。

それではお経とは何かというと、基本的には釈尊が残した教えのことをお経という。

仏教の文献は経・律・論(きょう・りつ・ろん)の三つに分類されており、経は釈尊のお言葉、律は戒律に関係する文書、論は後世に成立した仏教哲学とか仏教思想に関する文書である。

経律論はそれぞれが蔵を一杯にするぐらい多量の文書があることから、三つまとめて「経律論の三蔵」と呼ばれており、それらを学び尽くした人のことを三蔵法師という。

お経が成立したのは釈尊が亡くなった直後のこととされる。釈尊の没後その教えを残すために、弟子たちが集まって仏典結集(けつじゅう)と呼ばれる編集会議を開き、そこで釈尊の教えと認められたものがお経としてまとめられた。

そしてお経は口伝えで伝承され、文字の使用が広まった三百年ほど後に成文化された。

釈尊はどんな言葉を話していたのだろうか。

学生時代にインドを旅行したとき、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊が坐っていたとされる金剛宝座の前で礼拝していたら、近くにあるスリランカの寺の僧がやって来て読経をはじめた。

読経のあと誘われて彼のお寺でお茶をごちそうになったとき、「さっき読経していたのはオリジナルのパーリ語だ。ブッダが話していた言葉だ」と彼は説明していた。

パーリ語は古代インドの言語であり、釈尊が住んでいた地域の言語の一つである。釈尊がパーリ語を話していたかどうかは確認できないが、釈尊の教えはパーリ語の経典にまとめられて伝承され、この経典は現在もスリランカや東南アジアの仏教国で読まれている。

ただし大乗仏教の経典はインドでいちばん権威がある言葉とされるサンスクリット語で書かれており、それが中国へ伝わった。

     お経の伝搬

釈尊の教えの集大成であるお経は当然インドの言葉で書かれていたが、仏教が他の国々に広まっていくことで、行く先々の国の言葉に翻訳されていった。

日本は中国経由で仏教を輸入したため、法事などで読まれているのは中国語(漢文)に翻訳されたお経である。

お経の主なものにはパーリ語・チベット語・漢文の三種があり、漢訳仏典がいちばん量が多い。パーリ語のお経は「南伝大蔵経」、チベット語のお経は「チベット大蔵経」、漢文のお経は「国訳一切経」と「国訳大蔵経」という名で日本語に翻訳されている。

仏教は十三世紀ごろインドで消滅したため、お経の原典はインドにほとんど残っていない。

中国に仏教が伝わったのは紀元前二年とされ、それから千年ぐらいにわたって中国人は様々な仏典をインドから輸入し翻訳してきた。だから膨大な量の中国語の仏典が残っている。

中国人とインド人はものの考え方がずいぶんと違う。たとえば、中国には歴史はあるが哲学がない、インドには哲学はあるが歴史がない、という言葉がある。中国人は歴史を大切にし丹念に歴史を書き残してきたが、中国では哲学はほとんど発達しなかった。

一方のインドは歴史の残っていない国である。インドだけでなく南方の国の歴史は不明な部分が多い。常夏の季節感のない国に住んでいると歴史感覚が発達しないらしく、そのため南方の人たちは歴史をあまり書き残していないからである。

インドは大国だから必ずしも常夏の国土ばかりではないが、古い時代の歴史はほとんど残っていない。釈尊がいつ頃の人なのかもよく分かっておらず、釈尊の生存年代を調べるのに、中国の歴史からさかのぼって推測することが行われている。

インド人は個々の歴史やでき事にはあまり興味を持たなかったようだが、彼らは物事の根本を追求する姿勢のきわめて強い人たちである。彼らの興味は次のような問題に注がれていた。

私達が生きているこの世界、この宇宙とは何か。何が宇宙を生み出しているのか。宇宙の根本原理は何か。

自分とは何か。何が本当の自分なのか。心の奥へ入っていくと何があるのか。何が自分の本心なのか。

人生の苦しみを根本から解決するにはどうすればよいか。どうすれば永遠の命を体得できるか。

インド人はこうした問題を深く追及し答えを出してきた。それも理屈で考え出したものではなく、心を集中して心の奥に分け入り、真理と一体になることで出した答えである。

中国人はこうした異質な文化であるインドの哲学や宗教に強いあこがれを抱き、それらの精華が収められている仏典を大量に翻訳してきた。つまりこれらの問題に対する答えが仏典に記載されているのである。

お経の翻訳には二通りのやり方があった。一つは意味を翻訳するというふつうの翻訳である。般若心経をはじめとしてほとんどのお経はこちらに属しており、漢文の読める人ならこれらのお経は理解できる。

もう一つは意味を翻訳しないやり方である。意味を翻訳しないのなら何を翻訳するのかということになるが、インドのサンスクリット語の音を漢字で音写するやり方である。

釈尊のふるさとの言葉でお経を読もうという趣旨のもので、大悲呪や消災呪などの陀羅尼(だらに)と呼ばれるものはこちらに属する。

ところがここで問題になるのが漢字の意味である。漢字は一字一字が意味を持っている。それをどうするのか。音と意味を同時に翻訳できれば理想的だが、そんなことは不可能なので、ここでは意味を無視して漢字の音だけ利用することになる。

だから陀羅尼は文字を読んでも意味はまったく分からない。意味を翻訳していないから分かるはずがないのである。

とかく分からないと非難されるお経であるが、修行として読経するには意味が分からない方がいいという考えもある。

たとえば日本語で書かれた和讃(わさん)と呼ばれる仏典は意味がよく分かる。しかし意味が分かるという長所は、読みながらつい意味を考えてしまうという短所になる。つまり無心になりにくいのである。

その点ダラニは文字を見ても耳で聞いても意味が全く分からない。そのため読経三昧になりやすく、ダラニは意味が分かるのお経の三倍の功徳があるともいわれる。

     読経のすすめ

禅宗の修行は坐禅が基本である。坐禅は、体を調え、呼吸を調え、心を調える、という三段階になっており、そして心がよく調えられたならそれですべてのことは解決する。結局のところ解決していないのは自分の心だけである。

