生と死の境目などないんだからね、だからこそ・・・
心理カウンセラー・長野安晃さん
もし、いまこの瞬間にも死にたいという人がいるとしたら、しっかりと認識してほしいのは、生と死という真逆の人間存在のありように、はっきりとした境目があるのかどうか、という見極めです。死を選びとろうとする人は、生に対する幻滅や、生きていることに対する価値の喪失、生きているから襲って来る苦悩等々が、生の断絶によって、一切が消失する、つまりは生活用語でいうと楽になれる、と感じるからですが、もう少し突っ込んで考えてみると、楽になりたい、という感覚も生の側のそれなのです。つまりは、死は苦からの解放を意味しません。また死後の世界としての来世なども存在しません。魂や霊魂の存在もあり得ません。死は、死という状態ー生の反意語としての意味しかありません。だから死にたければ死ねばよいのです。ただし、私には概念的にしか分かりませんが、死とは何もないということです。それを無と称します。生とは喜びも勿論ありますが、喜びの反対の苦悩に満ち溢れてもいます。この状況こそが、人間の能力の限界なのです。こんな世の中しか創れないからです、みんなが自分の生を全うしたいと思えないのは。ただそれだけなのです。 人間そのものの能力の欠如ゆえに存在するのが苦であるとすれば、その苦を我が手の中で握りつぶしてやりたいという欲求があってもよいのではないか、と思います。私は生が必ずしも価値に満ち溢れたものだとは決して思いません。だから考え抜いて、生き抜いて、それでも死という無を希求する気持ちが大きくなるならば、死を選べばよろしいのです。安手のヒューマニズムは、生きていること自体に意味があるといいます。僕はそうは思わない。ただ生きているだけではダメです。生を謳歌するのです。苦悩も生の一変種ですから、それすらも生の謳歌の中に組み込んでしまうのです。それが生きるということです。生が謳歌出来ないという確信に至ったら、自己の生を生き抜いたということなのですから、そのときは、死という無を選びとればよいのです。肝心なことは、衝動的に死んではならない、ということです。生と死が同価値だということに思い至れば、衝動的に生きることも出来ないし、同様に衝動的に死ぬことも出来ないはずです。考えることです。自分がこの世界に、いま生きているということを、です。考え抜いて、この世界が、それでも生きるに値しないという結論に達した人しか、自死する資格はありません。僕はこのような死生観を持ちつつ生きている人間です。どこかで、何か、みなさんのお役に立てればうれしいのですけれど。
(2009年11月29日 京都カウンセリングルーム)
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