「二つの死」と「生きる意味」
F−L精神科学研究所
インテグレーター・話座 眞智(わくら まち)さん
人は「身体の時」と「精神の時」の二つの時を生きている。 そして、いずれ「身体の死」と「精神の死」の二つの「死」を迎える時が来る。この二つの「死」は一致するとは限らない。 身体は不可逆的であり、精神は可逆的である。 精神は時空を自由に遊離することが出来る。 だからこそ人は過去を振り返っては「後悔」し、未来を思っては「不安」になる。 「今この時」に留まっていられないのが人間。 すべての人は「生まれた瞬間」から、間違いなく刻一刻と「死」に向かっている。それが何時であるかに対しては「無知」である。 また、人として生まれるということは、「言語の海」に生きるということでもある。 この言語を持ったからこそ、人は「悩み、苦しみ、迷う」 人が「病む」のも必然と言える。 すべての人は「死」に向かっているにも関らず、日常を仕事や他の何かで「死」を回避しているとも言えるのではないだろうか? 「死」を考える人は、その「死」に真摯に向き合う事を自分に課した人であり、精神も「生きたい!」と叫んでいる人だと言えないだろうか? そのときこそ、自分の内奥(無意識)に向き合うチャンスの時だと思う。精神分析の門戸に立つ時だと思う。 自分の内奥に向き合い、「生きる意味」「死」に真摯に向き合う時。 そして「生きる意味」を自らが創り出してゆくものだと、私は考えている。
(2009年12月6日 F−L精神科学研究所 http://www6.ocn.ne.jp/~desire4/12.html)
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