ならば心を調えるとはどういうことかというと、それは心の中を空っぽにすることである。

心の中に何かあるとどうしてもそれにとらわれて、悩んだり、迷ったり、腹を立てたり、ねたんだり、恨んだり、することになる。心の中が空っぽであればすべて解決している。

そのため坐禅修行で心の中のお荷物を捨てていくのだが、坐禅は続けるのが難しい修行である。たいていの人はただ坐っていることに耐えられないからである。とくに一人で坐禅していると長続きしないものなので、時間を決めてみんなで一緒に坐ることになる。

その点、読経は入りやすく続けやすいという面を持っている。声を出すという行動をともなうため初心者でも心を集中しやすいからである。だから坐禅よりも読経の方が、一般の人とか一人で修行する人には向いていると思う。

般若心経とか十句観音経などの短いお経をくり返し読んでいると、心の中が空っぽになってくる。本当に心が空っぽになるとお経と自分が一つになる。この空っぽの心を大切にしたい。それが私たちの本心本性である。

大森曹玄という老師がこんなことを言っている。

「真の読経の功徳とは、お経を読むことで自己を尽くしていくことにある。だから全身全霊を打ちこみ自己を忘れて読経しなければならない。お経にありがたいお経とか、ありがたくないお経などという違いはない。読み方が問題なのだ」

最近は年に三万人以上の人が日本で自殺しているという。心の中にいろんなものを抱えこめば、誰しも心も体も病気になる。一日のうち三十分や一時間ぐらいは心を空っぽにする時間を持たなければならない。

自宅で読経するには、仏壇があればその前で読経する。その場合まず本尊さまに回向し、それからご先祖さまに回向し、そしてあと時間のあるかぎり、根気の続くかぎり、短いお経や陀羅尼をくり返し読むのがいいと思う。

般若心経は一分少々で読める短いお経であるが、姿勢を正し、しっかり合掌し、心をこめて真剣に読経すれば、一回読むだけでも驚くほど心の中がすっきりとする。すぐに実行できることなので試していただきたい。これが読経の最大の功徳だと思う。

     読経の功徳

白隠禅師の高弟の東嶺(とうれい)和尚が、看経論(かんきんろん)のなかで読経の八つの功徳を説いている。

自分が受ける四つの功徳。

一、三昧を助ける。読経の声が心に入り、心を正しくする故に。

二、災いを滅す。善神の守護を受け、悪鬼は怖れて近づかなくなる故に。

三、病をのぞく。読経の声が身体に充ち、気血のめぐりがよくなる故に。

四、心願がかなう。運命が日々に改まり、大道に従って生きるようになる故に。

他の受ける四つの功徳。

一、諸天を歓ばせる。仏教の守護神が力を得て、勢力を増長する故に。

二、迷えるものを救う。悪業を消して、菩提心を起こさせる故に。

三、読経を見聞きしている者を益する。悪念を捨てさせ、信心を育てる故に。

四、人間以外のものを利する。音声の及ぶ所、あまねく仏法と縁を結ばせる故に。

   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.17 )
日時: 2016/03/04 20:21 ocn
名前: わたしです

   悩みの話

買いたての車にキズをつけてしまった。せまい坂道のカーブを下りていたとき、対向車が来たので左へ寄ったら変な音がした。

よく見ると車の横を道路標識でこすっていた。下から直射する対向車のライトに目をくらまされて標識がまったく見えなかった。

十年も乗った車なら少しぐらいへこんでも何とも思わないが、まだ新車である。やってしまったと思ったとたん頭の中が混乱し、実にいやな気分に襲われた。

こうした失敗をしたときなど、その衝撃をやわらげたり、苦悩を解決するための何かいい方法はあるのだろうか。

     悩みを解決する魔法

デール・カーネギー氏の名著「道は開ける」の中に、「悩みを解決するための魔術的公式」が載っている。魔法の如くたちどころに苦悩が解決できるというその公式は、次の三つの段階からなっている。

その一。「状況を把握し、生じうる最悪の事態を予測する」。まず、目をそらさずに自分が置かれている状況を分析し、最悪の場合どのような結果になるかを考える。

その二。「最悪の事態を予測したら、やむを得ない場合にはその結果にしたがう覚悟をする」。事態をありのままに受け容れる心の準備ができると、不思議なほど心が落ち着いてくる。

その三。「最悪の事態を受け容れる心の準備ができたら、事態を少しでも好転させるように努力する」。ありのままを受け容れることから心の安らぎが生まれ、心の安らぎは心身の力を回復し、不幸なできごとを克服する力を与えてくれる。

これを今回の事故に当てはめてみると、まず目をそむけずに車のキズを点検し、最悪の事態を考えてみる。この場合の最悪の事態とは、修理代としばらく車が使えない不便である。

そのことを受け容れて心を落ちつけ、それから段取りよく修理する方法を検討するのである。言葉にすればそれだけのことなのだ。

覚悟が決まると余裕も出てきて、人身事故でなくて良かったとか、この事故が将来おこるべき大きな事故を防いでくれたかもしれないとか、この事故から何か学ぶものがあるだろうか、などと考えられるようになる。

せっかくいやな経験をしたのだから、せめて話のタネにしてやろうなどという積極性も出てくる。

人の一生を考えた場合、最悪の事態とは死ぬことであろう。死ぬより悪いこともたくさんあるはずだが、たいていの人は死が最悪のことだと思っている。そしてすべての人はやがて死ぬのだから、この最悪の事態をさけることはできない。

だから人生の苦しみを元から解決するには、死ぬという最悪の事態をまず受け容れた上で、残された人生が少しでも良くなるように努力するべきである。そうすれば心安らかに、しかも積極的に、人生を送れるはずである。
   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.18 )
日時: 2016/03/04 20:22 ocn
名前: わたしです

  因果の話
「親の因果が子にむくい」という言葉を、お祭りの見せ物小屋で聞いた事がある。

たしか、ろくろっ首を見せる小屋の客寄せの口上だったと思う。親がなした非道の報いを子供が受け、ふた目と見られぬろくろっ首になったと言っていたらしい。

北海道の利尻島(りしりとう)を旅したときだから、四十年も前のことで、行ったときちょうど夏祭りをやっていたのだった。後学のため、ろくろっ首とはどんな首なのか見ておけばよかったと今ごろ心残りになっている。

この口上に出てくる「因果」という言葉の、因は原因、果は結果を意味している。つまり原因と結果の法則のことを、因果の法則、因果律、因果などと呼んでいる。

因果は仏教の要(かなめ)というべき重要な教えであり、これを本当に納得すればそれだけで聖者の位に入るといわれる。

因果とよく似た言葉に因縁(いんねん)がある。この場合、因は直接原因、縁(えん)は間接原因を表しており、タネを蒔くのが因、水や温度などの環境が縁、実を結ぶのが果、というように因果を因・縁・果の三段階に分けたものである。

因果というと時代おくれな言葉と思うかもしれないが、医学の分野で病気の原因を調べたり薬を開発したりするのも、科学技術の分野で最新の技術を開発するのも、すべて物事の因果関係を究明し利用しているのである。車もパソコンもロケットも因果関係の組み合わせで作られている。

この世界は無数の因果関係で成立しているというのが、仏教の基本的な世界観である。

     自業自得の道徳律

仏教はこの因果律を人生に対しても適用し、「善いことをすれば善い報いがある。悪い事をすれば悪い報いがある」という、いわゆる善因善果・悪因悪果(ぜんいんぜんか・あくいんあっか)の法則を見出した。

因果が仏教の要だということは、この道徳律が仏教の要だということでもある。キリスト教の「神の座」に坐るのは、仏教ではこの因果律なのである。

そのため因果律に基づく人生観や世界観を、正しい見解ということで正見(しょうけん)と呼び、因果を信じないことを邪見(じゃけん)と呼ぶ。「邪見な人」は決して仏教を理解することができず、悟りを開く事もできないと言われる。

また因果には自業自得(じごうじとく)の原則がある。業は行為を意味しており、自分がなした行為の結果は自分が責任をとる、自分がまいたタネは自分が刈り取る、というのが自業自得の原則である。

だから初めに書いた「親の因果が子に報い」という言葉は正しくない。仏教の因果律は個人主義であり、親の因果が子に報いることはない。良からぬ親を持った子供が苦労するのは、親の非道の報いではなく子供自身が過去になした行為の報いなのである。

この因果の法則は仏教だけでなく全ての宗教の根本であり、世の中すべての法や秩序の根本でもある。悪いことをすれば罰せられ、善い事をすれば誉められる。それでなければみんなが困ることになる。

だから因果律はたとえ宇宙の果てまで行こうとも、およそ人間と呼べるような生き物の住んでいるところではどこでも通用する普遍の真理である。

二宮尊徳翁が次のような事を言っている。

「世の中には、方角とか日を調べて吉凶を占う人がいるが、みんな迷信だ。禍福吉凶は、すべてその人の過去の因縁と、心と行いの招く所のものだ。善いことをすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いがある。これは万古不変の真理であり、これを疑うのを迷いという」

世の中には、お墓の形や向きが悪いと家が絶えたり病気になったりする、などと心配してくれる人もいる。しかし墓地を一周すればそうした墓相判断は成り立たないことが分かるし、また昔の人がお墓の向きなど気にしていなかったことも納得できる。

     三世(さんぜ)にわたる因果

心と行いが人生を作り上げていくのだから、心と行いで精進努力すればそれだけの見返りは必ずある。努力しだいで松下幸之助のような大社長にもなれるし、ブッダのような心の持ち主にもなれる。未来は自分が作るというのが仏教の基本的な人生観である。

「ある人の過去を知りたければ現在の姿を見よ、未来を知りたければやはり現在の姿を見よ」という言葉がある。過去の生活がその人の現在を作り、現在の生活が未来を作る。だから現在の姿を見れば、過去も未来もある程度は推測可能なのである。

これは一生涯における因果関係であるが、仏教はさらに大きな時間の中で因果律をとらえることで、「三世両重(さんぜ・りょうじゅう)の因果」と呼ばれる因果を説いている。

三世は「過去世、現在世、未来世」であり、両重は二重だから、三世にわたる二重の因果を仏教は説いているのである。

つまり過去世の生き方によって現在世の境遇が決定されたというのが第一の因果であり、現在世でどういう生き方をするかで、未来生にどこに生まれるか何に生まれるかが決定されるというのが第二の因果である。

したがって原因を作ってからその報いを受けるまでに、早い遅いがあることになる。すぐに報いを受けることもあれば、時間がかかることもある。過去世で片が付かなければ現在世へ持ち越しとなり、現在世で片がつかなければ未来世へ持ち越しになる。

三世両重の因果を説く理由のひとつは、とんでもない悪人が恵まれた生活をして安らかに死んでいくこともあるし、正しい人が窮乏生活の果てに苦しみながら死んでいくこともあるというように、この世だけ見ていると因果律が成り立たないと思うことが多々あるのだが、大きな時間で見れば因果律はまちがいなく成立している、ということを強調するためである。

二宮尊徳翁が、「禍福吉凶は過去の因縁と、心と行いの招く所のものだ」と過去の因縁に言及しているのは、そのためである。

     因果の法則の用い方

部落問題に関するビデオの中で、この因果律がやり玉にあがっているのを見たことがある。「被差別部落に生まれたのは前世に悪事を行った報いだ」というように、因果律は差別をするための根拠になってきたというのである。

何事にも良い面と悪い面とがある。因果律も使い方を誤れば差別の道具となることもある。因果律は善いことをすれば善い報いがある、というように未来に対して用いるべきものである。

過去に対しては本人が過去を反省するとか、自分の境遇を前世の宿縁として受け入れるというように、自分に適用するのはよいが他人に使うべきではない。

そういう境遇に生まれたのは前世の報いだとか、若い時に怠けていたから貧乏するのだとか、病気になったのは自業自得だとか、過去の事を持ち出して人を非難するのは慎むべきである。

     人生の指針

因果律を納得すれば悩みの多くは解決する。

迷ったときの判断基準が手に入るからで、人間関係や利害関係や力関係が複雑にからみ合っているため迷路に入りこんで悩むのであるが、誰が見ても正しいと思う事を、正しいと思う方法で実行すればよいのである。

もちろん何が正しいのか分からない事もあるし、分かっていても実行できない事もある。しかし因果律を人生観の根本に持っていれば、それほど大きな過ちを犯さずに一生を送れると思う。

誰しも濡れ手に泡のぼろ儲けをしたいという心を持っており、おいしそうなエサが転がっているとつい飛びついてしまう。ところが眼には見えなくとも、因果の糸と自業自得の釣り針がついている。また人に見つからず自分だけぼろ儲けしようというその心自体が、すでに自分を苦しめている。

至道無難(しどうぶなん)禅師曰わく。

「かならず悪人とがをうくるは、その身の心ゆるさぬ故なり」

「世の中の人は知らぬにとがあれば、我が身をせむるわが心かな」

   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.19 )
日時: 2016/03/04 20:24 ocn
名前: わたしです

   独接心の話


独接心(どくぜっしん)とは単独で山などにこもり、ひたすら坐禅に打ちこむことをいい、私も一度挑戦してみたことがある。まず問題になるのは場所探しであるが、坐禅仲間の紹介で最適のお堂を、四国の山奥で見つけることができた。

四国の山は、大して高くはないが奥行きはある。しかも庭先からお芋をころがしたら、谷底まで一気に転がっていくと思うような山の急斜面にも、人が住みつき畑を作っている。

「耕して天にいたる」という言葉は、四国の山里のためにあるような言葉で、ふと見上げた山の上に人家を見つけて驚かされたことが何度もあった。そうした所はたいてい平家の落武者伝説が残る土地である。

独接心をしたお堂は、そのような急斜面に開かれた山奥の集落の最後の家から、さらに四キロほど山に入ったところにあった。このお堂のある山は、弘法大師が根本道場を建てるとき、和歌山の高野山とともに候補にあがった場所と伝えられており、大師の生まれ故郷に近い山なのでこれはあり得ないことではない。

高野山と同じように山上が平らで広い台地になっているその山は、寺を建てるための木材資源にも恵まれており、その台地はやはり高野(こうや)と呼ばれている。山上に根本道場は作られなかったが、大師が修行したとされる山なので、中腹の景色のいいところにお堂が建っている。そのお堂を十三日間、借りたのだった。

この山は、山頂は平らで面白味に欠けるが、山腹は切り立った岩場の絶壁になっており、そこを滝が連なり落ちている。そのなかの滝行に最適の滝がお堂のすぐ近くにあることを考えると、そこで大師が修行したというのは単なるはったりの伝説ではないと思う。

お堂には宿泊のできる建物が付属していて、そこの囲炉裏で煮炊きができ、山から水が引いてあるし、電気も来ていて、新しい夜具まで備えられている。

私がこのお堂を借りるとき世話になった人は、そこの世話役をしている在家の行者さんで、お経も読めば、護摩も焚くという、何か行事があるときには欠かせない人だった。子供がいないせいか、そうしたことにはたいへんに熱心で、お堂のまわりに石仏を配置して小さな霊場も作っていた。

その人が言っていた。こういう現金収入のない山の中だから、できるだけお金を使わずに生活しなければいけない。だから箒などもこうして自分で作る。このあたりの人はみんな自分で何でもする、と。

その宿泊所の屋根裏にはムササビが住んでいた。二匹いたからおそらく夫婦者であろうが、これが夜になると頭上の屋根裏で暴れ回るので困った。ムササビは非常に気性の荒い動物なので、少々の暴れ方ではない。そこで寝るまえに追い出すことにした。

天井をたたいておどかしてやると、窓の上にすき間が有るらしく、そこから飛び出し谷底に向かって滑空していく。そして翌朝、山の端が少し明るくなってきたとき、トンと音をたてて屋根の上に帰ってくる。

私はその音を目覚まし時計にして起床し、あとは一日中ひたすら坐禅である。そして眠くなると滝に打たれて目を覚ました。

滝に打たれるのは始めての経験だった。お盆あとの残暑の厳しいときとはいえ山の水は冷たく、しかも落下してくる水の勢いは強力である。よほど腹を据えてかからないと滝に負けてしまうから、滝に打たれるといっぺんに眠気が吹っ飛ぶ。しかも体もきれいになる。

初めて滝に入ったとき頭に浮かんだのは、上から石が落ちてきたら大変だという下らない心配だった。下らないとはいえ有り得ないことではなく、小さな石といえど直撃すれば大変なことになるから、こういう自然の滝で行をする場合には、誰しも心配になるのではないかと思う。しかし大声でお経を読みながら滝に打たれていると、そうしたことはすぐに忘れる。

ところが滝行を始めて数日すると、原因不明の強い肩こりにおそわれるようになり、夜はとくにひどくなった。これは滝で肩を冷やしたことが原因だったと後で気がついた。

そこは西に開けた山の中腹なので、日の出は見えないが、夕日を眺めるにはいい場所だった。人里離れた山の中でただ一人、山々の向こうに沈んでいく夕日を眺めるのは寂しいものである。

このお堂を紹介してくれたのは、ここで何度か断食修行をしたことがあるという真言宗の和尚だった。「山の霊気が修行を助けてくれる」と彼は言っていたが、怠けることなく坐禅を続けられたのは確かに山の霊気のおかげだった。

少なくとも周囲数キロ、人っ子一人いない山の中なので、日中の明るいときは何とも思わないが、日が暮れてあたりが闇に包まれると、寂しさとともに恐怖心も湧いてくる。そしてそれが緊張感となり、一心に修行する原動力ともなった。ならば山の霊気とは寂しさと恐怖心のことなのかとなるが、的外れではないと思う。

ただし至道無難禅師がこんな歌を残している。

「悟りをも開かで山に入るひとは、けだものとなるしるしなりけり」

この歌は「悟りも開いていないような人間が、山にこもって独りで修行していると、ケダモノになってしまうぞ」と、ひとり修行の危険を警告した歌である。修行には正しい師匠が必要であり、特に初心者が一人で修行すると必ず道をまちがえてしまうからである。

また、たとえ充分に修行のできた人であっても、大勢の中で修行を続ける方がよいといわれる。一人でいるといつしか「小人、閑居して不善をなす」となり、性格的にもわがままな人間になりやすい。

ならば私の独接心も良くないことになるが、これは期間が短いから問題はないのである。そしてふり返ってみると、とてもいい修行になったと思うし、坐禅に対する心構えが自発的なものに変わったとも思う。

坐禅道場で修行する場合、とくに入門したてのころは、無理やりみんなと一緒に修行させられているという感が強い。全員そろって時間を決めて坐禅をすることは必要だし、それでなければ修行が進まないのだが、どこかで自発的な修行に切り替えるべきである。

白隠禅師もしばしば独接心を行い、大きな力を得ている。ある程度修行した人は期限を切って覚悟を決めて、独接心に挑戦してみては如何だろう。

修行中の食べ物として持参したのは、米と梅干しと塩昆布ぐらいなので、毎日お粥を食べていた。世話をしてくれた人から何度か野菜をもらい、それもお粥に入れて食べた。空腹感はそれほどなかったが、終わったとき野菜不足のせいか歯茎がはれてきた。

十年後、その世話をしてくれた人が亡くなったという通知を受け取り、お礼とお悔やみの言葉を添えて香典を奥さんにお送りした。

   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.20 )
日時: 2016/03/04 20:30 ocn
名前: わたしです


 薬師如来の話








東方薬師瑠璃光如来(とうほう・やくし・るりこう・にょらい)という正式名を持つ薬師如来は、その名の通り東方にある浄瑠璃世界(じょうるりせかい)の仏さまである。

薬師というのは医者を意味しており、昔は医者を「くす師」と呼び、字は薬師と書いていた。だから薬師如来は病気や障害を治してくれる医者の仏さまであり、左手に薬壺(くすりつぼ)を持っていることが多い。

医者に看護婦が欠かせないように、薬師如来には日光(にっこう)菩薩と月光(がっこう)菩薩が常につき従い、衆生済度を補佐している。さらに十二神将(じゅうにじんしょう)という守護神もついており、十二人がそれぞれ七千の夜叉を従えている。そのため薬師如来と一緒に、これらの菩薩や神将を祀ることが多い。

薬師信仰を説く代表的なお経は、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)訳の薬師如来本願功徳経である。

この経によると、薬師如来の体は清浄にして瑠璃の如く、光明は日や月よりも明るく無量の世界を照らし、十二の大願を発して一切の人々を迷いと苦しみの闇から救うとある。薬師如来は昇る朝日の如き仏さまなのである。

私が参禅している道場の老師が朝日を見ることを勧めている。朝日は心身ともに、清らかに元気にしてくれるからという。また胎教としても効果があるとして、朝日を見ることを勧めている。生まれて来てから修行させて悪い所を直していくのは手間がかかる。胎教で生まれる前から教育しようという作戦なのである。

しかし毎日、朝日が見えるとは限らないし、仕事の都合で見られない人もある。そのため朝日を描いた掛け軸まで用意している。

日の出を拝むことを、ご来光(らいこう)を拝むという。山上で拝むご来光は格別に美しく、そのためそれを目的に山に登る人もある。

石川県の白山(はくさん)山頂で、すばらしいご来光を拝んだことがある。遠くに小さく見えている槍ヶ岳の横から、鋭い光が射してきたと思ったら、燃え上がるように朝日が昇ってきた。太陽が放射する巨大な熱量を実感し、太陽がすべての命の源であることを納得させられた。それから白山神社の神主さんとともに万歳を三唱し御神酒を頂戴した。

東から西へ移動する太陽の動きにこと寄せて、薬師如来は西にある阿弥陀さまの浄土に人々を導くとも言われている。朝日を拝んで一日の元気をお薬師さまからもらい、夕日を拝んで阿弥陀さまの浄土に思いを馳せながら一日を終わる、ということをこれは言いたいのかもしれない。

余談であるが、ご来光とご来迎(らいごう)は違う。ご来迎は本来、臨終の場に阿弥陀さまが迎えに来ることを意味しているが、山の上で稀に見られるブロッケン現象を指すこともある。

ブロッケン現象は、横から太陽光線を浴びることで自分の影が霧に投影され、そのまわりに後光が射したように虹の輪ができる現象である。なぜ虹が輪の形になるのかは知らないが、たしかに仏さまが出現したように見えることから、この現象をご来迎と呼んでいる。もちろん自分が手を上げれば仏さまも手を上げる。

私も北アルプスの水晶岳で一度見たことがある。早朝にやせた尾根を歩いていたら、谷から湧き上がってくる霧に自分の影が投影されて、三重に後光の射した仏さまが現れ、写真にもかなりきれいと写っていた。

薬師如来が住む浄瑠璃世界の大地は、すべて瑠璃でできているという。瑠璃というのは宝石のラピスラズリであり、この宝石のもつ紫がかった紺色を瑠璃色という。瑠璃は七宝(しっぽう)の一つとされ、その代表的な産地はアフガニスタンである。どうやらインド人はアフガンの瑠璃にあこがれていたらしい。

私たちが住んでいるこの世界のことを、仏教は娑婆(シャバ)世界と呼んでいる。娑婆はインドのシャバという言葉を音写したもので、意訳すれば忍土(にんど)となる。

「この世は娑婆とて堪忍国土(かんにんこくど)、忍をなすゆえ人ではないか」と白隠禅師が歌っているように、この世は忍なくしては生きられない苦に満ちた世界である。

この娑婆世界の教主は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)だったが、お釈迦さまはすでに般涅槃(はつねはん。完全なる悟りの状態)に入られたため、現在この世界は教主のいない無仏の時代になっている。

一つの仏国土には一人の仏さまという原則があり、娑婆世界のつぎの仏は弥勒仏(みろくぶつ)と決定しているが、弥勒さまはまだ兜率天(とそつてん)で修行中である。修行を終えてこの世界に出現するのは五十六億七千万年後のことなので、それまで地蔵菩薩がこの世界の面倒を見ることになっている。

しかし大乗仏教は、空間的にも時間的にも無限に大きな世界を説いている。たとえば薬師如来の浄瑠璃世界は、ガンジス川の砂の数の十倍もの仏国土を越えた先にあるとされる。

つまり宇宙には無数の仏国土が存在しているのであり、今も無数の仏さまたちが説法しながら私たちを見守っている。その代表が薬師如来や阿弥陀如来なのである。

夜空を見上げるとたくさんの星が見える。天の川の流れも星の集まりである。私たちが属する銀河は、二千億から三千億の星からなる凸レンズの形をした銀河であり、直径は二十万光年ほどあって、核を中心に自転している。そしてこのような銀河が宇宙には無数に存在しているという。

天文学が教えてくれるこうした宇宙の姿は、仏教が描く宇宙観とよく似ている。

宮沢賢治に「銀河鉄道の夜」という童話がある。この中で彼は、宇宙を暗黒の死の世界としてではなく、多くの命と物語に満ちた明るい世界として描いている。それは彼が仏教的な宇宙観を身に付けていたからだと思う。

     薬師如来和讃(やくしにょらい・わさん)

帰命頂礼(きみょうちょうらい)薬師尊 三界衆生の父ははよ

一度、名号きくひとは 万病除ひて楽を得る

我等がために普くも 十二の大願立てたまふ

日光菩薩は付き添ひて 無明の暗(あん)を照らさるる

月光菩薩は涼しくも 苦熱の煩悩掃(はら)はるる

子丑寅卯(ねうしとらう)の十二神 年月、日時(ひとき)に守らるる

七千夜叉の面々も 刹那も休息、在(まし)まさず

あら有り難や瑠璃の壺 甘露を湧(わか)して淋(そそが)るる

此の信念のかたければ 我が身も瑠璃光如来なり

七ぶつやくし無上尊 現当二世(げんとうにせ)を助けたまへ

(註)最後の行の「七ぶつやくし」は、薬師瑠璃光七仏本願功徳経に出てくる東方世界の七人の仏さまのことで、この中に薬師如来も含まれる。「現当二世」は現在世と当来世(とうらいせ)の二つの世、つまり、この世と来世。
   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.21 )
日時: 2016/03/04 21:19 ocn
名前: わたしです


 青森挽歌


宮沢賢治は大正十二年七月三十一日に岩手県の花巻(はなまき)を出発し、カラフトへと向かった。旅の目的は彼が教師をしていた花巻農業高校の生徒のための就職活動だったが、旅の内容は前年の十一月に二十四歳の若さで他界した、最愛の妹トシの死をいたむ傷心旅行というべきものだった。

死後すでに八ヶ月が経過しているのに、そのとき作られた詩は深い悲しみに満ちており、これを読むと、彼は旅のなかでトシと交信をすることを考えていたように思われる。

彼の口語詩の中で私がいちばん好きな青森挽歌(ばんか)は、オホーツク挽歌としてまとめられたそのときの詩の中に含まれている。かなり長い作品だし、未完成と思われる部分もあるので、いいところだけ抜粋してご紹介したい。









      青森挽歌

 (前略)

あいつはこんなさびしい停車場を

たったひとりで通っていったらうか

どこへ行くともわからないその方向を

どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを

たったひとりでさびしくあるいて行ったらうか

 (草や沼やです

  一本の木もです)

 《ギルちゃんまっさをになってすわってゐたよ》

 《こをんなにして眼は大きくあいてたけど

  ぼくたちのことはまるでみえないようだったよ》

 《ナーガラがね 眼をじっとこんなに赤くして 

  だんだん環をちひさくしたよ こんなに》

 《し 環をお切り そら 手を出して》

 《ギルちゃん青くてすきとほるようだったよ》

 《鳥がね たくさんたねまきのときのように 

  ばあっと空を通ったの

  でもギルちゃんだまってゐたよ》

 《お日さまあんまり変に飴いろだったわねえ》

 《ギルちゃんちっともぼくたちのことみないんだもの

  ぼくほんとうにつらかった》

 《さっきおもだかのところであんまりはしゃいでたねえ》

 《どうしてギルちゃんぼくたちのことみなかったらう

  忘れたらうかあんなにいっしょにあそんだのに》

かんがへださなければならないことは

どうしてもかんがへださなければならない

とし子はみんなが死ぬとなづける

そのやりかたを通って行き

それからさきどこへ行ったかわからない

それはおれたちの空間の方向ではかられない

感ぜられない方向を感じようとするときは

たれだってみんなぐるぐるする

 《耳ごうど鳴ってさっぱり聞けなぐなったんちゃい》

さう甘えるように言ってから

たしかにあいつはじぶんのまはりの

眼にははっきりみえてゐる

なつかしいひとたちの声をきかなかった

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり

それからわたくしがはしって行ったとき

あのきれいな眼が

なにかを索めるように空しくうごいてゐた

それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかった

それからあとであいつはなにを感じたらう

それはまだおれたちの世界の幻視をみ

おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

わたくしがその耳もとで遠いところから声をとってきて

そらや愛やりんごや風 すべての勢力のたのしい根源

万象同帰のそのいみじい生物の名を

ちからいっぱいちからいっぱい叫んだとき

あいつは二へんうなづくように息をした

白い尖ったあごや頬がゆすれて

ちひさいときよくおどけたときにしたやうな

あんな偶然な顔つきにみえた

けれどもたしかにうなづいた

   《ケッヘル先生!

   わたくしがそのありがたい証明の

   任にあたってもよろしうございます》

 仮睡珪酸の雲のなかから

凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……

  (宗谷海峡を越える晩は

  わたくしは夜どほし甲板に立ち

  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり

  からだはけがれたねがひにみたし

  そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)

たしかにあのときはうなづいたのだ

そしてあんなにつぎのあさまで

胸がほとってゐたくらゐだから

わたくしたちが死んだといって泣いたあと

とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ

ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで

ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が

つぎのせかいへつゞくため

明るいいゝ匂のするものだったことを

どんなにねがふかわからない

   (中略)

《黄いろな花こ おらもとるべがな》

たしかにとし子はあのあけがたは

まだこの世かいのゆめのなかにゐて

落ち葉の風につみかさねられた

野はらをひとりあるきながら

ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ

そしてそのままさびしい林のなかの

いっぴきの鳥になっただろうか

   (中略)

それらひとのせかいのゆめはうすれ

あかつきの薔薇いろをそらにかんじ

あたらしくさはやかな感官をかんじ

日光のなかのけむりのやうな羅(うすもの)をかんじ

かがやいてほのかにわらひながら

はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを

交錯するひかりの棒を過ぎり

われらが上方とよぶその不可思議な方向へ

それがそのやうであることにおどろきながら

大循環の風よりもさはやかにのぼって行った

わたくしはその跡をさへたづねることができる

そこの碧い寂かな湖水の面をのぞみ

あまりにもそのたひらかさとかがやきと

未知な全反射の方法と

さめざめとひかりゆすれる樹の列を

ただしくうつすことをあやしみ

やがてはそれがおのづから研かれた

天の瑠璃の地面と知ってこゝろわななき

紐になってながれるそらの楽音

また瓔珞やあやしいうすものをつけ

移らずしかもしづかにゆききする

巨きなすあしの生物たち

遠いほのかな記憶のなかの花のかをり

それらのなかにしづかに立ったらうか

   (中略)

もうぢきよるはあけるのに

すべてあるがごとくにあり

かゞやくごとくにかがやくもの

おまへの武器やあらゆるものは

おまへにくらくおそろしく

まことはたのしくあかるいのだ

     《みんなむかしからのきょうだいなのだから

      けっしてひとりをいのってはいけない》

ああ わたくしはけっしてしませんでした

あいつがなくなってからあとのよるひる

わたくしはただの一どたりと

あいつだけがいいとこに行けばいいと

さういのりはしなかったとおもひます

   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.22 )
日時: 2016/03/04 21:23 ocn
名前: わたしです

     煩悩の話

人生の苦しみは煩悩(ぼんのう)によって生じると仏教はいう。だから煩悩を克服することが、苦からの解脱を目ざす仏道修行の目的とするところである。

それはもちろん易しいことではなく、またたとえ煩悩がなくなったとしても、老いや病いや死を避けることはできず、肉体的な苦痛がなくなる訳でもない。しかし外的には何ら変わることはなくても心が変わればすべてが変わる。

煩悩というやっかいな心のお荷物を下ろして軽やかに生きるには、煩悩のことをよく知らねばならない。敵を知り己れを知れば百戦危うからずで、正体を知っていれば煩悩を撃退しやすくなる。

ここでは玄奘三蔵が漢訳した成唯識論(じょうゆいしきろん)の煩悩論をご紹介する。成唯識論では煩悩を以下の三十四に分類している。

     三毒と六根本煩悩
 
毒薬のように人を苦しめる三つの代表的な煩悩を三毒(さんどく)といい、これにあと三つ加えたものが六根本煩悩(ろくこんぽんぼんのう)である。

一、貪(とん)。貪(むさぼ)りの心。よろずのものを貪る心をいう。自分の好きなものに執着して苦を生ずる心である。

二、瞋(しん)。怒りの心。我に背くことあれば必ずいかる心をいう。自分の嫌いなことに腹を立てて不安と悪行をまねく心である。

三、痴(ち)。愚痴の心。よろずの物事のことわりに暗い心をいう。四諦や因果律などの道理を弁えない自己中心的な我執の心で、邪心を体とする。無明(むみょう)とも呼ばれるこの煩悩が、すべての煩悩の根元とされるから、無知は迷いと苦しみの根元であるともいえる。「貪愛を名づけて母となし、無明を父となす」と楞伽経(りょうがきょう)にはある。

以上が「貪瞋痴(とんじんち)の三毒」で、これに以下の三つを加えると六根本煩悩になる。

四、慢(まん)。高慢な心。我が身をたのみて人をあなどる心。おごり高ぶって苦を生ずる心をいう。慢の中には卑下慢(ひげまん)という、自らを卑下することで他を見下す心もある。「自分のいたらなさや罪深さを自覚している分、私は人より偉いんだ」という慢心である。

五、疑(ぎ)。真理を疑う心。何事に対しても心が定まらず、とかく疑う心をいう。悟りとか解脱などの真理の存在を、そんなものが有るものかと疑うこと。

六、悪見(あっけん)。邪悪な見解。誤った世界観や人生観をいう。まちがったことをつよく思い込み、まことの道理を知らないことから苦を生ずる心。

     十根本煩悩

以上が六根本煩悩であり、最後の悪見を五つに分けて全部で十にしたものが十根本煩悩(じゅうこんぽんぼんのう)である。最初からの通し番号でいくと、
六、有身見(うしんけん)。我執の心。我が身と人の身、我が物と人の物、をきびしく分かつ心。自分と自分が所有する物に対する執着をいう。

七、辺見(へんけん)。一辺に固執する心。世界は永遠に存在する、あるいは永遠に存在することはない。宇宙には果てがある、あるいは果てがない。肉体と霊魂は同じである、あるいは同じでない。如来は死後に存在する、あるいは存在しない。などの「断常の二見」を含む両極端の誤った考えをいう。我が身はいつまでも生きている様に思い、死んだ後はすべて無くなってしまう様に思う心、とも説明される。

八、邪見(じゃけん)。因果を否定する心。罪ということも無し、功徳ということも無し、悪いことをしても良いことをしてもその報いは無い、という因果律を否定する心。自分の蒔いた種は自分で刈り取るというのが仏教の基本なので、邪見な人は決して仏教に入ることはできないという。

九、見取見(けんじゅけん)。自分の考えに固執する心。自分の意見とか教えに執着して争いの元となる心をいう。「この事を説くということが私にはない」と釈尊が言っているように、自らの教えを否定する面さえ仏教は持っている。教えは病気を治すための薬だから、病気が治れば教えという薬はいらない。教えに執着するのは薬の副作用だというのである。

十、戒禁取見(かいこんじゅけん)。自分の行動に固執する心。異教の戒に執着して、苦行などでいたずらに身を苦しめる心をいう。身に付いた生活習慣などに対する執着心であり、「ともかくこれが私のやり方だ」という頑固な心である。

     小随煩悩

根本煩悩に付随しておきる煩悩を随(ずい)煩悩といい、その中で他の煩悩との共通点が小さいものを小随煩悩(しょうずいぼんのう)と呼ぶ。はっきりとした性格と強烈なはたらきを持つ十種の煩悩である。

一、忿(ふん)。激しい怒りの心。人を殴りたくなるような、怒りが爆発した状態の心をいう。

二、恨(こん)。うらみの心。憎しみを抱いて捨てず、いつまでも恨みを結ぶ心をいう。恨みを結ぶ人は、怒りをおさえることができず、心の中がいつも悩ましいとある。

三、覆(ふく)。罪をかくす心。名利を失うことを恐れて罪をおおい隠す心をいう。罪をかくす人は後で必ず後悔と悲しみがあるとされ、仏さまに罪を懺悔(さんげ)することを発露白仏(ほつろびゃくぶつ)という。

「空にありても、海にありても、山間の洞窟にありても、世に罪業よりのがるべき所なし」(法句経)

「我がとが我が心に見られては許すことなし」(至道無難禅師)

四、悩(のう)。いらだち悩む心。腹立ちや恨みから、ひがんだり悩んだりする心。一人で腹をたて、一人で悩むという状態をいい、ものを言うにもその言葉はやかましく、けわしく、いやしく、あらく、心は腹黒く毒々しい、とある。

五、嫉(しつ)。嫉妬、ねたみの心。我が身の名利を求むるが故に、人の繁栄を見聞きして、ねたましく安らかならぬ心をいう。

六、慳(けん)。物おしみの心。財宝に執着して人に施す心がなく、いよいよ蓄えんとのみ思う心をいう。

七、誑(おう)。たぶらかしの心。名利を求めて心得ちがいのはかりごとを廻らし、自分にすばらしい徳があるように偽る心をいう。次のへつらいの心との違いは、相手の心を乱すところにある。

八、諂(てん)。へつらいの心。策をめぐらして人の心にとりいり、人目をくらましたり自分の過ちを隠したりする心をいう。おべっか、諂曲(てんごく)の心。

九、害(がい)。他を害する心。思いやりやあわれみの全くない心をいう。他の悲しみが分からず無慈悲に害する心。

十、驕(きょう)。おごり高ぶりの心。自分をすばらしい者と思い、ほしいままに誇り高ぶる驕慢な心をいう。根本煩悩の慢もおごりであるが、慢は他と比較した上でのおごり、驕は比較しないでおごることとされる。

驕には、健康に対するおごり、若さに対するおごり、長寿に対するおごり、生まれに対するおごり、体に対するおごり、富貴に対するおごり、私は何でも知っているというおごり、などがある。

以上の十種の小随煩悩のうち、根本煩悩の「貪りの心」を根元とするものは、「罪をかくす心、物おしみの心、たぶらかしの心、へつらいの心、おごり高ぶりの心」の五つ。

「いかりの心」を根元とするものは、「激しい怒りの心、うらみの心、いらだち悩む心、他を害する心、ねたみの心」の五つ。

「愚痴の心」を根元とするものは、「罪をかくす心、たぶらかしの心、へつらいの心」の三つである。

     中随煩悩

中随煩悩(ちゅうずいぼんのう)は、悪い心の底に共通して働く二つの煩悩である。

一、無慚(むざん)。恥知らずな心。「自分自身と真理」に対して恥じることなく、善根をかるく見て罪を作る心をいう。

二、無愧(むき)。恥知らずな心。「世間」に対して恥じることなく罪を作る心をいう。

無慚・無愧ともに「恥知らず、厚顔無恥の心」であるが、自らの心に恥じるか、世間に恥じるかの違いがある。

「慚恥の服はもろもろの荘厳において最も第一となす・・・。もし慚恥を離すれば、則ちもろもろの功徳を失す。有愧の人は則ち善法あり。無愧の者は、もろもろの禽獣に相違すること無けん」(遺教経)

「慚愧のない者は名付けて人となさず」(涅槃経)

     大随煩悩

大随煩悩(だいずいぼんのう)は働く範囲がひろく、悪い心だけでなく悪心とも善心ともいえない境界線上でも働いて聖道を妨げる。

一、掉挙(じょうこ)。落ち着きのない心。高ぶって動きさわぐ心。

二、昏沈(こんちん)。沈みこんだ心。無気力で沈滞した心。境遇に負けて悲観的になったり無力感をいだいたりする心。

三、不信(ふしん)。不信心な心。有り難いこと、めでたいことを見聞しても、感動することのない汚れた心をいう。どんなにすばらしい教えを聞いても、自分とは関係ないとか絵空事だとする心で、自他ともに汚すといわれる。

四、懈怠(けたい)。怠惰な心。もろもろの善事に対して、横着で、ものうく、前進することのない心をいう。

五、放逸(ほういつ)。善悪にだらしない心。罪を防いだり善を修したりすることなく、ほしいままに罪を作る心をいう。「汝ら、放逸なることなかれ」は釈尊の臨終の言葉として有名である。

六、失念(しつねん)。誓願を忘れる心。気分が散漫で教えをはっきりと記憶できず、真理への志を保持することができない心をいう。

七、散乱(さんらん)。散乱する心。落ち着きがなく定まらない心。一番目の掉挙(じょうこ)は考えがまとまらないこと、散乱は対象への移り気をいう。

八、不正知(ふしょうち)。真理を誤解する心。知らねばならない事をまちがって理解している事をいう。

     不定(ふじょう)

これは善悪が確定しておらず、時と場合によって悪にも善にもなる煩悩である。

一、悪作(おさ)。後悔する心。よろずのことを悔やむ心。

二、睡眠(すいみん)。眠たい心。心をくらくし体を自在にさせない心をいう。心の働きとしての煩悩を分析しているのだから、これは体の睡眠のことではない。睡魔という言葉があるように眠いのも煩悩のうちである。

三、尋(じん)。推しはかる心。

四、伺(し)。推しはかる心。尋と伺の二つは共にいろいろと推測する心のことで、浅い推しはかりを尋、深いものを伺という。

だから、後悔することも、眠いことも、物事を推しはかることも、善悪は別として煩悩に含まれている。成唯識論では煩悩を以上の三十四に分類している。

     百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)

人間には百八つの煩悩があるといわれ、除夜の鐘を百八回つくのは百八煩悩の夢を破るためともいう。ところが百八煩悩とは何かと聞かれると、説明はなかなか難しい。

百八煩悩には三つの説がある。その中で分かりやすいのを一つあげてみると、六根(ろっこん。眼耳鼻舌身意。つまり五感と意識を合わせたもの)のそれぞれに苦・楽・捨(しゃ。苦でも楽でもない)の三つがあるとして、六の三倍で十八。また六根それぞれに好き・嫌い・平(好きでも嫌いでもない)があるとして十八。

そしてこの二つを合わせた三十六を、過去・現在・未来の三世に振りわけるため三倍すると百八になる、という計算である。だから百八煩悩とは、煩悩を百八つ並べ立てたものではない。

   メンテ
↑ゴキブリはゴキブリ ( No.23 )
日時: 2016/03/05 02:20 openmobile
名前: よしこちゃん

ゴキブリはウンコ
   メンテ
Re: ゴッキ〜ゴキブリ見つけたよ ( No.24 )
日時: 2016/03/05 10:55 nkno
名前: ゴンベエ


きもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもい
   メンテ
がんばれ ゴンベエ ( No.25 )
日時: 2016/03/05 11:35 ocn
名前: 仲間

ここにもいます 退治してください ://cqq00021.bbs.fc2.com/
   メンテ

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カテゴリ 対話
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